雪音ゆきおとの街]



 白く雪が積もれば、すべては深き闇の中。
 白き雪溶ければ、音色は時を呼び起こす。


 ――――空知って。
「変わった名前だよな」
「そうだね、同じ名前の奴とは会ったことないな」
 空。曇りのち曇り。白に近い灰色。吐く息も白、まるで言葉まで見えるように。

「こんな時期に転入なんて……。あ、でもテスト終わってからってラッキー?」
 十二月。じきに冬休みに入る。普通ならば新学期から、否、学年末までの数ヵ月を待たずして、の方か。どちらにせよ十分に興味を引くだろうに、そのことを訊ねる気配はない。何か事情があると思うが故かも知れない。

「まあ、引越しの時に雪がなくてよかったな。空知が前いたとこは雪降った?」
 間を置かずに口を開くのは気を遣ってのことか、それとも元々の性質か、この宮島という少年は、今日が初対面である空知が相手だというのによく喋った。
「あ、早川って呼んだ方がいい?」
 空知の作った間を別の意味に捉えたらしい宮島に、空知でいいよ、と応える。また一拍。

「雪は……昔一度たくさん積もったのを見たよ」
「この辺は今もまあ降るっていえば降るけど、昔はもっとすごかったんだって。校長がよく言ってた」
「そう……」
 白い空を見上げた。凍った色はいつ雪が降ってもおかしくないようにも見える。けれど、雲の見えないその空は変化に乏しく、時が止まったようでもある。

「空知って、どんな意味だろうな?」

*   *   *

 雪。どこまでも雪。白く深く、真実を埋めていく。すべてを呑み込んでいく。足跡も罪の跡も、すべて掻き消し隠すように降り積もる。

「どなたか、そこにどなたかいるのですか」
 後方より掛けられた誰何すいかの声に、咄嗟に袖で顔を隠し振り返る。声の主の姿はないが、近くにいるのは確かだった。まだ、雪の仕事は済んでいない。足元の雪くれを見、背に庇い息を殺す。

「旅のお方ですか?どなたかおられますか?」
 家の陰から姿を見せたのは、薄い着物に草履を着けただけの少年であった。物音に様子を伺いに顔を覗かせたのだろう。雪の夜と思って甘く見ていたかも知れない。

「もし、どなたかおられますか」
 その言葉に、彼は訝しんで顔の前の腕を下ろした。初めは灯かりを持たない所為かとも思ったが、この距離でならば暗いとはいえ彼の姿が少年の目に止まらぬ筈がない。

(……目が見えないのか?)
 ならば逃げ切れる――けれど、と背に庇ったものへ視線を遣る。逃げれば、この少年は人を呼びはしないだろうか。それでも逃げ切れる自信もないではないが、厄介ではある。
 この雪ならば、朝までには随分と積もるだろう。そうすれば、すべては……。
(――――どうする……)

「もし?」
 応えいらえの代わりに、ザッ、と彼はわざと足音を立てて少年に近付いた。急に気配を明らかにした相手に対し、少年が少しばかり身を強張らせたのがわかった。
「助かった……この雪に難儀していたところです。よろしければ一晩宿を貸していただきたい」
 彼が努めて安堵した様子で言うと、少年の身から緊張が解かれ、代わりに心配の表情が浮かぶ。
「どこか怪我をしておいでですか?よろしければ手当てを……」
「いえ……――何故?」
 彼は慎重に、その慎重さを気取られぬよう訊ねた。彼に怪我はない。少年が何故そう思ったのか。

「何故、とは?」
「失礼だが、目を患っておられる様子。何故、私が怪我をしているとお思いに?」
 ああ、と合点がいった様子で少年は頷く。
「雪に不慣れでいらっしゃるのでしょう?それに、先ほど随分とお声が戻ってくるのが遅かったものですから」
 五感の一を欠くと他が鋭くなるというが、どうやら何も気付かれてはいないようだ。少年の答えに、彼の身体から力が抜けた。
「あまりの寒さに、雪の聞かせた都合のよい幻かと思ったのです。一向に声が近付かないものですから――――失礼」
 少年は気にするなという風に笑う。

「この目は幼い頃に病で……何日も高熱が続き、次に目が覚めた時には、もう。けれど慣れてしまいましたから、日々の暮らしに何ら不自由はありません」
「今は、一人で暮らしておられるのか?」
「ええ。元々母と二人で暮らしておりましたが、その母も亡くなり、今は籠を編むなどで生計たつきを立てております」
 家に入ってからの少年の振る舞いは、言った通りまるですべて見えているかの如きものであった。隅に重ねてある籠の細工の見事さに、彼は、ほうと息をついた。

