「韓国演劇の現状」 車凡錫(チャ・ボム-ソク)
このページは韓国文化院の発行する雑誌「韓国文化」1996年5月号の特集記事「韓国の演劇」を転載したものです。転載するにあたり、韓国人人名に原文には無いふりがな(カタカナ表記)を加えました。

演劇熱と劇団の悩み

ソウルの中心街近くに位置する東崇洞(トンスンドン)は別名大学路(テハンノ)と名付けられている。大学路とは元ソウル大学校の文埋科大学の趾に由来するが、その大学路こそが韓国演劇のメッカでもある。この一帯には約40カ所の大小劇場が密集し、演劇・舞踊そしてライブコンサートの公演が年中行われている。また週末には伝統芸能の一つである農楽をはじめ、ポップアートや四物(サムル)ノリ、そして大道芸人などさまざまなアーティストを総動貝して盛り上がりを見せ、若さとロマンが若者を解放感に酔わせている。また各大学の周辺にもかならず小劇場があり、ソウルには50カ所以上の劇場があるという実状も、演劇熱の高さを物語っている。

専門劇団は一応、社団法人韓国演劇協会に登録することを原則としている。現在ソウルの演劇協会に登録されている劇団は47。国立中央劇団や市立劇団などを含む全国的に組織されている演劇協会支部傘下の劇団まで数えれば優に150を上回る。道庁所在地はもちろん、各市にはいわゆる「文化芸術会館」が設けられ、劇場数はある程度のバランスを維持しているのが実態である。だがこうした外面的な活発さとは別に、劇団運営や質的内容面においてはそれなりの苦しさや間題もつきまとう。その中でも財政の貧困と人材の不足が愁眉の間題である。すなわち、大部分の劇団が若さと情熱だけで集まったものだけに、これというパトロンや支援策がない状態であり、国立や市立劇団も政府から予算が割り当てられてはいるものの、子算不足に対する不満は今も昔も変わらない。

しかし韓国では文化芸術育成を目的とした公的な組織が別に存在する。「韓國文化藝術振興院」がそれだ。いわば日本の「国際交流基金」に該当するもので、文学・美術・音楽・舞踊・国楽そして演劇など、芸術全般にわたり支援金を支給している。とくに演劇の分野では創作戯曲および創作劇の振興に力点を置き、毎年秋には「ソウル演劇祭」を催して、審判制による賞金支給と海外視察旅行の恩典を与えており、今年ですでに20年の実績を残している。また全国に散在する地方演劇集団に対して「全国演劇祭」を設けて賞金を支給するなどの取り組みも14年目を迎える。しかしこのような政府側の支援策はあるものの、諸々の劇団や演劇人にとっては焼け石に水との不満の声は多い。それでも若者たちの演劇熱は冷めようとはしないが、だからといって観客の数が多いわけでもない。

「韓国的演劇」の背景

以上のような実状のもとで公演される演劇を様式的に分類すると、およそ次の三種類に分けることができる。その一つは欧米式の古典ならびに現代劇の導入、二つ目には1930年代から日本の新劇運動の影響を受けたリアリズム演劇を土台とするオーソドックスな正統演劇、そして三つ目は韓国の伝統芸能や西洋の古典の現代化連勤である。もちろんこれ以外に韓国伝統芸能を保存継承する動きもあるが、それらは一例を挙げれば主に国立劇場や国立国楽院などで行われるパンソリや仮面劇などである。このような現状をみると韓国の演劇は古典と現代が幅広く扱われており、伝統芸能から新劇・前衛劇・不条理劇そしてミュージカルにいたる多様な活動ぶりが窺えるといっても過言ではない。とくに若者たちの実験劇や新しい時代への飽くことなき欲求は、1960年代の日本のアングラ演劇を連想させる。またセックスや暴力などもあえて舞台に引き寄せて賛否論争を巻き起こす例もみられる。しかしかならずしも韓国の舞台を、一概に西洋かぶれしているとか真似ごとだと言うわけにはいかない。なぜなら演劇界の一角ではいわゆる「韓国的演劇」や「民族劇」を試みる集団もあるからだ。

