2.


 私には、花火大会開催日の八月二日以降の記憶がない。私と同じ姿をした女は、「貴方は、経験していない私・・・・・・・・なのね」という台詞を投げつけてきた。
 詳細に言えば私は、「八月二日土曜日のあの点滅信号の下に立ち止まってから、九月三日木曜日までのおよそ一カ月を経験しなかった私」という限定下で生まれた存在になる。同じ世界、同じ時間に存在する二つの体。タイムスリップと似ているようだけれど、違う。時を越して生まれたのではなく、分離して生まれたという、生成方法が違う。
「大くんは、この一カ月の間、私の身に何が起こったか知っているの?」
 広げた大学ノートに肘をついて、ボールペンを指先でくるくる回しながら尋ねた。丸テーブルが五つ、カウンター席が五つ、そして一段高いステージに大きなグランドピアノのある喫茶店は、十八時からジャズバーに変わる。私は平日十二時から十八時まで営業する喫茶限定の常連客だ。テナントビルの二階、昼間の客層といえば近くにある区役所の職員だけで、昼時が過ぎて三時まではよく私と大くんの二人だけになる。
「昨晩、由宇ちゃんに尋ねなかったの?」
「聞いたよ。聞いたけれど、『教えたくない』って」
 ボールペンが指から外れて床に転がった。
 昨夜、ベッドのなかで彼女は「教えたら貴方と私の違いがなくなっちゃうじゃない」と苦笑いをした。「でも私が思い出せば、一人に戻れるかもしれない」私は食いついた。それから長い沈黙。目が覚めるまで彼女の声は聞こえてこなかった。
 もう一人の私は、一人に戻りたくないのだろうか。それは単に、小説を私に書かせたいため?
「俺の知っているダイナシちゃんの一カ月はね……」
「ごめん、待って。『曖昧な知識は持たないほうがいい、曖昧な情報は一つしかない真実を遠ざける』この間の小説に使った台詞。大くんの持っている情報が曖昧だと言っているんじゃなくてね、先に大くん視点のことを全部、耳に入れてしまったら、それ以外の情報を受け入れるのが難しくなりそうだから」
 私は自分自身に尋ねる。私と彼女は約一ヶ月間を経験したかどうかの違いがあるけれど、これまでの二十五年間は全く同じなのだ。私はミステリー作家で、探究心を抑えることもできなければ、差し出された最善の方法をみすみす怠る性格でもない。もう一人の私には私なりの、何か考えがあるはずだ。
「『一つしかない真実』ねえ。ミステリーって、絶対にそうなの?」
「大くん、ミステリーじゃなくて、世の中は一つなんだから、事実は一つなの」
 私はポケットから封筒を出した。眼鏡を直すついでに長い髪を耳にかけ、左上の鳩の絵柄の切手から中央の鈴木由宇様という達筆な字を親指で擦った。封筒は握りつぶされていて、指でいくら伸ばしたって平らには戻らない。今朝、もう一人の私が家を出たあとにみつけた。部屋は私が記憶しているものと寸分違わなかったけれど、机の引き出しに見覚えのないこの封筒と一冊の雑誌が入っていた。雑誌は先月のタウン情報誌で、後半のページ、連続した三枚がカッターで切り取られていた。何のページを切り取ったのか分からなかったので、インターネットでバックナンバーを注文しておいた。封筒の差出人は木梨貞国と鈴木隆雄の連名だ。木梨貞国は私の親とも言える叔父さんの名前で、鈴木というのは偶然にも私と同じ名字だが、叔父さんの実娘、楓ちゃんが見合いした相手だったと記憶している。つまりこの封筒には結婚式の招待状が入っていたのだと推測できる。
 なぜ私たちは二人に分離したのか、どうすれば元通りに戻るのか。それらの謎と、おめでたい封筒を握りつぶし、タウン情報誌を切り取ったこととは、果たして関係があるのだろうか。


