KMC Historyホール情報:仁寿講堂

大学 36回37回 で使用している仁寿講堂(仁壽講堂)。 存在期間が短く、情報も少ないこの会場について調査しました。

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出典:「仁壽生命本社新築概要」

1. 概要

1.1 基本情報

名称仁壽講堂
(仁壽生命保険株式会社 第四期本社 講堂)
住所当時:東京市麹町区内幸町 1-1 仁壽生命保険株式会社内
現在:東京都千代田区内幸町 1-5-2
キャパシティ 600名(「音楽年鑑」昭和7年版~昭和12年版)
→815名(「音楽年鑑」昭和13年版~昭和15年版)

「仁壽生命本社新築概要」内平面図からの計算では 544席
(1F:横8列×縦18列×3ブロックで432席、2F:横8列×縦5列×3ブロック-8で112席)
設計関根建築事務所、建築士 関根要太郎、小川光三

1.2 仁壽生命保険と講堂所在地の歴史

年月日仁壽生命保険の歴史講堂所在地の歴史
1894(M27)年09月28日「仁壽生命保険合資会社」創立。
本社:京橋区南紺屋町11
■第一期:南紺屋町時代
古地図によれば、更地か道路
(建築用地ではないように見える)
1894(M27)年10月01日京橋区裁判所で設立の商業登記
1894(M27)年10月05日開業
1899(M32)年05月15日本社移転:麹町区内幸町 1-3
■第二期:内幸町一丁目参番地時代
建物を購入して一大修理をしたとのこと
1915(T04)年12月「仁壽生命保険株式会社」に改組
1921(T10)年12月隣接南側の東京執達吏役場の家屋を購入し、
本社増築:麹町区内幸町 1-3
■第三期:内幸町一丁目参番地増築時代
1929(S04)年6月30日■仁寿生命保険本社竣工
1929(S04)年07月本社移転(6月30日竣工):麹町区内幸町 1-1
■第四期:内幸町一丁目一番地時代
1940(S15)年10月「野村生命保険株式会社」と合併内幸町ビル(野村生命館)
(建物は存続)
1946(S21)年1月接収(GHQ)
「野村ホテル(野村ビル軍属宿舎)」開業
(建物は存続)
1947(S22)年07月「東京生命保険相互会社」設立
1955(S30)年3月14日返還(GHQ)
1984(S59)年以降■取り壊し
(航空写真によればS59にはまだ存在していた)
1989(H01)年5月「東京生命ビル」(地上20階/地下2階)竣工
1989(H01)年7月「第一ホテルアネックス」(地下1階~12階)開業
2001(H13)年2月ビル所有者変更「内幸町平和ビル」となる
2001(H13)年3月「東京生命保険相互会社」破綻
2001(H13)年10月「東京生命保険相互会社」から
「T&Dフィナンシャル生命株式会社」に改組改称
2007(H19)年2月「株式会社アトリウム」本社となる

1.3 催し物

仁寿講堂(仁壽講堂)で行われたと明記されているもの。
これらは仁壽生命 第4期(1929(S04)年07月~1940(S15)年09月)の範囲とほぼ一致する。
(仁寿講堂が仁寿生命と関連があるかどうか不確定であった調査途上の段階では、この一致が頼みの綱だった)。

