2018年を仕上げる一週間?まずは冬至の22日、友人が運営する画廊を仁川に訪ねて楽しく話を交わす間にしかし尿の出が悪くなる。これはもしやと思い、昼食を一緒にという友人に別れを告げて国鉄仁川駅へ向かう。しかしこの頃にはすでに強度の尿意が起こりはじめ、仁川駅の公衆便所に直行。尿意は激しいが尿は出ないという尿閉の症状があらわれている。そこで何度も何度も公衆便所を出たり入ったりして排尿を促したがまったく効果がない。とうとう午後2時をまわった頃にはのどが渇きだす。冷や汗がでてのどが渇くという状況はもはや導尿しかないという万策尽きた状況であることは経験上わかっている。そこでなんとかタクシーに乗って(乗れたとするべきか)、仁川駅から一番近いという仁荷大病院へ向かう。おそらくタクシーに乗って10分も経たなかったと思うが、病院に着くまではほんとうに長い。しかし病院の救急室までたどり着けば、あとは順番が来るの待つだけで心配はいらない。受付を済ませて最初の問診で症状を説明し血圧を測るという段取りを終えたら、トイレに入ってタオルを絞って股間をぬぐい身だしなみを整える。そして救急室のようすを眺めながら治療を待つ。ここまで来ると尿意に耐えることは楽しみに変わり、最後の難関はベッドに横になるときだけ。仁荷大病院の大柄の女性看護師の手慣れた処置で今回は500CCを少し超えた。
次は今年一番の冷え込みという12月27日、零下14度の気温のなかを小一時間ほどさすらうという愚行を犯した。京畿道坡州に住む友人の家を訪問したのだが道に迷い、風を遮るものがなにひとつない田舎道を経巡った。あまりに時間がかかったので心配し友人が電話をかけてきて、じつは道を間違っていたことがわかった。友人の誘導で来た道をかなり戻りようやく、午後1時ころになって友人宅に着いた。しかしこの時はまだ排尿時に抵抗感を感じるものの、それほどひどい状況ではなかった。しかし仁川でのこともあり、一時間ほど友人と近況を報告しあって楽しく過ごし暇を告げた。さて駅までの道は知れたことだし帰りは20分ほどもあれば歩けるだろうと勇んで歩き出した。駅についてトイレに行ってやや出にくいものの「無事」を確認しウンヂョン駅からソウル行きの列車に乗る。ところが乗ったとたんにまた尿意が起こり、次の停車駅であるイルサン駅で下車し急いでトイレをさがす。便意と尿意の両方が同時に襲うという症状は尿閉につきものなのかは判らないが、じつは尿閉でいちばん怖くて苦しいのはこの尿意便意同時攻撃。人間の排泄器官はもともとひとつだったものが細胞分裂で別個の器官になったとかで、排泄欲求は前後同時に起こるという説明をインターネットで読んだ。このために溜まっているのは尿なのだが「排便」をうながす信号が立て続けに発信されて肛門を刺激する。そしてそれはもはや出るものもない状態であるにも拘わらず「出せ」という状況にまで至る。これが辛い…。イルサン駅の公衆便所で30分ほどこの同時攻撃におそわれて、それでもなんとか立てるようになったのでまた列車に乗る。しかし弘大入り口駅に着いた頃にはまた尿意と便意が起こり、今度はのどの渇きまで感じるようになった。もはやこれまで。そこで駅を出てタクシーを拾いセブランス病院へ向かう。しかし夕方で車が多くタクシーはいっこうに前に進まない。イデ駅の近くまで来たのでタクシーを降りて、いったん自室へもどることにした。自室ならどんな醜態を演じようと見物はだれもいないし。自室で1時間ほど排尿を促したが何らの効果もないので意を決して病院へ向かう。自室からセブランスまでは15分ほどの距離なので歩いていくことにした。セブランス病院の救急診療所は人でいっぱいで受付をすませてから問診に移るまでにもけっこう時間がかかったが、処置を受けるまでにさらにまた時間が空いてしまった。しかしここまでくると医者に看護師に救急患者と付添人それに病院事務員等々、まわりには人がいっぱいいるので安心できる。しかも「辛いのは自分一人ではない」という余裕まで感じることになる。尿閉はたまっているものを抜き取りさせすれば爽快な気分になれるので、ほかの患者に比べればずいぶん気が楽なのだ。ようやく処置室に案内されて若い女性看護師の手で導尿がはじまる。この日も500CCを少し超えた。
