僕の父は、絵描きでした。絵描きでしたと過去形で言うのはもう死んでしまっていないからです。

 

絵描きなんて、名前が売れればいいけど売れない時期は悲惨なものです。

 

父が、22歳のころに、僕は生まれました。

もちろんそのころの記憶はないけど、

物心ついたときの記憶は、今でも時々、甘酸っぱいような感触とともによみがえる時があります。

 

絵なんてまったく売れない当時、父とは母は僕を育てるために夜の大阪の新地(大阪では一番の飲み屋街です。・・・最近は寄せる不況のために少し寂しくなってるようですが。)

で、似顔絵描きをしていました。

 

みなさんは、流しの歌うたい、や、流しのギター引きなどが、昔、飲み屋街を回って一曲歌っては、または、演奏してはいくらかのお金を稼いでいた、

そういう時代があったことをご存知ですか?

 

父や母もそういう具合にして、飲み屋街の店を一軒一軒回っては、酔客を相手に似顔絵を描き、(一枚描いて、当時100円ぐらいだったと思うんですが)

お金を稼いで僕を育ててくれました。

 

うっすらとした記憶では、僕は当時、夜のくるのが、物悲しいような、つらいような気持ちで、毎日過ごしていたと思います。

晩御飯を食べ終え、しばらくして、

夜の7時か8時ごろになると、両親そろって、似顔絵描きに出かけてしまい、当時テレビもない(ラジオはあったと思いますが)家で一人で留守番をしなければなりませんでした。

 

 

家は、大阪の枚方のほうにある私市(きさいち)というところにありました。いまでは、便利になったようですが

当時は水道もなく、井戸水でしたし、確か、ハイキングセンターの道上にあり、日曜日などは、ハイキングの人たちで家の前をたくさんの人たちが通りましたが、

平日などは、めったに人が通ることはなく、ましてや夜などは街頭もなく真っ暗な闇が周りを覆い道を歩くにも懐中電灯がいるようなところでした。

 

心細いような気持ちで、布団の中に入るのですが、寂しくてなかなか眠りにつくことができません。

うとうとと眠っては目を覚ます。また眠っては目を覚ます。といった具合でなかなか眠りにつくことができませんでした。.

 

そうこうしているうちに、ガラガラと表のトビラがあく音が聞こえます。

僕は、内心ホッとし、しかし、ねむったふりをしていました。

 

父とは母、とても疲れた様子で、僕を起こしてはマズイと思っているんでしょう。

声を小さくしてしばらく会話をした後、眠りにつきます。

 

僕も、安心して、眠りについて、それからは朝まで寝ざめることもなくグッスリと眠れるのでした。

 

今でも何かのひょうしに当時の思い出がよみがえる時があります。

僕は、どうして、父と母が帰ってきたときに眠った振りをしていたんでしょう。

 

幼心にも親を安心させたいと言う思いがあったんでしょうか?

 

当時の僕の気持ちは今となってはわかりませんが、

あれからウン十年、当時の父や母よりずっと年上になりました今、父と母の苦労は分かる気がします。

 

やっぱり、親にはいくつになっても頭が上がらない!!

 

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