韓国の公演芸術 -演劇-
このドキュメントはITI韓国本部の発行した『韓國の公演藝術』(ISBN 89-7727-130-4)から演劇史の部分を抜粋・翻訳したものです。原本は韓国演劇を伝統芸能の領域から紹介していますが、ここでは第4章の「近代劇」から紹介しました。各章の著者は、第1章 李杜鉉(イ・ドゥヒョン)、第2章 呂石基(ヨ・ソッキ)、第3章 韓相普iハン・サンチョル)の各氏です。

各章の [括弧] 内の文章は“訳注”とことわっていませんが、岡本が翻訳の際に追加した部分です。また原文には各人物の生年や没年あるいは雅号、作品の初演年度などは記載されていませんが、これらも判る範囲で加えました。

このドキュメントでは韓国の地名や人名、あるいは劇団名等に日本式の読み方を併記しています。しかし韓国語の日本式表記には限界がありますので、このサイトにおける日本式表記の約束事を説明した韓国人名・地名の日本式表記についてをごらんください。

I. 1902年から1945年まで 李杜鉉(イ・ドゥヒョン)

1. 草創期の新派劇

1902年12月にわが国最初の屋内常設劇場であり皇室劇場格である「協律社(ヒョンニュルサ)」が開場し、伎生(キーセン)や倡優(チャンウ)、舞童(ムドン)等の演芸を見物させるいっぽうで、キーセンと倡優たちの管理機関の役割を果たした。主要レパートリーとして広大(クァンデ:廣大)たちのパンソリやキーセンたちの各種歌舞を上演しており、協律社は1903年春まで存続したがその年の4月になって廃止された。

協律社の後に続いて最初の常設劇場として開場した「円覚社(ウォンガクサ:円覺社)」は“菊初”李人稙(イ・インヂク)が「わが国の演劇を改良するために新演劇をはじめる」目的で、協律社の場所に彼が主導となって1908年7月26日に開場した。いわゆる新演劇たる小説演劇を上演するために、彼自身の新小説『銀世界(ウンセゲ)』を劇化してパンソリ広大らを練習させた。一方、その経費充当のために初期の円覚社は協律社のそれと変わらない、従来のレパートリーで営業的興行を続けた。そしてその年の11月13日に至って、わが国新演劇の初試演作品たる『銀世界』が上演された。李人稙の政治小説である『銀世界』の内容から推し量るに、新演劇『銀世界』は日本のいわゆる“壮士芝居”と言っていた初期新派劇のようなもので、政治思想を啓蒙しようとしたものと斟酌される。

李人稙のこのような新演劇の試演はさほど成功しなかったし、円覚社の主要レパートリーは大部分『春香歌(チュニャンガ)』をはじめとするパンソリを主とした。円覚社はキーセンの各種舞踊を上演しながら開館以来1年半を存続したが、日韓併合という国家の運命とともにその幕を下ろした。

2. 新派劇の全盛期(1911〜1920)

わが国の新派劇は林聖九(イム・ソング、1887〜1921)の「革新団(ヒョクシンダン:革新團)」が1911年の晩秋に『不孝天罰』という一編の演劇で創立公演を持った時に始まる。しかしこの最初の公演は失敗に終わり、世の中にもあまり知られなかった。2回めの公演として [日本の新派劇『ピストル強盗清水定吉』の翻案ものである] 『六穴砲強盗』(演興社、1912)を上演することによって一般から歓迎されはじめた。

新派という言葉はがんらい日本の旧派劇である歌舞伎に対する名称として、日本新派劇の初期(1888〜1897)には“壮士演劇”や“書生劇”、あるいは“新派劇”や“唱劇”等の名前で呼ばれた。当初、政治劇から出発した新派劇は軍事劇、探偵劇を経て家庭悲劇や花柳悲恋劇等を上演するようになってその全盛期(1904〜1910)を迎え、新派の古典とも言うべきレパートリーのベストテンを持つに至った。革新団の『六穴砲強盗』をはじめとする初期の新派劇は大部分が日本の新派劇をそのまま韓国の事情に合わせて移した翻案劇であった。その中でも当時の宗主国である日本の新派劇を翻案した軍事劇が多かったが、しだいに探偵ものや家庭悲劇に移っていった。1913年に入って新聞小説を脚色した小説演劇がはじまり、その年の11月には日本の『金色夜叉』を翻案した家庭悲劇『長恨夢(チャンハンモン)』を上演するに至った。しかし1921年12月、林聖九の病死で革新団の10年間の新派劇興行は幕を下ろしてしまった。

