2001/航海日誌
1981年3月の顔
ちょっと地下鉄の話など(12・28)

月曜日に今学期最後の授業があったんですが、いろいろ無理をしたのがたたったのか、とうとう風邪を引いてしまいました。金曜日の午後になっても風邪が抜けきらず、部屋でごろごろしています。

いつも暇つぶしにはソウルの地図を眺めるのが習慣ですが、99年度版の市街図を見ていると、この間ソウルは本当に変わったというのが改めて判ります。ソウルに初めて来たときはまだ3号線は開通しておらず、しかし当時の地図には載っていた3号線安國駅を探して安國洞(あんぐっとん)近辺をうろうろした記憶があります。その地下鉄がいまや8号線まで開通し、昔は地の果てのような印象を受けた地下鉄の終点も、もはやソウルの街区の一部として機能しています。

たとえばソウルの中心部を南北に貫く4号線の北端、タンゴゲ駅は干からびた川の上にあって、1987年当時は周辺に民家とおぼしき建物が夏の日差しにかすんで見えたものです。いまはタンゴゲ駅やその手前の上渓(サンゲ)駅周辺には巨大な団地ができており、かなりの人口を抱え、以前のような物寂しい雰囲気は無くなりました。1988年に行政区域の編成変えがあって、タンゴゲ駅や上渓駅のある地域は、それまでの道峰区(とぼんぐ)から独立して蘆原区(のうぉんぐ)という名称を与えられました。

当時、4号線は漢江の南側にある瑞草区の舎堂駅からはじまって、龍山(よんさん)とソウル駅周辺、南大門市場や明洞、そして東大門市場などのソウル市の中心街を経由して北上し、城北区(そんぶっく)や道峰区を貫いてここ蘆原区のタンゴゲ駅を北端としました。南側は延長を重ね、舎堂から果川(くぁちょん)市を経て京畿湾に面した安山(あんさん)市方面まで延びています。確かこの安山市はむかし京畿道華城郡半月面とかいう地名だったと記憶しておりますが、団地ができて人口が増加し、市制を敷いたのでしょう。この4号線は舎堂のひとつ先にあるナムテリョンから安山方面は国鉄の管轄となっており、面白いことにナムテリョンを通過したところで左右を入れ替えるのです。

韓国の国鉄と地下鉄1号線は日本と同じく「左側通行」ですが、それ以降の地下鉄はすべて「右側通行」になっています。自動車の場合と同じように考えていただければ判りやすいと思います。「左右を入れ替える」というのは、それまで右側通行で走っていた車両を左側通行に改めることです。疑問に思うのは、新しく設計した路線であるにもかかわらず、なぜわざわざ左右を入れ替えなければならないのかということです。新設の地下鉄が既存の国鉄に乗り入れるならまだしも、4号線は地下鉄の延長として設計しているはずの路線です。それをひねくって左右を入れ替えるという技を必要とする理由は何か。機会があれば鉄道庁に尋ねてみましょう。そうそう、当時の4号線の南端だった舎堂駅ですが、これは江南大路とテヘラン路の交点にあって、地上はだだっ広い交差点だったのを記憶しています。道の幅広さと四つ角に建っている店舗ビルの大きさがじつにアンバランスで、まるで低予算の映画のセットのようでした。

さて話の続きですが、蘆原区の南側に位置する中浪区(ちゅんにゃんぐ)は、以前は東大門区(とんでむんぐ)の一部でした。江原道を目指す上鳳(さんぼん)バスターミナルや東部市場のある川の東側を分割し、中浪区としたのも1988年のことです。中浪区は昔からソウル旧市街と江原道を結ぶ交通の要として機能しており、それなりにかなりの人口を擁した街でした。しかし地下鉄の無かった当時はバス交通に頼らざるを得ず、私のような「新村派」にとっては「川向こう」の見知らぬ土地でした。いま7号線が区の南北を縦貫しており、墨洞(むくとん)や面牧洞(みょんもくとん)など、バスの行き先表示版で馴染んだ地名の駅ができています。

