[escalation of blue shower]エスカレーション・オブ・ブルーシャワー

 ただ、静かに自己主張をする青いネオン。歓楽街より寂びれた、ひとつの恋の街。
 ――雨。

 オレの視点の3メートル先に赤いハイヒールが転がっている。灰色のアスファルトに溜まる透明な水、底にうつる虚ろな空、ハイヒールの上で踊る雨滴。5メートル先から女の脚が近づいてきて、こちらを向いて、前髪をかきあげる。
「ネェ、あなたってセントボーイ?」
しゃがみ込むオレに声をかけてきた。彼女は激しい雨のなかを歩いてきたのだろうか。傘もささずに。
(「違います」)
オレは水を失ったサカナのようにパクパクと訴える。

 軒下に入った彼女は、胸くらいの長さの髪をしぼるように束ねた。あふれ出る涙のように水が落ちる。その長い髪を手ぐしで整えながら右肩に流した。そこで、彼女から疲れたような溜息が漏れる。
「雇われてくれない?」
 オレの言葉は彼女の耳には届かなかったらしい。滝のような雨音にかき消された否定の言葉。彼女はまだ濡れた髪を触っている。呼吸を感じる。うなじが魅せる人は綺麗だ。魔性的なムードに取り込まれてしまう。
「……はい」
いつのまにか肯定の返事をしていた。いつもよりぐっと低い声で。自分なりの男らしさを演出する。それは女である自分への否定にもなっている。
 声はなぜか雨音に共鳴し、低い澄んだ音に換えられた。どしゃぶりをバックにした彼女の笑顔は恐ろしいまでに美しかった。


***
 セントボーイ(cf.セントガール)
 街角で身を売る「小間使い」のこと。恐慌中、時給がセント単位で支給されることからついた俗称。
 日本では銭貨少年という意味で使われ、現存している。
***


 あまり大きな家ではないが、デザイン建築様式のような一風変わったおしゃれさが目をひく。にもかかわらず、居間以外はひどい荒れ様であった。現在時刻は午前6時。パステルカラーのカーテンが奇妙な光を漉かしている。天気予報はくもり。
 溜息をつく。
 オレはなぜ承諾してしまったのだろう。彼女が探していたのは「ボーイ」なのに。
 昨夜、この家に着いたのは午前3時。もう今朝といったほうが適切かもしれない。彼女は家まで案内すると一人で床についてしまった。オレはどうしていいのかわからなかった。
 彼女はまだベージュ色のソファーベッドで眠っている。この家には立派なベッドルームがあるのに、ひどく人為的に荒らされていて人が寝れるスペースはない。カチリ、という音がした。7時だ。アンティーク調の壁掛け時計をみてそう判断した。だが、まるでフェイントのように別のとこから大音量が響く。なんて曲かはしらないがオーケストラのようだ。
 寝室だ。
 オレは玄関ホールから階上へ行き、音源を止めた。ここで一息。だが、ふと我に返る。とっさに止めてしまったが、録音とかではないか。確認のためもう一度電源を入れる。大丈夫。
「あんたのセンス?」
寝室の入口に彼女がいる……。
「いや……」
「じゃあ、あのコだわ」
パジャマ姿で、雨で傷んだ髪を乱しながらこちらを見ている。そして寄ってくる。
「切って。あたしタイマーとかって弱いの」
見た目に似たダルい口調。しかも、命令口調だ。
「あのコって?」
「前任者。セントガールよ。昨日ケンカして追い出したの」
じゃあ、このひどい有り様は昨日の……。理由を深追いはしなかったが、それで十分。オレは言われたとおりオーディオのウェイクアップタイマーを解除した。
「いいシュミね。好きだわ……その曲」
「えっ! 切っちゃいましたよ」
 それでいいのよ、と彼女が言った。飄々と。気まぐれを絵に描いたような女だ。
「仲良くやりましょ」
……ムリだ。


