<まぁるいココロ>



にゃあぁ…と俺の横で白いデブ猫、球子(♀)が退屈そうに鳴いた。

まぁるい星と月に見下ろされ、輝かしい電球と太鼓音が仲良コヨシの賑やか祭り。
焼イカ、ヨーヨー、りんご飴。たこ焼き、クレープ、かき氷。
ピカ○ューお面を額にピロピロと水笛を吹いている俺の下では、赤と黒が涼しげに混ざり合い、「このデブ猫から金魚を救い・・たまえ」と相棒、球子も礼儀正しく座しているというのに。
現在、俺らの金ちゃんを狙うのは綿菓子を持った女、唯一人。

俺はアキラ ハルミ。秋良 晴海。ハタチで男。
とりあえず、今は球子と金ちゃんの飼い主だ。以上。


「…金魚を狙わないなんて賢い猫ね」
球子がにゃ…と鳴き、尾を左右に振る。
話しかけてきた唯一の女客は見たところ20代後半。細い体にノースリーブシャツとジーパンが良く似合っている。女のポイ(金ちゃんを救うあの道具だ)は既に大きな穴を開けていた。
「あぁ、コイツは甘いもんしか喰わねぇんだ」
「じゃあ、これは食べる?」
女は持っていた綿菓子を球子に見せた。
球子は興味なさそうに肉に圧された細い眼を更に細める。俺は思わず吹き出しそうになった。

球子は普通の猫ではない。
いわゆる幸福を呼ぶ招き猫。だから喰うモノがちょっと違っていたりする。

「ねぇ、お兄さん、この後、暇?」
女は膝に肘を付けて聞いてきた。
「・・・私はハルミ。藤本治美」
俺は何も答えず、ぴろぴろ〜と水笛を吹きながら、新しい和紙を張ったポイを俺と同名の「ハルミ」に差し出した。
生温い風が俺の髪をやんわり揺らして通り過ぎてゆく。
その風に乗って、遠くの太鼓音と家族連れの楽しげな声が近くなってくる。「ハルミ」は俺の明らかな無表情を認めると、頬を赤らめ、静かにごめんなさいと言った。イミありげな、白く跡がついた左手の人差し指を擦りながら。


 球子は俺の隣で体を更に丸くして、瞳孔を針状から円形に変える遊びをしている。
そんな球子を眺めて「ハルミ」は笑いながら話した。
先月、結婚するはずだった彼を親友に取られたの。よくある話よね、と。馬鹿みたいだけど、今でも心は彼の名前を呼んでいるのよ、と。
「ハルミ」は水にそっとポイを浸して静かに微笑みを浮かべた。
「彼…アキラ、岸井晶っていうんだけどね…」
ぽちゃん…と綺麗な音がして赤い金魚が白い紙をすり抜けて落ちる。

女は、自分が起こした事故のせいで、その時一緒にいた「アキラ」の左足を駄目にしてしまったから、一生彼の傍にいて償おうと決めていたのに、と続けた。
サスガに驚いた。
…「アキラ」と「ハルミ」。…って俺の名前じゃん。

「でももう会うことなんてないわ。…彼も親友も突然いなくなっちゃったのよ。心理的じゃなくて現実的に。噂によれば2人で相当の借金をしていたらしくて」
女はなんとも言えない眼をしていた。

…まぁ、自分ではどうしようもないコト、というのはあるもので。
しゃぁねぇな、と俺は銀色のカップに水を入れ、「ハルミ」に渡した。
水面下の金魚は赤も黒も関係なく、仲良く端に寄っている。


 風向きのせいなのか。
周りの雑音をすり抜けて、なぜかガキの駄々する泣き声が俺の聴覚に妙な感じで届いてきた。
視線を移すと射的屋の前で浴衣を着た母親が「しっ!」と団扇で泣き喚く坊主の口をおさえようとしている。
坊主はそれを上手くくぐり抜けると、父親の裾にぎゅっと小さな手で力一杯、しがみついた。
父親は笑いながらひょいと軽々、坊主を肩に乗せて歩き出す。
その後をうらやましそうな顔で姉らしき少女が続く。
どこか懐かしい、微笑ましい光景。

そんなふとした静寂な虚の瞬間。月が雲に隠れ、木々がざわめいた。

…―――来た。
そう俺が悟ったのと同時。目の前に座っていた「ハルミ」が背後から唐突に現れた、黒いゲル状の塊に丸々と飲み込まれた。
それは俺が未だに軽視出来ない、白猫のホントの姿。
黒い異形な物体はまるで一つの臓器のような、どくん、と波打つ赤黒い血管を表面に浮き立たせ、粘っこい透明の糸を垂らし、ぬめるような醜い光沢を放っている。

それは陰の塊。

なぜだか判らない。周囲の人間は気付かない。この暗闇から現れたものに。
即座に黒い塊は融けるように分裂し、無数の粒子となってザッと地に退いていく。
実際は音などない。木々が揺れているだけだ。
だが、その一粒一粒がひどく低い鼓動を放っている感覚が身体の奥を走り抜け、つっ…と無意識下の硬直を招く。
そして鳥肌が立つようなひんやりとした冷たい風が通り過ぎた。
目の前に女の姿が戻ってくる。

…ぴちゃん、と俺は自我が戻ってきたのを確認すると「ハルミ」が持った銀のカップにポイで金ちゃんを入れた。
にゃぁ…とデブ球子は「ハルミ」の後ろからとことこと歩いてくる。
女は何が起ったのか把握できないみたいで、虚ろな眼でぼうっと、銀カップの中で泳ぐ赤い魚を見つめていた。
「上下に動かすと水圧が掛かるんだよ。横から捕らねぇと。横捕りだ、横どり」
俺がそう言うと、女は晴れやかな笑顔でにこっと笑った。


間違いない。球子が喰ったのだ。ぱっくり丸々、彼女の負の感情を。


女が去ってすぐに、祭りも終盤になったらしく、人の流れが逆になってきた。
「ここら辺も最近は危ないから気をつけて…」
旦那に子供を任せた奥様方が通り過ぎてゆく。
「先月の一家強盗殺人。この近くなんでしょう?1人だけ不在で助かったとかいう。…珍しい苗字のお宅だったから覚えているのよ」
「犯人の若い男女2人組もまだ捕まってないんですってね。一人は片足が不自由だ、とかTVで言ってたけど。あ、そうそう、「アキラ」さんっていう…」

ヒトの不幸は蜜の味。球子はそれを喰う。
星や月と同じように、まぁるい体で人の心をまぁるくする。

にゃぁあ…と鳴き、球子は俺の隣で満足げにゲップをした。