[神様だけが知っている]



 慶愛学園には一つの言い伝えがあった。くだらないおまじないの類い、単なる噂話だ、と言ってしまえばそれまでだが、寮生の間では代々まことしやかに語り継がれてきた言い伝えなのである。
 曰く、日曜礼拝の前の晩、学園裏手の教会にコインを置いてきて、朝のミサまでにコインがなくなっていれば願いが叶う。
 入学時に学生手帳と一緒に生徒全員に渡される銀のコインは三枚。竜を踏み据え槍を突き立てる大天使ミカエルの裏には、葡萄の葉と学園の教育理念「愛・智・真」がそれぞれに彫られている。
 初等部から大学までを擁する長い伝統を持つこの学園で、一体これまで幾人がこの言い伝えを信じ実行し、成功したのか――それは神のみぞ知る、という訳だ。

 諏訪基也にとっては、それは単なる好奇心、というより、度胸試しのようなものだった。
 夜遅くに寮を抜け出し、教会に忍び込みコインを置いてくる、翌朝ミサの準備で人々が集まり出す前にコインの有無を確認する――それを如何に見咎められることなく上手くやってのけるか、卒業を間近にした初等部最後の冒険としては最高に思えた。
 もし噂の真相を確かめられたなら、そうでなくとも噂通りにコインが消えでもしたら、英雄間違いなしだ、あわよくば願い事だって叶うかも知れない。悪友の刑部一真――そもそもこの噂を仕入れてきたのは彼なのだ――の言葉は、付き合いが長いだけあって流石に上手く基也の心をくすぐった。
 二人で計画を練り、今夜は待ちに待った実行の日だった。見回りの時間も調べた、同室の友人にも気付かれず抜け出した、すべては順調にいっていた……筈だった。

「諏訪、こんな時間にどこへ行く気だ?」
「げ、鏑木」
 待ち合わせ場所の寮の玄関ホールで基也を呼び止めたのは一真ではなく、基也のクラスの委員長を務める鏑木悟だった。
 常日頃から到底品行方正とは言い難い基也にとって、彼は無論相性のいい相手ではない。普段だとしてもそれなのに、よりにもよってこんな日にこんな相手に見つかるとは不運としか言い様がない。
「モト、お待たせ」
 基也が悟への言い訳を思い付くより先に、後ろから一真のノンキな声が掛かる。タイミングの悪さに思わず基也が天を仰ぎ、一真も悟の存在に気付いて、小さく、あ、と呟く。
「一真、遅いんだよ! 見つかっただろ。って、何でここに女子がいるんだよ」
 文句を言おうと振り向いた基也は、一真の後ろに二人の少女の姿を見止めて、苦情の中身を変更する。
 肩上で真っ直ぐに整えられた黒髪の少女と、ふわふわした薄茶の髪の小柄な少女は、どちらも同じクラスの女子のようだった。こんな時間だが、基也達と同様に学園の制服に身を包んでいる。誰かに見つかった時の為かも知れないし、外出時はなるべく制服で、という規則を律儀に守ったのかも知れなかった。
「だって潮崎が来たいって言うから」
 連れて来た女子の一人の名を挙げて、一真は悪びれた様子もなく言う。
 ほとんど女子と口を利かない基也と違い、誰にも愛想のよい一真は、女子からも評判は悪くない。それでいて男子から浮くこともなく先輩にも可愛がられる彼のそれが、生来の性格ではなく処世術だということを基也は知っていた。自分などとつるまず大人しくしていれば教師受けもいいだろうに、とたまに基也は思う。
「言うから、って、そもそも計画バラしてんじゃねぇよ」
「モトが昼間教室で話すからバレたんだよ」
 呆れたフリをしてみせる一真に、基也は言葉に詰まる。確かに、教室で一真に計画を確認した記憶が基也にはあった。それを近くにいた同級生に聞かれていたのだ、と言われれば否定のしようもない。

「佐伯、何で君まで……」
