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[Repentance comes too late]



 それじゃ、というように彼が軽く片手を上げるのを見て、俺はつい声を掛けてしまう。離れかけた小柄な後ろ姿が足を止める。
 まだ何か用が残っていただろうかと怪訝な顔で振り返る彼に、当然俺は言うべき言葉など持ってはいない。呼び止めるだけの用がある訳がない、彼はいつだって過不足なく自分の為すべきことをしている。彼が背を向けたなら、彼の用事はすべて済んだということだ。
「何?」
 なかなか次の言葉を口にしない俺に、それでも呼び止めたのだから何かあるのだろうと一応立ち去りはせずに訊く。さっきまで進行方向だった後ろをちらりと振り返って、彼はポケットから煙草を取り出す。
「ええと」
 歯切れ悪く切り出した俺の意味のない言葉を信号機のとおりゃんせが容赦なく遮った。俺はその音で、彼がさっき一瞬信号を見たのだと気付く。彼も俺がそれに気付いたのに気付く。
「変わったんだけど」
 どうでもよさそうに言う様は、それがただの契機に過ぎないことを告げている。用があるのなら聞くし、そうでないなら、と火を点けていないままの煙草が指先で揺れる。
 どちらにしろ煙草一本分、与えられる残り時間を計って、俺は諦めた。
「悪い、やっぱ何でもない」
 俺の言葉に文句を言うでもなく、そう、と小さく頭を振る。あまり明るいところでは見慣れていない彼の赤みを帯びた髪がさらりと表情を隠した。
「これ、やるよ」
 弄んでいた煙草を俺に押し付けて、今度こそ彼は俺に背を向ける。信号を渡っていく後ろ姿に、俺はくしゃりと手にした煙草を握り潰した。


 まるで無目的のようにぼんやりと歩いていると、どんどん自分の感覚が曖昧になっていくような気がする。突然ぽかりと予定の空いてしまった時さながらに、俺は時間を持て余していた。なにも絶望的にやることがなかった訳ではない、むしろどちらかといえば、やらなければならないことができたのだ。けれど、それは今はできない。
「ママー、あれ買ってー」
 子供は無邪気だ、そう思って、おいおい俺はいくつだよ、と軽い目眩を覚える。勿論親に物をねだるような歳ではなかったが、それでもまだ親の気持ちになる歳でもない。もっとも無邪気さを遠い日のことのように見てしまったのは、加齢とは関係ない次元の問題かも知れなかったが。
 予測不可能な動きをしそうな子供とぶつかることのないよう随分手前で大きく迂回して、俺はそのまま別の道を選ぶ。
 暇潰しに本を読むような趣味があれば、本屋一軒で何時間だって潰せたのだろうけれど、あいにく俺はいわゆる現代人で活字離れも甚だしかった。意味も用もなくあちこちの店を出入りしては、たまに目に付いたものを手に取ってみたりする。傍目にはどう映っているのだろう、プレゼントを探しているようにでも見えるだろうか。
 場違いな考えにおかしくなった。正直最悪万引きする品を物色してるように見えさえしなければ、どんな風に見られようが知ったこっちゃないのだ。気にする必要のない他人の目がやけに気になるのは、幾分かの罪悪感がある所為なのだろうか。それとも変に手持ち無沙汰な所為だろうか――席の向かい合った電車で視線のやり場に困るのと同じように。
 くだらないことを考えていたら、どこかから聞いたことのある歌が聞こえてきた。あって当然、個人の好みと無関係に耳に入る程よくテレビで流れていた曲だ。誰かの携帯電話の着信音らしいその音は、競合する音もない中だから間抜けにいい音を響かせている。
 さっさと出ればいいのになかなか止まない着うたは、無理矢理その歌を聴かされているようで少しばかり苛つく。別にその曲が取り立てて嫌いな訳でもないし、有線か何かで流れても何も思わなかったに違いないから、実のところベタな選曲のセンスが気に食わなかっただけなのかも知れない。
 大体、着信音が高音質だったり歌だったりするのに本当に意味があるのだろうか――さっさと出ろよ、と思うのはいつも待たされる方の立場だからなんだろうか。「電子音は耳障りだから」という理由だった気もするけど、目覚ましと一緒でその方が急いで出るんじゃないか?