ソウル市の北西に位置する恩平区(うんぴょんぐ)も、地下鉄のおかげで地の果てという印象からまぬがれることができました。恩平区はこれといった観光名所も無く、なじみの薄かったところです。語学堂に通った86年頃に何度かバスでここを走ったことがありましたが、あまり土地鑑の無いこともあって、さながら異国を彷徨っているような、心もとない気分だったのを覚えております。やがて3号線が開通し、また最近になって6号線が開通したので、バス交通しか無かった80年代後半に比較するとずいぶん便利になりましたし、それまでの「僻地」という印象が無くなりました。

語学堂に通った頃は、授業が終わると乗合バスに乗って市内を一巡するのが楽しみでした。A地点からB地点まで、乗り換え無しに行くにはどのバスに乗るべきかと思いをめぐらしたものです。これはちょっとしたクイズのようなものでしたが、しかしたいていの場合該当する路線を見つけ出すことができました。それほどまでに当時のバス路線は複雑で、同時に充実していたのです。それが地下鉄路線の発達と地上の交通量の増加によって、乗合バスはかつての利便性を失いつつあるようです。長かった学部生生活も一区切りつきました。来春からはいよいよ大学院での学習が始まります。それまでのひとときを、バスと地下鉄を頼ってのソウル巡りで楽しもうかと思います。それでは、また。風邪にはくれぐれもお気をつけください。

最後の試験(12・13)

今日の「デジタルメディア」が最後の試験となりました。最後の試験というのは、これで今学期の期末考査が終わったということでもあり、1983年に法政大学に入学して以来、19年にまたがった大学生活に一区切りがついたという意味でもあります。西江に来てからこの間精一杯努力しましたが、やはり成績は「そこそこ」でした。わたくしの人生そのものが「そこそこ」ですから、これで善しといたしましょう。

大学院に進学(11・08)

西江大学新聞放送学科大学院への進学が決まりました。外国人ですし歳も食ってますので、院に行きたいと言えば入れてはくれますが、さて出られるかどうかが疑問ですね…。面接では、院での授業には英語が必要だと再三言われました。なんとかいたしましょう。

秋が深まります(10・23)

秋が深まります。まだ日中なら薄着でも過ごせますが、夜ともなれば冷え込んで、外出の際に上着の用意は欠かせません。

先週、試験のさなかに大学院への志願書を提出しました。来る27日に面談を行いますが、おそらく手続き上の問題が無い限りは大丈夫でしょう。一時は高麗大の国語国文科で学ぶという「名誉」に惹かれもしましたが、どう考えても国語国文科では無理があります。それに新聞放送学科での学習に興味を覚えましたし、また今の大学の教授がたとのつきあいもはじまったばかりです。まだ合格したわけではありませんが、もう院での学習に向けて、来年からの生活などを考えています。この先がどこへ向かうのか、何があるのかまだ見えませんが、しばらくは流れに任せようと思います。

中間考査が終わってほっと一息ついたのもつかの間、今日からまたあわただしい日常が始まります。チョモイム(グループ学習)を三つ抱えているので、気を抜くとあっと言う間に遅れをとってしまいます。時間との戦いという形容がぴったりの、本当に気の抜けない毎日です…。

秋夕を過ぎて(10・06)

皆様、お元気ですか。ソウルは急に涼しくなったせいで、夏服のままの人や、もう冬の服を着た人々などで、街の景色はとてもちぐはぐです。

今学期は西江大学における学部生活最後の学期であり、法政大学文学部地理学科通信教育課程に身を投じた1983年から、同大学史学科への転科を含めた18年にわたる大学生活の最後の学期でもあります。学ぶということをきわめて恣意的に行った結果、人生の半分近くを大学生として過ごしたことになりました。「趣味はなんですか」と問われれば、「学生です」と答えるに充分な月日であります。