年月日催し物備考/(参考)
1931(S06)年02月10日劇団「テアトル・コメディ」第1回公演江古田のヨッシー
テアトル・コメディはその後1933(S10)年まで毎年仁寿講堂で公演を行っている
1931(S06)年05月09日成城小学校・学校劇の会(冨田博之「日本演劇教育史」p.271)
1931(S06)年06月11日KMC 第36回演奏会
1931(S06)年11月16日KMC 第37回演奏会
1932(S07)年04月18日平岡次郎(平岡斗南夫) 第2回作品発表会日本洋舞史年表I
1933(S08)年05月19日国立音楽大学 選科長唄部開設記念 長唄演奏会国立音楽大学:演奏80年史調査リスト
1933(S08)年11月28日邦正美 新作舞踊発表会日本洋舞史年表I
1935(S10)年10月07日山田五郎 新作舞踊公演日本洋舞史年表I
1935(S10)年10月27日早稲田大学虚竹会 三十周年記念演奏会
1935(S10)年11月25日東京音楽協会オーディション公開演奏会山田一雄の世界
1936(S11)年06月02日楽団プロメテ 第1回発表演奏会山田一雄の世界
1937(S12)年東京の浴場業者入浴料金の値上げを要望する大会板橋区浴場組合
1938(S13)年10月慶應義塾大学長唄研究会 初めての公開演奏会三田長唄研究会
1938(S13)年06月01日檜健次 芸術舞踊転向リサイタル日本洋舞史年表I
1939(S14)年04月04日現代舞踊家集団 第1回公演日本洋舞史年表I
1939(S14)年11月01日現代舞踊家集団 第2回公演日本洋舞史年表I
1939(S14)年11月08日大和楽団 第二回定期演奏会大和楽
1940(S15)年頃たけくらべ(西條八十作詞、宮川寿朗作曲)
舞踊家の藤間勘扇により初演
大和楽

2. ギャラリー

2.1 講堂の風景

出典:「仁壽生命本社新築概要」」(仁壽生命保険株式会社、1929(S04)年07月発行)

平面図6F(ホール2F席)
5F(大広間と舞台、ホール1F席)
大広間(ロビー)Salle
ホール(舞台正面)Hall
ホール(客席)Hall

2.2 在りし日の航空写真

上が南。左上が新橋駅方向。
左下が東京電力、その上がかつての仁寿生命(この時東京生命)、その上が第一ホテル宴会場、その上が第一ホテル。
右下が東京都立日比谷図書館、その左が市政会館(及び 日比谷公会堂)。それらの上正面が旧 NHK東京放送会館(1973年まで使用されていた)。

1974(S49)年度、緯度35.40.31/経度139.45.43、縮尺1/8000、ckt-74-15_c29a_43.jpg をトリミング
GIS photo
出典:国土交通省 国土情報ウェブマッピングシステム

2.3 東京大学総合研究博物館画像アーカイヴス

日本の新聞広告3000(明治24年-昭和20年) 2506 東京朝日新聞 第 17027号、1面、昭和8年9月17日発行
仁壽生命の広告が載っている。

3. 調査過程

仁寿講堂とはいつ頃どこにあったものなのか。内幸町、新橋、日比谷という地名と並んでいることが多いが・・・?
・・・その調査過程を(一度掲載したものを消すのも忍びないので)残します。

資料1:「仁壽生命本社新築概要」

「仁壽生命本社新築概要」(仁壽生命保険株式会社、1929(S04)年07月発行)によると、仁壽生命本社第4期本社には、5階と6階を貫く講堂がある。
貸室が複数あるので講堂も貸していた可能性があり、仁寿講堂は仁寿生命本社の講堂である可能性がある。これを [説A] とする。

資料2:「丘の上には鐘がひびくよ」

慶應義塾マンドリンクラブ70年史「丘の上には鐘がひびくよ」(1981(S56)年6月20日発行)内のリレー座談会 第1回 (340ページ)に以下の記述がある。
(この前に「三田の大ホールは音が悪かった」という会話をしている。)

服部:「こんな音の悪いホールはもうやめよう」という事でそれでね僕が卒業する時、新橋の第一ホテルのあるところの仁寿講堂とかでやったんですよ。
町山:あのホールはきれいでしたね。ロビーなんかはあの頃最高でしたね。
服部:その後に日本青年館でやるようになったんです。あそこに行ってから演奏もやりやすくなったね、仁寿はちょっとせまかった。

「第一ホテルのあるところ」とはどこか。
「第一ホテルアネックス」は、開業がこの座談会より後の 1989(H01)年7月であるので該当しない。

資料3:古地図

古地図で線路沿いの4つの土地の利用者を調べた結果を以下にまとめる。

芝区田村町1-1-2麹町区内幸町1-18麹町区内幸町1-1麹町区内山下町1-2-1
1934(S09)年東京電燈会社[記載なし]仁寿生命政友会本部
1941(S16)年第一ホテル[記載なし]野村生命[更地]
1976(S51)年第一ホテル第一ホテル
(宴会場。左と橋で連絡)
東京生命東京電力
2008(H20)年第一ホテル東京新幸橋ビル前の庭園
(地下に第一ホテル東京
フィットネス&アクアゾーン
第一ホテルアネックス東京電力
港区新橋1-2千代田区内幸町1-5-3千代田区内幸町1-5-2千代田区内幸町1-1-3