韓国の文化芸術界で「韓国的」とか「民族的」という単語がおおやけに使われるようになった背景には、政治状況との関係が深い。言い換えれば5.16軍事クーデター以後、反体制の意識が演劇を通じて具体化された実例もある。しかしもう一歩深く踏み込めば、朴正煕政権が声高らかに唱えた「主体性確立」という政治的理念をその基盤に置いたとみてもさし支えないだろう。日本帝国主義による植民政策圧政からの解放以後、政治的ィデオロギーの対立と韓国戦争の混乱の中で失われた「民族的主体性の回復」という政治的発想をいち早く考え出したわけでもある。そして今まで日本やアメリカに追従した過去を清算するには何よりも「韓国的」なものでなければならないという立場から、民族主義と伝統文化へふたたび照明をあてることを試みた。いわゆる「韓国的民主主義」という新造語も、そのような祝点から生まれたのである。

ところが、このような政治的自覚がいち早く独裁政権の新体制に反対する大学文化を芽生えさせたことは興味深い。すなわち大学キャンパスでの民主的開放運動は韓国的文化の創造と反日・反米運動につながり、「マダン劇」や「タルチュム(仮面劇)」、そして匹物(サムル)や農楽(ノンアク)を習うサークルを急増させた。それは明らかに日本やアメリカ色の影響の排斥・脱皮を意味しており、文化的アイデンティティを強調する若者たちの渾身の姿でもあった。それからおよそ20年。芸術的な演劇運動から商業主義演劇にいたるまでさまざまな個性を発揮している韓国演劇の現状は一応、活気に満ちているといえる。しかし演劇自体の芸術性や成熟度においては批判の声も大きい。その中でも、もっとも目立つ傾向は商業主義や興行主義がもたらす文化的汚染である。

例を挙げれば、商業主義のサンプルともいえるミェージカル演劇の台頭がそれだ。すなわち、スターシステムによる興業性とマスコミを利用した誇大宜伝による集客行為の拡大化は、演劇の芸術性をまったく無視して収益計算に血眼になっているのが実状なのである。いままで貧しさや社会的差別と闘いながらまじめな演劇運動を守ってきた旧世代の演劇関係者や知識人たちにとっては、厳しい批判の対象ともいえる。しかし新世代の演劇に対する考え方ば違う。いわば"背に腹はかえられない"というべき風潮が徹底的である。また、演劇の商品価値を狙ういろいろな企画グループが目につくのも新しい傾向である。とくに観客第一主義を主張する立場では、お客に喜ばれるレパートリーの選定に何より垂点を置かれる。

韓国演劇の観客層はその8割を若い学生が占めており、しかもその大部分が女性であるとの分析はいろいろな点において興味深い。言い換えれば、創作戯曲よりも翻訳劇が圧倒的に苦い女子大生に喜ばれるレパートリーであるという結論に達するのである。もちろん演劇史的にみても、韓国の新演劇が日本演劇の流入に基づいているという過去の事実は見逃せない。1910年代から新派演劇が紹介され、1930年代に築地小劇場スタイルの新劇連動が韓国で芽生えた事実からみれば、翻訳劇が優勢だったことに疑いの余地はない。それは小劇場演劇運動が始まった1950年代から約20年間、翻訳劇と創作劇の比率が7対3だったという統計にも表れている。しかしその比率がついに3対7に逆転した現代においても、やはり観客の関心度は翻訳劇の方が上回るのである。ギリシヤ劇、シェイクスピア、モリエール、ゲーテなどの古典劇はもちろん、ユージン・オニールやテネシー・ウィリアムズ、アーサー・ミラーなどの現代アメリカ作品が親しまれるのは碓にでも頷ける風潮である。しかし最近では、アメリカからョーロッパに関心が移る傾向が目につく。ディレンマット、ハロルド・ピンター、ジョン・オズボーン、ピーター・ハントケ、イオネスコ、ベケット、ジョン・オケイシー、アラバール、ジャン・ジュネなど不条理演劇が頻繁に公演される傾向を通して若い世代の好みを推測することができる。