奈良県立の高校を卒業後10年目にして大学へ行くと宣言し、高校の庶務課に電話を入れて卒業証明と成績証明を急ぎ取り寄せたのが83年の冬、法政大学通教の願書締め切り間際のことでした。電話に出た方が快活な声で「よっしゃ、わかった。すぐに送るわ」と答えてくれて、いまでもその声音を覚えております。西江大学への編入には小学校や中学校、そして高校の卒業証明書と成績証明書、ならびに大学の中退証明と成績証明が必要でした。「成績証明?」と、電話の向こうで手ごたえのない返事を繰り返す小学校の庶務係の声が頼りなく、母に頼んで小学校まで走ってもらったところ、面談に応じていただいた校長先生は洗練された方で、みなまで言うなと英語で書類をタイプしてくださったそうです。中学校の庶務課ではこんな注文は珍しかったのか、電話の声ははずんで楽しそうでした。ちなみに成績記録は20年という保有期限があり、それ以降は破棄されるという説明でした。どうぞ、小中高の成績を手許に残したいかたは早めにご注文を。

ことあるごとに周囲の人々を巻き込んで、ようやくたどり着いた西江大学ですが、それももう最後の学期となりました。今学期が始まってからというものは、院への進学問題でおちつかない日々をすごしております。この韓国留学には韓国演劇史を勉強したいという動機があったものの、こちらに来てから過ごした日々に、日本と韓国の間には多くの宿題があることをあらためて認識しました。この間、日本人としていまこのソウルに学ぶことの意味を自問しつつ、演劇界で活躍するさまざまな方に会って話を伺いました。

演劇関係の多くの方からは、韓国演劇史を学ぶには高麗大の国語国文科へ行くのが妥当というアドバイスを得ました。いまや韓国演劇史は高麗大の国語国文科一門が最も活発に研究活動を展開しているという話でした。しかし、私の韓国語能力では演劇史にたどり着く前に、鳥羽口の国文学概論や音韻論あたりで白旗を振りそうな気配です。韓国演劇史の殿堂で学ぶという魅力にしばし逡巡しましたが、ここ西江の新聞放送学科大学院で、日韓間の報道を比較するという研究課題に挑むこととしました。語力が問題となるならばどこで学んでも同じではないかと言われそうですが、おそらく学部での学習が院での学習に余裕をもたらし、多少は深みのある研究ができるのではないかと思っております。演劇史を学ぶという当初の目的からはそれますが、この研究課題は、日本と韓国の宿題のひとつを解く手がかりを得ることができるかもしれません。

週明けには指導教授と面談して、新聞放送学科大学院への進学を打診することにしております。おそらく外国人ですし歳も食っているので、大学は「あきまへん」とは言わないと思うのですが…。さて、どうなりますことやら。

秋の夕べ(10・01)

秋夕(チュソク)です。今年の秋夕(陰暦八月十五日)は陽暦10月1日にあたりますが、9月30日が日曜日であり、また10月3日が「開天節」という祝日なので、韓国には珍しい大型連休となりました。気の早いところでは先週の土曜日から休みに入るので、都合5日間の連休を取ることができます。学友たちの中には金曜日の午後の授業を途中で抜けて、三々五々故郷へ下っていく者もおりました。この間に学習の遅れた分を取り戻そうと思っておりましたが、図書館も休館になると聞いてがっかり。自宅での学習と観劇に励むこととしました。院への進学問題がまだ解決しておらず、心もとない日々を送っております。

いよいよ最後の学期(9・05)

昨年の春に編入してもう一年半が経ちました。本当に早いものです。いよいよ最後の学期が始まり、忙しい学生生活を送っています。今年のソウルは昨年より残暑がきびしいような気がしますが、本格的な秋の始まりはもうすぐそこです。

「韓国の公演芸術-3-」の翻訳が終わりました(8・25)

韓相武謳カのお書きになった「韓国の公演芸術 -第3章-」の翻訳を終えました。まだ初回の翻訳ですが、お楽しみください。この第3章の内容に関して韓相武謳カにいろいろお尋ねしたいこともあり、いずれ先生に私淑するつもりでおります。その成果はまたここでご披露いたしませう。

帰朝報告(8・24)

一週間、奈良へ里帰りしておりました。奈良の夏は盆地の夏特有の蒸し暑くてじっとしていても汗の染み出る、クーラーに馴染んだ方にはたいへんすごしにくい気候です。私はこういう環境で育ったせいか、いくら暑くても冷房は嫌いという「盆地系高温多湿型体質」となりました。ところが今回はものの見事に台風11号と鉢合わせとなり、二日間は家でごろごろするはめになったものの、おかげで涼しい日をすごすことができました。そして台風一過の後は秋の風。来週からは秋学期が始まります。学部最後の学期を悔いなく過ごし、そして院を目指して…いるのですが、どうなりますことやら。