 鳴り続ける電子音も想像すると虚しいけれど、相手先で流れる着うたを知れば、八つ当たりは承知でそのアーティストまで嫌いになりそうだ。幸いなことに俺がそれを知る機会はなかった訳だけれど。
 そういえば、と不意にあることを思い出した。何だか懐かしいような苦笑を誘う記憶。
 まだ着メロとかがそれほど普及してなくて、ありふれた電子音が鳴ると、つい自分のもののように思えて周囲の人間が一斉に鞄やらポケットを探った。あの頃まだ俺の髪は黒くて制服を着ていて、俺の携帯電話は親に持たされたもので――そんな俺のことを、彼は覚えていたというのだ。ごくありふれた、たまたま居合わせて多少気まずい思いをした、それだけのことを。
 今思えば、ナンパの常套句と同じでそんな話ホントかどうかわからないとも思うけど、再会した(ことになる)彼にそう言われた時、俺は何故か信じてしまった。多分それがそれほど重要なことだとは感じていないかったからで、実際重要な判断が必要だったのはそこではなかった。その判断が正しかったのかどうか、それは今考えてみてもわからなかった。


 ぶらぶらと歩き回っていたら、時間は余っているのに距離は目的地までさほどなく、俺はここからどうしようかと思案する。戻るか、行き過ぎて戻ってくるか、あまりこの辺りで一ヶ所に留まっているのは望ましくない……というより、それでいいなら最初からそうすればよかったのだから。
「ええー困りますよ。かんべんしてくださいよ」
 困った、と思っていた俺にかぶせるようにしてそんな声が聞こえた。営業マンか何かだろう、困ると言ってもきっと強くは出られないに違いない。お疲れ様です、と心の中で手を合わせる。親よりは若そうな声、「なりたくない大人」とは思わないけど、俺には「なれない」大人だ。
 こんな街中で商談でもないだろうから、携帯電話の弊害ってやつだろうか。移動時間ですらお仕事ってことですか、まあ今の俺も見た目ただの暇人にしか見えなくても無意味にうろついてる訳ではないんだけど、真面目に働いている人間にしてみれば、さぞかし目障りに違いない。
 とりあえず目に付いたコンビニに入って、雑誌を素通りして菓子やらパンやらの棚をゆっくり周る。それから弁当を見て、冷やかしの客じゃないのを店員にアピールしてみせて、結局ペットボトルだけぶら下げて、雑誌の棚へ戻る。大して興味もない映画情報誌を斜め読みして、ちらりと腕時計を見る。当然さっきからそれほど時間なんて経っちゃいない。
 あと時間の潰せそうな場所は、と考えてみる。人も商品もごちゃごちゃしてて店員の目に止まることもなく、と考えてみると本当に万引きの計画でも立ててる高校生かなんかになった気分だ。流石に少し情けない。
 ペットボトルと、ついでに何となくのど飴を買ってコンビニを出る。財布の小銭が減って少し軽くなった。まあいいや、と溜息が出たのもなかったことにする。
 信号待ちの人込みの後ろを通り過ぎようとしたところで突然鳴り出したパトカーのサイレン――どうしてこんなに心臓に悪い音を平気で撒き散らせるのだろう? ――近づいて来るのでもなく遠ざかって行くのでもなく、急に鳴らしたものだから、俺だけでなく周りにいた他の人間だってびくっとして振り返っていた。よく悪いことをしているとサイレンに反応するというけれど、これだけの人間が反応するなら、何もしてなくてもこの音は驚かせるには十分なのだ。
 ショック死したら責任とってくれんだろうか、大体急に鳴らすなんて卑怯だ。
「あれ? うわ偶然、何やってんの」
 パトカーの音に止められた世界が動き出した拍子で俺の姿を見つけたのだろう、声を掛けて来たのは前のバイト仲間の女だった。
 心の中でパトカーに悪態をついていた俺は彼女に気付くのに遅れた。先に気付いていたら、見つからない内に上手く人込みに紛れられたのに。仕方ないので、これはこれで好都合と思うことにする。
「待ち合わせしてんだけど、それまで空いちゃって暇してんだ。時間あったりする?」