29KB/GIF 伝統的なマダン劇

活躍する劇作家たち

しかし創作劇が最近が著しく増え、韓国の演劇が活気を見せているのは前述したソウル演劇祭の結果とみて間違いない。ソウル演劇祭は劇作家たちの新作を前提とし、その脚本料は主催者側で支給する規定である。したがって普段戯曲を書いても劇団側から積極的な関心を奇せてもらえないばかりか脚本科もまともに支払われない状況にいる劇作家にとって、演劇祭に参加できれば所定の脚本科を貰えるということは大きなやり甲斐となる。過去20年間にソウル演劇祭を通じて登場した劇作家は現在、韓国演劇界の中堅または重鎮作家として活躍している。金相烈(キム・サンヨル)、尹大星(ユン・デソン)、虞慶植(ノ・ギョンシク)、呉泰錫(オ・テソク)、李康白(イ・ガンベク)、尹朝柄(ユン・ヂョビョン)、李戴賢(イ・ヂェヒョン)、金義卿(キム・ウィギョン)、李萬喜(イ・マニ)などはその代表的劇作家たちである。その他、1950午代からすでに活躍を始めた劇作家には李根三(イ・グンサム)、朴祥烈(パク・サンヨル)、河有祥(ハ・ウサン)、李容燦、車凡錫など60年代から70年代の劇作家たちがいまなお活躍中である。

一方、演出家の進出も活発である。李海浪(イ・ヘラン)、李鎭淳(イ・ヂンスン)など終戦直後から韓国演劇のリーダー格だった人びとは数年前に亡くなり、その跡継ぎとして金正ト、林英雄(イム・ヨンウン)、権五鎰などが60年代から、孫振策(ソン・ヂンチェク)、金浩鎮、鄭鎭守、呉泰錫、金相烈、金孝経、康栄傑、金亜羅(キム・アラ)、蔡允一(チェ・ユニル)など若い演出家がいま韓国の演劇を担っている。とくに金正トが主宰する劇団「自由」と林英雄が卒いる劇団「サヌリム」、呉泰錫が代表である劇団「木花」などは、アメリカ、フランス、ドイツ、アイルランド、日本など海外演劇フェスティバルにたびたび参加して韓国演劇の紹介や交流に気炎を吐く活躍ぶりである。現代劇の土台作りは、その歴史の浅さにもかかわらず若い世代の創作欲は熱く、最近欧米諸国の留学から帰った人びとによる演劇連動もこの先頼もしい。

時代の流れと演劇

しかし韓国演劇の真顔を的確に指摘することは難しい。なぜなら各自の主観によって異なりうるし、その底辺に敷かれている民族意識や芸術的見解にはデリケートなニュアンスさえ感じられる。「韓国的な演劇の創造」というスローガンはいまの韓国演劇人の大部分が持っている共通点でありながら、はたして何が「韓国的」なのかという間いに対する答えは十人十色である。前述した大学生などの演劇運動から芽生えた「民族劇」の一般的特徴は、従来の無批判的な西洋演劇の受容や日本の演劇(新派、新劇ともに)からの脱皮を主張する。したがってその具体的的方法として、伝統芸能や古典文学からもっとも韓国的情緒が溢れる遊戯性、とくに風刺や諧謔性に富んだ作品を意識的に公演する傾向も見逃せない。とくに軍事独裁政権下においては、反政府的発言や革命連動への拡散を狙った演劇や、パンソリを現代化した演劇も公演された。詩人の金芝河やパンソリの林賑沢、作曲家の金民基などはその代表的人物でもある。のみならず、こうした一連の演劇サークルは文化的事大主義への反発と政治的独裁性に対する厳しい批判勢力であったことも見逃すことはできない。とくに「5.18光州抵抗運動」を契機としたその根源問題の迫及を、全羅道民の名誉回復に基づいて興った「マダン劇」がいまなお根強く粘りをみせていることも、韓国的演劇の一面といえよう。

しかし金泳三大統領率いる文民政府の成立後、このような鋭角的で闘争的な演劇は多少色あせてきた。この傾向は演劇ばかりでなく、文学、映画、そして大衆音楽にも同様に現れている。文学界では「民衆詩」という、いわば反独裁、反民主的社会現象を告発する傾向の詩が影を潜め、叙情的で主観的な感性を強調する詩が目立ってきたのもその一例である。このような時流は演劇界にも急逸に現れつつある。その一つがミュージカル演劇の拡散である。元来ミュージカルは、アメソカ特有の形式娯楽演劇として評価されてきたものの、いまや企世界の劇場の七割を占めるのが現状である。だから韓国の舞台にミュージカルが登場しても何の不思議もない。ある意味では国際化、世界化に脂がのっていることの証拠でもある。

