解放空間の韓国演劇 車凡錫(チャ・ボンソク)
このドキュメントは韓国演劇協会の発行する雑誌「韓国演劇」の2000年1月号から4月号に連載された、車凡錫先生の記事『失われた歴史を尋ねて-解放空間の韓国演劇-』を翻訳したものです。著作権は車先生と韓国演劇協会にあり、翻訳の責任は岡本にあります。

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2000.1

1.はじめに

歴史は記録である。客観的な記録である。その記録が後世の人々に史実を伝えることをもって、それに対する評価と認識をもたらすことになる。その評価と認識が再び引き継がれるとき、それはまさに歴史という名でわれわれに歩み寄る。ところで韓国演劇史を紐解いてみると、その中間部分と言うべき解放空間 [訳注:解放空間とは1945年8月15日に日本の植民地から解放されてから南北分断までを言う] の演劇が踪跡をくらましている。より正確に言うならば抹殺されたと言っても過言ではない。少壮学者たちの論文によれば、そもそも記録自体も無いうえに、論及された結果が事実とまったく異なる表出をしている。敢えて言えば、それらの筆者が解放空間の演劇に接する機会が無かったことにもその原因があるが、すでに叙述された論文の内容が客観性を失っていたり、あるいは偏頗的な表出をしている部分までも盲目的に転記する誤謬を犯している。つまり歴史は客観的な記録であるという大前提を無視して、自身に有利にのみ書いてきたという、一般的であり偏頗的な記述の慣行をそのまま続けてきたといっても過言ではない。すなわち、歴史の大きな流れの中である時期の歴史を根こそぎ抜き出したり埋没させてしまう無知と無責任を躊躇しなかった結果である。

このような事実をそのままにしてきた原因は、まさに政治的な理念の葛藤と対立、そして民族史観の作為的な修正から始まっていることをわれわれは率直に認めないわけにはいかない。1945年8月15日の感激と興奮、そして奪われていた主権を取り戻した民族的な感動も一時的な興奮にすぎず、ついには政治的理念の対立と敵対心が祖国分断の悲劇にまで深化したことから来る、ひとつの後遺症だと見ることもできるだろう。そして分断された二つの国土で、それぞれが銃剣を突き合わせて戦闘を続けるほか無かった極限的な状況の中では、誰も真実の歴史を主張する勇気さえ無かったからだ。まんいちその誰かが歴史の記述や修正を主張したとしても、それもやはり永遠にこの地上からその失われた歴史とともに自身の形跡すらも失うほか無かったことが、過ぎ去った半世紀間のわれわれの歴史的現実だった。50年のあいだ、われわれが望むと望まずにかかわらず強要と甘受を要求された反日・反共の国策は、またひとつのまちがった民族主義まで創出した。政権を掌握した統治者たちはそのたびごとに、その反共と反日政策の剣を国民に振りかざして、抑圧と恐怖政治までもためらうことなく恣にした。このような中に歴史意識の消滅と無関心、そして安逸な他人まかせと利己主義はついに韓国演劇史の中からある時期の歴史を抹殺したわけだ。それがまさに解放空間の演劇史である。

私はずいぶん前からこの失われた歴史の復元と整理が必要だと思ってきた。それはある主観的な好みや偏頗的な発想からではなく、事実を事実のままに認識し把握しなければならないという素朴な思いからだ。それはあくまでも冷徹な客観主義に根底を置くが、その質的な評価や歴史的意義はこの方面の専門家に任せなければなるまい。こういうわけで、私は失われた歴史を認識しなければならないというところから始めれば良いだろう。それは必ずや南北統一の夢をかなえさせるであろうという望みからである。

2.解放空間の演劇

1945年8月16日。ソウルの鍾路(チョンノ)、和信百貨店 [訳注:鍾路2街.いま国税庁の建物のある場所] の向かい側にあった韓青ビルで「朝鮮文学建設本部」が結成された。日本が敗亡し祖国が光復したという感激による反射的現象だった。これからはわれわれの文字と言葉で堂々と文学作品を見ることができるという自負心と一体感で団結した集団だった。そしてそのつぎの日、「朝鮮演劇建設本部」が結成されたのたが、ほどなく音楽や美術・映画界でも、約束でもしたように建設本部が創設された。続いてこれら各機関団体をひとつにまとめて誕生したものがいわゆる「朝鮮文化建設中央協議会」であり、その主導的な人物は林和(イム・ファ)という詩人・評論家であり映画にも出演した才人だった。つまり祖国の解放とともに日本帝国主義によって抹殺されるところだったわれわれの文化芸術を光復させなければならないという、きわめて当然であり純粋な発想だった。そのためにこれらの傘下団体には、その当時のすべての芸術家が総集合した。それらは過去の日帝36年の圧制下に成り立っていた過ちや失敗は不問にし、ひとつの民族的総和をそのモットーとした。

演劇界もその例外ではなかった。いわゆる新派や楽劇のような低質の興行劇に従事していた者までもがその傘下に入った。李曙ク(イ・ソヒャン)、羅雄(ナ・ウン)、安英一(アン・ヨンイル)、徐恒錫(ソ・ハンソク)等の演出家、劇作家では宋影(ソン・ヨン)、朴英鎬(パク・ヨンホ)、金兌鎭(キム・テヂン)、金承久(キム・スング)、申鼓頌(シン・コソン)、趙靈出(チョ・ヨンチュル)、朴露兒(パク・ノア)、林仙圭(イム・ソンギュ)、秦雨村(チン・ウチョン)、咸世徳(ハム・セドク)、金永壽(キム・ヨンス)らが、そして金一影(キム・イリョン)、蔡南仁(チェ・ナミン)、林明善(イム・ミョンソン)等の舞台芸術家たちと、演技者としては当代のスターだった黄K(ファン・チョル)、「勇(ペ・ヨン)、徐一星(ソ・イルソン)、韓一松(ハン・イルソン)、朴齋行(パク・チェヘン)、沈影(シム・ヨン)、太乙民(テ・ウルミン)等の男優と朴永信(パク・ヨンシン)、金陽春(キム・ヤンチュン)、ユ・ギョンエ、劉桂仙(ユ・ゲソン)、姜貞愛(カン・ヂョンエ)、南呂蓮(ナム・ヨリョン)、金nq(キム・ボッチャ)、文貞(ムン・ヂョンボク)、林孝恩(イム・ヒョウン)、韓銀珍(ハン・ウンヂン)、金仙草(キム・ソンチョ)、陳娘(チン・ナン)等の女優たちが総網羅された。のみならず、金海松(キム・ヘソン)、宋煕善(ソン・ヒソン)、尹富吉(ユン・ブギル)、朴九(パク・ク)等の楽劇に従事していた者までも参与していた事実を見ても、彼等の目標としたことが何であったのかを推測できる。演出家安英一が1947年度版芸術年鑑に寄稿した文を引用するならば、

『朝鮮文化建設中央協会を通じて協議・決定した朝鮮演劇の基本方向が、最初に日本帝国主義によるいっさいの野蛮で欺瞞的な文化政策の残滓を掃討し、これに浸潤した文化反動に対し呵責の無い闘争を展開すること。二つめに、演劇における徹底した人民適合の基礎を完成するために、いっさいの封建的要素と残滓の清算のために活発な闘争を展開すること。三つめに、世界演劇の一環としての民族演劇の啓発と高揚のために必要なすべての建設事業を設計すること。四つめに、文化戦線における人民的会同の完成を期して、強力な文化の統一戦線を組織することなどにあるを認識し、その具体的な条項を採択してわが演劇運動の新しい旗印としたのである』

と、闡明したものがある。われわれはこの趣旨文から解放空間の演劇界の流れをいくつかに要約することができる。すなわち「演劇同盟」と称したわが演劇の目的は「日本帝国主義によるいっさいの野蛮で欺瞞的な残滓を掃討し、封建的要素とその残滓を清算するための闘争」がまさにそれだ。36年間のあいだ、日本の植民地圧政下でわが民族がこうむった被害と犠牲と屈辱に対しては皆が憤慨したし、ひきいては報復行為までもためらわなかったのはまさに解放直後の文化・社会の全般的雰囲気だった。したがって演劇界もその潮流に従うほか無かった。