「男の子みたい……」
「よく言われます」
 唯一片づいている居間のダイニングテーブルで彼女は頬杖をついている。色っぽい顔立ちをしているが、白昼だと間違いを犯しそうなイメージでない。
「男の子がよかった……」
まるで親指を噛むように拗ねた口調になって、そう言う。小憎たらしい、オレは思う。だが口にはしない。
「男の子になって?」
「ムリ」
「ふりでいいの」
「嫌だ!」
女であることを否定されるのは初めてじゃない。たしかに黙っていれば男にしか見えないのは事実だ。だけど、こんなに……。屈辱。女でいることを否定されるなんて。悔しくてオレは彼女を睨んだ。
 グゥンン……奥の部屋で洗濯機が止まる。
 オレはタイミングの悪さにまた苛立ち、荒々しく立ち上がってキッチンへ移動した。
「ケチ……」
固く結んだ唇もシワの寄った眉間も、怒りを表していたのに。こんな反応が思いつくなんて……彼女はオニだ。
「掃除も洗濯も、家事全般カンペキにこなしちゃうオトコなんて素敵なのに……」
(「うるさい」)
洗濯機のフタを思いっきり叩いてやった。すべての発言を聞こえなかったことにした。オレの言葉も彼女の言葉も互いの無礼もチャラにすればいい、が。
 そう、うまくはいかない。
「ヒステリー」
彼女が言う。いちいち癇に障るひとだ……。


 レースのカーテンを通して鬱陶しい陽射しがはいる。天気予報は嘘つきだ。でも、お陰で荒れていた部屋はきれいになり、散らかっていた服も乾く。
「ねえ、買い物につきあって」
彼女がいきなり誘ってくる。特に断わる理由もないのでオッケーする。
 髪を梳いて、綺麗に化粧をして、高そうな服を着る。
「なにを買いに?」
「なんでも」
なんでも? とオレは首を傾げる。
「そうよ。鞄でも、洋服でも、宝石でも、お夕飯の買い物なんかもね。あなたならどんな袋でも絵になるわよ」
「ああ、荷物もちってこと」
ううん、違う。あなたの物を買うのよ。そのひどいカッコ、どうにかしてやろうって言ってるんじゃない。
「プリティウーマンみたいにね?」
信じられない……。有閑な趣味につき合えというのか。そして、そしてオレはそんな提案に無抵抗に頷くのか。

 そして、美女と野獣の差のまま家を出た。出てすぐ、彼女が腕を組んできた。びっくりした。妙にアマい。でも。不思議と嫌な気はしない。彼女が微笑む。……綺麗だ。
 オレは極力腕を振らないで歩く。彼女の手がそこにぴったりと収まる。

「……やっぱり」
 紳士服売り場。彼女はオレのスーツを見立てる。
「S…か。ワリと小さいのね」
 そりゃあね。
「じゃあ、これとこれ。試着してきて」
彼女はオレにグレーのスーツと濃紺のシャツを手渡す。言うとおりにそれらを持って試着室に向かうと、彼女がこれもと言って白シャツと辛子色のシャツを投げてきた。オレは全部掴んでよたよたとカーテンを目指した。
 やっとの思いで試着をすます。オレを見て彼女は黙って首をふる。
「ちがう」
「え、何が……」
なんとなく声が荒くなる。
「うーん」
オレの言葉には耳も傾けず、こぶしをアゴに当てて考えている。そのこぶしにはネクタイが握られている。……いいシュミだ。
「うーん」
眉間にシワを寄せて考え込んでいる。その一生懸命さにオレは笑みをこぼす。彼女はそれに気付かず考えつづけている。
(「かわいい……」)
「えっ?」
オレの思考を読んだようなタイミングで疑問符をこぼす。そしてネクタイを持っていないほうの手で、髪をかきあげる。この仕草が妙に好きだ。オレは首を振る。
「いいえ」
不思議とスーツの着心地がよくなる。ボーイズモデルのような少し幼さのある着こなしにも、なんとなく愛着がわいてきた。

「やっぱりその色がいいわ」
試着室のカーテンを弄びながら、彼女がにこりと笑う。何度となく着せ替えられた末、お買い上げは静かな青のシャツ。その胸に彼女が選んだネクタイが終止符を打つ。形にも色にも、それはよく合う。5色のシャツの中から一番ネクタイを愛してくれるチョイス。いいシュミだ。
「ありがとう」
レジスターのチンッという音にかき消された。