革新団の第二回公演よりも約ひと月半ほど後の1921年3月29日から、[作家・劇作家である] 尹白南(ユン・ベンナム:本名は尹ヘ重、1888〜1954)と [新小説家・新劇人である] 趙一齊(チョ・イルチェ:本名は趙重桓、1863〜1944)による劇団「文秀星(ムンスソン)」が第一回公演を円覚社で持った。このとき尹白南が抱負を持って上演したのは日本の新派劇のベストテンのひとつである『不如帰』だった。1914年には趙一齊と李何夢(イ・ハモン:本名は李相協、1983〜1957)の合作小説『春(チョンチュン)』を脚色して上演しており、また新聞の連載小説であった『涙』も公演されたが、これらは二つながら家庭悲劇を扱った作品だった。初公演から日本新派劇の古典をひっさげて登場した文秀星の“文士劇”も彼等の思惑とは異なり、当時の観客には林聖九の新派劇と別段変わるところが無いと受け取られた。文秀星は1916年6月まで公演を続けた。

新派劇初期の3人の劇界代表者として林聖九・尹白南・李基世(イ・ギセ)を挙げられるが、その中の [開城出身の演劇人] 李基世は1912年11月3日に「開城座(ケソンヂャ)」において「唯一団(ユイルダン)」創立公演を行い、『妻』を上演した。その後『不如帰』を始めとする新派劇の主要レパートリーを持ってソウルと地方を巡回し、1914年末まで存続した。新派劇後期の新派劇団の代表者としては金陶山(キム・ドサン:本名は金鎭學、1891〜1922)と金小浪(キム・ソラン:本名は金顯)をあげることができるが、特に金小浪の「聚星座(チソンヂャ)」は新派劇団としては寿命が長く、1929年末まで全国を巡回した。1910年代は新派劇に終始した10年であるが、新派劇はそれ以前の伝来演芸だった広大(クァンデ)によるパンソリとキーセンの歌舞、仮面踊りを専門とする芸人タルクンによる仮面踊り、男堂牌(サダンペ)の舞童(ムドン)や人形操りと各種の曲芸などのほとんどを淘汰しながら、開化の贈り物のように庶民大衆に受け入れられていった。その中でも一般に最も人気の高かったレパートリーは家庭悲劇を主とした涙の新派劇だった。

3. 近代劇の台頭

1919年の“3.1運動(サミル運動)”は日本の武力によって挫折したが、民衆の胸の中にさらに猛烈な勢いで民族的自覚を呼び起こした。1910年代の新派劇においては開化啓蒙思想を主な主題と見ることができたならば、3.1運動を経験した1920年代には近代的自覚、つまり自由と平等思想、特に個人の権利を黙殺してきた封建的儒教思想に対する批判や男女平等の主張等、その主題においてより具体化して進展したことを見ることができる。

李光洙(イ・グァンス、1892〜1950)はこのような近代的自覚とそれにともなう悩みを、1917年に既に処女悲劇『閨恨(キュハン)』で発表したことがあったが、彼の2作めの戯曲『殉教者(スンギョヂャ)』(1920)は“3.1運動”を前後した民族受難の切迫した体験をあらわしていた。しかし新聞紙上で発表された最初の戯曲は趙一齊の戯曲『病者三人』(1912年)で、これは3人の新女性(女教師・女医・女校長)と恐妻家である彼女たちの夫を登場させて、笑劇風に編んだ一種の社会風刺劇だった。