解放なったとたん、もっとも性急に旗印を掲げた者は主に過去に東洋劇場に本拠地を置いていた劇団と、そこから脱退して劇団を作った者たちだった。そして解放直前までは低俗な演劇を行ってきたが、いまや民主主義的な国家建設に貢献する演劇を指向しようとした情熱は認めるべきであろう。したがってそこにはいわゆる政治的色彩というものは見ることはできなかった。とくに共産主義を信奉したり宣伝道具化する演劇はありえもしなかった。その証拠として劇団全線(チョンソン)を上げることができる。この劇団は解放直前にソウル(当時は京城)に出てきていた日本人演出家であり作家でもある村山知義を中心に公演を行っていたという事実だ。解放直前の韓国演劇は文字そのままに、皇国臣民化とみずからは聖戦と主張していた侵略戦争を促進させるための、いわゆる「国民演劇」一色だった。そのうえ黄金座(ファングムヂャ)(訳注:いまの国都劇場)と若草劇場(訳注:いまのスカラ劇場)にそれぞれ城宝歌劇団と若草歌劇団という専属団体を置いて、演出と振り付けや照明・装置など舞台メカニズムの現代化のために多くの日本人芸術家たちが出入りしていた。のみならず、映画界でも内鮮一体を叫ぶ合作映画が相次いで制作・上映されていたが、『望楼の決死隊』『おまえと俺』『若い姿』などがその代表的な例だ。そのうえ職業劇団も一編の長幕劇とともに、必ず日本語による一幕劇(原文は単幕劇:訳注)を義務的に上演するようになっていた。日本の劇作家三好十郎の代表作『寒駅』を観覧したのもまさにこの時期だった。

このように映画と公演界にあわただしく日本人たちが出入りするようになったが、村山もその代表的な人物である。彼は日本国内でも指折り数えられる演出家であり親韓派であった。彼は東京の劇団新協の主導的メンバーだった関係で、東京留学時に学生芸術座と因縁を持っていた李化三(イ・フェサム)、李海浪(イ・ヘラン)、金東園(キム・ドンウォン)、許執(ホ・ヂプ)らと親交があり、黄Kや沈影らとも顔見知りだった。ところが思いもよらず「8・15解放」を迎えることになり、日本人たちの出国は難関に逢着した。そのころだれかが村山が滞留中に演劇をやろうと提議した。その提議を受けたのが劇団全線だった。そしてレパートリーは村山が新協で公演していたゴーゴリ-の『検察官』に決まったのもじつに自然ななりゆきだった。

日本が敗亡したことにもかかわらず、日本人演出家を立てて演劇を上演したという事実は、どうみても純朴な演劇人たちの気持ちの発露だと見ることができよう。日本人の財産を敵産という名目の下に強制占拠して、略奪と暴行までもためらうことなかった険悪な社会的雰囲気の中で日本人と公演をもったということは、おそらく芸術には国境が無いという単純な論理からだったし、ヒューマニズムの作用という点もけっして排除できないだろう。それほどまでに演劇人は純真だった。

いっぽう、そこかしこで劇団が創団された。それなりの主張や綱領規約もあったが、演劇をより活発にしてみようという情熱を意識する余地は無かった。記憶をたどってみるに、自由劇場・ソウル芸術劇場・朝鮮芸術劇場・革命劇場・百花・チョンポド(訳注:青葡萄)など、読んで字のごとく雨後の筍のような創団ブームだった。そして創団公演を最後にして消えていった短命の劇団も数多くあった。

演劇界は活気を帯びてその声は大きかった。ちょっとした芸術家たちの集まりで、いつも司会をしたり宣言文の朗読を引き受ける者は間違い無く演劇人たちだった。ところで、このような渦中にただ一人憂鬱にすごさなければならない者がいた。他でもない、日帝末期に「朝鮮演劇文化協会」に積極的に参与して、いわゆる「国民演劇運動」に献身的に努力した者たちだ。まさに柳致眞(ユ・チヂン)と彼に従う演劇人たちだった。柳致眞は現代韓国演劇史には欠かすことのできない演劇界の巨木である。1931年に創団した劇芸術研究会の創団メンバーであり、その実質的な牽引車の役割をしていた指導者であったことは間違い無い。しかし彼は1941年に劇団現代劇場を創団することをもって、朝鮮総督府が主張していた国民演劇樹立運動に積極荷担した。彼が現代劇場を創団したことはそれなりの事情があった。彼は過ぎ去った劇芸術研究会時代から夢見てきていた演劇的な青写真を実現するためには、朝鮮総督府の財政的援助を利用するほか無かった。実質的に一切の財政的な後援を約束された彼は演劇公演のみならず、新人養成と体系的演劇を樹立するために断然頭角をあらわした。場合によれば、演劇界の新しい流れをひきいていたと言っても過言ではなかった。戯曲『北進隊』『黒龍江』『なつめの木』などはまさにこの時期に公演した作品で、いわゆる国民演劇運動の先頭に立った。国民演劇の概念はひとことで言うと日本政府が宣布した新体制精神に順応した演劇を通じ、国民たちの皇民化に寄与しようというところに意味があった。

柳致眞は加熱していく戦局の変化の中でもただ演劇にのみ夢中になっていた。彼は1945年8月14日、若草劇場で弟子である若い劇作家朴在成(パク・チェソン)の戯曲『山鳩』を公演していた。次の日、日本敗亡の消息を聞いても幕を開けるほか無かったほど、演劇にすべてを捧げた人物だった。このような来歴を持つ柳致眞においては、「8・15解放「は絶望と煩悶と慚悔の日々だった。彼はほとんど蟄居生活にうずもれていた。しかし外の雰囲気は興奮の坩堝であったし、演劇公演は続いていた。この時期に公演された重要な作品をあげれば下図のごとくである。

劇団名作品名作家演出上演時期
朝鮮演劇社『妻の道』李雲芳(イ・ウンバン)李雲芳1945/8/13-18
現代劇場『山鳩』朴在成(パク・チェソン)柳致眞(ユ・チヂン)1945/8/14-16
一五劇場『天佑丸』金建(キム・ゴン)訳金旭(キム・ウク)1945/10/11-
楽浪劇会『山賊』シラー/咸世徳(ハム・セドク)訳咸世徳1945/10
青春劇場『3・1運動と金相玉』金春光(キム・チュングァン)金春光1945/11/30
青葡萄『草原の祭典』ハン・ビョンドクパク・サンヂン1945/10/27-
朝鮮芸術劇場不明李箕永(イ・ギヨン)安英一(アン・ヨンイル)1945/11/25-
學兵同盟文化部『血流れた記録』金旭金旭1945/11/20-
土月会『四十年』朴勝喜(パク・スンヒ)朴春明(パク・チュンミョン)1945/12/16-
革命劇場不明朴英鎬(パク・ヨンホ)朴春明1945/12/23-29
全線『胡蝶』金史良(キム・サリャン)安英一1945/12?
民芸『カチューシャ』トルストイ李光來(イ・グァンネ)1945/12/25-

解放の感激と興奮はいまだにさめず、物資と技術が貧困な中においても演劇人たちは、ただわれわれの言葉で堂々と公演を行えることだけでも希望を感じた。そして演劇同盟が政治的色彩を帯びていたということは事実であるが、とはいえ彼等が舞台にあげた作品を見ると、いわゆる共産主義思想を宣伝したり階級闘争を先導するプロレタリアート演劇は見出すことができなかった。にもかかわらず、一部評論家たちは解放直後の演劇がそろって左翼演劇人たちによる共産主義あるいは左翼思想を伝播させる宣伝演劇だったと言うその論旨はどこにあるのだろうか。その主張が事実とは距離があるということは、上に列挙した作品を見てみれば一目瞭然である。

冒頭で既に言及したが、「8・15解放」直後から1945年の年末までに行われた演劇は、政治的色彩やその理念伝播とはまったく関係が無かった。ただ演劇人は舞台に戻らなければならなかったし、そのためには日帝の残滓から抜け出た作品を選択する道しか無かった現場性をわれわれは容易にうかがい知ることができる。そしてそのレパートリーの一般的な傾向が日帝の罪悪史暴露と、一方では懐古的趣向が色濃く垂れ込めていたということもひとつの特徴である。しかしながら演劇界は周辺の政治的・社会的急変のなかで、しだいに変化が生まれ始めた。最初は李承晩(イ・スンマン)博士の帰国による政治界の変化、そして遅れて上海臨時政府要員団金九(キム・グ)一行の帰国による動揺だ。それは結果的には南韓単独政府樹立案と南北統一政府樹立案をあいだにして繰り広げられた暗闘であり、集団利己主義だと言っても過言ではない。そして南韓は米軍政庁の掌握下におかれており、以北 [訳注:38度線から北を以北(イブク)と呼ぶ] と連携した南労党(南朝鮮労働党)路線を支持する勢力が粘り強い策動を始めた。

しかしむしろ演劇界にはつむじ風が吹き始めていた。1945年12月26日モスクワ三相会議で韓国の信託統治案が可決されるやいなや、国内は沸き返るように騒乱した。日帝の鉄鎖から解き放たれたのが先々日あたりのことなのに、再び外国の信託統治を受けるという事は、誰が見てもまちがった決定だった。それはまさに米国とソ連がそれぞれ南北を分割統治しようという野望であったので、誰が反対しないだろうか