 一人で時間を潰すより、誰かに付き合わせれば随分楽だ。どこをぶらついていようと、どこで立ち止まっていようと、どこにでもいる二人組にしか見えない。誰も気に留めないだろう。
「バイト上がったとこだから別に暇だけど。何、待ち合わせ何時?」
 俺の答えた時間を時計と見比べて頷く、どうやら付き合ってくれるらしい。
 人数が二人になろうと、そもそも特に行き場のなかった俺達は、結局適当にぶらついていた。CDを見たり、ディスカウントストアに入ったり、何となく腹も減ったような、と思った頃、そういえばと思い出したようにそいつは切り出した。
「待ち合わせって友達? それとも……」
 窺うように尋ねたその顔は興味津々といった様子だ。一緒にバイトをしていた頃、俺と彼女はそれほど親しかったという訳ではなかったけれど、「恋人」という答えを期待した問いといい、この調子ではノリで紹介しろとでも言い出しかねない。俺にはイマイチ理解できないことだけれど、世の中には、まるで知らない赤の他人の恋愛ごとにまで興味を持つ人種が確かにいるのだ。
「いや、もっとシビア。今のバイトの先輩に無理矢理誘われててさ」
「へーそりゃ大変」
 ついてくるとは言い出せないよう工夫した答えに、信じたのかどうかはともかく追及はない。こっちの都合で付き合わせておいてつくづく勝手な話ではあるけれど、一緒に連れて行くなんてのは到底有り得ない話だった。
 万が一もう一度どこかで偶然会うようなことでもあれば、今度は何かおごってやろう、と実現の可能性の低そうな計画を立てる。
「あ、ちょっとあそこ寄っていい?」
 指の先にあるのは俺には興味のない一角で、けれど断るほどの理由がある訳でもないので適当に頷く。目指すものの前までは付き添って、ちょっとトイレ、と少し間を置いて切り出す。彼女は彼女で既にワゴンの中身に夢中になっていて、俺のことを振り返りもせずに、じゃあ見てるから、と小さく手を振る。
 嘘ではなく本当にトイレへ向かって、何となくそのまま入るのが嫌で、コンビニから持ったままになっていたペットボトルをビニール袋ごと鞄に突っ込む。鞄の中で、始めから入っていた小さな紙袋がほんの少し潰れて軽い音を立てた。
 用を済ませて戻ると、さっきのワゴンは見終えたのか近くの違う商品を手に取っているのが遠くからでもわかった。
「おそい!」
 一瞬自分が言われたのかと錯覚する大きさ。けれど全然関係ない女の声だった。発信源らしき集団は割と離れていて他の会話は聞こえなかったけれど、若い女の声というのはよく通るもんだ、と呆れを通り越して感心する。
 声を掛けようとして止まってしまった俺に、彼女は遅れて気付いたのだけれど、今度も向こうの方が先に声を掛けることになった。
 手にしていた商品を棚に戻し小走りに近づいてくると、どうしたの? というように見上げてくる。
「いや、何でも。ああ、腹減らない? ハンバーガーとかでよければおごるよ」
 ついさっきまで、今度、と思っていた筈なのだけど、間をもたすだけの為のようにそんな言葉が俺の口を突いて出た。相手も当然断る筈もなく、ラッキーとばかりに、さっさと足をそちらへ向けている。
 俺はもう一度時計を見た。どっか適当な店に入って、そこそこに食べて、こいつと別れて、それで大体ちょうどいい頃合いになるだろう。そうすればやけに長く感じたこの一日も終わる。元々大して重くもなかった鞄が、急にぐっと軽くなった気がした。

 一番近くにあったファーストフード店に入るのを決めて、自動ドアを目の前にした時、どこかでガラスの割れる音がした。反射的に後ろを振り返ったが、目に入る範囲ではそれらしい光景は見つからない。
「なあ、今何か割れた音しなかったか」
 尋ねてみたが、先に店に入りかけていた彼女の耳にはさっきのその音は届かなかったようだ。別に? と、早くドアの内側へ入るよう視線で急かされる。