 オレはこの服のまま彼女と店を出た。靴屋と美容院に通され、施しを受けた。なにかの企画番組のようだと思った。変わっていく自分にドキドキした。彼女の笑顔が目を引いた。
 似合うわ、は魔法の言葉だ。
 一揃えのスーツ、シャツ、ネクタイ、革靴。とてもジュリアには敵わない小さな贅沢たちだけど、彼女は本気だった。


 スーパーのビニル袋を提げて、二人で家に帰った。おしゃれな家はオレの働きにより小奇麗な空間になっている。彼女はその玄関を歩く。オレも靴を大事に脱ぎ、歩く。時間差でフローリングの軋む音がしているのがおかしい。
「今日はハンバーグ」
「なら、外食でもよかったじゃない?」
「オレが作るから」
彼女は居間のソファーに寝そべってテレビを見ている。オレはエプロンをつけて、腕まくりをしようと袖に手をかける。糊のきいた買いたての青いシャツ、一瞬、このままで料理するのが躊躇われた。
(「恋人みたい」)
……あきれた。同性じゃありえない。

 ボタンを二つともはずし、派手に袖をまくって料理を始めた。だけど、さすがに気になってスーツ上着とネクタイは事前にはずした。
 向こうのテレビが効果音フルに騒いでいる。熱したフライパンに油をひくと……音がする。もうすぐできると、なぜか言えない。

 無言のまま差し出したトレイを彼女はひきよせ、ダイニングテーブルの向こう側で一口目を食べる。
「おいしい」
安心しきった表情で、次の一口も運ぶ。つけ合せのブロッコリーも食べやすく半分に切って食べている。
「食べないの?」
「うん……」
オレは返答とは裏腹に、ハンバーグにフォークを突き刺す。彼女と食事するとオレの料理が冷めそうだ。

「料理もできちゃうなんて、完璧ね」
彼女はそう言ってから、最後の一口を食べた。オレは一瞬耳を疑って、何か呟きかけたけど、あきらめて自分のトレイに戻った。頭に浮かんだ単語に苦笑がもれる。
「セントボーイだから……」
オレは言った。
「そっ」
彼女は頷いた。言ったと同時に誤って吹き出した肉のかけらを、オレは手近なふきんで拭き取った。
「あっ、ごめん」
「いや……」
 なぜか、仕方ない……と思った。彼女の言葉を否定しようにも、言い出したのは自分だし、ナリがYシャツとスーツパンツじゃとても女とは言えない。


 シャー、シャー、シャー。
 外は雨だ。

「嫌だ……。昼は晴れてたのに」
「天気予報くもりだったし、降水確率も50だったから」
何も言わずに立ち上がって、トレイを二枚とウォーターグラスを片付ける。銀色のシンクに流水音。くもりガラスの奥で悲鳴をあげるしずくが10億個余。

――ガチャ……ギィ…

 遠くで鍵が解かれて、ドアの開く音が聞こえた。この重さは玄関だ。彼女が外に出た?
 温水をとめ、オレはエプロンで手を拭きながら玄関を見に行った。ドアの脇の飾りガラスに彼女の影がうつっている。
(「なんで、外になんか……。雨が降っているのに」)
疑問。それと同時に、確証もない不安感。
 前任のセントガールが戻ってきたのではないか? なぜ。彼女と出会ったのが雨の晩だったから。つまり彼女が前任者と別れたのも雨の日。……何を迷う。前任者が解雇されたのは昨日だ。戻ってきてもおかしくない。
 オレは何を考えている?
 気付いた時は鍵のツマミを握っていた。一瞬、自問自答がなされたが、最後は思考のもとにツマミをひねった。
――ン、ガチャン
 オレはエプロンを投げ捨てて、居間に戻っていった。


