<曖昧な関係>



 ずいぶんと曖昧な関係だから、ケリをつけよう。――今日こそは。
 そう思っていたのに、三石はやっぱり最低だった。

「ちょっと何するのよ!アンタはっ!」
「悪ぃ…いや、ごめん」


 大学の講義が終わったのが3時半。それから河口空知はまっすぐ家に帰ってきた。一人暮らしのワンルーム。三石克己と共に。
 同棲をしているわけではない。11時になれば三石は勝手に帰っていく。
 付き合っているわけでもない。好きだと言われたこともない。言ったこともない。でもただの大学の友達と言うのはもう不自然な、そんな状態。

 なんとかこの関係をはっきりさせたい。断られたならば、それなりの対応をする自信もある。でもここは三石が出てくるのを待つ方が良いのかもしれない。女から告白しない方が上手くいく、とどこかで聞いたこともある。
 空知はそんなことを考えながら、台所でダージリンティをいれていた。

 イミテーションだがお気に入りの、金の縁取りに鮮やかな青が特徴のアンティークカップ。ほんの少しのお湯を注いで温めて、いざメインを注ごうという時だった。戸の向こうから、低くて鈍い音が聞こえてきた。
 随分と硬そうな音だったので、空知は三石が机か何かを強く蹴ってしまったのだろうと予想した。
「どうしたの?三石、だいじょ…」
 しかし予想は外れており、戸を開いた瞬間、空知は動きを止めた。

 三石の足元には人形型自動演奏楽器が転がっていたのだ。


「信じられない!!よりによってどうしてそれを落とすのよ!っていうか落とせれるのよ!?」
 自動演奏楽器とはオルゴールのこと。三石の落としたオルゴールは空知がとても大切にしていた物だった。
 只のオルゴールではない。外見は可愛らしい少女の形を取っていて、少女の頭部はビスクで作られている。金の細かなウエーブに青い瞳、小さな鼻に紅色の唇。そして音楽を鳴らすと、ゆっくりと長いまつげを揺らし、目を開け閉めするのだ。それは何とも言えず愛らしい。
 フランスで見つけてきたものだと、母方の親戚が見せびらかしていた時に、空知は一目惚れをした。2年間の交渉の末、やっと譲ってもらったものだった。

「まぁ待てよ。見たところ外傷はないぞ」
 三石は空知が抱きしめた自動演奏楽器を、値付けするかのように見て言った。人形は空知の腕の中で目を閉じており、まるで眠っているようだった。

「本当?」
 おずおずと空知も見てみる。
「お前、確かめもせずに騒ぐなよ」
「だって…。うん、確かに何ともなさそう。胴体はビスクじゃないし」
 安らかな寝顔をした少女を見ていると、興奮も冷めてきた。
「な?よかったよかった」
 三石はそう言うと、空知が抱えたままの少女の背中に手を回し、ネジ巻をまいた。

 ギギギ、という錆付いた音がする。
 三石がネジから手を離すと、自動演奏楽器独特の柔らかな音色が流れ出す。
「ほら、流石は俺。落とし方も流石だな」
 三石は呆れたセリフを吐きつつも、少女の頭を優しく撫でた。

 三石も落とすつもりはなかったのだろう。空知が大切にしていることは知っていただろうし、それに今まで何度もこの部屋に入っていながら、遠めに人形を見るだけで、触ろうとしたことはなかったように思う。
 まるで金色の糸の温度を調べるように動く手を、空知はいつの間にか見入っていた。ふと顔を上げると、すぐ側に三石の顔があった。穏やかな瞳は少女から空知へと移る。
 部屋はもう、少しだけ薄暗くなっていていた。

 呼吸音も聞こえそうな近い距離は、三石の瞳孔が暗さに反応して大きくなっているのも判らせた。黒い瞳。凄く、魅力的に見えた。
「…空知」
 聞こえるか聞こえないかの、小さな声。少し低くて甘い、大好きな声。
 自動演奏楽器の音色は一段と綺麗に空知の耳に届いてきた。そして、空知は はっとした。

「ねえ!音、おかしくないっ!?」
「ああ!?」
 何故か苛立ったような声を出す三石を無視して、空知は人形を持ち上げた。
 タララ…ララ…と鳴る自動演奏楽器の音楽に、どこか違和感がある。
「いつもと違う。え…、どこが…」
「あー、ソと…ラだな」
「え!?」

 高校までピアノを弾いていたという三石の言葉を聞き、耳を澄ます。間違いない。ソとラの音が飛んで演奏されていたのだ。
 どういうことよ!と叫ぶ前に、少女の顔を見て、空知はもう一つのことに気付いた。
「目、開かなくない…?」
「待ったら開くんじゃねーの?」
 待つこと30秒。少女の青い瞳が開く気配は見られなかった。

 空知の目に涙が溜まる。
「……」
「空知、悪かったって。あ、ほら人形から『ソラ』が出なくても、ソラ・・はここにいるじゃん、な」
 三石は空知の背中を軽く叩く。
「……」
 どんどん視界がぼやけてくる。
「えーっと。ほら、店に頼めば直してくれるって」
「店って?」
「んー…、ん? ここら辺にアンティークショップってあったっけ?」
 空知は少女を抱えたまま無言で立ち上がり、黄色い電話帳を投げ付けた。

「おい、危ねぇだろ。こんな分厚いもん投げんなよ」
「もう!いいから直してくれる店を探してよ!早く!!」
「へーへー」
 ベッドに座って、空知は三石を見た。三石はぶつぶつと文句を言いつつも、ぱらぱらと電話帳をめくっている。

 そうだ。今日こそは、と思っていたのに。今日こそは三石との関係をはっきりさせたいと思っていたのに。この様子だと、また先延ばしになりそうだ。
 結局、三石とはずっとこのままなのかもしれない。長く続く曖昧な関係は、もうそれはそれで出来上がってしまっているのかもしれない。

「なぁ、時計店でもいいんだよな?オルゴールって時計の延長上の物なんだろ?」
 空知はあごで携帯をさす。
「はいはい、とりあえずかけてみます」
 携帯を耳に当て、それから三石は後ろ頭を掻いた。なかなか繋がらないらしい。

 眉を寄せた空知を見て、三石は僅かに口元を緩めた。
「でも、ソラと瞳を壊したのが俺でよかった」
「いい訳がないでしょ!この馬鹿っ!!」
 ふと、ひんやりした手が空知の頬に触れた。三石の瞳に自分が見える。
「そう?他人じゃ縁起悪いだろ」
 そして微かに「空知」と呼ばれたので、瞳を閉じた。


 携帯から『もしもし?』という、おじいさんの声が聞こえてきた。

 そういえば瞳を閉じた少女は幸せそうだったなと思った。