[天の華]



 桜。桜。花吹雪。
 舞い落ちる花弁に、そっと口づけするように泉は波紋を撒き散らした。波紋は真円状に広がり、点在する大きな蓮の葉にぶつかっては軌道を変えた。更科湖はうっとりするような深緑色の泉だ。綺麗な水は光を吸い込んで、人の心に最も心地よい色だけを跳ね返す。
 桜が散る季節になっていた。風が吹くたびに、春を惜しむ涙のごとく桜の花弁は泉に身を落とす。葉等裏ハラリ波螺離ハラリと――。

「噂には聞いておったが……」
 更科湖の周辺には桜の木々が立ち並んでいる。天を覆い隠す梢、その間を縫って木漏れ日が差し込む。土は若干湿り、虫や微生物も心地よく過ごしている。
 そして、昼でも昏いこの地は妖しの者が好んで棲む。
の者が泉の精霊か」
 薄墨が滲んだ風合いの浴衣を着た若い美貌の男が、水面に佇んでいた。泉水を溶いた水で染めたような淡い深緑の髪、屈めば水に触れてしまうであろう長い直毛を、枝垂れ柳のごとく後ろに流していた。
 泉の上を歩き岩縁まで来ると、その場に座り込んだ。彼の長い髪は毛先だけ泉の水に触れ、ちらりと湿っていた。
 物陰から現れた観察者は、小振りな身体に大仰な衣装を身に纏っていた。神教者が祭事を執り行うときに着るような正規の袴姿であり、衣服に着られているような印象すらある。というのは髪は肩ほどまでの直毛で、前髪が眉の上で切り揃えられている幼な姿によるものであろう。しかし纏う雰囲気は子供らしい無邪気とは程遠く、ほんの少し動くたびに、鈴の音が散鈴チリン斜鳴シャナリと囁く。
「空知」
泉の精が言った。
「ほう、其方、空知というのか」
「左様。貴女はなんという名なのですか」
 両腕で天を覆う桜の梢から光が漏れ、その人の顔が照らされた。天人のごとき装いに負けず、御顔も大層精巧につくられていた。石英のように重く透き通った白は人の肌の色とは思えず、かといって桜で染めたような頬は人以外の存在のものであるとも思えぬ。
「わたくしか? わたくしは花天という名だ」
 花天と名乗る観察者は、泉の水に足を差し向けた。その者、素足にて歩いてきておった。
「美しい名……」
「有難う」
「美しい人だ……」
水が、花天の足を包み込んだ。着水点を中心に生じた水紋は人の心を侵すように波及し、蓮の葉どもが揺れて、揺れた。添環ソワ疎環ソワ……何か、ざわめく音のようだ。


 ――なぜに美しさというものは存在し、他の全てが見えなくなるほどに強い力を発してしまうのだろうか。

 ――目を、

 この美しい桜の泉に似つかわしくなく、下品な悲鳴が轟いた。普段安穏としている更科湖に棲む雑魚たちは、火花のようにぱっと散っていった。人ならぬ者でも目から涙が流れることがあるのか、と妖の者空知は思った。しかし、それは涙ではなく血、生ぬるくぬめった赤い液体である。当事者である空知が一番わかっていることであった。むしろ花天という者にこそ何が起こったのか咄嗟に理解できなかったのである。
「これを……」
空知が差し出したものは、眼から刳り抜かれた彼の瞳であった。
「これを供に……」

 ――奪われるとは、こういうことであろうか。


 血が乾ききっていない眼球を差し出す男は、長い髪で顔半分を隠しているものの、その淡い深緑の髪に染み伝い落ちる血までは隠し切れなかった。感覚を襲う奇怪さもまた、拭いされるものではなかった。
 花天はおぞましいものを見た、と感じたであろう。しかし、卒倒することもなく現実を直視し、魂の別の器とも言えよう彼の瞳を受け取った。