前述の仁寿講堂の存在時期と古地図の情報、そして「座談会時点で第一ホテルが存在している場所」に限定すると、消去法により、 「第一ホテルのあるところ」=「現在の内幸町1-5-3」ということになる。

資料4:「東京市麹町区地籍台帳」

「東京市麹町区地籍台帳」(内山模型製図社出版部)の「内幸町一丁目:昭和9年2月末現在」によると、仁壽生命保険株式会社が保有する土地は次の通りである。

住所坪数説明
内幸町 1-1599坪第4期本社。
[説A] である。
内幸町 1-3-4407坪第2期~第3期本社の位置。
第一ホテルとは全く異なる位置である。
内幸町 1-18587坪

最後の内幸町1-18 は、なんと前出の「現在の内幸町1-5-3」である。
残念ながらどの古地図を見てもこの場所に名称が記載されておらず、決定打がないのであるが、 この場所に「仁寿講堂」という建物が建っていたとも考えられる。坪数からいっても、本社講堂と同等かそれ以上のホールになり得る。これを [説B] とする。

→[説A]が正解と分かった今もなお、この場所がどのように活用されていたのかは不明のままである。

資料5:永井荷風「断腸亭日乗」

永井荷風の日記「断腸亭日乗」に仁寿講堂が登場する(漢字が違うが)。 2・26事件の翌日、内幸町を歩いた様子。

昭和十一年二月廿七日。
銀座通の人出平日よりも多し。電車自働車通行自由なり。三越にて惣菜を購ひ茶店久辺留に至る。
八時過外に出るに銀座通の夜店遊歩の人出いよいよ賑なり。
山下橋より内幸町を歩む。勧業銀行仁寿公堂大坂ビル皆鎮撫軍の駐屯所となる。
田村町四辻に兵士機関銃を据えたり。甲府より来りし兵士なりと云ふ。

「勧業銀行」(日本勧業銀行)は現在のみずほ銀行本店の日比谷公園側3分の1、「大阪ビル」は現在の内幸町ダイビルの位置である。田村町四辻は現在の西新橋交差点(昭和40年に田村町から西新橋に地名変更)。
—ちなみにこの時期の仁寿生命の向かい(現在の東京電力本店の位置)は政友会本部(立憲政友会の本部)、その隣は東洋拓殖ビル(東拓ビル、現在はみずほ銀行本店の3分の1)であった。

これにより、銀座通りから有楽町方面に向かい、新山下橋で左折してJRの線路沿いに南下、現在の「新幸橋」信号で右折、「内幸町」信号、「西新橋」信号までを歩いたことがわかる (一筆書きで挙げている順番に建物の前を通るのは難しい、というよりも相当大回りしなければならない)。 永井荷風が「仁寿生命」ではなく「仁寿講堂」と呼んでいるので、「仁寿講堂=仁寿生命の講堂」説([説A])は不利か。

→[説A]が正解と分かった今となって考えると、人々はこの建物を普段から(仁寿生命ではなく)「仁寿講堂」と呼んでいたのかもしれない、と思えてきた。

資料6:「悲劇喜劇」

雑誌「悲劇喜劇」1979年7月号 No.345(早川書房)の特集「思い出の劇場」の p.32~p.34 に、 長岡輝子さん執筆の記事「仁寿講堂とテアトル・コメディ」がある。 これが決定打となった。