1946年1月2日、全国演劇人大会(委員長宋錫夏)を挙行し、信託統治に反対する声が首都に響きわたった。それは民族をあげての声でもあり、演劇人全体の意志だった。しかし事態は突然変化した。次の日に南労党が「反託」ではなく「賛託」を支持する声明を出すやいなや、演劇同盟傘下の劇団の中のいわゆるプロレタリアート演劇同盟に加入した劇団、革命劇場・解放劇場などが先頭に立って激烈に行動を行った。これを契機に演劇同盟内部でも分裂が起こり始め、いわゆる過激派と穏健派そして中道派に別れた。それは背後で調停した南労党の指示を全的に受容する側と、批判的な暗黙として受け入れた派との暗闘であると言っても過言ではない。1945年が過ぎて1946年が明けながら、演劇界は騒乱となった。さりとて演劇同盟の独走を食い止める勢力はいまだ現れなかった。

2000.2

3. 3・1節演劇祭

芸術と政治は全然別個の概念として知られていることはひとつの常識だった。芸術はあくまでも人間の根源的な精神世界を思惟と観察と表現を手段とする、より純粋で高尚な創造作業として認識される。文学をはじめとする美術や音楽など、純粋芸術を探求する芸術家たちの嗜好と気質はいわゆる政治的な色彩や理念の中に迎え入れられることを敬遠したし、ある程度距離をおいてその外郭にとどまっていることが日帝時代からの芸術界の風土だった。したがって芸術はあくまでも芸術であるのみ、それ以上でも以下でもないある絶対値に固執する風潮として認識されたことも偽らざる事実だった。しかし1946年が暮れゆくなかで、韓国の文学芸術界ではひとつの地殻変動が起こっていた。それはいわゆる「民族文学論」およびその「民族」の概念規定を問う論戦がまさにそれだ。

文学家同盟の中枢的な役割を果たしてきた評論家林和(イム・ファ)と金東錫(キム・ドンソク)らは新しい歴史創造に備えて「真正な民族文化」を樹立しなければならないと意見を集めた。そしてその民族という概念の骨子を次のように規定して、徹底した民族改造論などを主張した。それはある意味ではあまりにも妥当な主張だった。

  1. 親日派・民族反逆者の除去
  2. 悪徳地主と資本家の追放
  3. 良心的な小市民と知識人そして労働者・農民たちの擁護

しかしわれわれの固定観念としての民族という概念は、国土・血縁・風習そして伝統など、その情緒的な同質性を維持する集団として認識されてきたものであろうから、賛否両論のなかにあまりにも異質なものとして受け入れられた。言い換えれば、いくら同族であると言っても過去に親日派・民族反逆者や地主・資本家はわれわれの民族とは言えないという論理は予想外に大きな波紋を引き起こすことによって、危機論まで台頭した。そしてそれはすぐさま反発を招いた。その主張に誰よりも反発した階層は、その当時「以北」で粛清されたり、本意ではなく越南して来た越南同胞だった。彼らの大部分が地主あるいは資産家だったということだ。そして南韓(訳注:大韓民国の意)でも過去に親日行為を行ったり民族に背反した人々は、やはり大部分が地主であり資産家だった。そのような人々が一度に同じ民族としての処遇を得られなくなったときの社会的混乱や深刻な葛藤を簡単には推測できなかった。そのようなわけで、1947年にあったあの有名な金東里(キム・ドンニ)と金東錫の文化論争も、突き詰めてみればその底辺に流れるしこりに起因した。

しかしわれわれの現実は予想外に政治圏に巻き込まれていた。それは米ソの共同委員会が失敗に帰するやいなや、国土分断の壁がさらに固まり、李承晩を中心とする「南韓単独政府樹立案」と金九などを主軸にする「南北総選挙を通じた統一政府樹立案」が尖鋭に対立するやいなや、われわれの社会はとうとう両分の様相を帯びた。そして文化芸術界もその政治的理念と無関係になれず、言論・新聞も人民日報と大同新聞が各派の代弁紙の役割をすることで、社会は混乱と暴力が乱舞した。そしてテロも赤色テロと白色テロに露骨化しており、米軍政庁の庇護にある勢力と実質的に南労党の指令によって動いている勢力の衝突は一日も止むことは無かった。彼ら二つの勢力は口々に相手を「赤狗」と「反動分子」という呼称で批判・罵倒した。赤狗はアカであり、反動分子は悪質反逆者を意味した。

このような状況の中でこの地の演劇はどの時点に至っており、どんな作品を公演していたのかをここで紐解いて見よう。1945年から1946年に入ってまず目を引く演劇行事は、「演劇同盟」傘下の劇団が参加した「3・1節記念第1回演劇祭」である。この間、演劇同盟は粘り強く声を張り上げており、「民族演劇建設」「民族演劇の改善」そして「民族演劇樹立」がまさにその代表的なスローガンだった。そして3・1節記念演劇祭に参加した作品は次のとおりである。

劇団作品名演出日時場所美術
ソウル芸術劇場『独立軍』趙靈出(パク・ノチュル)羅雄(ナ・ウン)2.26~東洋(トンヤン)劇場姜湖(カン・ホ)
朝鮮芸術劇場『3.1運動』金南天(キム・ナムチョン)安英一3.1~中央(チュンアン)劇場金一影(キム・イリョン)
革命劇場『ニム』朴英鎬朴春明3.4~国際(クッチェ)劇場蔡南仁(チェ・ナミン)
解放劇場『花と3.1運動』金健金健3.13~團成社(タンソンサ)未詳
自由劇場『3.1運動と満州令監』朴露兒(パク・ノア)李曙ク(イ・ソヒャン)3.23~首都(スド)劇場蔡南仁

以上の作品からわれわれに推測できる点は、その当時の演劇界の潮流が日本帝国主義の罪悪史や誤った歴史意識の清算を掲げながら、観客たちをして民族意識の鼓吹と民族演劇樹立というスローガンを具体化させようとしたことだ。したがって、その文学性はさほど高くはなかった。演劇内容がプロレタリア演劇や社会主義リアリズム演劇を標榜しえず、あるいは自然主義初期の暴露主義の傾向性でなければ、3・1節という時期に合わせた扇情性を意識した作品であったことを知ることができる。

ところでこの3・1節演劇祭が進行するあいだ、驚くべき事件が発生した。3月14日夜、演劇『ニム』の公演期間中、革命劇場がテロにあったことだ。劇団代表であり、主演俳優だった沈影(シム・ヨン)夫婦が腹部を拳銃で撃たれたのだった。犯人は逮捕されなかったが、演劇同盟に反対するいわゆる白色テロだったのだろうという当時の新聞の報道記事からも、われわれはこの時期の演劇界がどれほど深刻な対立に尖鋭化していたのかを知ることができる。いっぽう白色テロ事件が起こるやいなや演劇同盟はいっそう気炎を上げて、ソウル新聞社と共同主催で大々的な演劇祭を敢行した。自由劇場の『閔中殿』、楽浪劇会の『山賊』、芸術劇場の『任辰倭乱』、ソウル芸術劇場の『ノンゲ』、百花の『若い志士』など、おおよそ18個の劇団が23篇の作品で大挙参与することでその威勢を見せた。しかしその作品の質的な面ではいくつかの問題点を露出させてもいた。

現実を直視し新しい民族演劇樹立を志向する意欲的な作品があるかと思えば、以前に公演した新派劇あるいは通俗劇の二番煎じを取り揃えたにすぎない作品も無くは無かった。たとえば自由劇場の『流浪三千里』は新派劇作家林仙圭(イム・ソンギュ)の通俗劇であり、劇団楽浪劇会の『風の吹く季節』は既に日帝時代に公演されていた作品であった。かと思えば劇団青春劇場の『端宗哀史』『義士安重根』、映画俳優協団の『霧の港』などは啓蒙主義的史劇やメロドラマの範疇を抜けることのない水準だった。それに比して『閔中殿』『ノンゲ』『山賊』『任辰倭乱』等は私の記憶に残る良い公演だった。

4. 舞台芸術研究会の創立

にもかかわらず、演劇は旺盛な食欲を持つ若者の姿そのものだった。とくにこの時期に注目すべき演劇界の消息は演劇の再教育の試みだった。1946年阿覬洞の一角(いまの忠正路あたり)に「舞台芸術研究会」という、多少見慣れない看板が掲げられた。この集団の主導者は若い演出家許執(ホ・ヂプ)で、私財を投じて創設したものであり、その目的は「新しい民族演劇のためには新しい若い演劇人と意識のある既成演劇人の再教育が先立たなくてはならない」という原則的な発想からだった。そして所定の課程を履修した者に実験公演を行わせることで、自分たちの位相を再確認し、ひいては新しい演劇集団の誕生までも夢見た。

演出家許執は全羅北道井邑(チョンウプ)出身で日本大学芸術学科に修学しており、李海浪や李鎭淳、金東園の後輩格だった。父親が日帝時代に警察幹部としてすごしたという傷から、ある抵抗的な意識が彼に演劇の道を選ばせた。舞台芸術研究会はその事業の効果的な実行のためには、演劇同盟と手を結ぶほか無かった。また、実質的にそのような業務や教育を担当する者は演劇同盟傘下に籍を置いた現役たちだったということも排除できなかっただろう。

