[覚醒する花]


 ある曇り空の日に、口笛を吹いて通り過ぎた風。信号機のとおりゃんせに誘われて、動き出す足音。「ママー、あれ買ってー」。耳をすまさなければわからないけれども、確かに街の息吹が聞こえてくる。

 聞きなれたポップスの音だ。まるで以前どこかで耳にしたことのあるような懐かしさ。しかし、生まれたばかりの新鮮さを感じた。これが「意識」の存在か。なかなか止まない着うた。一年近くもずっと鳴り続けている5人組の……。
 そう。これが「意識」の存在だ。
 戸惑いながら、周りを見回してみると、同じ姿の者どもが何も知らずに眠っている。花弁に包まれて水の入ったバケツに足を浸している。この「意識」を持ったのは自分だけなのだろうか。

 この店は、請求書を発行してます? はい。
「じゃあ、すみません、ここのこの住所まで郵送で送ってください」
「はい、承りました。どのお花をお包みしますか?」
「いや供花なんですが3000円くらいで適当にお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
首の部分に手を触れられ、くすぐったそうに身をよじると、すっとその感触が消えた。選ばれなかったのだ。眠っている別のものが選ばれるのかと思ったが、我々のグループからは一つも選ばずに、
「お色のご希望があれば伺いますが?」
「いえ、お任せします。っと」
機械の着信音が流れ、とぎれる。
「ええー困りますよ。かんべんしてくださいよ」
店員の動きが止まる。だが、しばらくしてまた影が動き出した。結局その客の手に自らは売れることなく、店の軒下で他の仲間と次の客を待った。店頭で待つ間、空を見上げていた。雲間からみえる空は真新しいスカイブルーの色だった。

 少し眠っていた。急に顔をつねられて目が覚めた。その人の顔は香る仕草をし、うっとりと商品を見定めている。
「きゃ」
「ああ、また」
「びっくりした」
 突然鳴り出したパトカーのサイレンに人々が気を取られている間に、あくびをした。そしてとびきりの笑顔で、その客を見た。目と目が合った。いま、心をつかんだ。
「ありがとうございました。またおこしくださいませ」
相変わらずの曇り空の下、その女客に抱えられ店を後にした。彼女とすれ違った男が彼女の表情に見とれた。店のなかに入って店員にこう言ったのが聞こえた。
「今出てった人と同じ花を包んでくれますか」
 誰かのほほえみのために生きられるのならこれほど嬉しいことはない。


 彼女は颯爽と街を歩いていく。
「おそい!」
 集まりの少女たちの声に振り向くでもなく、その人ごみの横をするりと抜けていった。きっと彼女は一人でもしゃんと背筋を伸ばしていられる人なのだ。
 彼女の胸中になにかの喜びの種が埋められている。花束を抱えて嬉しそうに歩く彼女は、きっと自分の中にもきれいな花を育てているに違いない。ときたま彼女は蕾がひらく直前の笑顔をぱっと咲かせる。そして、歩く足が少しだけ急いて動く。  劇場の前についた彼女はより一層胸をはずませていた。入口前の石段を一段飛ばしで駆け上がっていった。わずかに洩れた日の光が自動ドアで照りかえり、花束が輝く。彼女はガラスの奥を眺めた。
 あぶない! と聴こえ、次にガラスの割れる音がした。屋内の人の影になって見えにくいが、ガラスの破片が足元に散らばっている。彼女は花束を抱きしめた。身がすくんでいるのだ。
 怪我はない? あー割れちゃったねえ。劇場内ののん気な会話とは裏腹に、彼女は混乱しきってしまっている。ガラス越しに見える人々の動きに、あれこれと想像しているようだ。やがて彼女は決心した。彼女は片手で花束を持ち、腕を振って石段を降り始めた。

「ごめんね」
 そう言って、彼女は植え込みの花壇に隠れるように花束を置いた。そして自動ドアの方へ走っていった。花は植え込みの影で、切なさを覚えた。ただ横たわっていることしかできなかった。