せみの声もちょっとさびしく…(8・17)

あわただしい日常の合間を縫うように、李杜鉉先生の『韓国演劇史』(新修版)を読み耽っております。韓国の古典芸能から近・現代演劇までを概観するには一番の参考書と言われ、さっそく手に入れました。韓国のさまざまな演劇史関係ドキュメントはこの本を定本としているのですね。この本からまず最初に翻訳するべきでした。しばらくは『韓国演劇史』にかかりきりになりそうです。

「解放空間の韓国演劇」の翻訳を全面的に見直し(7/29)

車凡錫先生が"韓国演劇"に連載した「失われた時を求めて -解放空間の韓国演劇-」の翻訳を全面的に見直しました。誤訳を訂正しつつ、よりこなれた表現にしました。解放(終戦)直後の韓国演劇の中における左翼演劇と右翼演劇の関係は、文芸振興院が1976年に発行した「文芸年鑑」で示した左翼・右翼という視角と異なり、なかなかおもしろい読み物であると思います。翻訳に際して校正の誤りなどを判る範囲で修正しましたが、翻訳精度はまだ完璧ではないかも知れません。原文を読んでみたい方はどうぞご連絡ください。

先日の大雨で…(7/17)

日本の友人から「大丈夫か」というメールを何通かいただきました。先週の土曜日の夜は一晩中雷雨で、翌日もお昼頃に集中豪雨がありました。さいわい私の住むアパートは高台にあり、水害とは無縁でした。心配していただき、ありがとうございました。それにしても、先月は日照りで南の地方の農家では自殺者まで出したとか言っておりましたのに、今月は養鶏場が水つきになって鶏が溺死するほど局地的な雨に見舞われたり…。自然はどんどん過酷になっていくようです。

もうすぐ夏季季節学期が終わります。まずはこの週末に芝居を一本見て、来週末は忠清北道の島で開催される文化祝祭を見物に行く予定です。さあ、いよいよ本格的な夏です。ここ一年半ですっかりなまったこの体を、夏休みのあいだになんとかしたいですねえ。(@^^@)

『演劇年鑑』の見直し作業中(7/7)

『演劇年鑑』は「おかやんの演劇講座」の始発点ですが、そのため翻訳の正確さにいまひとつ自信を持てません。そこで、この夏休みを利用してもう一度全文を見直すことにしました。また、ちかいうちにサイト内の全文検索を考えているので、ドキュメントの構造をHTMLの構造に則して編集しなおしているところです。

期末考査が終わって夏休み(6/20)

昨日の「媒体イデオロギー」のテストは、今学期の試験のなかで一番悲惨な答案になってしまいました…。でも今日から夏休み。気を取り直して「夏季季節学期」でひと月間、哲学概論の勉強です。この季節学期を申請しない学生はこの時点で夏休みとなりますが、学校に出て来ている学生の意外に多いことに驚きました。

ところで演劇関係の翻訳を再開しましたが、翻訳作業というのは回を重ねるごとに少しづつ精度が向上するような気がします。パソコン本体とともに失った翻訳データ、ITI韓国本部の発行した『韓国の公演芸術』の韓国演劇史部分は今回で3回目の翻訳ですが、初回や2回目の作業では気のつかなかった文面の細かいニュアンスが判るようになってきました。おかげで本人は楽しんでまた翻訳に精を出しております。しかし、このとこは言い換えるならばこのサイトの翻訳ものは少なからず間違いを含んでいるということです。折をみて翻訳をチェックしてはいるのですが、どうぞお気づきの点あらばお知らせください。

240はどこへ消えた?(6/12)

3週間前、鍾閣の教保文庫で買い物をした際にカウンターにThinkPad240を置き忘れたようです。部屋に戻ってから抱えていないことに気が付いて、すぐに店に駆けつけたのですが見当たらずでした。そしてその後まだ出てきておりません。なんだか間抜けな話ですが、飼っていた猫がふっとどこかへ行ってしまったような気分です。出てくるまで待つわけにもいかないので、240Zを買いました。新しいマシンは全体にきびきびしていて気に入ってますが、できたら昔の240も戻ってきてほしいです。ハードディスクのデータをバックアップしていなかったので、数ヶ月かけた翻訳作業のすべてを失ってしまったからです。いまは期末考査なので、テストを終えたらまたぼちぼちと作業を開始します。