演劇講座は5月と10月の2回にわたって南大門路にあった国立図書館を借りており、講座の内容と講師役は次のごとくであった。

科目講師
朝鮮演劇史宋錫夏(ソン・ソッカ)
世界演劇史徐恒錫(ソ・ハンソク)
アイルランド演劇史柳致眞(ユ・チヂン)
近代劇講座李曙ク(イ・ソヒャン)
シェイクスピア論金東錫(キム・ドンソク)
劇場芸術安哲永(アン・チョリョン)
戯曲作法咸世徳(ハム・セドク)
演出入門安英一(アン・ヨンイル)
俳優修行許執(ホ・ヂプ)
舞台実際金鍾玉(キム・ヂョンオク)

この講義内容は許執が日本大学と東京の築地小劇場研究所のものを参考にしたものと推測されるが、かなり賢明であり時期に適切な編成であることを立証した。その中でもひとつ注目するべきことは講師陣容の編成である。講師陣に柳致眞、徐恒錫、そして安哲永の名前があがっているが、彼等は日帝末期にいわゆる「国民演劇運動」に積極的に参与していた前科を問われ、解放直後から一切の演劇活動をやめていた。それは周辺の視線もあったが、かれら自身の知性と理性からしてもあまりにも当然な自粛の態度だった。とくに劇団現代劇場を創設して柳致眞作・徐恒錫演出の『なつめの木』が栄誉?の大賞を受けていた経歴を見ても、彼等は自重する道しか無かった。にもかかわらず、演出家許執は果敢にもその障壁をくずし、真の民族演劇樹立のためならばその前科を無視して再び出発することが良いという主張だった。それには当時の演劇同盟の中枢勢力であり実力者であった李曙ク・安英一・咸世徳・金東錫等が彼の提案に同意しており、実際には活動を黙認していたという事実はわれわれにたいへん重要な意味をもたらす。つまり柳致眞と許執、そして劇作家咸世徳はたとえて言うならば師弟関係であったし、その演劇路線は異なれども新時代の新しい演劇と演劇人を養成するためには呉越同舟するしかなかったという現実を切実に感じる。このような人間関係が遠い後の日、また別の様相で花を咲かせたという事実を私は知っている。

舞台芸術研究会は2回にわたり、講座の終わりに2回の卒業記念公演を行った。そのひとつは翻訳劇『デッドエンド』であり、別のひとつは創作劇『チプ(家)』だった。前者は中央劇場で、後者は国都劇場で幕を上げた。『デッドエンド』はニューヨークの裏通りを舞台に、世代間の葛藤と現実からの脱出のための若者たちの身じろぎを描いた作品で、既に築地小劇場のレパートリーのひとつだった。それに比べて創作劇『チプ』は許執の戯曲を彼自身が演出した処女作だった。日帝末期、親日派だった父の強要に勝てず日本の軍隊(学兵)に引っぱられた息子が、解放後に帰郷して起こる新旧世代間の葛藤を描いた作品だ。新しい作家と新しい演技陣とスタッフが一塊となって舞台上に積み上げたその熱気を体中で感じた私は、政治色や扇動主義の次元からのみ語る性質のものではなかったと思う。この講座で教育を受けた若い演劇人のなかにシナリオ作家の金剛潤(キム・ガンユン)、ソン・ギュニョン(言論人)、映画人黄營彬(ファン・ヨンビン)、チェ・ギュソク(翻訳家)等の名前があがっており、学生劇出身の演技者が少なからず入っていたという事実も見過ごすことはできない。

許執の「舞台芸術研究会「運動は2年目に幕を下ろした。財政難からだった。許執の自叙伝的な作品『チプ』の公演は家庭も破綻状態に陥れてしまった。しかし彼が追求していたリアリズム演劇精神と民族演劇を目指した夢は決して軽く扱うことはできないことは、後日の彼の活動を通じて知ることができた。

5. 国立劇場の設立

いっぽう演劇界の一角では画期的な、夢ではない夢を見ていた。驚いたことに「国立劇場設立案」が進行していた。散発的に8個新聞を通じて軍政当局に建議したり、一部米軍政庁の高位層までも肯定的に受け入れていた。1946年6月25日 [訳注:原文は1945年6月25日だが,これだと終戦(解放)前になるのでおそらく校正あるいは原稿のミスと思う] ソウル新聞を通じて公表された「国立劇場設置促求文」には演劇・映画・音楽・歌曲(楽曲)・舞踊など、すべての公演芸術界が声を合わせて意見を集めた。その当時の現実はおよそ100個に達する公演団体を受け入れられる、まともな劇場ひとつ無かった実情に対する反発でもあった。そして仮称「国立劇場運営委員」名簿まで公表させるほどだったので、それは荒唐無稽な夢ではなかった。その陣容は次のごとくである。

劇場長徐恒錫(ソ・ハンソク)
副劇場長李創用(イ・チャンヨン)
事務局長蔡延根(チェ・ヨングン)
演劇李曙ク(イ・ソヒャン)
映画金漢(キム・ハン)
歌劇朴魯洪(パク・ノホン)
音楽金載勲(キム・ヂェフン)
舞踊趙澤元(チョ・テグォン)

以上のような名簿から推し量って、国立劇場が演劇のみの劇場ではなく、多目的用劇場を念頭においた計画だったことを容易に斟酌できる。その当時唯一の劇場だった府民館は米軍放送局として接収されていたので、これは明洞にある明治座を念頭においた計画だった。

しかしこの計画案は暗礁に乗り上げた。その理由のひとつは米軍政庁当局の「時期早尚論」であり、いまひとつは運営委員名簿がいわゆる「左翼系人士」でのみ構成されたという点だった。米軍政当局さえ演劇界を左翼系と右翼系と見る黒白論理と、目に見えない偏頗性がその下にあった。しかしこの宿題は1948年に南韓単独政府が樹立するや否や状況が急変し、1949年に設置案が国会を通過して1950年2月に中央国立劇場が発足するにともない、東洋では国立劇場を初めて持つ国となった。しかし演劇界はまた異なる泥沼に陥っていった。すなわち初代劇場長が徐恒錫ではなく柳致眞にかわったためである。個人と個人の暗闘から来る集団利己主義のヘゲモニー争奪欲がより尖鋭に作用した。合理的に公論化させた事例ではなく個人プレーや所属団体の名前を売るところで起きたことで、その後遺症は遠く後の日まで尾を引き、演劇界のしこりとなったと言っても過言ではない。

6. 劇団劇芸術協会の創団

1947年、演劇界にはまたひとつの小さな地殻変動が起こっていた。いままで沈黙を守っていた柳致眞が演劇界の表面に浮上したのだ。民族陣営を代表する「劇団劇芸術協会」の創団がまさにそれである。その陣容は李海浪・金東園・李化三・朴商翊(パク・サンイク)・張勲(チャン・フン)・金鮮英(キム・ソニョン)・尹芳一(ユン・バンイル)・金福子(キム・ボッチャ)・韓聖女(ハン・ソンニョ)・チョ・ミリョン等だった。

しかし劇芸術協会が創団される前、既に演出家李鎭淳(イ・ヂンスン)と音楽家李アンドレアが手を結んで「劇芸術院」を創団した事実をあげておこう。長いあいだ中国の北京にとどまっていた演出家李鎭淳が、なぜよりによって演劇人ではない音楽家李アンドレアと手を結んだのかその真意は知ることができない。とはいえ、新しい時代に合わせて音楽と演劇のより密接な結合が必要だったし、同時に実質的に財政的実力者である李アンドレアを推戴したところにその意図があったのだろう。李鎭淳は創団公演作品にマックスウェル・アンダーソンの『目撃者』を自身の演出として準備に入った。『目撃者』は築地小劇場のレパートリーのひとつであったし、過去に学生芸術座時代に東京でしじゅう見て、見慣れた作品だったから容易に採択されたのだろう。このような現象は1930年代の演劇界がレパートリーを選定することろにおいてその大部分が日本演劇で検証された作品で一貫してきた。なぜならば、率直な話がその当時わが演劇界には外国の戯曲を翻訳して演出するだけの演劇人がまれだったからである。土月会や劇芸術研究会が熾烈な演劇運動を行ったが、観客の呼応を得られなかった理由のなかのひとつがまさにその翻訳劇の無批判的な輸入だった。ところが解放なった空間でも依然としてそんな類型を生んだということは、わが演劇界の脆弱な点であり安逸な制作態度であると指摘する声も高かった。

李鎭淳がようよう率いてきた劇芸術院は、『目撃者』の練習過程で途中下車の悲運を迎える危機に瀕していた。その真意がどこにあったのかを正確に汲み取ることはできないが、演劇同盟の鼻息の荒いときにもかかわらず敢えて米国作品を上げるのかという周囲のきびしい視線と、財政捻出の難しさからの難関はさらに大きかっただろう。このような渦中でレパートリーを変更することに決定した。けっきょく劇芸術院は1947年3・1節公演として柳致眞(ユ・チヂン)作・演出で『祖国』を舞台に上げることになった。3・1節らしく翻訳劇よりは民族主義的な性向の強い『祖国』の選択がより賢明だっただろう。この舞台には女優金鮮英(キム・ソニョン)が初めて老け役を引き受けて好演を見せた。金鮮英はいままでいわゆるヒロインだけを演じてきたベテラン女優だった。柳腰で足が短いという身体的な与件は見るに足らないものだったが、正確な話術と豊富な音声、そして繊細な心理表現等では断然一番に数えられる俳優であり、とくに柳致眞の直系の弟子であり、めずらしく非演劇同盟の演劇人だった。

