[悪魔だけは知っている]



 慶愛学園には一つの言い伝えがあった。くだらないおまじないの類い、単なる噂話だ、と言ってしまえばそれまでだが、寮生の間では代々まことしやかに語り継がれてきた言い伝えなのである。
 曰く、日曜礼拝の前の晩、学園裏手の教会にコインを置いてきて、朝のミサまでにコインがなくなっていれば願いが叶う。
 入学時に学生手帳と一緒に生徒全員に渡される銀のコインは三枚。竜を踏み据え槍を突き立てる大天使ミカエルの裏には、葡萄の葉と学園の教育理念「愛・智・真」がそれぞれに彫られている。
 初等部から大学までを擁する長い伝統を持つこの学園で、一体これまで幾人がこの言い伝えを信じ実行し、成功したのか――それは神のみぞ知る、という訳だ。

 ねえ知ってる? ――このところ、この言葉に続く噂は決まっていた。決して大きな声では語られることのない噂、けれどそうした噂ほど人の口を渡るのも早いのもまた事実。
「夜中に教会に行った先輩が三人……」
 大抵はそこで口篭もり、聞き手が頷くことで成立するほどに噂は息づいている。長期休暇に入った後でなければ、すぐに寮生の間だけでなく学園中に広まっていたことだろう。
 教会で人が死んだ。
 その、学園に似つかわしくないセンセーショナルな噂は、それだけには留まらなかった。夜の教会で三人もの生徒が変死した、いや殺害された――しかも無惨に引き裂かれて。にも関わらず、教会内は清掃の必要もないほど常と変わらずまるで清浄に保たれていた、というのだ。血痕の一つもなしに、だ。
 噂が噂たるところは、そんな事件が起きたというのに、警察の介入どころか学園の教師達すら事件などまるで何もなかったかのように振舞っているというところだ。そして、殺された三人が誰であるのか、発見した生徒は誰であったのか、全ては謎に包まれていた。
 即座に厳戒な緘口令が敷かれ、学園側が警察にも知らせずに事件を処理したのだ、と噂の影では少々無理な推測もオプションでつけられてはいたが、一方でそもそもそんな事件は起きておらず、誰かの広めたデマだという至極もっともな意見も当然だが強い。
 しかし、今現在寮生達の間で最も多く交わされている噂はこうだ。
 その後、彼らの死体すらも、その血痕のように消えてしまったのだ、と。
 だから学園は事件にしなかった、だから警察も捜査に乗り出さなかった。だから死んでいた生徒が誰なのか、詳しい話は噂では広がってこないのだ、と。
 噂に重要なのは厳密なリアリティではない、ある程度の適当な信憑性とそれを上回る意外性で、集団は容易に騙される。秘密という名のベールは、絶妙なチラリズムで穴だらけのみすぼらしい嘘を、まるで高貴で神秘的な真実に見せかける。
 本当は被害者がはっきりしていないことこそが絶好の条件だったのだ。それは言うなれば被害者の『不在』に等しい。誰かが死んだ――ましてやそれが同じ学園の生徒となれば、被害者が明らかであれば、いくらセンセーショナルな噂だといっても人々の口は重くなる。目の前の明確な誰かが傷付かないからこそ、噂の無責任さに不用意で無神経な言葉を重ねることが可能なのだ。

