BLIND EYES
メンバーを探しながら半年は休もう、そう思っていましたが、意外と早く一人目は見つかりました。MIWAさんはBAKIちゃんに紹介されました。大して上手くは無いが泣きのチョーキングに惚れました。その後は暫くテープを頂いたりしてメンツ探しをしていましたがなかなかこれは、と云う人に会えませんでした。その間、ヘルプでGROGG CLOCKのvo.演ったりしてました。そんなこんなで時間が過ぎていき、そろそろ本腰入れて探そうと色んな人に誰か居ない?と聞いて回ってました。姫さん(ガールティック)が
「VIRUSのNOBORUが良い。」
と言いましたが、以前VIRUSを観た事のある僕は
「あいつb弾かないじゃん。」
と言うと
「そうなんだけど実は上手い。」
と言うので試しにテープを聴いたら確かに上手かったので参加して貰う事にしました。ついでにdr.も居ないか聞くと、以前ガールティックに居た人で現在スタジオミュージシャンになってる人がいる、との事。テープを聴いたらめちゃめちゃ上手いので、じゃあこの人を誘おうか、となりましたが、何かもう一つ欲しい、そんな気もしてました。因みに今回のメンツ集めで、どういう音にしよう、とかそういう物は一切ありませんでした。と云うか何々(ジャンル)演ろうぜ!!っと言ってメンツを集めた事は一度も無いです。ただ、前メンバーに「お前のワンマンバンド」と言われたのがずっと残っていてバンドらしいバンドを演りたい、とだけ思ってました。そんな或る日、チェルシーが遊びに来て二人で酒を飲んでその話をしたところ、
「じゃあPILLさんは?あの人今何もしてないし、違うジャンルの奴と演りたがってるし。」
と言うので
「俺もPILLさんとは演ってみたい。」
と言うとじゃあ連絡しとく、と言われました。チェルシーが帰ってすぐにPILLさんから連絡があり、ようやくメンバーが揃いました。姫さんに紹介して貰ったdr.は断りましたが、後日ZOAを観に行ったらdr.叩いてました(笑)。

当初からg.はもう一人欲しいと(僕は)思ってたんですが、良いg.に巡り合わないので暫くは様子観してましたが途中でヘルプの人を入れました。

新作はインディーズ(U.K PROJECT)から出す事になりました。ですがrec.の直前MIWAさんが脱退。ヒロシにヘルプで参加して貰い、数回ライヴをこなしました(この時点でまた4人編成に)。ですがヒロシは速い曲が苦手なので、自虐(藤井)君に速いのは演って貰う事にしました。スタジオは新宿のON AIRと云う所です。今回のrec.は殆どライヴ感覚で、ベーシックトラックは殆どワンテイク、録り直してもツーテイクまで(g.込み)。被せも無駄の無い録り方で作業はかなり早かったです。そんな中、僕だけはマイペースで演ってました(笑)。

"EYES"は僕とNOBORUの二人で録りました。ベースを付けてくれ、わたしたテープは殆どがピッキングハーモニクスだったので、非常に困ったそうです(笑)。初めは二人でクリックに合わせて録ろうとしたんですが上手くいかず(僕の所為で)、結局僕のリズムに合わせて貰いました。

"Vison by Dr.ZEAG"では歌詞に合わせvo.の録る場所を変えました。一つは普通に、一つは物置みたいな場所で、もう一つは唄った声をわざとスタジオ内のスピーカーで鳴らしその音を拾いました。

"The file of liferaft"の最後、インプロ部分をどうするか意見が別れました。僕は唄が終わってすぐ(長くても頑張って2分位)でフェイドアウトすべきだ、他の3人は残したい、結局多数決で残す事になりました。

"Early Morning"は元々PILLさんが言い出した
「人間の一生を1日の時間に置き換える」
と云うコンセプトにインスパイアされて作った曲です。タイトル通り真夜中(産まれる前)から早朝(誕生)までを描いた物でそのイメージを掴む為に何度も夜が明ける頃散歩に出かけました。そのコンセプトがある為僕は勿論今回は見送るんだと思ってたんですが、今ある曲は全て録音したい、と云う意見を押し通され結局収録される事になりました。この曲の唄録りが最後でしたが納得出来るイメージを掴むまで結局丸一日全てそれに費やしましたが上手くいかず、結局次に一発OKで終了しました。今となっては収録しといて良かったな、とは思いますが、あの時は本気で激怒してました。