初夏を迎えて(5/13)

お元気ですか。中間考査が終わったものの、レポート作成やそれに関する調べもの等で、なにかと忙しい日々が続いております。特に今学期は受講科目全般に多少良い成績を得たいと思っており、張り切って毎日を過ごしております。尤も、今学期に申請した科目は全部が全部とてもおもしろいので、「一週間に一回演劇見よう運動推進本部長」を名乗ってはいるものの、芝居見物よりも勉強をしているほうが楽しいというのが本当のところです。

うれしい話の二つめは韓国語です。以前と比べるとかなり判るようになってきており、授業ではほぼ問題なく聞き取れるようになりました。それでもまだ答案用紙をびっしりと埋めるまでにはいたらないので、ある先生は語力の問題を考慮して、何か別の評価方法を用意しようかという話をしてくださいました。けっこうな申し出ではありましたが、韓国へ来て韓国語で学ぶと決めたからには同じ条件でと答えたように記憶しております。先生に対して、「学問としてはたいへん興味深く話を伺っており、自分なりに理解している。むしろ私の答案用紙が未熟だからといって失望なさらないようにしてください」と説明しました。が、これって後で考えると…「答案はたいしたことおまへんけどきちんと理解してますねん。そやから成績の方よろしゅうに」と言っているのとあまり変わらないような…。とにかく、去年にくらべればずいぶん進歩しました。しかし日常会話はまだまだ難しいですなあ。特におばちゃん達との会話は。

四月の舞台ではリトアニアの『仮面舞踏会』が一番印象に残りました。言葉がわからないので、ほとんど役者のうごきと舞台美術のみに神経を集中しました。字幕はつきますが舞台があまりにも美しくて、字幕を見る時間がもったいないのです。ほとんど作り物のない舞台でしたが場面ごとの役者の配置が絶妙で、しかもそれら場面場面がたいへん美しい。全体として見たときに「絵になる」舞台はたいへん好きですし、役者の一群が舞台に放たれたときにかもし出す雰囲気は、むかしに見た大駱駝鑑の群舞を想起させるものがありました。駱駝の舞台はきわめて日本的な衣装と独特の立ち姿で、人間の存在や生の営みや、あるいは善の中の悪…といったかなり抽象性の高い作品を舞台に上げますが、今回の『仮面舞踏会』が描こうとした栄枯盛衰諸行無常とさほどかけ離れたものでは無いと思えるのです。駱駝の韓国公演が実現しないかと夢見ております。

さて、話は日常に戻りますが、二週間ほど前に学生課から「奨学金申請を行え」という話がきました。韓日文化交流なんとかという団体の行う奨学金制度で、若干成績に問題があるものの、その他は規定を満たしているので申請しました。もし通れば学業を遂行するにおおいに助けとなりますので、一縷の望みを託しておりますが…。来学期は卒業を控えた最後の学期なので、卒論制作が主になります。夏休みの間に準備をおこなうつもりなのですが、日韓間の演劇交流を概観するとなると日本側の資料が欠かせません。今年はひと夏を東京と奈良ですごすことになるので、皆様とお会いする機会がありやもしれませぬ。それでは。(^^)

中間試験が終わりました(4/21)

良い日が続いております。この間学業に追われており、サイトのメンテナンスもままなりません。試験は終わったもののレポートの締め切りが目前にせまっていて、気の抜けない毎日です。なにしろ課題を5つも抱えているので…。それでは、また。

春の便り(3/15)

