[ミルク]



 ああ、何か言っている――――……

「他人の男横取りするなんて、どういう神経してんの?この泥棒猫!」
 パシンッと乾いた小気味よい音が鳴った。なんて古典的。
 女はまだ何か罵る言葉を探して口をぱくつかせたが、顔を張られて斜めに俯いたままでいる相手に何を言っていいか言葉がまとまらなかったのか、口唇を噛んで立ち去った。

 女が去って、やっとのろりと左頬を押さえる。ずるりと右手でかつらを下に引いて外す。ぶらんと力なく下ろした手にある長い髪が、アスファルトすれすれを掠った。



 二年前、俺は猫を拾った。

「これ、ここに置いてやってくれない?雨、ひどくてさ」
 びしょ濡れで猫を抱えたそいつを、俺は何故だか受け入れた。ちょっとした雨宿りの屋根を提供してやるくらいの気持ちだった。外は本当にひどい雨で、心まで凍えてしまいそうだったから。

 ホットミルクを出してやると、大きな薄茶の瞳がこっちをじっと視ていた。
「何?拭いてやるから、それこっち貸して」
 戸棚からタオルを出してきて猫を受け取ろうと手を伸ばす。そいつはまだしばらく俺を見て、それからおずおずと小さな猫を広げたタオルに預けた。空いた手で、マグカップを包み込むようにしてミルクをすする。猫舌なのか、小さい子供のするようにゆっくりと。
 本当は猫だけのつもりだったのだろう、どこか居心地悪げだ。

「……まえは?」
「え?」
 猫を拭いていた手を止めて顔を上げる。さっきまで俯いてカップの中を覗き込むようにしていた瞳が、こちらへ向けられていた。
「お前、名前は?」
 雨に長く濡れていた所為なのかどうか、少し嗄れた声。本当はこっちが聞きたいところだ、突然他人の家を訪ねて来たのだから。けれど、その声に引き出されるように、安芸良晴海、と自分の名前を答えていた。
「変な名前」
 ぽつりと言う。どっちが名前だかわかんねえな、と。

「そっちは?名前」
「千歳」
 チトセね、とそれこそ名前なのか苗字なのかわからない、その一欠片のような言葉に呆れた。こちらに合わせてフルネームを名乗る気はないらしい。
「こいつは?」
 タオルの中でイヤイヤをするようにモゴついている猫を指して訊く。まっしろな、小さいな猫。
「あ……。まだ、さっき会ったばっかだから」
 さっき?拾ったばかりの猫を――ただの捨て猫なのに、わざわざ他人の俺に預けようとしたのか、と不思議にも思ったが、そっか……とだけとりあえず呟いた。

「ミルク」
「あ?何、おかわり?」
 黙りこくったと思ったら突然ぽつりと言ったから、反応が遅れた。顔を向けると、千歳は小さくふるふると首を横に振った。
「名前。白いから」
 ああ、猫の名前ね。さっきまでジタバタしていた“ミルク”は、今はタオルの中でうっとりと丸くなっている。

「お前さ……」
 どっから来たとか、雨の中何やってたかとか、色々質問は浮かんだのだけど、どれもやめた。
「どうしてウチに来たんだ?」
「前に、猫にエサやってるの見たから」
 千歳自身のことを訊く代わりに口にした疑問に、答えはあっさりと返ってきた。記憶を掘り返して千歳の言う事実を思い出す。そんなところを見ている奴がいるだなんて、思ってもみなかった。

「置いてくれると思ったんだ。……少なくとも、雨がやむまで」

◇◆◇

 じめじめと夏の暑い日には人肌なんて要らない。ベッドの上で嫌な寝汗をかいて、悪い夢から醒めたように気持ちの悪い眠りは欲しくない。

「……」
 いつの間にかもぐり込んでいる侵入者に舌打ちする。ベッドから抜け出して汗をかいてしっとりとはりつく前髪を鬱陶しそうに腕で拭う。冷蔵庫からペットボトルを取り出して冷たい水を喉へ通すと、やっとまともに呼吸をしたような気分になる。

 ミャーと鳴いて足下へ白い猫が擦り寄ってきた。
「悪い、起こしたか?」
 晴海がそっと抱き上げて軽く撫でてやると嬉しそうに喉を鳴らす。
「お前のご主人様は起きもしないのになー。ミルク、お前でさえ夏は暑がってベッドになんか入って来ないのに、どーしてあいつはああなんだろうな?」
 猫相手に愚痴とも皮肉とも取れない言葉を吐き出しても、首を傾げて鳴くばかりだ。苦笑してミルクを放してやると、スタンと身軽に飛び降りて自分の寝床へ戻っていく。

「まったく、いい気なもんだよ」
 晴海のベッドを占領して、千歳はさっきより領地を拡大して眠っている。
 相変わらずおかしなバイトをしているのか、千歳の生活パターンはいまいち読めない。探偵まがいの下手な尾行をしてみたり、出会った日のように女装して浮気相手の振りを引き受けたりと、何でも屋の看板でも掲げそうな勢いだ。

 憎まれ役を買って出て叩かれまでして手にしたのは一万円。割がいいのか悪いのかわからない。随分と後になって千歳にどうしてそんなバイトを引き受けたのかを訊ねたことがあった。
『怒りをぶつける相手がいた方が、早くふっきれるかなって。かといって、相手の女の子殴らせる訳にもいかないから。……相手の男は、ホントろくでもない奴だったんだけどね』
 そう千歳は言った。千歳なりの価値観で引き受ける仕事について、それ以来晴海はあまり訊くことはなかった。ただ、猫のようにあちこちふらふらして疲れて帰ってくる千歳に、あの時と同じホットミルクを用意してやる。人と触れ合って、傷つかない訳がないから。

 横取りされたベッドを見ながら小さく溜息をつく。ソファーに横になって天井を眺めていると、一人だった頃を思い出す。懐かしいような複雑な心境。どっちの方がよかったと、選ぶことはできない。

 外で雨の音がし始める。湿度は増すが、これで気温が下がるならいい。

「……寝れねえ……」
 目が覚めた挙句に雨の音、その上決して寝心地のよいとはいえないソファーじゃ、いくら気温がマシになったとしても、眠りにつくにはまだ時間がかかりそうだ。今度こそ恨めしそうに千歳を見遣る。
 当の本人はベッドの主がいつの間にか隣からいなくなっているのにも気づかずにぐっすりと眠っている。



 溜息をついた。横取りされたのはベッドだけではないんじゃないかと。入り込んで半分どころか根こそぎ持っていかれそうな、そんなものは……
 ――――たとえば、人生?



*この話は「アキラハルミ・横取り・猫」の三題企画です。