"Five toes sloth"はrec.直前にPILLさんが持ってきた曲で、アレンジもしてないのに録るべきでは無い、と言いましたが、ある曲は全て録りたい、と云う事で録音してました。僕は唄を付けませんでした。

あるTDの日、dr.の音の事でOPともめていたPILLさんを見て音に対する考え方の違いを思い知りました。初めから解っていた事ですが、演って行く内に何か道が見えてくると信じてました。この当時ライヴの本数も多く(多い時は週一、ダブルヘッダーもあった)元々ライヴは2ヶ月に1度がベストと考えてる僕は肉体的にも精神的にも疲れていました。シャウトするだけじゃ無く唄も唄いたくなって来てました。rec.以前にOne fine dayを持って行った時殆どアイデアが出ず、このメンツではこう云う曲は出来無いのかと、失望した事もありました。そしてツアーの真っ最中、二人の間に立たされて疲れ切ったヒロシとNOBORUの顔を見て、僕は辞める事を決意しました。

とは云うものの、出来上がった物や当時の活動については満足してます。あの音は二度と作れないだろうし、その出来上がった物は完全なるオリジナルだったと自負しています。悔しいのは他に比べて余り聴かれてなさそう、って事(笑)。

その後僕はすぐソロ活動に入ります。この後の話は又気が向いたら書きますが、取り合えずは此処まで。

2000年02月04日 06時21分01秒

THE PIECE OF THE FOOLS
ここからまた波乱の一年...

前作の発売後、まず浅野君が脱退。その後を追う様に岸沢さんまでもが脱退。何人かのオーディションを経てまずdr.にex.EXECUTE,後にHIGH RISEや痛朗等に参加する氏家EURO氏が、そしてg.にヤマジ(dip)が参加する事でどうにか活動をとめずに済みました。ヤマジはdip the flagの他にも何個か掛け持ちで演ってました。ゲストでは無いが正式メンバーでも無い、微妙な関係だったと思います。(僕は正式メンバーと思ってます。)数回ライヴをこなし、ビデオ(原始)の撮影に入りました。映像には新メンバーが写ってますが演奏はアルバムの音源そのままです。メンバーのでているシーンは千葉の方の海岸で撮影しました。"Collectors"を選曲したのはこちらの画のイメージが伝え易いと判断したからで、撮影前にこちらのイメージを映像ディレクターに伝えましたが解って貰えず、初めに見せられたver.は物凄く陳腐な只のPVになっていた為、これならいっそ女の子の画を中心にメンバーは殆ど出さない方が...と云いあのVが完成しました。因みに僕が伝えたイメージは...

・少女が病院の中にいる。その少女は自分の世界に閉じ篭り、現実を見て居ない。大人(親、医師、看護婦)は必死に呼びかけるが少女にはその声は届かない。

・部屋の中には旧式の冷蔵庫。他に何も無い。それを開けると砂漠が広がる。紫色の空。

・基本的にメンバーは出さない。敢えて出すなら夢の中の住人として。

こんな感じでした。何故ああなるのか(笑)...

その後すぐに氏家さん脱退。後任には岸沢さんが復帰する訳ですが、実はその前に一人、別のdr.が居ました。丁度ライヴも無い時期で、あまり知られてないと思います。その時点では次作の制作も決まり(前作と同じ単発契約)"Fugitive""Mask of the blue eyes"辺りの元曲は出来ていて、心機一転さあ演るぞ!と思ったのも束の間、そのdr.がノイローゼになってしまい、dr.が叩けなくなって脱退(後に復帰された様です)。困り果てた僕らは岸沢さんに頭を下げ、どうにか曲作りを再会する事が出来ました。そしてそれから約4ヶ月後、数回ライヴをこなしてからrec.が開始されました。