桜の花という新学期ならではの風物詩が、ここソウルには無いので少しさみしいのですが、それでも心うきうき新学期が始まりました。今学期は新聞放送学科の科目を5つと、政治外交学部の科目をひとつ申請しました。新聞放送学科はチョモイム(グループによる研究)を行う授業が多くて、この課外授業がけっこう負担になると言う学生が大勢います。したがって新聞放送学科の科目を5つ申請するというのはなかなかハードなことなのです。しかし今年中に卒業するには、今学期と来学期に5科目ずつ申請しないと間に合わないのです。これらの他に教養必須科目をひとつ残しており、これは春学期が終わってすぐに始まる、3週間の季節学期で申請することにしました。さらに学科科目の学習と並行して卒論研究も行わなくてはならず、今年は昨年にもましてきついです。救いは多少韓国語に慣れたということでしょうか。

申請科目は例によって人気の無いもの(つまり学生数の少ないもの)を中心に、"言論法制論""マスコミ社会学""媒体イデオロギー""メディアと人間""マスコミ研究I(分断状況と言論)"というオーダーです。これらのほかに政治外交学部の"南北関係の理解"も申請しました。いざ蓋を開けてみると"南北関係の理解"は受講希望者が多くて、より広い教室に変更しての開講となりました。学生たちは意外と南北関係に関心を持っているみたいです。

ちょうど12時に午前の授業を終えて食事となるわけですが、この時間、三つある学生食堂はすべて学生たちであふれかえっています。ちょっと食事の時間をずらせばいいのですが、午後1時から次の授業が始まるのでこの時間内に昼食をすまさないといけません。隊伍を組んで食事の配給を待つようなあんばいですな。どうも昨年より学生の数が増えたという感じがしてならないのですが、実際はどうなのでしょう。

さて、西江大学新聞放送学科"一週間に一回演劇見よう"運動推進本部長(会員1名)を自称しておりますので、先月はほんとうに一週間に一回演劇を見ました。これがどうしてなかなか、肉体的にも金銭的にも予想をこえるしんどい作業でありました。拝観料はまだしも、見終わってからのお茶代がばかにならないです。お茶代というのは、芝居は韓国人友人と一緒に見ることにしており、見終わってから双方の感想を述べ合うために一席設けるということです。これがけっこうかかりますねん。しかしこれをやらないとどうも誤解曲解を防げないのです…。この次からはマンドゥ(シュウマイを想像してください)とかトッポッギー(もちを辛い味噌であえたもの)とか、低予算ですむものを考えなくてはならないですな。特に今月は先月にくらべてはるかに公演数が多く、見たいもの見なくてはならないものもけっこうありますから。

このところ気候も穏やかになり、昨年の同じ時期に比べてずいぶん暖かいようです。先日、この1月から語学堂に通いだした友人、そしてこの2月からソウルに赴任してきた友人と3人で"越境者ソウル大集会"を催しました。語学堂友人は勉学に励んでいるのか、ソウルへ到着した折に連絡があっただけでこの間ほとんど音信が無かったのですが、やつれた様子も無く元気そうでした。ソウルへ家族で赴任してきた友人も、ソウルでの暮らしにもうかなり慣れたとかいう話です。見知らぬ土地に暮らして何らのギャップを感じないというものもったいない話で、ちっとはつらいめにあったりしたほうがのちのちの親近感もひとしおと思うんですがね。(^へ^)

それでは、また。

2月の演劇見物(26/FEB)

今月は6日に国立劇場で『島』(キム・サンス作演出)、9日に劇団アリラン『旅に出よう』(コ・ドンオプ作演出)、13日に「ブラッドブラザーズ」を翻案した『義兄弟』(キム・ミンギ演出)をハクチョン劇場で、16日はアルングヂ劇場で劇団木花の『扮装室』(呉泰錫演出)、そして18日にトンスン・アートセンター小劇場で慶尚道方言をふんだんに使った『ブタ狩り』(イ・サンウ作演出)を見ました。西江大学新聞放送学科「一週間に一回演劇見よう」運動推進本部長岡本

ちょっと改装(11/FEB)

トップページをはじめ、あっちこっちを少しづつ改装しました。このサイトの原点である『マックでハングる』の更新がままならず…。マックをとりまく事情がどうなっているのか、気がかりです。

マシンの不具合(01/FEB/2001)

