[特別普通]



 嫌な夢を見た。
 何であんな夢を見たんだろう。いや、理由はわかっている――今日から大変だっていうのに、記憶というのは本当に意地が悪い。
 ああ、もう、起きなくちゃ……。

*        *        *

 あのときああしていれば――していなければ、そんなことを考えることが少なくとも無駄なのは確かだけれど。それを無意味だとやめてしまうのは進化の妨げなんじゃないかと、そう思いもするのだ。

 あのとき、隣には自転車に乗った制服姿の学生がいた。
 だから俺は、点滅する信号を前に立ち止まった。

 ――歩行者用信号の点滅は、横断を始めてはならないことを意味する。

 俺の隣には制服の学生がいて、その制服は、今まさに俺が向かおうとしている場所で目にするであろうものによく似ていて、それを目にした俺は、点滅する信号の前で立ち止まったのだ。
 流石にこれから教壇に立とうという者が信号無視はまずいよな、そう思った。
 そう思った裏で、周りに学生がいるなら時間はまだ大丈夫だろうという浅はかな認識が、意識してはいなかったものの恐らく皆無ではなかったのに違いない。
 遅刻するほど慌てていたなら、きっと信号が点滅しているのを見たら、走って渡ってしまっていただろう。
 勿論俺のことなど知る由もない隣の学生は、俺も普段ならそうするであろうように、軽やかに信号を渡っていってしまったが。

 ともあれ、そのときの俺は初日の緊張感に「浮かれて」いて、普段は見せたこともない遵法精神に満足してしまっていた。

 結果、目の前で電車のドアは閉まり、次の電車は「朝だしすぐ来るだろう」と思ったほどすぐには現れず、俺が目的地に着いたのは予定を大幅に過ぎて、遅刻ぎりぎりの時刻だった。
 ちなみに、その時間がギリギリセーフなのは生徒の話であって、その時間にはすべての準備を終えて生徒の前に出れるようになっていなければならない立場であれば、ギリギリアウトなのは言うまでもない。
 その上、今日が実習初日であるところの教育実習生たる俺が、ギリギリどころか完全アウトな目で見られたのは、もっと言うまでもない。
 結局「いつまで学生気分だ」(いや、いまだに学生なのだが)と怒られる暇すらなく、詳しい説明は後だとホームルームに連れていかれた。

 余談かも知れないが、俺が教室に入るまで反省とともに考えていたのは「そうだよな自転車の方が電車より早かったよな」という学生時代の身に覚えのある記憶だったりしたのだが、教室に入った途端に思ったことは「あれ? 制服ちょっと違うくね?」だったりする。

 されるがままという感じの紹介で、あっという間にホームルームを終えて職員室へ連れて戻られると、ここでやっと本当なら先に頂戴する筈だったお小言と資料を受け取る。
 近くの席で同じ荷物を抱えて笑いをこらえてるのは、教育実習生仲間なのだろう。どうやら既に他の実習生同士は紹介が済んでいるらしい。
 入学式だというのに転校生気分を味わったなら、こんなかも知れない――まったく自業自得ながら、そんなとてつもない不安を覚えずにはいられない。

 こうして、俺の実習は失敗から始まった。

*        *        *

 漠然ともっと法律なり何なりで細かく要件が決まっていて、必要とされていることを「こなす」のだろうと思っていたので、アバウトさに驚く。
 大きな行事がなく構う余裕があるからという理由や、逆に体力要員として手伝いにかり出す為にと時期が決まることも、面倒が起こるのを嫌って科目授業にしかタッチさせないか、経験を積ませる為にと雑用も行事もどんどんやらせるかも、基本は受け入れ先の学校の裁量次第なのだそうだ。

 まあうちは良くも悪くも中じゃない? と俺の指導担当の教諭はざっくばらんにそれについて語った。すごく楽でもないし大変でもない、負担が大きくて途中で逃げるような子もいなければ、今苦労しとけば後で役に立つってほど色々経験できる訳でもない――非常にわかりやすく、そして、自分のようだ、と思う。


 今朝の夢を思い出した。
 今日から学校へ行く――それが原因で昔のことを思い出したのに違いない、そう思う。まだ、制服を着ていた頃の、苦い思い出。

 付き合ってた彼女に言われたことがある。曰く「鈴木くんて、何か名前通りって感じ」だそうだ。
 鈴木優――名前通り「普通」だ、と言いたかったらしい。

 これが「ユウト」だったら、男児の名前「読みの部」で連続トップが取れたくらいの、よくある名前なのだが、これが聞くところによると、俺が生まれるとき一時危ない状態になり、その際に祖母が「名前が決まってるなら、一字取って捨てれば厄を引き受けてくれる」だか何だか言って、めでたく「優人(ユウト)」から「優(ユウ)」になったのだ、という。
 が、一見して性別がわかりづらい以外は、今だって十分ありふれた名前だ。

 もっとはっきりと「優くんてちょっといいかと思ったけど、ぱっと見悪いとこも目につかないってだけだったんだね」と言われたこともある。

 良くも悪くもなく普通――それは本当に、良くも悪くもないんだろうか、と思う。口にするとき否定的なニュアンスが含まれているとしか思えない言葉だ。

 とはいえ、目の前の教諭に言わせれば、初日から遅刻してくる人間を「普通」とは言わないよ、と笑われてしまいそうだけれど。

*        *        *

 じゃあ折角だから鈴木くん、出席とってみようか。
 俺の担当教諭は初の授業見学の日に、唐突にそう言った。
 数日後の自分の科目授業のことで頭が一杯で、その前の見学でどうにか授業の進め方のノウハウを盗まなくては、と生徒以上の熱心さでノートを取る気満々でいた俺は、急に自分に話が振られたことに内心かなり慌てた。
 けれど、まあそうはいってもただの出席だ。授業で教壇に立ってあがらない為の予行演習代わりにはちょうどいいかも知れない、そう思うことしにした。