しかし公演成果は失敗に終わった。したがって『祖国』は劇団劇芸術院の創立公演であり、同時に解散公演の悲運を迎えることになった。そして劇芸術院は劇芸術協会に発展的解消したわけである。心機一転した劇芸術協会の誕生は劇界の注目を集めた。この間、沈黙を守ってきた柳致眞が彼の弟子格である李海浪・金東園・李化三・金鮮英・尹芳一を麾下にしたがえることで、名実ともに民族陣営唯一の劇団として、演劇同盟に向かって宣戦布告をおこなった姿で現れたのである。

1947年5月11日、劇芸術協会は柳致眞作・演出の『自鳴鼓(チャミョンゴ)』で、国都劇場で華麗に幕を開けた。解放以後、約2年間の沈黙は柳致眞においては懺悔と敗北と奮闘の堆積であっただろう。1931年劇芸術研究会に投身して以来、解放当時まで「現代劇場」創団と「国民演劇運動」の先鋒として劇作家および演出家として積み上げた彼の演劇塔は羨望と辛辣な批判を免れ得なかった。しかし彼のいない民族陣営の演劇界はあまりにも無気力だったし、心もとなかった。したがって演劇同盟傘下の劇団たちの活動が日を追って加熱するやいなや、柳致眞の胸の中にふつふつとする鬱憤と自責感はしまいに彼を再び演劇界に引き込んだわけだ。

したがって、劇芸術協会の創団は演劇同盟としてはひとつの脅威であり、民族陣営としては最後の橋頭堡だと言っても過言ではなかった。しかし思いのほかに不幸な事態が起こった。『自鳴鼓』の公演準備をすべて終えて待望の開幕を待っていた柳致眞が、次の日の朝早く国都劇場に出てみると、舞台装置は壊されて幕は刃物で切り裂かれたままに捨てられていた。後日、柳致眞は「東朗自叙伝」でその犯人は左翼系労働組合員である、舞台仮設者であることを明らかにしている。そしてこの頃の演劇界の雰囲気に対して李海浪も、1978年11月2日の中央日報を通じてこのような回顧談を残した。

『彼等は不良たちを立てて劇場の入り口を封鎖したり観客たちを押しやったり、出演者たちにも恐喝脅迫した。しかし物騒な社会雰囲気の中に警察力は彼等を押さえつけるほどに力が強くなかった』

われわれは回顧談の真否を問うことよりも、1947年を前後にわが演劇界がなぜその程度にしか生きながらえなかったという原因究明と客観的な考察を急がねばならなかった。

2000.3

1947年5月11日、柳致眞作『自鳴鼓』で華麗な創団公演を行った劇芸術協会は、実質的に民族陣演劇としての宣戦布告だった。『祖国』公演よりも一歩進んだ一面を、『自鳴鼓』は何よりもその作品の主題意識から伺うことができた。漢四郡のひとつだった楽浪と高句麗の関係を素材にしてはいたが、外勢を排斥して祖国統一のためには民族的団結と融和が至急だという主題の設定はたいへん適切で、政治的な背景も濃く組み込まれている点で注目を引きもした。去る1941年、劇団現代劇場を発足させて『なつめの木』『北進隊』『黒龍江』など、一連の親日性の色濃い国民演劇運動の先頭に立った柳致眞は、自身の過去清算のためにも民族主義的な演劇を渇望したはずだ。そしてそれは個人的な懺悔であり、作家的良心から出た新しい再起の決意だと言っても過言では無かった。つまり過ぎ去った日のあやまちから果敢に抜け出ることで、新しい歴史的理念と民族演劇樹立に体と心を捧げようという意志と作家的良心も決して排除できなかっただろう。

しかし『自鳴鼓』は思いのほかに波紋を引き起こした。1947年5月20日、独立新聞の紙面に「『自鳴鼓』を見て」という題の劇評が載せられた。ところで筆者はほかでもない柳致眞の弟子である劇作家咸世徳(ハム・セドク)だった。咸世徳は劇団現代劇場の全盛時代に『鳳仙花』『落花岩』『エミレ鍾』等の戯曲を書いて劇作家としての地位を固めており、その栄誉を享受させてくれた人物はまさに師匠柳致眞であり、見るところその二人の因縁はたいへん密でありながらも貴重な人脈として解釈されてもいた。しかし咸世徳の筆致は攻撃的だった。「反動的演劇の氾濫下で、芸術至上主義と純粋さの美名のもとに国粋主義と通俗主義を混合した、またひとつの新しい形態」と酷評しながら、「作家よ『柳のある村の風景』時代に戻れ」と評論を結んだ。『柳のある村の風景』は師匠である柳致眞の初期作品として高い評価を受けた一幕劇だった。この事件はいまや演劇界はもはや素朴な、人間的な情誼や情感とは無関係であることを告げていた。このように冷酷な政治的イデオロギー(じつは感情的であり皮相的な敵対感情だったが)で昂ぶっていた演劇同盟傘下の劇団と、非演劇同盟傘下劇団間の露骨な攻防戦のゴールは日を追って深くなっていった。にもかかわらず、劇協は民族陣営を代表する劇団を自負し、旺盛に演劇公演を持続して強行した。1947年の一年だけでも4編をひと月に一回ずつ発表することで、名実ともに民族陣営演劇の代表性を誇示した。

6月18日麻衣太子(マイテヂャ)柳致眞作、李ファサム演出
7月29日王子好童とモラン公主柳致眞作・演出
8月11日銀河水柳致眞作・演出
9月21日目撃者M・アンダーソン作、柳致眞演出

7. 演劇界の分裂

いっとき息をひそめてすごした柳致眞の演劇界復帰は、ついに演劇界を二つの版図に分けてしまうことになった。それは敵を打ち倒さずには自分が死ぬという切迫した感情対立であったし、理性と常識を超えた戦いだった。双方が当初打ち出していた民族演劇とか純粋演劇だとかいう概念把握やアイデンティティは既に失われ、ただそれぞれ勢力を拡張しようとするところに汲々としたので、二つの陣営はそれぞれに政治的勢力を背景に背負った。いわゆる民族陣営は米軍政庁と保守的右翼勢力を、そして演劇同盟は南労党の指令と庇護を盾とした。したがって広い意味での政治的庇護を受けたという点からはお互い様だった。問題はそのような組織と背景のもとで彼等が舞台に上げた作品の水準が、はたしてどこまで達していたのかという点だ。この連載の初頭でも言及したが、一部評論家たちの言葉どおりにはたして「マルクス-レーニン」の主義主張を注入したり、植民地時代の古びたプロレタリア演劇で扇動したり、理念劇を実現させたのだろうかという点だ。しかし私が見た大部分の演劇はすべてその的から外れたものだった。戯曲的であったり感傷主義的な愛国心の誘発や、あるいは古びた新派劇の再現と啓蒙主義演劇の枠から抜け出ないものが大部分だった。それは当時の観客といえば既に新派に手なずけられた状態だったし、それ以上でも以下でもない低い水準だったので、各劇団はその水準の観客を無視できなかった。実質的に「新しい時代の新しい演劇」という概念さえも確立できない水準にとどまっていた。このような診断は既に1946年12月12日付け京郷新聞に寄稿した評論家李台雨(イ・テウ)の「新派と時代劇の流行」という文でも明確に指摘されていた。

「私はここで演劇の堕落を指摘すると同時に、解放後のすべての政治的内容を持つ演劇が失敗したのは、その内容が生硬なイデオロギー的便乗にも興行的失敗の原因があるが、それよりも日帝下の宣伝演劇の手段に起因するのだろうとしたい」

と辛らつに批判した。そうかと思えば評論家李載玄(イ・ヂェヒョン)は、1948年月刊「民聲」7月号に「受難の民族演劇」という時論で、

「公演場での投石や脅迫行為が数多く発生しており、演劇人が襲われたり拘束されたりの不祥事が続出した。演劇同盟傘下という理由で劇場から敬遠されなければならなかったし、当局の不当な監視の目を受けねばならなかったので、このような極悪の条件下に介在した民族演劇運動は為政当局の不当な出し抜けの捜査のせいであり、これがまさに南朝鮮の政治的混乱に拠って発生したやむをえない事態だった。いずれにせよ、まさに燦爛と開花しなければならないこの地の民主主義文化芸術の、自由な発展における重大な支障となるほかなかった。人民という台詞のみ出ても左翼演劇という烙印を押すいきすぎた神経過剰は、健全に発展する民族演劇の大きな癌であったのも事実だ。