 違う路地か、人の陰に隠れていたのかも知れないが、その後も特に何か騒ぎが起こるようなことも何もなかった。単に誰かがその辺の店で買った安物のガラス製品でも落しただけのことかも知れなかった。
 けれど、何となくすっきりしないような、ひどく漠然とした不安のような嫌な感じだけが残った。音には人を不快にさせたり不安にさせる種類の音があるという、恐らくはその手のことで、何の予兆でも報せでもないのだ、そう思うことにする。神経質になり過ぎだ。
 実際、ひとのおごりだと思って遠慮なく注文して大口を開けて頬張っているのを目の前で見ると、一瞬でもそんなことを気にしたのが馬鹿みたいな気になった。食べないのかと訊かれて、この後多分食事出るから、とさっきついた嘘の延長線上の嘘を重ねた。財布の小銭がまた軽くなった。
 おごられた所為か満腹になった所為か、また暇な時にでも連絡してよ、などと上機嫌で彼女は言って通りの向こうへ消えて行った。
 その後ろ姿が十分に離れて見えなくなるのを待って――正確には俺が彼女に姿を見られることのないようになるのを待って、俺は駅へと足を早める。
 駅構内の地図を頭に入れながら、目指すコインロッカーへと向かう。いくつもあるロッカーの中で、目的のロッカーはポケットの中の鍵が示している。誰かに使われることのないようキープしておく為に、そのロッカーにはろくに何も入っていない状態で鍵が掛かっている筈だ。
 ――あった。番号を確認して慌てずに近づき、ごく自然にそのロッカーを身体で陰にする。鞄を前に回して紙袋を取り出すと、ロッカーへ収め、また元のように鍵を掛ける。そして、また慌てずにけれど素早くその場から離れる。これで半分。
 後は、この鍵を……俺は左手に鍵を握ったまま、出口へと通路を進む。出口のそばに、待ち合わせ風といった様子で時計を気にして立っている男がいるのを離れた距離から確認する。聞いていた服装と一致する、あの男だ。
 出口付近に突っ立っているのを邪魔にするように、その男のすれすれを横切り出口をくぐる。すれ違い様に、そっとコートのポケットに鍵を滑らせる。これで、終わり。
 何事もなかったような顔で駅を出て、そのまま足を止めずに歩く。それこそ、何所へでもない、ただ急ぎ過ぎずゆっくり過ぎず、そこから離れればよかった。
 彼から言われた仕事は三つ。預かった紙袋を持って、なるべく誰の記憶にも留まらないよう、ごく自然にあちこちをぶらつくこと。指定の時間になったらロッカーに紙袋を置いてくること。そして、ロッカーの鍵を指定の人物へと渡すこと。
 間に俺や(彼や)さっきの奴のような人間を何人も挟んでの受け渡しなのだから、紙袋の中身がろくなものではないだろうことは明らかだ。ずっしりとした重さはなかったから少なくとも拳銃だったりはしないだろうが、いつもより念の入った遣り取りからするに、俺なんかがうっかり中身に興味など持てば大変なことになるような代物なのも間違いない。
 決して預かったものの中身を見ないこと、それは今回に限らず絶対に守らなければならないことであり、彼が俺に一番最初に教えたことでもあった。

 俺が今日したことといえば、相当に大したことではない。けれど死ぬほど疲れた。
 軽くなった筈の鞄が、やけに肩に圧し掛かる。重い荷物をずっと持っていて、肩が凝ってしまった所為で荷物を降ろした後もだるい重さが残るのに似ていた。
「でも、プロだからできることだよな」
 人込みを抜けて行く中、疲れた頭にそんな声が聞こえた。何について話しているのか、ぼんやりと途中だけを耳にした会話からはわからなかったが、あまり聞かないような言葉に一瞬だけ興味が引かれた。建物の中へ消えていく二人組の姿を自然と最後まで目で見送ってしまい、俺は慌てて信号が変わってしまわないうちに横断歩道を渡った。
 きちんと仕事が終わったことを彼に報告しなければいけない。そう思いながらも足は止まらずに、歩き続けた惰性のように動いている。完全に離れきってから、を言い訳に足の勝手に任せた。