 まずは笑顔。教壇に上がったら全員から顔が見えるのだ。明るく快活そうに見せておいて損はない、そうマニュアルにもあったっけ。
「では、出席をとりま……」
 言って、出席簿に目を落とした途端「しまった」と思った。数瞬の沈黙の筈だが、生徒達はその不自然な間に敏感にざわつき始める。

 難しい字じゃない。そしてこの文字の組み合わせは見たことがある、読みも多分知ってる。けれど、それが人の名前として登場したことはどれだけ記憶をさらってもない。
 いや、でも名前なんていくらでも変わった名前があるものだし――。

「か……かっぱ――?」
 合羽。
 ――かっぱ、だよなあ。雨合羽とかの。
 しかし返事はなく、けれど間違いだったなら沸き上がりそうな笑いもざわめきも起こらない。
「先生」
「え、あ、はい」
 先生というのが自分に対する呼びかけだというのを理解するのに一瞬遅れた。声を発したのは教壇のまん前の席の少女だ。
「それがかっぱだとすると、先生は次の人の名前を何て読むつもりですか?」
「え?」
 言葉に詰まった。出席簿にもう一度目をやって、少女の言わんとする意味がやっと理解できた。
 ――出席簿というのは、五十音順に並んでいるのだ。
 すなわち、次の生徒は合羽の読みより後ろにこなければならない。

 秋田。
「しゅ、しゅうでん?」
 今度は少しだけ笑いが起きた。いや、違う、俺は今笑いを取りにいった訳ではない筈だ。
「それ、そのまま続けますか? 先生」
 少女の声はさっきよりも冷ややかだ。呆れているのだろう。

 秋田、あきたよりも前にくる読みでなればいけない。
「ちょっと待って。最初から――えっと」
 合。ごうじゃ駄目だから、あう、あい? あい……。
「あいう?」
 どっと笑いが起きた。笑わせてるのじゃなく笑われているのはわかるけど、もうどうしていいかわからなくて、仕方なく俺も笑っておく。

「アイバネです。スズキ先生」
 気のせいでなければ(気のせいじゃないだろうけれど)呼びかけに刺があった。よくある苗字でいいですね、間違われたことないでしょう、そんな色がアリアリと滲んでいた。この少女がアイバネという名の持ち主なのだ、と理解する。
「そっか。アイバネ……さん、ですね。ごめんね? 読めなくて。ええと、続けます。秋田――」
 情けないことに俺はすっかり少女に気圧され、明るく快活な笑顔どころではなく、残りの出席を終えた。
 今日がこのまま授業の実習だったなら、完全に失敗していたことだろう。
 そうだ、これはだから先に失敗しておいてよかったんだ、そう思おう。――思えもしない気休めを、俺は心で繰り返すしかなかった。

*        *        *

 その後も散々な状態だった。
「ヤバイ、完全に拒否られてる……」
 溜息が出た。
 教科実習、つまりは科目授業が始まって、授業で顔を合わせるようになっても、最初の出席のことが原因なのだろう、合羽の態度は硬かった。
 さほど人気者キャラではないが、特に他人から毛嫌いされる経験もあまりない。廊下ですれ違っても、俺にだけ挨拶がない――こっちからしても無視されると、少しばかりへこむ。

「先生、やっぱりこれって、あのときのあれが原因ですよね……」
「ん? ああ、合羽。別に問題起こす訳じゃないし、いいじゃない。下手な子だったら、鈴木くん今頃クラス中の女子から総スカンってことも有り得たんだから」
 女子高校生の結束力たるや、外敵と見なせば容赦はしない。クラス全員から実習中ずっとシカトを食らう嫌な想像をして、俺は振り払うように強く頭を振る。

「でも確かに失礼だったかも知れないけど、変わった名前なんだから、一度で読めなかったからって、そこまで怒らなくても」
 正確には二度はずしたけれど。でも、一度聞いた名前をもう一度間違ったりした訳ではない。
「嫌気がさしてたんじゃないの、いつも間違われるから。慣れっこだからって、気分を害さない訳でもないでしょ」
「それはそうでしょうけど」
「それに、急に振られて、事前に確認してなかったのは置いといたとしても。どうしてあの場で聞かなかったの?」
 わからなかったならその場で確認することだってできたでしょ。

 ――言われるまで気がつかなかった。
 そうだ、あのときすぐそばに教諭もいたのだし、確認することも可能だった。そして、何より本人に読み方を確認するのだって、当てずっぽうで間違えるより礼は失しなかったのではないだろうか。

「うわー、しまった。そうですよねー……」
 名前だけじゃない、わからないことにぶつかって、聞いて教えてもらえるのは今の内だけなのだ。恥だとか、強気だとかは、余計なのだ。

「鈴木くん、準備に余裕があるようなら、放課後に部活動覗いてみる?」
「え、いいんですか? 是非」
 授業以外の時間を見学できるのは、願ってもないチャンスだ。見れるものは見ておいて損はない。
「じゃあ、放課後、体育館で」


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