わが国の新劇運動は1920年以降から本格化していたと見ることができる。[明治大学を中退し,島村抱月の芸術劇場関西公演に従った] 玄哲(ヒョン・チョル、1891〜1965)が1920年2月に [西大門(ソデムン)に] 芸術学校を開校しており、あるいは東京留学生たちが「劇芸術協会(クゲスルヒョッペ)」を組織して「同友会巡回演劇団」を編成し、1921年の7月から8月中旬まで母国訪問巡回公演を行った。彼等のメンバーの一員である、夭折した劇作家金祐鎭(キム・ウヂン、1897〜1926)がリーダーを勤めた。金祐鎭は早稲田大学の英文科を卒業した演劇学徒として、自然主義と表現主義の最初の本格的な作品である『李永女(イ・ヨンニョ)』『難破』『サンテヂ(猪)』などを残した。

4. 土月会の近代劇(1921〜1930)

同友会巡回劇団の後に続いて東京留学生たちが「土月会(ト-ウォル-フェ=トウォレ:土月會)」を組織し、第1回公演を1923年7月4日から8日まで朝鮮劇場で行った。朴勝喜(パク・スンヒ、1901〜1964)を始めとして、この時の会員は金復鎭(キム・ボクチン、1901〜1941)、“八峯”金基鎭(キム・ギヂン、1903〜1985)、“孤帆”李瑞求(イ・ソグ、1899〜1982)、朴勝木(パク・スンモク)、金乙漢(キム・ウラン、1906〜1922)等だった。彼等は大衆を啓蒙するならば講演会のようなものよりも演劇がより良い方途であると考えたのだった。第1回公演のレパートリーはJoseph Eugene Pillot『飢渇』、アントン・チェホフの『熊』、バーナード・ショーの『How He Lied to Her Husband』と朴勝喜の『吉埴(キルシク)』等で、大部分は西洋近代の一幕劇を上演した。写実的な舞台装置に自然な台詞とストーリーなどで在来の新派劇の型を抜けた清新な味わいが感じられたが、けっきょく土月会の第1回公演はいくつかのエピソードと500円の借金を残したまま失敗してしまった。

当初、彼等は同友会巡回劇団のように夏休みを利用した一回だけの公演で終わってはだめだということもあり、また第1回目の失敗の憂さ晴らしとして、なによりも負債を返済しなくてはならなかったことからも第2回公演を準備することになった。土月会第2回の公演レパートリーはトルストイ『復活』、マイヤー・フェルスター『アルトハイデルベルク』などの一幕ものと、ストリンドベリとショーの一幕ものを一緒に上演した。これらの作品のほとんどが日本で上演されたことのある作品で、その中でも人気のあったふたつの一幕ものは恋愛ものであり、芸術性よりも大衆性がより強くたいへんな成功を得た。

第2回公演を契機に土月会は創立同人たちが大部分脱退した。朴勝喜だけが残って劇団を再整備し、新劇運動団体である専門劇団として率いていった。この後、土月会は芸術半分と営利半分の二元の道を歩きながら、1925年3月から1年間光武台(クァンムデ:光武臺)を専属劇場として使用し、この時は朴勝喜が脚色した『春香傳』が15日間という長期公演の記録を立てたりした。1925年11月以降、土月会は地方巡回公演を始めており、1933年2月以降は「太陽劇場」と改編して1940年まで存続した。土月会の全盛期に当時の新派劇に与えた土月会演劇の衝撃と影響は、思ったよりはずっと大きいものであった。矛盾のかたまりである新派劇に写実的な舞台装置と衣装などを見せつけて、自然な日常会話式の台詞と演技、そして作品内容を考証して写実的に演出することではじめてリアリスティックな新劇を紹介することになった。またこの頃から劇界全般に“口立て”ではなく上演台本を使うことになった。

1923年に始まった朴勝喜の劇団生活は1946年まで約23年間ほど継続した。彼の回顧によれば土月会のみで180余回の新作公演を行っており、彼の手によって書かれた劇本は200余編になるという。この中には翻訳・翻案と創作などが混じっている。しかし彼は戯曲集ひとつ刊行することのないままに、多くの作品はほとんど散逸してしまった。土月会を経た演劇人としては俳優に卜惠淑(ポク・ヘスク、1904〜1982)、石金星(ソク・クムソン、1907〜1995)、徐月影(ソ・ウォリョン、1905〜1973)、劇作家の李瑞求、演出家の朴珍(パク・チン、1905〜1974)、舞台装置家のキム・ウヂンなど、その後の商業劇を主導した人々を挙げることができる。