場所は山中湖にあるビクタースタジオで僕らがそこで音を録る最初のバンドだったそうです。今回初の合宿rec.(2週間)でしたが、真冬だった為スタジオに着いた途端大雪に見舞われ、僕らは下界から隔離されてしまいました。有賀君は毎日帰りたい、を連呼してました(笑)。隣には合宿リハーサルスタジオがあり、食事はその人達と一緒になるのですが、(メシは旨くて豪華だった。スタジオの人達もとても親切でよくツマミ等の差し入れをしてくれた(笑))ある日ヒロシとヤマジが声を掛け遊んでくれ、と言ってました。適当にあしらわれてたみたいですが後日彼らはカブキロックスで声をかけたのは氏神一番だと判明(笑)いや〜全然気付かなかった。

"THE PIECE OF THE FOOLS"という曲は当初タイトルを付けずボーナストラック扱いにするつもりでした。ですがヤマジが
「これだけ苦労して録ってタイトル無し!?。」
と云い(彼には珍しくかなりてこずっていた)、タイトル曲にしろ、と五月蝿いのでそうしました(笑)この曲のイントロのリフはヤマジに付けて貰いました。

"When the river knows Part I"では逆回転の音が入ってますが、この時の機材はデジタル24ch.で、普通は逆回転は出来ない筈なのですが、友野さん(OP)と岡さん(sub)(二人ともとても協力的で凄く頑張ってくれました。感謝!)の頑張りで実現しちゃってます。未だに不思議なんですが(笑)...

"Down by the lake"のイントロのperc.は岸沢さんのアイデアです。

イントロの部分の演奏は何かでトラブッていた時、皆が勝手に遊び出したのをこっそりテープを回して録ったものです。確か30分位あったものの美味しい所だけを使いました。

その上に被っている声ですが、マネキンの頭の形をした特殊なマイクで録ってます。耳の部分にマイクが仕込まれてて、ヘッドホンで聴くと例えば後ろから語り掛けると後ろから、と云った具合に音の距離感が現実の物にかなり近くなってます。本当は全編にそれを使いたかったのですが、到着がほぼ録り終わっていた頃だった為、イントロ部でのみ使用しました。試しに一度聴いてみてください。

結局2週間の予定が10日で全行程を終了させ、僕らは無事東京に戻る事が出来ました。あの時の嬉しそうな有賀君が忘れられません(笑)

このアルバムのストーリーは全て録り終わってから書き出しました。CD内に入れるつもりでしたが作業が遅れ、ビクターにもう待てないと言われたので仕方無くライヴでの配布と云う形を取りました。欲しい人はまだ若干手元にありますので、メール下さい。

ジャケットを決める際、僕はお爺さんが水車小屋の前で笑っている写真にして欲しい(話は水車小屋に住むお爺さんが息子に昔話をする所から始まる)、と言いましたが、デザイナーが
「前作のジャケットを見せて貰ったが音と合って無い。やはり音を連想させる物じゃなきゃ。」
と言い、何を言っても聞かないので(前作はインパクトのみで選んだ)取り敢えず任せました。結構良い物が出来た、と云うので期待しました。が、出てきた物を見て何も言う気が起こらなくなりました(笑)。そしてビクターの連れてきたデザイナー等とは二度と仕事出来無い、と思いました。因みに表ジャケの傘を持った人は岸沢さんです(笑)。

rec.3日目。何時もの様に夜合宿所で飲んでいたのですが、とある理由をきっかけに大喧嘩となり、この時に僕以外のメンバー全員の脱退が決まりました。そして岸沢さんとヤマジは自分の作業を終え東京へ帰って行きました。あんなに帰りたいを連呼していた有賀君は結局最後まで残りました。すでにレコ発ツアーは決まっていたので、その後の東京、ロフトでのライヴまでは続ける事になりました。その間約半年。ツアーやライヴを演留事自体は楽しかったし、演奏の手を抜いた記憶も無いですが、正直かなり辛かったです。先に進めない辛さ、終わっている物を続けなければいけない辛さ...最後のライヴが終わった時、僕は直ぐには動かず、少しの休養が必要だと感じていました。そしてゆっくりとメンバーを探し始めたのです。