 急にやけに近くから甲高い小型犬の鳴き声が響いて、元来犬好きじゃない俺は傍目にみっともないほど驚いてしまった。よく見るとそれは、きちんとケージに入ってこっちを見据えているペットショップの商品で、やけに近い気がしたのは、置いてある高さが視線の辺りに合わされている所為だった。
 ペットショップの犬がこんな風に吠え立てるなんてそうない気がする。奥にいた店員が、慌てて犬を叱り付けに来ようとしながらも、何か変なことでもしたんじゃないかとガラス越しに疑うような目でこっちを見ているのがわかった。動物が直感的に悪人を見分けるなんてのは恐らくデタラメに過ぎないけれど、そんなに怪しく見えるとでもいうんだろうか。それともビクついている内心を見透かしたのかも知れない。
 全部終わってしまった後だっていうのに、本当に今更だ、引き受けなければよかったなんて思う。いつもよりは少し面倒なんだけど、そんな彼の言葉は、断ってもいいのだと告げていた。いつもより割のいい金額と、上の信頼が上がった証という言葉だけに乗せられた訳じゃない。ただ、やっぱり俺はその時それほど何も考えずに彼の言葉を聞いて、何も考えずに頷いていた。
 引き受けた後で少しばかり、彼と別れる段になって更にもう少し、終わった今になって、意味もない後悔に溜息が出た。

「ありがとうありがとうありがとう」
 どっかの年寄りが誰かに礼を言っている。何がそんなにありがたかったのだろう。三度も繰り返し礼を言うほどありがたかったことなんて、ここのところ出遭ったこともない。言われたこともなかったが、今日びお巡りさんだってそんなに礼を言われやしないだろう。
 たとえば全財産の入った財布を拾ってもらう……ダメだ、ありがたいけどそこまで礼を言わなさそうだ。命の恩人? ……いや、そもそもそうそうそんな目には遭いそうにない。
 というか、単に年寄りは何でも繰り返したがるものなのかも知れない。そう考えたら、何だか一気にありがたみが減ってしまった。世の中は世知辛い。いや、きっとこれも恥ずかしがり屋の日本人の美徳に違いない、そう思い込んでおくことにする。


 街の中には大分減ってしまった公衆電話を――駅にならいくらでもあった訳だけど――どうにか見つけて、もう掛け慣れた携帯電話の番号を押す。アドレス帳に登録するのは禁じられていて、俺の携帯電話自体も可能な限り連絡には使うなと言われている。理由は、まあわからないでもなかったから従っている。
「終わったよ」
 今度はいつもの通り受け取ってすぐ置いてくるだけの仕事にしてくれ、とか、結構何でもないフリで時間潰すの大変だったんだけど、とか軽く言ってみせようと思っていたのに「金はいつものとこに置いとくから」とだけ言って彼はさっさと電話を切ってしまった。
 折角引っ張り出したペットボトルで喉を潤し直す暇さえなかった。温くなって、もう温かかったのか冷たかったのかわからない曖昧な温度になっている。一気に半分くらい飲んで、残りはゴミ箱に投げ入れる。ペットボトルは見事に天地を逆にして他のゴミの間にはまった。きちんと閉まっていなかったキャップは、いつまで中身を支え切れるだろう。
 別に、よくやったとか労いの言葉なんていつだってなかったし欲しかった訳ではなかったのだけど、こうも何もないと、あっけなさ過ぎて気が抜ける。さっきのじいさんの半分でもいいから礼くらい言ってみせろっていうんだ……まるで愛想のない電話にそんな愚痴を心の中でだけ吐き出して、俺は俺のことを待っていてくれる筈の諭吉さんを迎えに行くことにした。
 鞄の中、丸まったコンビニの袋の隅の方でペットボトルと一緒に買ったのど飴が埋もれていた。一つ取り出して口へ含むと、ろくによく見もしないで買ったそれは、食べたこともない味がした。
「……買うんじゃなかった」
 吐き出すに出せず、その代わりにそんな言葉が口をついて出た。後悔先に立たず――そんな言葉が、甘苦いのど飴と一緒に俺の舌の上に大きく寝そべっていた……。