「その三人は、例の言い伝えを実行する為に教会に行ったんじゃないかな」
 窓から教会の方向を見据えて、萩は言う。例の言い伝え? と、ルームメイトの角谷が訊き返しながら同じように窓の外を見る。機嫌の悪い天気は、空だけでなく窓も曇らせていて視界はお世辞にもよくはない。
「聞いたことないか? 教会にコインを置きに行くと願いが叶うとか何とか」
「さあ。コインってこれだろ? そんな噂信じて、夜中に教会に行ったっていうのか?」
 ポケットから取り出した学生手帳を、馬鹿にするようにひらつかせて角谷は呆れた声を出す。三角形を描くように内側にはめ込まれた銀色のコインの重みで、動かす度に手帳の表紙がパタパタと乾いた音を立てる。
「じゃあ、角谷は夜中に教会になんて何の用があって行くと思う?」
「それは……まあ。やましいこと、とか?」
「流石にわざわざ教会を選ぶツワモノはいないと思うぞ、うちの学校に」
 思い付かずに逃げで口にした角谷の冗談を、萩は手早く打ち切る。それを承知で言った角谷は、萩の対応など気にした様子もなく、逆に更に呆れた調子を強める。
「そもそもさあ、萩はあんな噂信じてる訳? 教会で人が死んでたとか、死体は引き裂かれてたのに血の跡がなかったとか」
「信じてる訳じゃないけど、事実無根で広まる噂にしてはいくら何でも突飛過ぎるだろ」
 嘘はある意味ではもっと真実に近いものだ。誰かが意図的にデマを流すとすれば、こうも荒唐無稽な話にしはしないだろう。
「だけど、三人も死んで事件にならない訳ないだろ? 学園側だって、生徒同士のおふざけの喧嘩で怪我人が出たとかじゃないんだ、公にしないなんてできる訳がない」
「死体がなきゃ殺人事件は成立しないだろ」
 もし仮に現実に誰かがいなくなっていたとしても、だ。それは単に失踪事件であり、およそ健康な普通人の場合、それが大きな事件として扱われることは極めて少ない。ましてや、事件の証拠になる血痕もなく、誰がいなくなったかもわからないなどというのでは話にならない。
「犯人が死体を運び出したって? マンガじゃあるまいし、三人も殺してその三人分の死体を見つからずに運び出せる筈ないだろ」
「なんだ、お前って意外に真面目なんだな」
「そうだよ、俺は馬鹿だけどリアリストなの。萩こそ、そんな噂真に受けるなんて思わなかったぞ」
 角谷の意見はごく常識的な筋の通ったものだ。萩の言葉は一見感心のようだったが、その実それを残念がるものであったことに角谷は気が付かなかった。
「言ったろ、何も信じてる訳じゃないさ。何で今このタイミングでここまで異常な噂が現れたのか、それが気になるんだ。火のないところにって言うだろ」
 長期休暇のさなか、授業もなく、寮生も半分以上は実家へ帰省するなどしていて、誰かがいなくなっていたとしても見極めることは困難になる。無責任なデマを即デマと断定させないのには適した時期ではあるといえるが、密度の低下は噂の足を遅くし、また出所の割れ易くなる点では悪条件でもある。
 何より、それが何十年も前の伝説級の噂だというのならともかく、ごく最近の出来事だなどというなら、それが何の根拠もない噂として広まるとは考え難い。
「元になる何かがある、そう思わないか」
「それが、そのコインの噂だって? 仮に誰かがそれを信じて教会に行ったんだとして、何でそれが今みたいな噂に繋がんだよ」
「それはわからないけど、だからさ……」
 思ったよりも陥落は難しそうだと、萩はさっさと本題に入ることにする。普段はあまり見せることのない人を引き込むような瞳は、引き込むべき企みを持っている証拠だ。

「やめておいた方がいい」
「え? ――ええと?」
 突然掛けられた声に萩は完全に不意を突かれた。振り返った先には同じ制服の生徒が立っている。
「何だ、久世か」
 声の主の方を、萩よりわずかばかり遅れて振り向いて角谷が言う。久世? と萩は一瞬考えて、もう一度視線を向ける。久世――同じクラスの、とやっとのことで思い出す。
「さっきからずっと聞いてたのか? もっと早く声掛けりゃいいのに」
 角谷がくだらない話を聞かれたとでも思ってか、誤魔化すように苦笑いを浮かべて言った。萩と違って角谷には久世との親交があるのかも知れない、もっともこういった角谷の気安い調子は誰に対してもそう変わりはしなかったが。
「タイミングが掴めなくてね。それより、やめておいた方がいいよ」
 角谷に応えての苦笑交じりの前半に比べ、紛れさせてはいたが久世の言葉は途中からトーンを変えた。軟らかくはあるが、それは提案ではなく忠告の色を帯びている。
「何がだよ?」
「教会。行ってみようと思ってただろ? やめておいた方がいいよ、あんなくだらない噂、真に受けるなんてどうかしてる」
「久世もそう思うだろ? 俺もさっきからそう言ってたところ。ったく、萩は頭いいクセに、つーか、いいからな訳? 時々妙に変なこと気にすんだよなー」
 久世に対しての萩の常にない険を感じとって、間を取り持つように角谷が言う。久世はあくまで初めから変わらぬ穏やかな調子で薄い笑みを浮かべている。
「やめておいた方がいいって、何で?」
 萩の問いに、久世はすぐには答えなかった。探るような抑揚を殺した萩の声音の真意を伺っているようでもある。
「……くだらない噂だけど、これだけの噂だからね、もう学園側の耳にも入ってる。夜中に出歩いて、おかしな嫌疑を掛けられるのは割に合わないと思うけど? それに――」
「それに?」
「もし噂が本当だったら、危険じゃないか」
 驚いて見返す二人に、冗談だと言うように含み笑いすると、久世は会話を打ち切り二人の脇を横切り廊下の奥へと消えて行った。