昨年の正月に買ったThinkPad240の液晶が壊れかけています。画面全体に赤みがかるのですが、ソフトの問題かハードの問題か判別できないうちに保証切れとなってしまいました。しかしWin98でも起こりSEでも起こり、とうとうW2000でも起こったのでこれはもうハードに原因があるとしか思えない。買った当初からこのマシンはタイピングしているときに画面がちらつくことがあったのですが、まさかタイピングの振動ぐらいで画面に影響が出るなんて考えてもみなかった。ThinkPadはこの240で4台目ですが、型が新しくなるごとに作りが弱くなっています。このままではIBMを選ぶ必然性が無くなってしまうかも…。残念です。

また正月です(@^^@)

少し前までは零下20度まで下がって水道管が破裂したりの騒ぎでしたが、このニ三日はたいへん暖かくてすごしやすい日々が続いてます。南のほうでは雨が降ったり雪が降ったりしているとか。

正月のソウルはさすがに静かで、路線バスもふだんより少ない気がします。良いですねえ。18世紀だか19世紀にあるアメリカ人が韓国を旅して、そのときの印象を「静かな朝の国」と自著で形容しました。それを以って韓国は静かな朝の国と宣伝してきたわけですが、じっさいこちらに暮らすとあまりのやかましさに「嘘つき」と言いたくなりますな。(@^^@)

朝一番、町内に響き渡るスレギチャ(ごみ車)のかなでるメロディから始まり、車はいつでもどこでもどいつもこいつもプッププップとうるさいし、通りを歩けば商店から客引き代わりの音の洪水で、おまけに喫茶店に入っても耳をつんざくようなBGMに、遠く一町先からでも聞こえる携帯の着メロ等々。この着メロ、喫茶店百貨店バス地下鉄ところかまわず鳴り響いてますが、話し声もそれに負けずでかいでかい。チング(友人)は大音響のテレビを画面から1メートルのところで見ますから、韓国の人は大きな音が大!好きなんだと解釈することにしました。ふと気が付けば夜の夜中にギターを弾く自分の姿に驚いて、ああ、ここは韓国なんだなあと感激したりします。

さすがに80年代の「トンサムソ(洞事務所)」から流れ出るあのやかましい町内放送はなくなりましたが。洞事務所が行っていた、あの月に一度の日曜の定時放送はいったいなんだったのでしょう。朝の6時ころから30分間、おんなじ歌を繰り返し放送していました。うちの学生にその話をしても誰も知らない…。ま、彼や彼女らが5歳くらいのときの話ですから無理もないですけど。

いまは冬休みのまっさいちゅうですが、3月の新学期まで勉強をしないですごすは学生に非ずと正月の連休明けからまた図書館通いをはじめます。と言うものの、じつは授業が無いとつい暮し向ききや世渡りのことなどを考えてしまうのです。授業が始まれば勉強に追われて他のことを考える余裕など無いのですが。さすがに歳を食ったせいか、夢を追いかけるのに多少はセサン(世の中)のことを考えるようになりましたなあ。それでは、また。

何か良いことありそうな(19/JAN/2001)

月曜の朝、アパートの近所の凍てついた坂を危なっかしい足取りで降りていく老婆を見かけました。そこでそのお手をとってバスどおりの向かい側、大興洞のお宅まで送ってさしあげました。何か良いことがあるかなと思っておりますと、さてその翌日の火曜日、不覚にも学生証を紛失してしまいました。うちの大学の学生証は取引銀行である朝興銀行のキャッシュカードも兼ねておりますのでひときわ心配がつのります。水曜日の朝一番に再発行の手続きをしに学生課へ行きますと、あら不思議、紛失した学生証が既に届いているではありませんか。やはり良いことがありました。

ソウル帰着(11/JAN/2001)

関西と東京で冬休みをすごして、昨日ソウルへ戻りました。ソウルでは正月に雪が降るのはン十年ぶりとか言う話で、街のそこここにまだ雪が残っています。路面が凍っていて、坂道などは怖いですね。それにしても…寒いです。

謹賀新年(1/JAN/2001)

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。いま、サイトの一部を韓国語化する作業を行っております。UTFで作成しておりますのでうまく再現できるかどうか、一度覗いてみてください。 http://fweb.midi.co.jp/~mokmt/ALT/
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© 岡本昌己/OKAMOTO masami