2000年02月02日 07時16分26秒

ASYLUM
Nothin'〜rec.終了後、それまで月1程のペースで行ってきた都内でのライヴを、曲作りに力を入れる為2〜3ヶ月に一度程に減らしました(もう少し前だったかも)。ビクターの話はトランス経由で聞きました。春から夏に掛けて位の頃だったと思います。契約内容はアルバム1枚の単発で、でした。このアルバムからヒロシが正式にメンバーとして参加してますが、彼が加入したのはrec.の数ヶ月前(秋頃か?)だったので、ベーシックな曲作りは殆ど4人でしています。とは云えヒロシの存在はかなりデカイですが。この年の夏、ZOAさんと一緒にツアーに行ってますが、その時の曲目の中に"Still...""Collectors"の元曲や"The Thousand Tragedies"なんかが入ってました。当時からライヴで実験をしてみるやり方を良く演ってますが(それは今現在も演る事がある)、一度ライヴで演ってみないと感覚が掴めない事がある為です。

本rec.に入る前にトランスの16ch.マルチでデモテープを制作しました。何時ものリハーサルスタシオで機材を持ち込んで録音しましたが途中で時間が無くなった為vo.はトランスのトイレで録った記憶かあります(笑)。

本rec.は永福町にある「スターシップ」と云うスタジオで録りました。此処は以前ビデオ(RED NIGHT AFFAIR)のTDで使わせて頂いた事があります。このスタジオにはアナログ24ch.が置いてありましたが、敢えて全てのch.を使い切らずに16ch.まで使う、と云う変則的なrec.方法をビクターから勧められました。ch.に余裕があると音が良くなるのだそうです。こちらの意向で色んな音を入れたいと云うのがあり、シタールやフルオーケストラ等と好き勝手言ってましたが(笑)、予算の関係もあり結局ヴァイオリンとヴィオラ奏者を呼んで頂きました。二人ともプロの方です。余りの上手さにバンドの音がちゃちく聴こえる、等と笑ってました。二人のg.の音が完全に左右に振られてますが、これは二人のエゴです(笑)

"Still..."のエンディング、一旦フェードアウトして戻って来る部分、すぐ終わってしまいますが実際は10分以上演奏してます。一番美味しそうな部分だけをカットしてる訳ですが、何処を使うかちょっともめてました。皆自分のプレイの美味しい所を使って欲しいので(笑)。結局全体の雰囲気が一番良い所を使いました。

"Stained Grass"は5つのパートに分けて録音して、TDの時にそれをつなげ1曲にしてます。全体像が見えてるのが僕だけだったらしく、TDでつながるまで皆不安だったそうです(笑)

rec.途中にヒロシが面白いものがある、と云ってとあるCDをスタジオに持ってきました。それは3Dサウンドの楽しめる物で、ヘッドホンで聴くと例えば水を掛けられたり、頭からビニール袋を被せられたり、と云った感じの物でした。これは良い、とこう云う事が出来無いかオペレーターの方に聞くと、此処にはそれを出来るだけの設備が無いとの事。エフェクターで疑似的な物は出来るかも、と云われ"Stained Grass"のAメロバックのハイハットの音を廻してます。大した効果は出て無い様ですが(笑)この時から3Dサウンドへの憧れが強くなり、次作"THE PIECE OF THE FOOLS"でほんの少しだけ使用してますが、その話は次回に。

"Leave me alone"の中間部では、一旦マスターテープに落とし、適当な長さにテープを切ってからわざと床にばらまき、それを適当につなぎ合わせました。それだけだと余りにグチャグチャ過ぎるので、g.のアルペジオだけを正回転で残しました。その後はクロスフェードで演奏が戻って来ますが、此処はクロスじゃ無くぶったぎってつないだ方が迫力出たかも知れませんね(笑)。

そんなこんなでrec.も終了し無事発売となりました。ジャケットのメンバーフォトに一人足りないのはその人が撮影の時来なかったからです(笑)。このアルバムが一番好きだ、と云う声も良く耳にします。確かに楽曲の充実度は一番かも知れませんね(自我自賛(笑))。