昭和六年(一九三一)二月十日仁寿講堂で旗揚公演をした私達のテアトル・コメディは、それから昭和十一年迄続いたが、 今なおこの講堂のあった建物は戦災にも焼けず建っている。 新橋第一ホテル宴会場の隣りにある今の東京生命がそれである。 仁寿生命が野村生命となり、敗戦後は米軍に接収され軍人の宿舎として使われ、財閥解体によって東京生命となって今日に及んでいる。 この年月の間に中は改築されて講堂もロビーもなくなり、かつてはロビーの窓からガードの上を走る国電が見られたところも、部屋が増築されてふさがれてしまった。
この建物が出来たのは昭和四年だというから、私達がこの講堂を使い出したのは出来て二年にもならない時で、まだ真新しい当時のデラックスなビルだった。
あの当時、群小劇団の使った講堂は報知講堂、朝日講堂、飛行館、日本青年館、青山会館、市政会館、蚕糸会館、三会堂と、 今思い出してみても、廊下もせまく、仁寿講堂のようにロビーにたっぷり場所をとり、ゆったりした長椅子などのある講堂はなかった、 仁寿講堂の収容人員は五百くらいだったと思う。

なお、この記事には2点写真が掲載されている。 それは東京生命から提供されたというもので、上記ギャラリーに載せた大広間(ロビー)の写真とホール(舞台正面)の写真と全く同じものであった。

ここに至ってやっと100%の確信を得たのだった。

資料番外編

資料7:冨田博之「演劇教育」

「演劇教育」(冨田博之 著、国土社)p.150 に「現在の大和銀行」という記述がある。

1931年にいたって、成城小学校が、過去12年間の学校劇の成果を世に問わんとして、東京内幸町の仁寿講堂(現在の大和銀行)において、「成城小学校・学校劇の会」を開いたが

日比谷内幸町周辺に大和銀行があったという情報は見つけられなかった(大手町ならあったが)。 一方、仮に「大和生命」の間違いだと仮定すると、旧 鹿鳴館→華族会館、現 大和生命ビル付近(帝国ホテル南隣)ということも考えられるが、古地図の感じからすると苦しい。

→既に旧 東京生命が正解と分かっているので、これは勘違いの類と思われる。

資料8:長岡輝子「ふたりの夫からの贈りもの」

「ふたりの夫からの贈りもの」(長岡輝子 著、草思社)p.13 に「現朝日生命ビル」という記述がある。

会場は、左翼演劇全盛の時代の築地小劇場とは対照的な仁寿講堂(現朝日生命ビル)だった。 講堂の廊下はサロンふうに広い場所がとってあり、ソファーなどもしつらえてあった。 この講堂に目をつけたのは金杉惇郎で、慶応の野球部のピッチャーをしていた吉沢英弥さんの父君が仁寿生命の専務だった関係で便宜をはかってくださった。
外の反響としては「朝日新聞」紙上に「これは変った坊ちゃん芝居」と嘲られたにすぎないのだけれど

日比谷の旧 朝日生命ビル(現 日比谷マリンビル)の位置は、1929(S04)年、美松みまつデパート(美松百貨店)が開業しているので、違うように思う。東京生命の間違いではないだろうか。

→既に旧 東京生命が正解と分かっているので、これは勘違いの類と思われる。

番外編:建築家 関根要太郎

仁壽生命 第4期本社は建築家の関根要太郎(1889-1959)氏が手がけたもの。
「仁壽生命本社新築概要」に「関根建築事務所、建築士 関根要太郎、小川光三」とある。

関根要太郎研究室@はこだて」内エントリ 「建築家・関根要太郎作品再見(東京・旧多摩聖蹟記念館)その2」に、管理者さん保有の「株主配当の通知絵葉書」(第四期本社の写真)が掲載されている。

Yahoo!ブログ「Architecture Everyday !!」内エントリ「AE281 村林ビル/大林組(関根要太郎)」 のコメントに以下の記述あり。

関根はこの頃、蔵田周忠など新感覚の若手建築家を擁し、調布の京王閣や東京・内幸町の仁寿生命、不動貯金銀行など最先端の作風の作品を次々と発表していたんですよ。

このエントリに掲載されている、東京都江東区佐賀1-8-7 に現存する「佐賀町スタジオ」(←旧「村林ビル」←旧「村林商店」)は、同じく関根氏による建物で、 1929(S04)年竣工(1928(S03)年という情報もある)というから、仁寿生命と同じ時期に建てられたことになる。
参考1:旧村林商店
参考2:東京都江東区佐賀
参考3:関根要太郎研究室@はこだて