[TO BE CONTINUED]


 平凡な僕が美しい彼女と出会ったのは小さな田舎駅のプラットホームでだった。
 彼女の名前は天城麗。芸能人の母を持ち、自身も小さい頃から家族写真が週刊誌に出ていたりして注目慣れている。先日15歳になってティーンズ誌のモデルデビューが決まった。身長170センチで少しボーイッシュ、けれど潤んだ大きな目は優しく女の子らしい。かたや僕の名前は鈴木夕。サラリーマンの父を持ち、現在は深夜コンビニのアルバイトだ。
 僕は何者でもない自分が嫌で仕方がなかった。言っても仕方がないことはわかっていた。そんな往来をしているとき思い出すのはいつも中学3年のあのときだった。公立高校入試の数学の時間、僕は解答の見直しで解答欄を間違えていると錯覚し答案用紙を全て消してしまった。消しゴムのカスを払ったと同時に終了のベルが鳴った。僕はその高校に受からなかった。
 僕は傍らに立つ美しい彼女を眺めた。かわいいな。こんなにきれいなのだから僕みたいな小さくて醜い思いなんか無縁だったのだろう。恵まれた世界が垣間見えたような気さえおきた。だけど僕らにはきっとわかっていた。誰にでも悩みは存在する。そうでなければ二人の取引は成立しないのだから。
 彼女は僕の方を見て、挨拶をしてくれた。
「あなたなんですね。わたしにベクトルを売ってくれた方は」
「そうです。僕は自分のベクトルであなたのベクトルを買いました」
 僕と彼女は同じ腕時計をしている。契約して、僕らは自分の時間を売買したのだ。その売買される時間を「ベクトル」と呼んでいる。彼女は僕の時間を買って未来へ行く。僕は彼女の逆時間を買って過去へ行く。腕時計は契約書がわりだ。現在、紙面で何かを残しても無意味だからだ。
 僕らはこの駅で目的地に向かう便を待っている。しばらくして僕の乗る便が着いた。線路を走ってきたのは高速バスだった。それから彼女の乗る便が逆方向からやって来た。ジェットコースターだった。
「では鈴木さんの行き先は10年前、天城さんは4年後です」
 同じベクトルを交換したのに、年月は不公平に振り分けられた。年齢や性別によって差があるものなのだ。僕は高速バス、彼女はジェットコースターに乗り込み出発を待った。駅を中心に放射状に線路が広がっていく。星状交差点というのだそうだ。僕らはそれぞれ別の場所へと旅立っていった。