と指摘した。この時論の骨子をいくつかに整理するならば、

  1. 左翼も右翼も結局は政治的な背景によって犯した行動であり、
  2. とくに当時の米軍政庁や官が公正な判断と解決を断行できなかった小児病的な干渉であり、
  3. 右翼は官の庇護の下にその勢力を拡張させることで民族演劇の発展に関わった
とすることができる。

このような米軍政庁の行政上の横暴は1948年5月22日に公布された米軍政法令193号が如実に証明しているが、いわゆる「入場税波動「がそれである。つまり劇場入場税を演劇と外国映画や樂劇団のような水準として10%まで引き上げた悪法を制定するやいなや66個芸術団体は総決起しており、6月1日を期して演劇人たちは演劇公演の中断を宣言して出るという事態までおこした。ところでこの入場税引き下げ闘争で、左右が一つ声で共同戦線を張った事実は特記すべきものである。

しかし問題は、この時期に公演されていた演劇の質的な低下と時代に逆行する傾向は、演劇同盟傘下団体であれ民族陣営であれ、別に異なるところが無かったという点である。たとえば1947年の一年間に公演された作品数はおおよそ100編ほどになる。しかし大部分の作品が水準に達しない結果として現れた。先立って引用した李台雨の「新派と時代劇の流行」という文を通じて、

「最近の演劇界は8・15直後のような新しい概念の追求も、あるいはまた演劇人の情熱も見ることができない。そして主題の貧困と演劇人のマンネリズムによって退潮したなかに、新派劇と時代劇の流行が特徴的現象を成している」

と指摘したとおりだった。くりかえすならば、政治的理念や芸術的追求等は見出すことができず、単純な興行主義が主流を成したので、青春劇場や黄金座のような新派劇団がむしろ全盛期を成していた。つまり意識のある演劇ではなく興味本意の演劇がいっそう勢いを得たので、劇界はむしろ民衆から遠ざかる兆候まで現れた。のみならず、今まで演劇界の主導権を手に入れようとした演劇同盟や民族陣営演劇を自負した劇協や新青年・民芸なども、その公演作品はどれも同じように旧態を脱け出せなかった。たとえば劇協が1948年に公演した実績をみると次のとおりである

作品名作・演出劇場日付
『王昭君』秦雨村(チン・ウチョン)作・李化三(イ・ファサム)演出團成社1月1日
『大春香伝』柳致眞(ユ・チヂン)作・演出ソンナム劇場1月29日
『青春』鄭飛石(チョン・ビソク)作・李光來(イ・グァンネ)演出時空間(シゴンガン)2月22日
『ポギーとベス』ヘイウッド作・許硯(ホ・ヒョン)演出時空間6月14日
『星』柳致眞作・許硯演出時空間9月15日
『望郷』秦雨村作・柳致眞演出中央劇場10月22日

以上の作品が判で押したように復古趣向の時代劇か、でなければメロドラマだったことを知ることができる。そうかと思えば1947年に金永壽(キム・ヨンス)作・李鎭淳演出『丘に花は咲き』で創立公演を行った劇団新青年は比較的粒ぞろいの演技陣を擁し、中央劇場社主の積極的な後援で持続的に公演活動を行った。金永壽作・朴珍演出で一貫した『五男妹』『上海夜話』『血脈』『女社長』等は興行でも成功した方であるが、いわゆる「中間劇」の枠を抜け出なかった。女優金福子(キム・ボッチャ)と金陽春(キム・ヤンチュン)、老俳優朴齋行(パク・チェヘン)、卞基鍾(ピョン・ギヂョン)、朴景柱(パク・キョンヂュ)、徐月影(ソ・ウォリョン)等が集まり、比較的しっかりした実績を残した

このような演劇界の不況を洗い流うかのように、演劇同盟は1947年2月13日「南朝鮮文化芸術家總決起大会」を行うことで積極的な攻勢を繰り広げた。そして第2回3・1節演劇祭を強行したが、この行事が演劇同盟としては最後の足掻きであり身じろぎであったかもしれない。この演劇公演には楽浪劇場・芸術劇場・民衆劇場・自由劇場・文化劇場・舞臺芸術研究会などの7個劇団の合同公演として、作品は咸世徳作・李曙ク演出『太白山脈』と趙靈出(チョ・ヨンチュル)作・安英一演出の『偉大な愛』の2編で、2月26日から3月16日まで19日間強行された。この公演は米軍政庁当局から重ねて公演中止令を受けたことでやむなく中断されたが、観客の呼応度や演劇的成熟度はまれに見る熱いものだった。ある評論家は観客動員数が10万名ともし、一日の観客数が9千名だったと記録したが、それは誇張だった公算が大きい。なぜならばその当時国都劇場の客席数が1千席にも満たないところに、1日に3回公演を強行したと言えどもせいぜいのところ3千名だったろうから、10万名に満たなかったことは確かである。

そしてより重要な関心事はこの二つの作品の主題がはたして共産主義思想を鼓吹したり、プロレタリア演劇の宣伝を狙った、いわゆるアカ演劇なのかという点だ。『太白山脈』は日帝に抵抗したパルチザン闘争を描いた作品であり、『偉大な愛』は東学革命を背景にした作品で、言うなれば踏みにじられた人々の民族受難劇だった。おそらく時期的に演劇同盟の最後の運命の暗示とみることのできるこの公演を、そのような思想性のみで見てはむしろ弱化すると思える。参考までに趙靈出の戯曲『偉大な愛』が私の手中にあるので、そのあらすじを紹介すると次の如くである。

「李朝末期。キーセンの娘ハクソンはわが身と母を捨てて去った父の消息を伝えにきたチョン・ドリョンと会う。チョン・ドリョンは忠清道監司の息子としての富貴栄華を捨てて百姓を救おうとする。東学の大きな志を擁く若者だ。百姓たちの生活は日を追って凶暴になっていく貪官汚吏たちの横暴でさらに苦しくなっていた。そんなおり、パクじいさんの息子が罪も無く官衙へ引っぱられて殺される事件が起こるやいなや、百姓たちの憤懣は極に達し、チョン・ドリョンの大きな意と信念に支えられた行動にハクソンは心を奪われ、チョン・ドリョンもまたハクソンに百年佳約(夫婦の一生の契り)を約束する。しかしチョン・ドリョンはすぐに追われる身となり、ハクソンは官衙へ連れて行かれて過酷な辛苦を嘗める。民心は罪の無い人々を殺す貪官汚吏たちを打倒するために立ち上がり、チョン・ドリョンはその先鋒に立ってハクソンを救いに貪官汚吏を追い出した。しかし多くの犠牲をともない、チョン・ドリョンもまたハクソンの胸で息を引き取った。勝利した東学軍とハクソンはチョン・ドリョンの意を引き継いでともに旅立つ。「

したがって、この作品は弱者に加えられた官の圧力と右翼勢力の独裁に抵抗しようという物理的な反抗心と闘争心が、この公演の印象を強く漂わしていたことを疑う余地は無い。解放直後から台頭してきた南韓単独政府樹立を、政府が両派に分かれながら、米軍政の庇護を受けていた李承晩の勢力拡張が眼に見えて確実化していく過程から、演劇同盟側の不安と焦燥は最後の足掻きのような神経過敏症を誘発した。のみならず金九(キム・グ)や宋鎭禹(ソン・ヂヌ)、呂運亨(ヨ・ウニョン)など大物級政客であり反李承晩勢力はすべて共産主義者として暗殺、あるいは粛清の悲運を味わうことになる政治的現実から、南労働党の指令の下に動いている演劇同盟もこの時から離脱者が相次いだ。

いっぽう1947年10月29日、柳致眞と李瑞求は「全国演劇芸術協会」を組織することを以って、いわゆる民族陣営演劇人を網羅したので、演劇界の左右翼はいまや正面から対峙状態に入ることとなった。しかしここに参加した12個劇団の中の劇芸術協会や新地劇社そして新青年を除外した9個劇団は興行を旨とする新派劇団で、その芸術的理念的水準では認定を得るほどではなかった。これは、まずとりあえずは隊列から整えてその勢力圏を拡大することで演劇同盟と張り合おうという目的があっただけで、真正な民族芸術樹立という原則的要求とは距離が遠かった。さらに劇作家李瑞求は過去に東洋劇場の専属作家であった代表的な新派演劇人で、いままで純粋演劇を志向してきた柳致眞とは路線を同じくできない人であった。それはどんな意味で見ても、水と油のたとえを引用するまでもなかった。にもかかわらず二人が意を共にして全国演劇芸術協会という看板を掲げたということは、あまりにもアイロニカルな事件であったし、そのしこりは後々まで消えなかった。したがってこの組織がすぐさま「全国文化芸術団体総連合会(略称文総)」に発展しており、それは再び韓国舞台芸術院の発足に続いたことで、もうひとつの文化芸術団体を生み出した。しかしその傘下へ入った集団が純粋芸術と大衆芸術が混合・共存することで、いくつかの混線と後遺症を残すことになったのも偽らざる事実だ。言葉を変えると、文總が李承晩政権の崩壊と共にその運命をともにしたという事実から、われわれは芸術と政治の関係からひとつの教訓を得たわけだ。昔から政治の力や権力にへつらう芸術の寿命が決して長くは無いという事実を学び知っているにも拘わらず、いまだに官の周辺でくるくる回りながら権力の腰元役を茶飯事とする現実から、いまさらながら歴史は繰り返すという真理を吟味することになるだろう。