5. 1920年代の劇界

1920年代の演劇を大きく3つのグループに分けると、聚星座(チソンヂャ)を始めとするいわゆる改良新派劇団と土月会とその亜流たる新劇団体、そして傾向劇団体たる左傾劇団体である。これらいくつかの劇団とその間を往来した演劇人たちの離合集散はめまいを起こさせるほどである。土月会の出現後、新派劇団は“改良新派”を掲げて地方巡演を行いその地位を固めた。1920年代末期には漫談と唄で編まれた、いわゆる“幕間”が流行った。この時の代表的な劇団としては [1926年に卞基鍾によって創団された] 「民立劇場(ミンイプクッチャン)」「朝鮮劇友会(チョソンクグフェ)」、聚星座、朝鮮演劇社などをあげることができるが、ソウルを中心に公演した新劇団体としては「山有花会(サニュファフェ)」と「新興劇場(シヌングッチャン)」をあげることができる。傾向劇団体としては「プルケミ(やまあり)」劇団や「綜合芸術協会(綜合藝術協會)」があったが、傾向劇が多少活気を帯びたのは1930年代に入ってのことだった。

いっぽう学生劇は1920年代初期の巡回学生劇に劇運動の先駆者的な動きを見ることができたとするならば、1920年代末期の学生運動は1930年代の新劇を暗示した感がある。梨花女高はメーテルリンクの『青い鳥』、ショーの『聖ジャン』、チェホフの『桜の園』を公演した。貞信女学校はチャペックの『昆虫の生活』を公演し、セブランス医専は“分劇の夜” [分劇とは寸劇の意か?] を開催し、普成専門や恵化専門、延禧専門などが演劇コンクールを開催した。1920年代に入ってこのように商業劇団と実験的な新劇団体とのふたつのグループで、劇界は二重的組織構造にはっきりと分かれた。

6. 劇芸術研究会の新劇

新劇確立の1930年代劈頭に時代的な要望に伴って1931年7月8日「劇芸術研究会(クゲスルヨングフェ:劇藝術研究會)」が発足した。創立同人としては“聽川”金晋燮(キム・ヂンソプ、1906〜?)、“東朗”柳致眞(ユ・チヂン、1905〜1974)、“宵泉”李軒求(イ・ホング、1905〜1982)、“耿岸”徐恒錫(ソ・ハンソク、1900〜1985)、“蓮圃”異河潤(1906〜1974)、張起悌、鄭寅燮、゙喜淳、崔挺宇(チェ・ヂョンウ)、咸大勲(ハム・デフン)などに加え、劇界の先輩として尹白南と洪海星(ホン・ヘソン:本名は洪在遠、1893〜1957)を参加させて12名だった。彼等の創立趣旨は“劇芸術に対する一般の理解を広くし、既成劇団の流れを救済し、ひいては真正な意味での我々の新劇を樹立する目的”で創立するというものだった。事業の内容は観衆(特に学生)の教導と俳優の養成、既成劇界の浄化に注力し、新劇の樹立に必要な一切の事業を企画するとした。第1回夏季劇芸術研究会を開催して22名の研究生を講習させた。11月8日には直属劇団実験舞台(シロムムデ:実驗舞臺)を組織して20名の研究生を募集しており、講演会も持った。いっぽう、既成劇会を浄化するために、同人たちによる既成劇団と学生劇の劇評を紙上に発表した。

1932年5月4日から3日間、直属劇団である実験舞台の第1回試演を朝鮮劇場で行った。上演作品はゴーゴリ-の『検察官』で、洪海星が演出し、研究生とともに同人の大部分が出演した。当時の劇評は“劇研創立公演『検察官』は大成功で、土月会第1回公演以来満10年ぶりに見る最大の収穫であり、極度に沈静して紊乱した昨今の朝鮮劇団に、単に一筋の清新な空気を注入したとするだけでも最大の成果を得た”とした。