 炉に火を入れ湯を沸かし、そこまでしてから、はたと気付いたように少年は彼に暗くはないかを訊ねた。
「いや、炉の火で十分。それに後は眠るだけ、油を無駄にすることはないでしょう」
「常は灯かりは必要ないものですから」
 そもそも暗い外から来た上、夜目が利く彼にはさほど灯かりは必要ないが、実際狭い家は炉に火を入れただけでも足りている。いくら生活に慣れても、わからないものは当然にわからないのだ。火を映すだけの少年の瞳を見ながら思う。

「何か?」
 見えずとも見られていることは感じるのか、少年が顔を上げた。いや、と彼が言葉を濁すと、少年が小さく笑う。
「すみません。……あの、もしお疲れでなかったなら、少しの間、話相手になってはくれないでしょうか。もう何年も誰かとこうして炉の傍で夜を過ごすことはなかったものですから」
 もの淋しさか、人恋しさか。或いはたとえ狐狸こりあやかしの類いでも構わないと招き入れたのかも知れない。一夜の慰みは却って辛かろうとは思えど、彼はそれを断りはしなかった。

 語るべき言葉のない彼に、少年は自分のことを話して聞かせる。夜は更け、雪は止み、するりと滑り込んだ風に火が揺れた。それはまるで、終わりを告げる合図のように。
 少年は立ち上がり、風に開いた隙間から止んでしまった雪を惜しむかのように外を見つめ、それから静かに戸を元に戻した。そして、先ほどまでの話の続きのように呟いた。

「――――けれど、雪の色を思い出すことはできないのです」

*   *   *

 明くる朝、彼が少年に残したものは、名と光と、そしてあまりに長い生。憐れみか気まぐれか、それとも一宿の恩か、人に非ざる力を以って。

 白く澄み切った雪は、冷たくすべてを呑み込んでゆく。音も、時も、生命もすべて。
 瞳に映るは白。すべてを吸い込まれシンとした世界に、雪は音を立てて降る。雪の音色は音なき音色、それを映す瞳のみが聴く。すべてを呑み込み、春までのひととき、安らかな眠りをもたらす。

 少年は知っていた。けれど、その能を取り戻した瞳で確かめはしなかった――雪の下に眠る真実を。あの夜、雪が覆っても隠すことのできなかった血の香りを。
 あの時、彼は少年さえも雪に隠すことができたことも。
 恐らくは朝には雪がすべてを呑み込み、春、溶けた雫が音色を奏でるまで沈黙して眠るのだろう。

 けれど真実は知らない、彼の言う通りに住処を変え、あの土地を後にしたから。自らが罪を被らぬ為、老いることのない身を隠す為――すべては、人からその身を守る為。
 たとえば、そこに何が埋まっているのか、どうして彼がそうしたのか、そうしなかったのか、そして、春、雪が溶けてそれを見つけた者が何を思ったか――すべての真実を、少年は知ろうとはしなかった。
 それが戯れであれ情けであれ、そしてもたらす答えが孤独でしかなかったとしても……それを知ることに意味はなかったから。

 ――――今はあの、瞳が映した雪の音色しか、思い出すことはできない。

*   *   *

 ――――空知……
「空知ってば。どうしたんだよ?」
「ああ、ごめん。名前のこと考えてた――前に聞いたんだ、意味」
「へー、それで?どんな意味があるんだ?」
 興味を示した宮島に、また少し考える。言おうか迷って、それから小さく頭を振った。
「やっぱり、思い出せないや。悪いな」
「何だ、つまんないの。ああ、じゃあ、俺こっちだから」
 二又の道を分かれて、空知は溜息を吐いた。決して、もう道は交わらぬのだと。どれほど生き、どれほど寄り添おうとも。


 ――――天知る地知る我知る知る。
 四知という。誰にも知られぬ悪事などないと。
 けれど、空はすべてを知って、それでもなお物言わずただ静かに雪を降らせるのだろう。愛し児の罪を庇う母のように。

 瞳に映る雪は白く、けれど上を向けば眺める雪は灰色。目に入る冷たい雪は、熱を奪っては溶けゆく。
 交わりて、熱を求めるように。いたずらに人に触れては、身を焦がして……たとえ、その先にあるものが身を滅ぼしゆくものだとしても。

 雪の音色。
 降っては聞こえぬとなって。溶けては聞こえる音となって。
 音はその姿を変え、時に音色となり言葉となり……

 春になり雪が溶ければ、雪音の街の時間は動き出す。



*この話は「空知・音色・瞳」の三題企画です。