しかし韓国演劇界でのミュージカルのあり方は財政的貧困と家内工業的舞台制作の現場など、徹底した商業主義演劇としての完成度からはほど遠い。とくに音楽(作曲)や舞踊(振付)は初期段階にとどまっている。結局、韓国的劇作ミュージカルはいまなお未来の夢でもある。それでもここ10年近くミュージカル演劇は観客に喜ばれてきた。「サウンド・オブミュージック」「ウエスト・サイド・ストーリー」「王様と私」「ジーザス・クライスト・スーパースター」「エビータ」「ラマンチャの男」「ガイエンド・ドール」「屋根の上のバイオリン弾き」「レミゼラブル」「キヤッツ」「オリバー」「ピーター・パン」…。ブロードウェイの舞台で花を咲かせた数かずのミュージカルが、韓国の舞台でも登場し観客を喜ばせた。とくに若者たちや子供たちの熱狂ぶりはスポーツに対するそれと変わらない。

「なぜミュージカルが当たるのか?」という間いに対する答えは、「ミュージカルは楽しいから」のひと言に尽きる。現代の観客が劇場を訪れる理由は、その「楽しさ」を求めるからだという言い分には誰一人反論する者はいない。とくに砂摸のように荒れ干からびた現代社会の中で、気楽に、そして徹底的に楽しませてくれるミュージカルはまさに願ったり叶ったりの存在なのかも知れない。新劇のように政治的意識や杜会告発など理屈っぽいメッセージに耳を傾けるのは、愚の骨頂なのかも知れない。いま韓国の演劇界は、従来の硬直した表情や口角泡を飛ばす論争のようなセリフには飽きたのかも知れない。いまは「楽しい演劇」をやるべきだと気炎を吐く若者が増える一方である。このような時流にのってもう一つの商業演劇が姿を現した。いわゆる「楽劇」という名の大衆演劇である。「楽劇」とは「懐かしのメロディ」に該当する古い流行歌をドラマの中に織り込み、踊りも楽しめるといったひと昔前の大衆演劇である。そしてその骨格ともいえるドラマの内容は、新派劇を主にした「メロドラマ」だ。役者はテレビドラマで顔なじみの面々がオールキヤストという建前だけに、観客は大満足という商才の発揮ぶりである。「いま時なぜ時代後れの楽劇なのか!」悲憤慷慨する評論家や知識人の声が無きにしもあらずなのに、楽劇こそ「韓国的」ミュージカルだと批評する声もまた間こえてくるようだ。

韓国演劇のこれから

時が変われば物事も変わるのが世の常ながら、このような演劇の変わりようは一種の異質感を抱かせる。だからいまの韓国の演劇は、上は伝統芸能から下は楽劇にいたるまでの品揃いができあがった状態である。しかし悪貨が良貨を駆逐するという経済学の埋論がピタリと当てはまるかのように、観客層は良質の舞台よりも質の低い方に気を取られる傾向が演劇界の悩みのタネである。それでははたして韓国演劇で良質といわれる演劇とは何を意味するのか。この間題に関する限り、伝統芸能やシヤーマニズムの現代化ないし接ぎ木を試みる一群の若い劇団と、西洋の古典劇の韓国化、国際化に情熱を注ぐ人びとがいる。

とくに韓国の巫俗(シヤーマニズム)は音楽と踊りと語りの三拍子が揃っているばかりでなく、死と生の世界を自由に往来しながら涙と笑いを誘うその独特の形式は韓国的色彩が強い。それば韓国演劇の個性であると同時に、グローバルな普遍性もあわせ持つ。一方、西洋の古典劇を翻案または再構成する新しい傾向もある。「オィディプス王」「アンティゴネ」「メディア」などのギリシヤ悲劇をはじめ、シェイクスピアやゲーテまで幅広く取り上げている。このように、いま韓国演劇は凄いバイタリティとエネルギーを発散しながらまっしぐらに走りつづけていることは間違いない。そして明日への期侍も、若者たちの肩にかけてもよいだろう。

© 車凡錫(チャ・ボンソク)&韓国文化院 /岡本昌己(SPAM対策:*を@に置き換えてください)