 ……くださいませ。
 ……くださいませ。
 ……くださいませ。

 そのとき、「意識」が巻き戻されていくのを感じた。

「ありがとうございました。またおこしくださいませ」
 その彼女の横顔を、見て、見とれていた自分にふと返った。
「今出てった人と同じ花を包んでくれますか」
 僕は言った。店員は笑ってうなずいた。花はやはり曇り空を見上げている。そのうっとりとした顔を店員は見定めて、一本一本を丁寧に並べていく。そして僕のいたバケツに手がかかった。
「あ」
僕が急に声をあげたので、店員は驚いてこちらを振り返った。
「自分で選んでもいいですか?」
「ええどうぞ」
店員が立ち位置をずらしてバケツを見せてくれた。中にはきれいな花たちがこちらを向いて笑っている。あくびをしているような花はいなかった。
 店員には申し訳なかったけれど、僕は花束をキャンセルした。僕はあのとき確かに彼女に買われていったのだ。一緒に劇場までの道をすすみ、植え込みの陰に置かれたのだ。その「意識」が今、花屋の前で自分を探している。だけど、自分がどこにいるのかは自分が一番わかっている。
「すみません。あったみたいです。替わりは要らなくなりました」
 僕は頭を下げて、花屋を後にした。

 夕刻になっていた。エキシビジョンがある交差点の信号が青になり、道路に人が押し寄せていた。その人ごみのなかをかき分け対岸につくと、ふと耳に言葉が入ってきた。「でも、プロだからできることだよな」。その言葉の主は屋内に消えていった。
 街は小さく変化していく。会話の断片でさえ、一瞬のパズルを完成させる重要なピースなのだ。ショーウィンドウに人型の「花」が映った。はじめて自分を見て、驚いていた。甲高い小型犬の鳴き声を聞く。遊び足りなくて昼を名残惜しむ「花」の声だ。

 劇場の周りには興奮と歓声が溢れ出していた。催しが終わり帰路につく人々が四方の出口から流れ出ていった。僕は彼女を見つけた。入口からわきの方へ寄ろうとしているのだが、人の流れに逆らって動いているため、どうしても動きがスローになってしまっていた。彼女の視線の先には外灯があった。その下には植え込みの花壇があった。彼女は花壇を目指して歩いているようだ。 
 僕は花壇に置かれた花束を拾い上げた。彼女が外灯の足まで辿りついて、こちらを見ていた。
「この花束をあなたにお返しします」
僕は彼女の腕に花束を渡した。彼女は不思議そうな顔をしていた。花束のことを知っていることに驚いているのだ。僕は何も明かさず、何も知らないような顔をして立っていた。うつむいた顔で花を眺める彼女の口がありがとうを告げた。告げて、ふと何かに気付いた。
「これ、さっきのじゃないわ?」
そう言って、確かめるように彼女の指は花を数える。
「うん。一本たりないみたい。みたときになんか違うと思ったんだけど、八部咲きの……」
今度は僕が驚いた。彼女はその花束の僕の不在に気付いた。
「あなたの?」
「いや……」
この花たちは正真正銘彼女が選んだものだった。そして彼女はあの同じ花をまとめたバケツの中から僕をも選んでいった。そして、まとめられて無個性なまま誰かの手に渡る運命だったはずだ。
「また、お会いできました」
 僕はこの不思議な出来事に感謝した。ふたたび彼女の手に返ることができることよりも、彼女の前に立ち、彼女が僕の不在を気にしてくれたことに何よりも幸福を感じる。
 僕がここにいて、それは一つの花束なのです。言いたくても、信じてもらえるはずがないので言わなかった。だけど曇り空の下であなたが買った花束です。あなたの喜びがつまっていて、一緒に街を歩いた花束です。あなたに花壇のところに放置され、あなたの帰りを待っていた花束です。そして僕はあなたと花屋で目があった一輪の花です。言うことなどないけれども、念じずにはいられなかった。彼女が僕の顔を見つめた。僕も彼女を見つめた。はじめて会ったときの状況と似ていた。僕は彼女がその記憶を思い出すことを強く念じた。すると彼女の眼は大きく開かれた。
「ああ! 今日花屋さんで!」
彼女は手を打って頷いた。そのあと笑った彼女の顔が一瞬ひまわりのように見えた。
 劇場内では打ち上げがはじまり、老人が「ありがとうありがとうありがとう」と感謝の声を繰り返していた。同時に耳に入った二人は、顔を合わせてぱっと赤くなり、照れくさそうに笑いあった。