次は年の瀬も押し詰まった29日、水道が凍結した。住まいのあるこの建物は一本の水道管を4世帯がわけて使っているが、この「オクタプ」が一番凍りやすい。そこで凍結の心配のある時は蛇口を少しゆるめておくのだが、この日は警報も発令されなかったし大家から電話もなかったので油断した。朝起きたら水が出ないので2時間ばかり、あちこちの蛇口に熱湯をかけたり水道管の通っている壁を温めたりとできるだけのことをしたがしかし状況は改善されるようすがない。水が循環しないと各階のボイラーが凍っておおごとになるので、金はかかるが近所の金物屋のオヤジに解氷作業を頼んだ。解氷作業と言ってもなんのことはない、20キロほどもあろうかと思われる「解氷機」と書かれた機械を持ちこんで、そこからのびる電線を一本はアパートの前の路地に埋め込まれた「計量器」に巻き付け、もう一本は4階のこの部屋の蛇口に巻きつけるだけだ。あとはスイッチを入れて電流を流し、氷が解けるのを待つ。ところが…おそらく1時間は経ったと思われるが待てど暮らせど水が出ない。金物屋のオヤジが機械をチェックすると電流計の針が下がっているという。オヤジは「機械の故障らしい。これ以上やってもだめだ、撤収する」と言う。これはえらいことになった。そろそろ夕方で気温はどんどん下がっているのに解氷できなければボイラーが凍ってしまう。暗澹とした気持ちで重い解氷機を抱えて一階まで降りてきて…少し気になったので計量器の「防寒ふた」をあけてみると…なんと計量器が破裂している。元栓と計量器から水がじゃんじゃん漏れている。金物屋のオヤジも計量器から水が噴き出しているのを見てこれはマズイと思ったのか、さっそくソウル市の水道事業部に電話を入れた。もう土曜日の午後4時をまわったが、作業員がこちらに来てくれることになった。オヤジは「作業員が来て計量器を交換してくれるから」と言い残してそのまま帰って行く。あれ?金の話はどうなったのだろうと思ったが、それよりも漏水のほうがもっと心配なので現場でソウル市水道事業部の作業員を待つことにした。
30分ほど経って水道局の作業員が3人やってた。そして一人が計量器のフタをあけて一瞥するなり「やったな」と一言。そして「解氷するときは火を使ってはいけない、ドライヤーか何かでやれ」と言う。そこで「いや解氷を頼んだとところこうなった」と言うと、作業員は「解氷するときには電線を計量器の右側(計量器から水が建物に向かっている管)に巻きつけなくてはならないのに、間違って左側(本管から水が計量器に向かう管)に巻き付けたために解氷機の出す電流(つまり熱)で元栓と計量器のパッキンを溶かしてしまった」と言う。しかも「(熱で)計量器が壊れたからよかったものの、壁の中の配管を溶かすと一大事になるところだった」と。これは後で知ったのだが、「凍結破壊」で計量器が壊れた場合は無料修理になるが解氷に失敗した等のケースでは「罰金」か科せられるという。なるほど、金物屋のオヤジが金の話もせずにさっさと引き上げた理由がこれでわかった。さて水道局員の作業のおかげでバルブと計量器は新しいものに交換されて漏水も止まった。気になるのはその「罰金」だが、作業員は工事完了の写真を撮ってそのまま帰っていった。外国人なので「凍結」で処理することにしてくれたのだろうか?けっきょく金は一銭も払うことなく済んだのだが、あとになって考えるとこの日は何度も何度も危ない橋を渡っていたわけだ。
この一連のできごとが2018年の「厄落とし」になってくれることを願っている。皆様、どうぞよい年をお迎えください。
韓国はクリスマスは祝日なので、月曜日でありながらなんとなくのんびりした気分です。写真は12月の初めころに滄川洞(チャンチョンドン)の小高い山に設置されたデッキから、地下鉄新村駅方向からセブランス病院方向へスキャンした夜景です。
初雪にしてはけっこう派手に降りました。今年はまだあまり冷え込まないのですが、さて暖冬になるのでしょうか。
今年の旧正月は例年に比較してずいぶん遅れてやってきました。新正月とあまりに離れたので、なんだか間の抜けたような感じが…とはいうものの、本来はこちらが本当の正月ですので、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2005年7月に日・韓の共同制作作品として上演された『沈黙の海峡』は、戦争中の過酷な体験で記憶を失って戦後は精神病院で一生を送ったもと「朝鮮人日本兵」の〈金田東真(金東真)〉が登場する作品です。「東京近郊のある精神病院で孤独な毎日を送る〈金東真〉だったが、日本人女性看護師〈由紀〉の献身的な看護で少しずつ記憶を取り戻していく。しかし断片的にしか記憶を取り戻すことができないままにけっきょく癌で亡くなり、看護師は彼の遺骨を抱いて韓国に向かう…」というストーリーです。「日韓友情年」の2005年に韓国と日本で上演されて両国から好評を得ました。