 萩は寮長からの信頼が厚い。その理由は成績でも一般に言うところの人徳でもない。しかしそれについては本人は詳しく語らなかったし、他の人間にしても「どうしてこんな奴が」というほどの意外性が萩にある訳ではないので、深く追及することもなかった。
 その結果が最も顕著に現れるのは、たとえば消灯時の点呼、即ち門限であったりする。免除というだけならまだしも、下手をすると点呼自体を任せたりさえもする。つまりは実質無断外泊だろうが朝帰りだろうがお咎めなしということだ。とはいえ、そんなことがないだろうと思われているからこその信頼というものなのだが。
 事実、これまで萩にそういった類いの問題行動は見られない。それは同室の角谷が証言するしか証明の方法もないのだけれど、少なくとも角谷が気付いた範囲では、ない。
「それにしても、よく考えるとこれはまずいよな」
「いいじゃないか。寮長だって毎日見回りなんて大変だろう?」
 長期休暇中は、教師の目も届きにくくなり羽目を外す寮生も出てくることから、特に寮長の仕事は重要になってくる。外泊ならともかく、部外者の連れ込み、酒類の持ち込み、その他処分の対象となることのないよう監督しなくてならないのだ。
「いや、それはわかるけど――だからってお前に代わりにやらせるってのは……つーか、それをいいことに点呼終わってから外に出ようと企んでるお前がまずい」
 溜息混じりに言う角谷を、シーッと萩は黙らせた。誰かに聞かれたらそれこそまずいのだ。その程度のことをわざわざ教師に告げ口しようなどという人間はいないだろうが、信頼を寄せてくれている寮長に迷惑を掛けるのは萩の本意ではない。
「教会になんて行ってどうすんだよ」
「どうってこともないけどな――何だったら折角だからついでにコインの噂でも確かめてくるか?」
 あいにく明朝は日曜礼拝は開かれないのだが、コインの噂も他の噂と同様に伝わる過程で正確さを欠いてバリエーションは多岐に渡っていた。萩が他の寮生から第何番目かの又聞きをした際には、その条件までは聞き及んでいなかった。――もっとも萩の口調は冗談めかした軽いもので、元よりコインの噂にはさほど興味のない様子である。
 同じ噂でもこういったおまじないの類いに、何故と理論的な説明を求めるのは馬鹿げているし、手順を見てもそう珍しいものでもない、疑問を抱かせるような噂ではなかった。角谷に話した通り、萩は噂を信じている訳ではない、興味があるのはあくまで噂の中身ではなく「発生」という現象の方ということだ。
「教会行って、何もなくて、っていうか、なくて当然で、お前それで何か納得する訳?」
 角谷にしてみれば付き合いはするが、萩の行動は理解し難い。噂はあまりに非現実的だし、行ってどうなる訳ではないだろう。そして、そんなことは萩もよくわかっているのだ。

「行ってみないと何とも。それに――お前は気にならないのかよ? あいつの言ったこと」
「あいつって、久世のことか? お前もしかして馬鹿にされて意地にでもなってんの」
 角谷は複雑な表情で軽く眉根を寄せた。噂を気にするよりは現実的な感情ではあるが、もしそうならばくだらなさも幾分こちらの方が勝っている。そんな角谷を安心させるように、萩が小さく苦笑した。
「そんなことじゃなくて。普通わざわざ他人の話にあんな口の挟み方するか? あれじゃまるで俺達を教会に近付かせたくない何かがあるか、じゃなきゃ――」
「何だよ?」
「逆に、教会へ行かせたいか。どっちかだとだと思わないか?」
 久世は何かを知っている。もしくは噂の出所に近いところにいるのではないか。――噂自体、同じ目的で広められたのだとしたら?
「とにかく、まあ、まずは行ってみないとってことか――誘いに乗って」
 聞こえない音量で独り言のように呟いた所為で角谷に嫌な顔をされる。深く考えに没頭するほどつい声に出てしまうのは萩の癖なのだが、角谷に言わせれば会話の最中に独り言というのは失礼だ。関係のあることであれば尚更きちんと口にすればいいのだし、まるで無関係のことを考え込んでいたならば論外だ。
「鬼が出るか蛇が出るかって言ったんだよ」
「藪を突付いて何とやらって言葉を知らないのかよ、お前は」
 冗談めかす萩の言を呆れ顔で流す。ならば付き合わなければいいのだが、その選択肢は角谷の中にはどうやら存在しなかったらしい。さほど優柔不断な訳でもお人好しな訳でもないにも関らずそんな判断を下す、角谷のそういった部分を、萩は買ってもいた。
「行くなら早く行こうぜ。さっさと行ってバレないうちにさっさと戻って来ないと」
 そう言うと角谷は急な寒気でもしたのか、小さく一度身震いした。後ろ姿でそれを知った萩が声に出さずに笑う。
「そうだな、風邪ひかないうちに帰って来よう。夜はまだ冷えるみたいだ」
 空は変わらず重く、月は見えなかった。


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