 一真の連れて来た少女達の存在に、基也とは違う意味で悟も絶句している。『達』というよりは、主にその内の一人が佐伯杏奈であることがその原因だった。視線は真っ直ぐ黒髪の少女だけに向いている。
「怖いから付いて来てって真帆に頼まれて」
「君は女子の委員長だろう……」
 平然と答えた杏奈に呆れ声で悟が言う。どうやら同じ委員長でも考え方に随分と差があるらしい。優等生なのだろう程度にしか杏奈を認識していなかった基也も軽く驚く。
「つーか、怖いなら来んなよな」
「ご、ごめんなさい、諏訪君……」
 ぼそりと言った基也に、杏奈の後ろに隠れるようにした潮崎真帆が小さく謝る。
 一真や杏奈の話では一緒に行きたがったのは真帆の方らしいが、誘われて仕方なくならともかく、目の前の少女は自分からそんなことを言い出すようには見えない。変な女、と基也は印象に付け加える。
「それで、女子まで巻き込んでどこへ行く気だ、諏訪」
「こいつらは俺の所為じゃないだろ」
 一応抗議してみせて、それから諦めたように基也は溜息をつく。女子がいようがいまいが、悟に見つかったのは基也なのだ。自分で責任を取るしかない。
「……教会だよ」
「教会? ――お前ら、まさかあんな噂信じてるのか?」
 一瞬だけ怪訝そうな顔をしたものの、すぐにその意味に気付いて、悟が驚いたような馬鹿にしたような声になった。
「うるさいな、お前こそやってもみないで嘘か本当かなんてわかんないだろ」
「コインは必ずなくなる訳じゃないんだから、やってみたってわからないだろ」
 悟に冷静にそう返され、基也は反論できずに黙る。正直なところ、基也だって噂を真実と信じて疑わないという訳ではないのだ。かといって、こうも計画外の人間にばれてしまった今、上手くやるという過程の方が本題だったのだとは到底言えない。
「とにかく夜間の外出は禁止だろ、先生に報告するぞ」
「俺らまだ出てないだろ。委員長、女子だけ先生に売る気かよ」
「なっ」
 ずっと黙っていた一真が口にした予想外の言葉に、悟が微かにうろたえる。
 悟が呼び止めた為、基也はまだ玄関の中だ――つまりは寮を出ていない。一方、女子寮から男子寮へは外へ出ずに行き来はできない。それ以前に、こんな時間に男子寮にいること自体も問題だ。一真はといえば、自分は外に出ていないと言わんばかりにスリッパ履きの足をぶらつかせている。分かり切った自分達の居場所を確かめるように、ちらりと外に目を遣って、悟は小さく舌打ちした。
「ここ見てみろよ? 『夜九時以降、一人での外出は控えましょう。』……どう見ても俺らは一人じゃないし、控えましょうってことは絶対にダメってことじゃないだろ」
 一真の助け舟で余裕を取り戻したのか、基也が学生手帳に記された一文を示す。様々な悪戯の罰としてよく校則を書き写させられた結果、基也の手帳はほぼ一発で校則の書かれたページを開くことができた。到底褒められたことではないが、役に立つこともある。
「それは、用事のあるときに保護者と一緒ならって意味だろう!」
 悟の性格を踏まえての一真の言とは異なり、今度はただの純然たる屁理屈だ。先ほどやり込められた所為もあってか、言い返す悟の声に苛立ちが混じる。
「そ・れ・に、『いつでも教会の門を叩きなさい。主はいかなるときでもあなた方を受け入れるでしょう。』――教会の利用案内にも書いてある」
 どうだ、とばかりに同じような解釈論をもう一つ持ち出す。どちらも確かに屁理屈だ、が、屁理屈も理屈には違いない。屁理屈と承知で並べている相手に、屁理屈だと突き付けたところで論破できるものではない。
「――悪魔でも聖書を引くことができる、ってのは本当だな」
「俺が悪魔なら、お前はキリストかっての」