この作品は実際に記憶喪失で、戦後をずっと精神病院に暮らした「金百植(金原百植)」氏をモデルにした作品です。劇作家は新聞記事を読んでこの作品を思いついたと語っています。当該の新聞記事は『骨』(朝日新聞2004年3月28日付け)という見出しで、故金百植(金原百植)氏が1944年に日本軍に陸軍二等兵として徴兵されて戦地で心を患ったこと、それ以降の55年間、病院を転々としながら孤独な入院生活を過ごして2000年に癌で亡くなったこと、故郷の親族からは遺骨の引き取りはできないという返事が来たこと、したがって故人の遺骨は国平寺に安置されたままにあると書かれています。
しかし故人にまつわる事実はもう少し複雑で、涙なくしては語れません。じつは故人は外国人登録証を所持しており、それには京畿道○○郡○○面まで詳細に住所が記載されていました。国平寺側はこの記述を頼りに韓国に問い合わせたところ、「数か月後」に本人の確認と3歳の時に別れた実弟が存命であることがわかったのです。つまり精神病院に暮らした55年という年月のあいだ、誰一人として本国に故人の身元を確認しようという人物が現れなかったというわけです。病院側は亡くなっても身元に確認等はおこなわなかったということでしょうか。もし早期に身元確認を行っていれば、韓国に暮らす親族と連絡がとれたはずです。
次の悲劇は、親族から遺骨を引き取れないという返事がきたことです。朝日新聞には「先祖の墓もなく」遺骨は受け取れないという連絡があったと書いてあります。しかし別の媒体に掲載された記事では、「兄は志願したわけではないが日本兵となった以上は祖国(韓国)にそむいたわけであり、遺骨を引き取ることはできない」というのが遺骨の引き取りを拒んだ理由だとあります。劇団民芸が1977年に上演した『アレン中佐のサイン』(1977)は南太平洋の島に設営された捕虜収容所を舞台にした戦争批判作品ですが、この作品に登場する朝鮮人日本兵〈金石一等兵〉も劇中で「祖国には帰れない」と語り、敗戦で武装解除になった後は南海の島で生きることを選択します。あるいは2008年に特攻兵「タク・キョンヒョン(光山文博)」の慰霊碑を慶尚南道泗川(サチョン)市に建立しようとしたところ、地元の人々の反対でついに成就しませんでした。『沈黙の海峡』のラストシーンは〈由紀〉が遺骨を抱いて連絡船に乗り韓国へ向かうという場面ですが、はたして遺族は受け取ってくれるでしょうか…。弟さんが故人の遺骨を引き取ったのは2004年6月のことでした。おそらく紆余曲折を経ての4年だったと思います。
日本政府は対日平和条約が発効する直前の1952年4月19日(土曜日)に旧植民地出身者から日本国籍を一方的に剥奪しておき、講和条約の発効した二日後の1952年4月30日に公布された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は、「日本国籍が無い」ことを理由に朝鮮人日本兵・軍属に対する当該法の適用を拒否してきました。もと朝鮮人日本兵に対しては戦後一貫して何等の補償も行ってこなかったのです。金百植氏の最後の悲劇は、故人をモデルにした『沈黙の海峡』が「哀しくも美しい話」になっていることではないでしょうか。記憶を失なったままで戦後を精神病院で生きて孤独に死んだもと朝鮮人日本兵…この事実を作品にするべきではなかったかと思います。今日は故人の命日です。
明けましておめでとうございます。2017年は「尿閉」で一年を締めくくりました。これが厄落としになってくれることを願っています。
博士論文『(仮題)戦後日本演劇作品に描かれた朝鮮人・韓国人イメージの通時的変化』の作成に追われていて、このサイトの更新がままなりません。論文作成のために戦後日本演劇作品の中から朝鮮人あるいは韓国人の登場する作品をサンプリングしましたので、いずれはリスト形式にしてこのサイトで公開する予定です。お楽しみに。それでは本年もどうぞよろしくお願いいたします。
去年の日誌
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