――ガンガン! ガンガン!
 けたたましい音。
 オレは聾者のごとく無視をきめこみ、彼女のベージュのソファーに座り新聞を読んでいた。つけっぱなしのテレビはニュースを流している。目は世界情勢、耳は交通事故の情報にさらされているのに。頭は混乱しない。――当然だ。オレは皮膚から何から、すべての感覚孔によりドアを叩く音を感じている。
 ああ。
 後悔した。嫌われるかもしれない。
 彼女に疑惑を持ったのはオレの勝手な妄想だ。冷静に考えてみれば、彼女は悪くない。そう思った途端、胸がむかついてきた。抵抗して新聞を強く握る。その力でまぶたが熱くなる。手の力が感情に負けてこぶしが痙攣する。痛い。

 オレは立ち上がって居間を出た。玄関で扉の陰になるようにドアに向かい、鍵のツマミを見た。金色で真ん中がつまみやすくくびれている。
――ガンガン!
(「開けて!」)
オレは、ただ、その金色のツマミを見ていた。
(「怒ってるの!?」)
そりゃあ怒っているさ、と頭で呟く。男と間違えられて、男扱いされて。だけど……
(「ねえ、開けて!? 気付いて!」)
だけど……
(「お願いっ!!」)

――ガチャ
 ああ、よわい。とうとう鍵を開けてしまった。

 彼女はぐしょぬれになっている。髪から服から、初めて会ったあの姿でドアの前に立っている。この家にフードはなく、ドアを叩く間中、彼女は寒冷な雨を浴びつづけた。
「死ぬかと思った……」
長い髪をしぼる。その様にゾクッとする。
「ネェ……なんで鍵しめたの」
訴えつづけて疲れたらしく、息が途切れ途切れになっている。オレはその非難より優しい質問に、答えの片鱗すら見つけられなかった。ただただ謝るのみだ。
 彼女は濡れた靴を脱ぎ捨てて、すぐそこのシャワールームへだるそうに向かう。その途中でピタッと足を止める。オレはその動きにつられて、そっちを見てしまう。すると彼女はタタッとこっちに駆けてきて、背伸びをし、オレの耳元で、
「あけてくれてアリガト」
と囁いた。声はほとんど吐息だった。
 一瞬、頭が真っ白になった。

 シャワーの流水音を聞く。胸が痛い。どうすればいいのかわからない。


 ダイニングテーブルにうつぶせて、いつの間にか眠ってしまっていた。電気が消えている。呆けた状態でオレは上体を起こす。ん? 妙にドキドキする。
(「石鹸の匂い?」)
鼓動が強くなる。予想がつけばあとは簡単だ。オレは彼女の姿を見つけた。ベッドルームはちゃんと掃除したのに……彼女は不精にもこの部屋で寝ている。
 イスから立ち上がって、彼女に接近する。暗い中で、ベージュ色のソファーは色が浮き上がって見え、彼女の肌色も妙に白く見える。
 綺麗だ。ダメなほど綺麗だ。
 オレは頭を抱えてしゃがみこむ。これはどうしょうもない気持ちなのだと。認めなければならない。たった一日で、オレは彼女が……。

(「触っていい?」)
彼女の髪に触れる。ドライヤーを渋ったのか、まだ十分乾いていない。その髪にキスをする。
(「ごめんなさい……やっぱオレにはムリです。他の人を……」)
その濡れた髪がなぜか名残惜しくて、涙が出た。
 髪の一束を握りしめた。離れたくない。だけど、濡れたそれはサラリと指から流れて消えていった。

 買ってもらった服もすべて脱ぎ捨てて、もとの「ひどいカッコ」に着替える。ネクタイだけはもらっていいだろうかと、手をかざして、一度ひき、素早くポケットにねじ込む。日給がわりに。そして思い出に。
 微笑む。
 さようなら。


 そっと玄関から外に出て、暗い社会にまた一歩踏み出す。外気は雨上がりで嫌味なほど清々しく、吐いた息も苦しいほど白く淡い。
 これ以上彼女を想うと、自分が壊れていく気がしてならない。
(「でもオレは貴女が好きです。今は貴女しか愛せません」)
 日の出まであと3時間。今朝の天気予報はくもり。ここではないどこか遠くで、今日もあの雨雲は泣いている。


麒麟さんから二周年のお祝いの品として戴きました。
 綺麗で、繊細な話を書かれるなあと思いました。
 雨に滲むような、夢にとけるような、そんな繊細さ。

素敵な作品、本当にありがとうございました。――2002.4

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