 僕はまたここに着いた。
 目の前に高校が建っている。僕は左右を見渡して校舎の中に入っていった。廊下を歩いて受験会場へと向かったが、足音が近づいてくると身を隠した。だんだんと奇妙な感覚に侵されてくる。僕はもしかして――中学3年のあのときを忘れているのではないか。
 当時の緊張もなく、決して懐かしくもない他校の廊下を通って、試験会場へとたどり着いた。チャイムが鳴って鉛筆を置く音がした。緊張が一瞬はしって消えていった。もうここにいる必要はないと感じた。
 もしこの高校に受かっていたらどんな未来が待っていたのだろう。僕は建物の前で振り返った。建物の全体像が目に映る。微塵もそんなことに関心はない。はっきりとわかる、僕はどこでもいいから別のところにずっと居たかっただけだった。
 ふと目の前の横断歩道を少女がかけていくのが見えた。信号はもう赤に変わりそうだった。僕は赤信号だよ、と呟いたが少女はまっすぐ駆けていった。
「赤じゃないよ、まだチカチカしてるもん」
 僕を既視感がおそった。這うような感覚に身体のあちこちを触る。少女は僕に何も言っていないはずだが、僕は彼女の言葉を聞いたような気がした。胸騒ぎがして僕は少女を追いかけ肩を掴んだ。少女は僕を不審者だと思い怯えた顔でこちらを見返した。だが僕は不審者でもいいと、信号機の下まで連れてきた。そのとき僕が来た。受験が終わって疲れたような顔をしていた。少女は点滅信号の下でそっちの僕に先ほどの言葉を投げた。信号が赤に変わった。その僕は少女に答えた。
「赤だよ。点滅信号の後は必ず赤なんだから、赤なんだよ」
「違うよ、チカチカだったもん。渡れたよ」
「駄目なものは駄目なんだよ」
 その僕は少女の言葉を振り払った。僕はこの少女のことなど欠片も覚えていなかった。ただ、今少女の顔を見るととても必死で泣き出しそうな顔をしていた。
「渡れたよ……」
 少女の言葉が赤信号の下で風に消されていった。目前の車道を車がひっきりなしに通過していた。
「おとうさん……」
 少女は潤んだ大きな目を閉じた。僕は少女の唇が震えていることに胸を締め付けられた。だが特に何もできずに僕は少し離れた場所に突っ立っていた。あのときの僕の言葉が正しいだけに言えることもなかった。
 腕時計が急に締め付けられて僕は手首を掴んでしゃがみこんだ。
「申し訳ありませんが、クーリングオフをしたいのですが」
 腕のしめつけはなくなった。僕は彼女にどういう意味かと尋ねた。せっかく過去への永住権を手に入れたのに。
「わたしの時間を返してくださいという意味です。未来の空気に触れてアレルギーが出ました。鈴木さんが拒否すれば仕方ありませんが」
「有り得ないですね」
 僕は言った。
「今すぐお返しします。早く現代に戻ってください」
 彼女の吐息が聞こえてきた。
「ありがとうございます。恩にきります」
「いいえ、礼には及びません。僕はきっとあなたに、ずっと前に謝らなければいけなかったんだと思います」
 彼女の声を聞いて、あの点滅信号の下でうずくまった少女は天城麗だと僕は確信する。なぜかはわからないが、彼女はあの信号機の下で大切な何かに間に合わなかったような気がした。そして今、彼女の声であのときが僕の現代なのだと再確認した。


 気付いたら特急列車の中にいた。行きはバスで帰りは列車なのだなあ、と思い、僕は無人の車両でもう一眠りした。
 もしも、テスト終了のベルの最中に当てずっぽうに何か数字を書いていれば、僕はあの高校に受かっただろうか。僕は首を横に振った。考えても無駄なことだ。僕は点滅信号を渡らない。危険だからだ。


 目を覚ますと始めと同じ駅にいた。
「確かにお返しいたしました」
 腕時計は外されていた。隣には天城麗がいた。彼女はこちらにふかぶかと頭を下げた。僕も軽く会釈をした。過去で彼女に会ったことは黙っておこうと思った。
「鈴木さん、送料だけ自己負担になるのだそうで、一年無駄にしてしまいましたね」
「そうなんですね。一年くらいどうってことないですよ」
「どうってことないなんてことないですよ。ごめんなさい」
 無事に現代には戻ってこれず、僕は1歳年をとり、彼女も16歳になっていた。再び彼女に見とれる。去年よりずっときれいになった。
「アレルギーは大丈夫ですか?」
「ええ。未来ではとても痒かったんですけど、湿疹が出る前に鈴木さんにご連絡したから。鈴木さんの判断がとても早かったから……」
 僕は彼女が無事でよかったと思い、何度も頷いた。すると彼女が僕の手をとってこう言った。
「点滅信号の後は必ず赤なんです。留まってよかったです」
「え、それはどういう……」
 心臓が高鳴った。彼女が気付いているととっていいのだろうか。僕は彼女の手をゆっくりと離して、わからないように深呼吸をした。
 後々調べてわかったことだが、天城麗の父親は10年前に亡くなっている。週刊誌の記事で真偽は定かではないが、両親は不仲で離婚話が進められていたらしい。夫婦喧嘩の折に夫の方が外へ飛び出し、横断歩道で交通事故にあったのだそうだ。夫側にも過失があったらしい。例えば、信号無視とか――。少女は父が母と別れないように走った。けれども本当の意味で父を失ってしまった。点滅信号の後は必ず赤になる。5歳の少女には悲しい決断だったのかもしれない。
 先にやってきた列車に彼女が乗った。僕は彼女には別方向だと嘘をついて一本後の列車に乗ることにした。
「さようなら」
 走り出した列車を目で追いかけて、見えなくなるまでずっと見ていたいと。手首のあたりがもどかしい。腕時計がない。僕は逃げ場をなくして住み慣れた現代にいる。