 諦めたのか呆れたのか大きく息を吐く悟に、基也は基也でその芝居がかった仕草に小さくぼやく。
「洗礼名はウィリアムかアントーニオにしてもらったらどうだ?」
 小声のつもりだったぼやきを聞き咎めて睨む悟に、どうせ聞こえたならと追い討ちをかけるようにからかいを込めて基也が言う。
「ねえ、杏奈ちゃん、ウィリアムとアントーニオって?」
「シェークスピアと、彼の作品の中で鏑木君が言った台詞を言った登場人物の名前よ」
 稀代の劇作家ウィリアム=シェークスピアが『ヴェニスの商人』でアントーニオに言わせた科白がそれだ。悪魔がキリストを誘惑するのに旧約聖書の文言を用いたのに喩えて、相手の都合のいい引用を罵ったのである――基也のぼやきもそれを踏まえている。
「諏訪君が文学少年だったとは意外ね」
 一通り真帆に説明してみせたものの、杏奈の方が余程不思議そうな表情で一真を振り向く。確かに普段の基也のイメージからは、シェークスピアは程遠い。
「モトの家、本屋だから。誕生日のプレゼント、毎年本だったらしいよ」
 回答を要求する視線に応え、一真が苦笑気味に言う。文句を言っている割に全部ちゃんと読んでる訳だ、という個人的な苦笑だったのだが、似合わないだろ? の意味に捉えた二人は顔を見合わせて小さく笑う。
 まだ他愛のないやり取りを悟と続けていた基也が、内容までは聞こえていなかったものの、自分の話だと察知して一真を見る。何でもない、と一真は軽く手を振ったが、基也は誤魔化されてはくれなかったようだ。おしゃべり、と小突かれる。

「こんなことバレて、中等部への推薦取り消されても知らないぞ」
「あら、そんなことで怒るなんて、神様は随分と心が狭いのね」
 呆れかえって言った悟に、杏奈が淡々と言う。けれど、声とは裏腹に瞳はどこか悪戯っぽくも見える。
「佐伯、君までそんなこと!」
 少しは委員長の立場でものを言ってくれと言わんばかりに、悟が困った顔をする。
「私、ボレロが着たくてこの学校選んだだけで、別に神様信じてないもの」
 悟の頼みをわざとずらしてかわして、さらりと杏奈が言う。その言葉にピンと来ない表情を浮かべる悟とは対照的に、上手くずれた先に引っかかった真帆が胸の辺りで両手を合わせて小さくはしゃいだ声を上げた。
「中等部の制服可愛いよね。杏奈ちゃん似合いそう」
「真帆にも似合うわよ。……そういう訳で困るのよね、推薦取り消しなんて言われると」
 何やら随分と楽しげな真帆に一瞬だけ視線を送って、杏奈は悟を振り返る。悟だって何も本気で言った訳ではないが、杏奈の様子は言葉とは違い、推薦を取り消される心配などしているようにはまるで見えない。
「わかった、僕も行く」
「はあ?」
 溜息の後突然言った悟に、基也が驚きのあまり間抜けな声を出す。成り行きを見守るようにしていた一真も、流石に慌てた顔で視線を向けている。
「鏑木君も一緒に行きたかったのね」
「違う!」
 鋭く飛んだ悟の否定の声に、真帆が杏奈の後ろに隠れる。しかしながら、冗談でも皮肉でもなく、本気で思い付いたように言った真帆には杏奈も内心では苦笑する。生真面目な性格の悟を気の毒に思わないでもない。
「知ってて見逃すなんてことはできない。でも、確かに女子だけ先生に突き出すなんていうのは気が引ける」
「フェミニストだなあ、委員長」
 女子云々という話を持ち出した張本人である一真が、あまりに見事に作戦にはまった悟にむしろ感心した声音で言う。
「うるさい。首謀者のお前らが無事で、女子だけ怒られるのはおかしいだろ」
「行きたいなら行きたいって素直に言えばいいのにぃ」
「違うって言ってるだろ!」