解放空間の演劇は、文字通り血なまぐささまで匂わすほどに熾烈だった。しかし今までの考察からはっきりしたように、芸術的理念の差異や作品を通じた発言というよりは、自身が所属する団体や背後勢力の手先役をするところに血眼になったという事実をわれわれはもう一度吟味しなければならない。所属したのが演劇同盟だったということのみでその作品世界を評価してもいけないし、その背後に官や権力が後ろ盾しているということだけで一方的な断定を下すこともできない。あくまでも純観客的な思考と観察で、演劇自体を分析しなければならないだろう。このような観点から、私はいまでも生き生きと記憶している作品を繰り返し紹介することができる。金永壽作・羅雄(ナ・ウン)演出の『閔中殿』(1946年自由劇場)、咸世徳作・演出『山賊』(1946年楽浪劇会)、趙靈出作・安英一演出の『義妓ノンゲ』(1947年芸術劇場)、金永壽作・朴珍演出『血脈』(1948年新青年)、李箕永(イ・ギヨン)作・安英一演出の『鼠火』(1948年革命劇場、自由劇場合同公演)などは私の記憶に永遠に残る作品である。そしてそれは政治的色彩やイデオロギー的感染度とは関係なく感動を受けた舞台だった。

『義妓ノンゲ』は主演俳優の金陽春の演技も演技であったが、安英一の繊細でありながら詩情あふれる演出は断然際立っていた。とくにノンゲが日本人に呼ばれて出て行くために身支度する場面ではパンソリを効果音に使用することで、その哀切な雰囲気を高潮させた手法はいまも忘れられない。また『閔中殿』でタイトルロールを受け持っていた女優陳娘の朗々としながらも小柄にして力強い性格表出は、なかなか見ることのできないエナジーと迫力で観客を虜にしたことも忘れ得ない。また、李箕永の原作小説を脚色した『鼠火』は農村の人々の素朴な民心をリアルに表出するところに充分であったし、とくに賭場の場面の情緒が故郷を思い出させ、心地よさを感じさせる印象を与えた。

1948年前後の演劇界は混乱の中にあったが、われわれが心配したように低質であったり扇動的であったり、あるいは政治的色彩の濃いものばかりではなかったと記憶している。しかし1948年前の大韓民国の政府樹立を契機に、演劇界は再び大きくどよめきながら、ひとつの変化をもたらすことになった。

2000.4

数多くの葛藤と反目のはざまを越えて、ついに1949年8月15日に大韓民国政府が樹立された。解放直後、「モスクワ三相会議」の決定による韓国の信託統治問題をはさんで大きく両派に分かれていた政治風土と国民感情は、この地のすべての民主主義を発展よりは後退に追いやっていた。それは生存権とも深い関係を帯びていたので、自身の勢力の植え付けと拡大のためにはどんな手段と方法もいとわなかった血なまぐさい闘争の連続であり、歴史の空白でもあった。そのような騒乱の中に文化芸術のみが孤高を守ることはできなかった。すべての芸術行為は芸術的な理念と関係のない感情的な衝突と利害関係にのみ汲々としたなかで、とうとう国連の監視下に5・10選挙を経て大韓民国政府樹立が宣布された。世間はまた再び大きな騒乱の中に追いやられた。それは李承晩を頂上にした保守勢力が実権をつかむ代わりに、いままで彼らと対決してきた左翼勢力は望むと望まずにかかわらず、追いやられたり地下に潜伏するほかなかった。

政府は国家統治理念のひとつである反共政策をより実質的で現実的に実践させるために、それら勢力の捜索と瓦解が急務だった。言い換えれば、過去5年のあいだ左翼思想に心酔していたり同調していた人々を探り出し善導させることで、新しい統一された政治理念としての反共思想を確立させることだった。その最初の具体案がいわゆる「国民保導聯盟」だった。ふつう「保導連盟」と呼ばれたこの施策は、左翼人士に対する教化と思想的転向を目標とした国家保安法の具体的な運営方法として、一定の期間を設定して自己申告(自首)形式で実施された。しかしこの施行令は日帝時代にあった朝鮮人の思想弾圧のために実施された「時局対応精神思想報国連盟」の模倣だった。

1949年6月5日、公式に発足した保導連盟は次のような5大綱領を闡明した。このようにして1949年末まで保導連盟に申告した数はおおよそ30万人であり、ソウル市内のみでも1万9800名だった。芸術団体に所属していた人々がここに含まれていることはもちろんである。

  1. 大韓民国の絶対支持
  2. 北韓政権の絶対反対
  3. 共産主義思想の排撃と粉砕
  4. 南・北労働党の民族破壊政策の暴露と粉砕
  5. 民族陣営の各政党、社会団体に積極協力

しかしこの綱領はまたひとつの反目と差別を生み出した。つまり自分の過去を悔いて正直に思想的転向を行ったが、結果的には前科者あるいは虞犯者として見られることを免れなかった。それは後日「ユギオ」が勃発するやいなやまた報復の惨事を生み出したことで如実に現れた。このような渦中に演劇同盟は実質的に姿をくらまし、その傘下団体であるいくつかの劇団は看板をおろしたり、演劇同盟で積極的な牽引車役割を果たしていた演劇人たちが越北しはじめて、この地の演劇界はいうなれば引っ越ししたあとの空き家同然となった。われわれはこれを[当時の]演劇公演から実証できる。

たとえば1949年の一年間の公演実績を見るならば、いわゆる職業劇団として知られる劇団の公演は青春劇場が6編、新青年が2編、黄金座が1編、民芸が1編、大衆劇会が1編、そして唯一の民族陣営劇団である劇芸術協会が3編など、たかだか14編を公演したのみであった。この実績は前年の1948年の実績である56編の5分の1にしかならない瀕死状態で、断末魔的重症といっても過言ではない。それも青春劇場や黄金座などいわゆる新派劇団が大部分であり、質の高い演劇といえば劇芸術協会が公演した柳致眞演出の『愛国者』と呉泳鎭(オ・ヨンヂン)作・李鎭淳(イ・ヂンスン)演出の『生きている李重生閣下』があるのみで、大部分は過去に上演した作品の二番煎じあるいは三番煎じの安逸な興行だった。公演活動のない演劇界は死の沼だった。その原因はどこにあって責任は誰にあったのか、作品活動のない作家は生ける屍と同じだった。1949年はわが演劇史上もっとも殺伐で荒涼とした砂漠であったと言えようか。しかしこの時期に演劇界の未来を約束し希望の足跡があった。そのひとつは新しい演劇学徒と劇団の誕生であり、もうひとつは以前から論議されてきた国立劇場設置案がついに国会を通過したということである。

左翼系列の劇団が姿をくらましてしまった荒涼たる演劇界で、いまや名実ともに実権を掌握した柳致眞は劇芸術協会を率いて相当の実績を残した。前述した『愛国者』に続いてマックスウェル・アンダーソンの『高い岩山』と『勇士の家』[邦題不明]を公演した。そしてこの3編はすべて米国文化院の支援金によってなされた。南に残留していた演劇人が総集合することで韓国演劇の再起をモットーに「第一回国民芸術祭典」の旗印を高く掲げた。それは剣術した補導聯盟が主催し、これに加入した演劇人たちを主動力にした企画公演として1月8日から3日間市公館で開催された。補導聯盟は左翼思想に汚染された演劇人らの転向を先導しようという意図からだったし、これに参加した人々自身も再出発を満天下に公布する意思が含まれていた。朴露兒(パク・ノア:作家)や許執(ホ・ヂプ:演出)、蔡南仁(チェ・ナミン:美術)や崔進(チェ・ヂン:照明)を筆頭にして、キム・スンホ、卞基鍾(ピョン・ギヂョン)、金nq(キム・ボッチャ)、ナムグン・リョン、チョン・ミン、イ・ヨンスク、姜桂植(カン・グェシク)、高雪峰(コ・ソルボン)、チョン・ドゥヨン、廬載信(ノ・ヂェシン)、ファン・ナム、朴齋行(パク・チェヘン)らが参加しており、思想的な葛藤を超越して民族演劇を樹立しようと言う気炎は割合に高かった。

劇芸術協会はその余勢を買って3月27日から31日まで『高い岩山』を公演した。米国の作家マックスウェル・アンダーソン原作で許執・チェ・ギュソク共同翻訳、許執演出、姜聲範の装置で、この作品はしっかりした演出と網羅したよく考えられた演技陣との調和でなかなか見ることの無い芸術的な成果を挙げたりもした。特にその当時としては得がたい背の高いクレーンはしごを舞台の上に設置し、そのてっぺんから客席を見下ろしながら熱演した故朴商翊(パク・サンイク)のコミカルな演技は観客の喝采を浴びた。