この後、浅野君と岸沢さんの脱退等、バンド内はグチャグチャになって行く訳ですが...しかし、書けない話が多いな〜(笑)

2000年02月01日 05時43分47秒

NOTHIN' TO BE A FRIEND
曲が出来無い...
"CRYSTAL DAYS"発売後、"NOTHIN'〜"制作までの一年間、正に産みの苦しみを味わいました。正確には曲が完成まで漕ぎ着けない状態が続いたと言った方が良いかも知れません。様々な事に対するプレッシャーもあったのでしょう、とにかく何かが足りない、何かが気に入らない。もしかしたら、4人で演って行く事の限界を、口には出さなくとも皆感じていたのかも知れません。(少なくとも僕は)そんな状態が続けば、当然の様に内情も悪化して行きます。それはrec.直前にピークを迎え、事実rec.終了後岸沢さんは一度脱退してます。(辞めると言い出したのがrec.直前。後に復帰。以降、数回脱退→再加入を繰り返す事になる)

作っては捨てる、こんな状態の中、"Nothin〜'と言う曲は産まれました。何度かライヴでインストと云う形で演奏をし、次第に手応えのような物を感じていました。この曲は僕に一つの転機を与えてくれた様です。この曲以降、作る曲の空気が変わった気がします。でも何故か、浅野君が弾かないとこの曲だけは雰囲気が出ないのは何故なんでしょう!?(笑)

或る日リハに有賀君が突然来れなくなった日、しょうがないので曲でも作ろう、と浅野君のg.を借り、岸沢さんの希望を聞きながらリフを作っていきました。その時のリフを元に出来たのが"White Dreamer"です。

「そろそろ音源出さない?」
そう言われ、12インチEPを出そうと云う事になりました。数日後有賀君が、
「俺にB面をくれないか?」
そう言って来ました。以前から次のシングルのB面をくれ、と言ってたし、今まで他の2人の曲は発表済み(NG,Tight Rope)だったので快くOKしました(実質NGは有賀君の曲だと僕は思ってます)。普段通り曲を作り、普通に録るのだと思ってましたが、彼の目論見は違ってました。
「バンド名を変えたい」
「曲は一人で作る」
「アレンジも(基本的に)一人で演る」
唄メロや詩はどうするんだ?と聞くと、
「自分でやりたい」
と言ってましたが、ちょっと待て、唄メロはともかく詩は唄う者が書いた方が良い(僕の持論)、メロディも一度俺に作らせてくれないか?有賀君が気に入らない時は、有賀君の作ったメロディを唄うから、と説得し承諾を得ました。
「曲名はね、"Tybe Vatamia Platami"だから。」
何それ?何語?と聞くと
「中学の時、転校してきたインド人の名前。一ヶ月で又転校しちゃったんだけど、インパクトあるでしょ?」
そんな会った事も無い人の名前で詩を書け、と言われたのは初めてだったので戸惑いましたが、自分なりのイメージで書いて良いと言われたので何とか頑張りました(笑)。メロディもかなり難航しました。或る日、スタジオに向かうバスの中で、ふいに浮かんで来たのを今でもはっきりと覚えてます。あの時は本当に嬉しかった(笑)

「key.モックさん(以前岸沢さんとバンドを演ってた人。後にDIFFERANCEに参加)に頼んだけど他のも演って貰う?」
相談した結果、"Nothin'〜"はいらないだろうと云う事になり、"White〜"にだけ参加して貰う事にしました。アレンジは任せました。

「そう云えばユニット名ってどうした?」
「決めたよ。チョリチョリチョリ。良いでしょ?」
「....(腰砕けてる)何でそれにしたの?」
「だってさ、この曲、チョリチョリって音してるじゃん。本当はYBO2みたく、二乗にしようと思ったんだけど、それじゃパクリだから三乗してTHE CHORI3。」
この人の感性は本当に凄いと思う(笑)