 さきの真帆の言葉を真似るようにしてしつこくからかう基也に悟が我慢できず怒鳴る。まさに水と油なのか、まだ一真には冷静さを保っていた悟も基也相手には感情を抑えられないようだ。
「……ちょっと待ってろ」
 柄にもなく取り乱したのを仕切り直すように落ち着いた声で言って、悟が寮の中へ戻っていく。五分と経たずに降りてきた彼の手には小型の懐中電灯が握られている。
「あった方がいいだろ」
「よく持ってたな、そんなもの」
「去年の林間教室の時のだ、夜に肝試しやっただろう」
 なるほど基也もそれなら部屋の何処かにあるような気がしたが、五分で見つけて持って来られるほど、去年使ったきりの物の場所など把握してはいない。
 懐中電灯の小さな明かりは、夜の暗闇の中では心許ないが、ないよりマシである。校舎や寮から離れた位置に建つ教会への道は暗い。懐中電灯を手にした悟と、先頭を譲りたくはなかったのだろう、少し離れて横を歩く基也の後ろに、真帆に付き添うようにして杏奈、それから一真が続く。
「諏訪は何でこの学園に入ったんだ?」
「何だよ、突然。文句ある訳?」
「まさかお前も制服で選んだ訳じゃないんだろう? かといって、好きで初等部からって柄でもないだろ、寮まで入って」
 多くの学校がそうであるように慶愛学園もまた、外部から受験生を受け入れる為、高等部大学と進むにつれその特色は薄まっていく。逆にいえば初等部から入学する場合には、熱心なキリスト教徒であったり、縁故、そうでなくとも選択の基準が学園独自の校風によるところが大きくなるということだ――勿論多くの場合、選ぶのは親であろうが。
「悪かったな。うちは親に、こういうとこ入れば少しは行儀よくなるだろうって入れられたんだよ」
「それで大人しく受験したのか? 意外だな」
 悟が意外に思うのも無理はない。いわゆる『お受験』などというものに、親の言いつけで基也が精を出すようには思えない。遊び盛りの幼い頃なら尚更だ。
「ちげーよ。俺はただ――ここならエスカレーターだから、受験の心配せずに思い切りサッカーができるぞって言われて」
「うちの学校って、サッカーなんて強かったかしら?」
 どこか面白くなさそうに言う基也に、杏奈が疑問を挟む。後ろからは表情は窺えなかったが、明らかに基也のトーンが下がる。
「……いいんだよ、中等部上がったら俺が入って強くすんだよ!」
「でも、サッカーはチームでしょう?」
 事情を理解して黙った杏奈の代わりに、悪気のない真帆の声が追い討ちをかけ、ガクリと基也が肩を落とす。
「夢がねぇな、これだから女はヤなんだ」
「俺も一緒に頑張ってやるから、な?」
 ぼやく基也とそれを慰める一真を見て、真帆がきょとんとしている。
「コインの話、は……誰から聞いたんだ?」
「あ? 一真が先輩から聞いてきたんだよ」
 突然話題を変えた悟に眉を顰めながらも、正直話題が逸れたことを有り難く思わなくもない基也は素直に答える。
「そういえば、鏑木も最初からあの話知ってたみたいだな」
「……ああ」
「こういうの興味なさそうなのに、そっちこそどこで知ったんだよ」
 自分もつい最近一真に聞くまで知らなかった噂だ、誰でも知っている有名な噂だというなら、基也としてはあまり面白くはない。
「あ、鏑木君ってお母さんが学園の卒業生なんでしょう? お母さんから聞いたとか?」
 真帆が言い、悟が一拍おいて小さく頷く。何だそういうことか、と基也は内心で安堵したが、悟は何故かそのまま黙り込んでしまう。真帆がこっそり、私また変なこと言った? と杏奈に耳打ちしていたが、悟の沈黙の理由は誰にもわからなかった。


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