当時、演劇界にはある異端の公演団体が頭角を現していた。1948年12月23日、ヘンリック・イプセン原作、呉説(呉ファソプ女史の別名)翻訳、朴魯慶(パク・ノギョン)演出で初顔を見せた女人小劇場である。この劇団は名前そのままに劇団代表である朴魯慶をはじめとして、すべて女性だけの演技者で構成された女性劇団だった。ファン・ギョンウンやチョ・ガプスなどすべてが梨花女子大出身の知識人で、韓国演劇の知識水準を高くするところにその目標を置いた。そして公演レパートリーも新しい時代に合う女性問題を提議するところに重点を置いた作品や、社会的改革と抵抗運動に力点を置いた新しい戯曲を翻訳して幕を開けたので、呉華燮(オ・ファソプ)と朴魯慶夫婦の芸術的意識は透徹していた。その後、続いて『故郷』『ライン河の』『明日の世界』『梅の実が皮をぬぐ』『深い根』『オセロ』などを持続的に公演した。しかしユギオによって朴魯慶が明倫洞の自宅で機銃掃射の流れ弾で死亡したことによって幕を下ろした。この間、朴魯慶は越北したと伝えられていたが、彼女の事故死は娘であり作家の呉幀(オ・ヘリョン)の証言によって明らかにされた。女人小劇場は3回目から声楽家の金炯魯(キム・ヒョンノ)や徐明錫・李壽烈ら男性演技者を迎え入れた。しかし彼らが左翼演劇人と親交があった関係から、朴魯慶が越北したと誤って伝えられた公算が大きい。

しかしなによりもこの空白期で特記するべきは韓国演劇学会が主催した「第1回全国男女大学演劇競演大会」の成功であろう。主管者である柳致眞は以前から主唱してきた「新しい時代の演劇は新しい演劇人の養成」を優先した。古い演劇に中毒した演技者を相手にする演劇は希望が無いととなえた。そして演劇同盟傘下にあった無数の演劇人たちが大挙越北したこの空白期を埋めるためにも新しい演劇人の養成と投資がなければならないというのが彼の所信だった。そのために、よしんば過去に演劇同盟と関係があり保導連盟に加入していた若い演出家許執(ホ・ヂプ)をして『高い岩山』の演出まで任せたのだろうか。

第1回大学演劇競演大会は10個劇団が参加して大きな成果を挙げた。その影響で後日金ギヨン(映画監督)、崔ムリョン、チョ・ソンハ、車凡錫(チャ・ボンソク)、チョ・ホギョン、金ヂスク、崔チャンボン、金ギョンオク、チュ・ドンウン、朴ヒョンスク、シン・テミン、李ギョンヂェ、李インソンなどが劇作・演出・演技などの各分野で地盤を固めたことはまさに解放空間の空白期で得た収穫であり資産であったと言っても過言ではないであろう。

しかしこの空白期にわが演劇界でもっとも喜ばしいことは国立劇場の設置だった。1948年12月20日、国会を通過した全9条でなる条文の第1条は「民族芸術の発展と演劇文化の向上を企図し、国際文化交流を促進するために国立劇場を設置する」と明文化されたなかにわれわれは矜持と責任と歴史意識を再確認しなければならないだろう。国立劇場の必要性は既に1946年3月から各新聞で世論化されており、各界芸術家をして「国立劇場運営委員会」まで結成したこともあった。しかしさまざまな与件と左・右翼の対立の中に遅延していたが、大韓民国政府の樹立とともにその夢が実現したわけである。しかし国立劇場建立案はまたひとつの余震を引き起こした。それは劇場長選出問題をおいて繰り広げられた後遺症である。前述した国立劇場運営委員会案は劇場長を徐恒錫(ソ・ハンソク)を指名していた。しかし1949年、新しい文教部(日本の文部省に該当:訳注)が示した運営委員案は違っていた。すなわち運営委員長に文教部長官(当時は金法麟)、運営委員は文化局長・治安局長・広報局長と徐恒錫・安碩柱(アン・ソクチュ)・蔡ドンソン・閔ギョンシク・朴ホンボン・柳致眞で構成されていた。以前から国立劇場長になると信じられていた徐恒錫は思いがけず柳致眞にその席を譲ってしまったので、二人の微妙な関係と葛藤は単にこの二人の個人的事情で終わらず、演劇界全般に波及した。いつからか演劇界の一角では徐派と柳派に別れ、彼らのあいだの反目と葛藤は徐恒錫と柳致眞の二人が世を去る頃までしこりを残すことになった。たとえば徐派として知られた李鎭淳と柳派で知られた李海浪(イ・ヘラン)までがその望ましくない遺産を受け継いだため、彼らの下の世代まで続く人脈の歴史はいつか明らかにしなければならない課題でもある。

振り返れば解放空間の演劇はけっきょくユギオによって自動的に幕を下ろした。いや、幕を下ろしたのではなく廃墟の灰のなかに埋もれてしまったという表現がより適切だろう。それぞれに主張も色彩もあったが、それ以後はだれもそれを、むしろ何もなかったことと扱われていつしか50余年が流れた。50年のあいだ演劇が変わったとすれば何であり、変わらなかったとすれば何が問題なのであろうか。私の演劇人生50年間の生き生きとした追憶と体験の切れ端をもう一度思い起こしながら整理してみた。

5年にわたった解放空間はわれわれにとって何の役にも立たない空白期だったのだろうか。あるいは捨てられた紙切れのような時間だったのだろうか。私はそれは違うとはっきり言いたくて、この忘れられた歴史を再び取り上げた。それは私的な主観を離れて純粋に客観的な観点と判断で事実をありのままに明らかにしなければ、われわれの後に従う後輩たちは永遠に盲目状態で、間違ってたまま引導する白杖に依存することになる公算が大きいからである。

解放空間の演劇はけっして否定的にのみ見るべきものではない。質と量で見れば先進国のそれに比べて取るに足らないものかもしれない。しかしわれわれよりも先を生きた者たちの渇望と情熱と夢はそれぞれに大切なものであり、彼らのわれわれに残した歴史的教訓は何物にも代えがたい大切なものであるためだ。

芸術が政治勢力を背負ってはいけないという初歩的な教訓を、はたしてわれわれは過去50年のあいだ守ってきたのかを問う。われわれが生きてきた20世紀も最後の年を迎え3ヶ月が過ぎた。われわれが生きてきた一世紀のあいだ、われわれは何を得たのか冷徹に振りかえなければならない。言葉ではことあるごとに純粋と自律と権威を叫びながら、実際にはある力を背に負ってそれにへつらいながら生きてきた恥ずかしい過去ではないだろうか。日帝36年から分断時代の内戦と軍事独裁統治下で、いつわれわれがわれわれの声で歌いわれわれの肉体で踊ったのかを考えてみるよう。左翼は左翼なりに右翼は右翼なりに徒党を組むことと生き残るために、いつも政治と権力を背に負わなければならなかった悲しい歴史は21世紀が幕を開けようとしているいまもこの地にそのまま息づいている。政治のみではない。「われわれが接収しなければいつまた食べられか判らない」という強迫観念が、いまも芸術界の一角にしつこく蠢いている。だから政治勢力や官の力を借りようとする見た目の繕いをそのまま踏襲していると言っても過言ではない。

芸術はあくまでも芸術家に任さなくてはならない。芸術という美名の下に派閥を作ったり、予算を掴み取るのに汲々とする者らはいまだに暗かった時代の悪夢から醒めずにいる。そして芸術団体の長の席がすぐさま政治界に入門する近道と錯覚する無自覚な者もある。ひとつになり和合しなければならないとしながらも、いまわれわれはどうかすると後ずさりしているわけだ。それはまさしく歴史意識に鈍感であったり知らないでいたり、知ろうとしない無知からはじまるのだろうが、われわれはもう一度われわれ自身を振り返らなければならない。そして過去のなかから現在を照らして、未来を設計する謙遜と知恵を学ばねばならない。それが歴史意識に目を閉じる抜け道であろうが、低俗な商業主義と薄っぺらいジャーナリズムと結託して小英雄主義に理性を失う姿から、はたして民族演劇が何であるのかを問い直すことになる。

失われた歴史を求めようというこの小さな試みは、ほかでもない率直さと正直さを求める心情である。それはまさに客観性の回復であると言っても無謀ではないだろう。誇張された表現と宣伝術で人を惑わせる騒々しい演劇があるかと思えば、春の日のようにしっとりとした潤いのある演劇もあり、火炎のような演劇やもの寂しい風のような演劇もあって、多様性と個性が爛漫した演劇界にならねばならない。そしてその中からわれわれのアイデンティティを確認する差別性がなければならないという意でこの拙文を書いただけである。

© 車凡錫(CHA Beom-seok)&韓国演劇協会 /翻訳 岡本昌己(SPAM対策:*を@に置き換えてください)