こちらの希望もありSTUDIO DIGで録る事に。しかも今回は24ch.にパワーアップ。北村氏が
「今回はメロトロンは良いのか?」
と言ってきましたが、丁重にお断りしました。
録りの時、特に難航した記憶は無いです。ですが何故か完成まで約一ヶ月もの時間が掛かりました。後にも先にもこんなに時間を掛けて録音した物はありません。スタジオ代だけで100万オーバーしたとかしないとか、トランスを潰した三悪レコードの一つ(キャニス1st,YBO2 PALE FACE〜)だとか云われました(笑)。rec.中は本当に楽しかったです(元々rec.好き)。インタールード的な小曲のg.は僕が、被せのg.は前回同様有賀君が大半を弾きました。

ジャケットは今まで北村氏でしたが、今回は吉田さん(RUINS)がやるとの事。表(ASYLUM)は僕と吉田さんで決めましたが、裏(THE CHORI3)は有賀君に聞かないと...と云う事で、何冊かの資料を借りて行きました。始めは
「浅野君に書いて貰った絵があるから。それにする。」
と言っていたんですが、(クレヨンで掛かれた絵だった)ある資料の表紙に目が止まり、これにする、と言い出しました。4匹の猿の顔が写ってる写真で、
「丁度4匹だからこいつらが演ってると言う事にしよう」
となり、それぞれ猿っぽい名前をつけました(岸沢さんだけはあまり乗り気じゃ無く本名にした)。ですがそれに気を取られ過ぎたのか、ASYLUM側のメンバークレジットを忘れ、ぴあに
「vo.のCHINPANの叫びは云々...」等と書かれてしまいました。

色々ありましたが出来には満足しています。実質2ndアルバムと捉えてくれてる方も多いらしく非常に嬉しく思ってます。そしてこのrec.でスタジオワークの楽しさを覚えた僕達は...

1999年12月22日 10時04分43秒

CRYSTAL DAYS
ソノシート、シングルと来たから次はアルバムでしょう、と話を頂きました。こちらとしてもその話に飛び付いたんですが、ちょっと待て、アルバム作るにはちょっと曲足り無くないか?と云う訳で少し待って貰う事にしました。シングルとかの曲を入れれば、とも言われましたが、以前録音した物をアレンシも変えずにそのまま録リ直すのは嫌だったし、なるべく曲のダブリは避けたい、メンバーの統一した意見でした。(ちょっと損した気になりませんか?)でもNGは入れても良いんじゃ無いか?元々オムニバスだし、と云う意見もあったので、弾けもしないピアノを一生懸命練習しました(笑)。結果は皆さんがご存じの通りです...皆からはオルガンみたいだと言われました(笑)

何とか曲数も増えて来たので、まだ完成していない曲もありましたが、取り敢えず録り始める事にしました。場所は池袋のSTUDIO MIBと云う所で、DIGより部屋か大きく天井が高い代わりにブース(小部屋)がありませんでした。一週間で全ての行程を終わらせるつもりで、と云われました。案の定、事は順調には運びませんでした。ベーシックトラックは録りに入りさえすれば早かったですが、"Ain't No Crime"などは録音日前日(BT録り最終日)にイントロを差し替えてどうにか完成と云う有様。被せ物のアレンジ及びg.は有賀君が大体演りました。

或る日、朝起きて行く準備をしていると、財布の中身が数十円しか無い事に気付いた僕は仕方無いので歩いて行く事にしました。(その日は新代田の友人宅に泊まってた。家主は既に居なかった。そして、当時は良く歩いた)スタジオに電話すると、既に有賀君が来ていたので遅れる事を伝え、
「何か録っておいて。」
と言い、池袋へと向かいました。2時間位で、スタジオに到着。一息ついてから進み具合を聞くと、
「演る事無くなっちゃってさ〜、"Communicate War"録っといたから。被せも大体終わってるから。」
と言われました。古い曲で、以前のバンドで少し演った事があるだけで、ASYLUMになってからは演奏した事など無かったので、勿論録音の予定には入って無かったのに...(笑)ま、折角だし、と遊びのつもりで唄を入れたら何時の間にかマスターの中に入っちゃってました(笑)。