 私は父の顔を知らない。しかし看護婦を天職としていた母は性格も経済力もパワフルで、寂しい思いはしたことがなかった。その母は私が高校三年生の夏、あっけなく他界した。交通事故だった。それから高校を卒業するまでの約半年、私は母の弟である叔父さんの家で過ごした。それまで年に二回程度しか会わなかった関係だけれど、三つ上の楓ちゃんとは幼い頃から仲が良かったし、叔父と叔母は必要以上に私を気遣ってくれた。とても、優しくしてくれた。
 インターフォンを押すと、ピンポンと外まで音が聞こえてきた。集合住宅の二階、階段を上ってすぐ右側の部屋、もし叔父の家が閑静な住宅街にあって私がいてもいいスペースがあるような一戸建てだったなら、私は高校を卒業してもここに居続けたかもしれない。それくらい、この家は狭くても居心地が良かった。
「はい」と高い声で戸を開けてくれたのは叔母だった。目の下に隈があり、少し疲れた顔をしていたけれど、私を確認すると、笑顔で部屋に招き入れてくれた。
 八畳の居間は、私が住んでいたころより物が減り、すっきりとしていた。黄色のソファに腰をかける。
「楓ちゃんは?」
「買い物に行くって、ついさっき出かけたのよ」
「そうなんですか。でも良かった、元気で」
 楓ちゃんは昨年、職場のトラブルから仕事を辞め、引きこもりの生活をしていた。そのことで叔父と叔母は随分と気を揉んでいた。私が来ても部屋から出てくることを渋っていた。しかし数ヶ月前、叔父が無理矢理連れ出した見合いが成功し、楓ちゃんはどんどん明るい性格に戻っていったと聞いている。
 ガラス机に麦茶と茶菓子が置かれた。窓から風が入り、遠くで風鈴の音がした。叔母もソファに座り、長い髪をまとめ直す。私はさりげなく、口を開いた。
「暑いときは長い髪が何かと面倒ですよね。でも結婚式がもうすぐなんだから、切るわけにもいきませんよね」
 鼓動が早くなった。結婚式が果たしていつあるのか、本当にあるのか、確証はなかった。ただ叔母の反応は、もう一人の私が封筒を握りつぶした答えに繋がるに違いないと思った。私の緊張とは裏腹に、叔母は優しく微笑んだ。その声は穏やかなものだった。
「そうなのよ。あと二か月もあるのに、今から緊張しているの」
「そう……ですか。そうですよね、一人娘の結婚式ですものね」
 あはは、と、ばつが悪くて笑って誤魔化した。なんだ、あの封筒は全然関係なかったんじゃないかと思った。ぐちゃぐちゃになっていたのは、きっと机の引き出しの間に挟まって押し潰されでもしたのだろう。よく自分が仕出かしてしまうことだ。変に勘違いしたことに、恥ずかしくなってくる。
 私は居心地の悪さを隠すために、ガラス机の下棚に置かれた本に手を伸ばした。楠裕二の推理小説がある。黒いカバーのこの本は先々週発売された新刊だ。この作者は私と同時期に別の出版社のミステリー大賞でデビューした。
「それよりも由宇ちゃんは最近、どうなの? ちゃんとご飯は食べてる?」
「はい……」
「何かあったら何でも相談にのるわ」
 叔母さんは母さんが死んでから、ずっと私の母親でいてくれた。叔母さんなら、今私の身に起こっている不可解なことを正直に話してしまっても、信じてくれるんじゃないかと思った。
 顔を起すと、叔母さんの肩越しに写真が見えた。テレビ台の上に飾ってある、幸せそうな楓ちゃんと男の人の写真。その顔に見覚えがある。私は思わず手にしていた小説の扉を開いた。楠裕二の写真、楓ちゃんの隣に並んだ男性と同じ顔。
「楓ちゃんのお相手って楠さんだったんですか! あれ、でも名字が鈴木って……、あ、そっか、楠裕二ってペンネームか……」
 驚きのあまり、大声になった。叔母は戸惑った表情をしている。
「由宇ちゃん、なんで今更そんなこと」
「すみません、実は私、一カ月間の記憶が欠落していて……」
 ぎゅっと拳を握った。
「その、花火大会の日から昨日まで。あ、健康には全然問題がないんですけれど、楓ちゃんの結婚式のこととかは覚えてなくて。凄くおめでたいことなのに、なんでだろう、えっと……」
 言葉を選びながらも、言い訳がましく続けていると、叔母が顔を掌で覆った。
「叔母さん?」
 目を疑った。叔母が泣いている。掌の隙間から覗く肌が真っ赤に染まっている。
「どうしてそんな嘘を吐くの」
「あの、嘘なんかじゃなくて、私、本当に」
 小さな肩が細かく震えている。叔母は私の母親でいてくれた。それなのに、私がその叔母を泣かしている。叔母はティッシュペーパーを何枚も取り、涙を拭った。充血した目は決して私を見ようとしない。
「やっぱりなかったことにはできないわよね。でも、そんな嘘を聞かされるくらいなら、罵倒されたほうがいいわ」
「ご……めんなさい」
 叔母の台詞は計りかねたが、私は謝った。泣きやんで欲しかった。でも叔母の涙は溢れ出るばかりだった。
「由宇ちゃん、お願いだから、もうしばらくの間はここに来ないでちょうだい。私にできることなら、なんでもするから、お願いだから」
 私の手から、楠裕二の小説が落ちた。


 気がつけば、私は横断歩道の前にいた。青信号が点滅する。大きな道路、中央に信号待ちのスペース、私が二つの体に分かれた場所。叔母の家を出て、電車を下りてから、自分の家ではなく大くんの店に向かって歩いてきたのだろう。習慣って恐ろしい。
「ゆーうーちゃん」
 肩をぽんと叩かれた。振り向けば旧友の顔があった。小花のワンピースに、トップでだんごを作った髪。高校時代の同級生だ。
「菜々絵ちゃん……? 久しぶり」
 広瀬菜々絵、同じ新聞部に所属していた。滅多に姿を現さない幽霊部員だったが、カメラは誰よりも上手だったことを覚えている。
「やだ、とぼけちゃって」
 彼女は私に抱きついてきた。唇が耳元に寄せられる。
「ちょうどこの場所よね。警察、私の嘘を信じたんでしょ? ねえ、今お小遣い足りないんだ。貸して?」
 花をすり潰したような香水の匂いに、首がキュウっと絞められた。


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