Theatre Reviews
人間の普遍性の確認
芸術の殿堂&新国立劇場合作『その河を越えて、五月』イ・ミウォン(演劇評論家・韓国芸術総合学校教授) 「韓国演劇」1993年6月号

2005年「韓日友情の年」を記念して韓日合同公演として『その河を越えて、五月』(平田オリザ・金明和作、平田オリザ演出)が再演された。この作品は既に2002年韓日ワールドカップとのきに公演されたが、韓国では韓国演劇評論家協会から「今年の演劇ベストスリー」に剪定されたし、日本では最も重要な演劇賞のひとつと言う朝日新聞演劇大賞 [訳注:朝日舞台芸術賞グランプリ] を受賞した。ワールドカップが盛り上がっていたときにたった四日間の公演だったことに比べ、今回は大きな波紋を巻き起こしたと言えよう。いわゆる行事的な親善合作公演に関心の無かった筆者は初演を逃しており、今回の再演は期待が大きかったし、その期待は感動に近づいた。

公演で最も眼にとまった点は親善合作公演であるにも拘わらず、どんな政治的メッセージや性急な和合も狙わなかったという点だ。そのまま穏やかに生きる話が繰り広げられる。韓国語を学ぶ日本人語学生らとその韓国語の先生の家族が漢江辺りに花見に出かけるという簡単なストーリー構造を通じ、両国の懸案や慣習および在日韓国人の問題、世代間の葛藤、民族性が浮かび上がる。「花見に出かける」というのはそれじたい日本との関係を内包しており、桜は日本の国花である。花見は間違いなく日本に由来するものであろうし、偽ものを「サクラ」と卑下しながらも、われわれは花見に行きその美しさを楽しむ。まさにこのような両面性を作品は忌憚無く見せている。韓国と日本、各社会の両面性がこまごまとした話の中で人間的な普遍性を獲得することで、作品は政治的和解を狙わなかったにも拘わらず、どの作品よりも二つの文化を近くした。

韓国側の話は下の息子がカナダへ移民を計画しており、この事実を今回の花見を通じて母親に伝えようとすることだ。早期退職、公教育の空洞化と私教育費などが移民の理由となっており、韓国の懸案問題がそれとなく滲み出る。臨時で韓国語の先生をやっている長男はみずから小説家を夢見る閑人で結婚もしない。彼らを通じて執着しない成功しようとしない今日の若者像が浮かび上がり、これもまた問題と感じられる。いっぽう、母を通じて自らの根を探り血脈への執着があらわになる。そうはいいながらも、結局は息子の移民を許諾する寛容な韓国の母親像が描かれている。

反面、日本側の話はストーリーラインが少し模糊としている。幼い頃、植民地時代に韓国で暮らしたという慎み深く優しい主婦佐々木ひさこ、内省的だとかで社会と断絶してぶらぶらする若い林田、誠実だが何事にも細かいセールスマンの西谷、自分の属する社会に対する自覚無くはっきりしない状態で生きている在日韓国人の射撃選手、妻とはぐれたという観光客など、彼らは暗に日本を表している。帝国主義の日本であったが、日本の行った行為とは関係なく優しい主婦佐々木や、自身の誠実さを武器に他者を排斥する一般的なセールスマンは典型的な日本の旧世代の姿だ。自分の名前までも忘れた観光客は家庭内の女性パワーとショッピング観光烈風が生み出した犠牲の様に映し出された。内省的で内面にのみ深く入り込む林田はいじめなどの日本の教育の問題を感じさせる。「今はそうでもない」と言いながらも在日韓国人に問題が無いとは言えない、アイデンティティに混乱を感じさせる射撃選手もやはり変わっていく日本社会を反映する。平田オリザの「静かな演劇」スタイルが感じさせる構成で、直接的な事件は無く、多様な人物がそれぞれ自身の生を少しずつ反映させている。

演出もやはりこまごまと日常を描き出している。言語を中心に日常を離脱する特別な動作も無いまま極写実主義に近く、舞台上の人物たちが描かれた。それぞれ韓国人と日本人で描かれ、舞台上では二カ国語の共存も自然に受け入れられた。のみならず、舞台の最も重要な舞台装置と言える桜の木は実際に花が咲いていた。公演のあいだじゅう、枝ごとに満開の桜の花は風が吹くと舞台上にふわりと落ちながら春の日の微風を感じさせた。じつに極写実主義をうまく反映する舞台セットだ。

母親(ペク・ソンヒ)と佐々木(三田和代)の演技も一品だった。成熟した二人の老女優の演技に韓国の母性と日本のつつましい主婦像が身近に感じられる。初演と同じ俳優がふたたび公演を行ったためか、異質感の多かった両国の俳優たちの出会いが自然なアンサンブルを奏でたのも公演成功のひとつの要素だった。逆上しやすい韓国人気質の次男(ソ・ヒョンチョル)と潔癖でしつこくて偏狭な日本人像西谷(佐藤誓)のあいだにさえもけっきょく相手を認める和解があったのは人間の普遍性に訴えたからだろう。

独島や教科書問題で韓日関係が穏やかではないこの頃、この合作公演は文化交流の多くのことを考えさせる。「互いを少しずつ知りながら、21世紀の歴史が始まれば良いと考えた」という作家金明和のことばのように、真正な交流は高尚な名分やイシューではないようだ。既存の韓日関係演劇が主に韓国の被害者の立場を強調していたが、真正な理解や葛藤は無かったと言っても過言ではない。『その河を越えて、五月』が見せてくれたのはけっきょく人間相互の普遍性の確認であり、これを確認するとき、よしんば多くはないとは言え、さらに一歩互いに歩み寄ることができるという事実だった。この小さなしかしあまりにも大切な発見こそ、塞がったような韓日交流の導水路を開くいとぐちではないか?

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