"Crystal Days"(曲ね)は初め、メロトロン以外、全てを一人で録るつもりでしたがヒロシが、
「良い曲だけどg.が...特にソロは演りたい事に腕が追い付いて無い。」
と言うので、被せを頼む事にしました。ヒロシの事は実は以前から口説いていて、"Out in〜"リリース前後に一度だけ5人編成でライヴを演ったりしてるんですが、(実験でした。)その話は又今度。

録音もようやく終盤に差し掛かった頃、
「今度の豊島公会堂(THE GOLDEN DEATH VALLEY vol.1)で配るソノシート用の曲を録っておいてくれ。」
と言われましたが、もう曲がありません。その旨伝えると、
「何でも良いよ。」
と言われたので、以前カバーした事のある"Come Together"を録る事にしました。じゃあ、今録っちゃおう、とその場に居たヒロシにも参加して貰い、数回のリハの後スタジオライヴの乗りで一発録りしました。(唄も一緒かどうかは忘れた。)その後、他の遊びに来てた人を総動員して、コーラスを演って貰い、そのままTDをしてトランスが持って帰りました。余談ですが、ライヴで"Come Together"を演った日、ファンの子に
「新曲良かったです。」
と言われ、
「最近の若いモンはビートルズも知らんのか!」
と、びっくりした事を覚えてます。

結局予定の時間を大幅にオーバーした為、TDは渋谷CSVでやる事になりました。ですが、ここでもやはり難航し、数曲は何度かやり直しました。"円舞曲"では、例によってch.が足り無くなっていた為、北村氏のメロトロンをミキシングしながら録る!!!と言う荒技に出ました(笑)。もうマザーは残って無いそうですが、もしあったとして、例えばCD化の時にTDやり直す事になったとしたら、その時はあのメロトロンは入っていないと(笑)云う事が起こる訳です。普通は絶対こんな事しません(笑)

そんなこんなで漸く発売に漕ぎ着けました。しかし、もう曲が無いので、今後当分(一年位)はrec.をしない、とトランスに言いました。

"CRYSTAL DAYS"と云うアルバムは、そこそこ売れた所為かASYLUMの代表作の様に言われる事もありますが、個人的(本当に個人的)には、唯一失敗作だと、今は思ってます。曲単位では好きな曲もありますが...(好きな方、大変申し訳無い)

1999年12月21日 08時04分33秒

NGll(Christmas NG)
"OUT IN〜"完成後暫くしてオムニバスの話が来ました。クリスマスに合わせて出す、との事でした。その話があった頃、有賀君が
「岸沢さんが曲持って来たんだけど。」
と、スタジオでg.を弾き始めました。聞けば岸沢さんが家に来て二人である程度完成させたとの事。(岸沢さんはg.殆ど弾けない)じゃ次のオムニバスはこの曲でと、いとも簡単に決めてしまいました。その時まだ唄メロと歌詞は付いていなかったのですが(後に僕が付けた)、何故か曲のタイトルの話になりました。
「曲名どうしよっか?」
「まだ早いよ(笑)。」
「オムニバスのタイトル何て云うの?」
「CHRISTMAS NG」
「じゃあ俺らがタイトル曲演ろう。"Christmas NG"で決まりね。」
嘘の様だか本当の話です...
その後、制作の遅れで結局年明けに出る事になったんですが、
「クリスマスじゃ無い時にクリスマスソングを出すのが粋でしょ」
とか言ってました(笑)。

rec.は何時もと同じSTUDIO DIG。確か一晩で録ったと思います。制作は順調でしたが、この時僕の喉元に膿が溜まってて、(この時はただ腫れてるだけだと思ってた。後に熱出して倒れ、医者に破裂寸前と云われ、コップ1杯半程の膿が出た。原因不明)声を出して平気なのか不安でしたが、全然平気でした(笑)。調子に乗ってそのままライヴも演ってました。友人達は「アザラシみたい」と言って笑ってました(笑)

1999年12月17日 03時44分09秒
OUT IN THE STREETS
NGの評判が良かったらしく、トランスからシングルを出す事になったのですが、内部ではASYLUMを出す出さないで少々もめたらしい事を後日聞きました。曰く
「トランスで出すには音がハード過ぎるのでは無いか?」
確かこんな事だったと思います。当時のトランスのお抱えバンドと云えば、ポジパンに転向したSODOMやツァイトリッヒベルゲルター等だったので、なんとなくうなづける話ではあります。

そんなこんなでrec.に突入。場所は前回と同じSTUDIO DIG、日程は録りに3〜4日、TDに1日位と普通程度の時間を頂きました。収録曲は当時の新しめの曲が中心で、古いのは「幸福の〜」だけ。(中学の時の曲だと思う。)因みに当時のライヴでのレパートリーは
ソノシートの4曲+OUT IN〜4曲+煩悩+自虐者+Dead Line...
こんな感じかな?

制作は割と順調だったんですが、途中16ch.を使い切ってしまい、何ヶ所かをピンポン(数トラックを一つにまとめる作業の事。)してどうにか間に合わせました。今聴くと音数多いですね、やっぱり。
key.には前回も弾いて貰ったKEIさん(修羅の人)に、北村氏にはメロトロンでそれぞれ参加して貰いました。"Farewell"の一番と二番の間に、
「メロトロンソロを入れるから隙間空けてくれ。」
と言われた時は参りました(笑)。岸沢さんがシンセdr.を持って来たので「幸福の〜」に入れてみました。ガッシャンガッシャン五月蝿いのがそうです(笑)。TDの時北村氏と、遊びに来ていた森川がやたらゲートリバーブをかけてさせたがってたのが印象に残ってます。

1999年12月15日 04時17分26秒

1stソノシートの思い出
BBSでハルさんからリクエストがあった
ライヴ、レコーディング時の思い出、
どうせならLOG残った方が良いかと思い、この形にしました。
他に日々思った事等、
ダラダラと書いていくつもりですので皆さん宜しく。

で、今回は1stソノシートの思い出。

当時、仲の良かった少女人形のPEPI氏から話を頂き、二つ返事で出す事を決めた訳ですが、その時、
「1.000枚限定、それ以降はプレスしない。」
と云う条件をこちらから提示しました。今から思えはとてつも無く馬鹿げた事ですが、当時プレミアと云う物に憧れてて、それがかっこいいと思ってたんですね(笑)。当時欲しくても手に入らなかった皆様、失礼致しました。

rec.は曙橋にある"STUDIO DIG"と云う所で行いました。アナログ16ch.と、ソノシートのくせに偉そうな環境でしたが、余り時間は(予算の都合上)掛けられないと言われたので、本チャンvo.をベーシックトラックと一緒に録ってしまうと云う暴挙に出ました(笑)。各曲大体2テイクでOKを出し、その後g.の被せとvo.の被せをやはり同時に行い、何とか時間内に終了。後日TD(トラックダウン)を僕と有賀君で行い完成。録りに約10時間、TDに約4時間と本当に時間掛けずに作りました。今は絶対に出来無いです(笑)

内容については最初期の作品だけあり、唄い方等にポジパンの影響が思いっ切り見えてる当たり、今聴くととても恥ずかしいですが、まああんなモンじゃ無いでしょうか。収録曲も比較的古い曲が多く、"エサ"と"INCEST"の原曲は高校の時に作った物です。アレンジが全然違うので特に"INCEST"は同じ曲に聴こえない位違いますけどね。(この2曲はかなり人の手が入ってる事も付け加えておきます。)

この後、修羅(当時のミニコミ)の方の押しもあり、トランスオムニバス"NG"に"夢宴"の収録が決まり(ソノシートとまったく同じver.)、"OUT IN THE STREETS"のrec.に続く訳ですが、その話は次の機会に。

余談ですがNG発売記念ライヴの時、ASYLUMは出演せず何故かステージ最前でストッパーをやっており、お客さんに
「何で出演しないでこんな事やってるの?」
と聞かれた事を、僕は一生忘れないでしょう(笑)

1999年12月12日 17時30分41秒