劇芸術研究会の公演活動は大きく3つに分けることができる。第1期は主に東京の築地小劇場から帰国した洪海星が演出を担当した1932年5月から1934年12月までで、その間に8回の公演をおこなった。その中、朝鮮劇場で3回を、残りは公会堂で公演し、小劇場公演に終始した。レパートリーは翻訳劇を主としており、洪海星によって築地小劇場の影響が導入されていることを指摘できる。第2回以後の主要上演作品としてはアービングの『恋人』、グレゴリー夫人の『獄門』、ゲーリングの『海戦』、チェーホフの『記念祭』と『桜の園』、柳致眞の『土幕(トマク)』と『柳のある村の風景』、ピランデッロ『Idiot』、シェイクスピア『ベニスの商人』、イプセン『人形の家』、ルナール『にんじん』などである。また1934年4月には機関紙「劇芸術」を創刊し、会員も42名に増えた。

第2期は洪海星が東洋劇場に移った後で、主に柳致眞が演出を担当した1935年11月から1938年2月までである。全11回の公演で、その傾向は洪海星の北欧系統の近代的古典作品から欧米の戯曲作品に変わっており、特に翻訳劇から創作劇に中心を移した。大劇場である府民館に進出し、後期には小劇場運動の純粋性を堅持できなかった点もあったが、素人劇団から専門劇団に成長したことを指摘できる。第2期の主要上演作品は李無影の『真昼間に夢を見る人々』、柳致眞『祭祀(チェサ)』『姉妹』、トルストイの『闇の力』『復活』、李光來『村先生』、李曙ク『オモニ(母)』、田漢(チョン・ハン)の『湖上の悲劇』、シュニッツラー『Blind Sister』などであり、柳致眞の『土幕(トマク)』を筆頭に、この時期に我々の現代戯曲文学が整っていった。

第3期は1938年4月、劇団「劇研座」に改称して公演した時から1939年5月に日本によって解散させられるまでの時期であり、この時期に東京学生芸術座出身の新人演技者たちが加入した。この時期の主要公演作品は金鎭壽の『道』、マックスウェル・アンダーソン『目撃者』、オデッツ『醒めて歌え』などであり、発足後満一年で劇研座は解散してしまった。しだいに増す日本の弾圧で劇研のみならず、第2期以降演出家としてまた特に劇作家として劇研を主導してきた柳致眞が、彼の創作活動において現実生活に対する深刻なメスを加えることができず、初期のリアリズムの鋭鋒を挫かれたことは韓国リアリズム演劇の成長のための重大な分かれ道となった。

1931年9月に発足して以来、1939年5月まで満8年間活動を継続した劇芸術研究会は、社会の非難と賞賛の中を持ちこたえてきたが、その非難を要約すると以下の如くである。1)思想的に中間派であること、2)非前進的である、3)海外文学派の延長である、4)翻訳依存である、5)副業的である、6)演技者の生活保障が無く公演数が少ない…などである。末期には興行劇団(商業劇団)と異なるところが無く、大衆に迎合する傾向が見えるなどの点である。いっぽう業績としては、1)創立以来野心的態度で公演を続けており、戯曲と優秀な創作劇上演を試みており、2)写実主義表現と諷刺劇など各流派の作品を上演して紹介し、3)一般に対して演劇理論と実際を理解させようと演劇講演などを実施し、4)興行劇の質的向上を図ったこと等を上げることができる。ひとことで言って、1930年代の本格的な新劇、すなわち近代劇は劇芸術研究会によって主導されたといえる。事実、1920年代の土月会の新劇運動を1930年代に至って継承・発展させたのが劇芸術研究会である。

7. 1930年代の劇界(商業劇の全盛期)

1930年代の演劇を当時の評論家たちは興行劇や左翼劇、研究劇と学生劇に分類したが、1936年以来深化していった世界危機によって暗黒の戦争時代が迫ってくるにつれ、左翼劇はもちろん劇芸術研究会などのいわゆる研究劇も去勢された。1936年11月に「龜子(ペ・グヂャ)と彼女の夫である洪淳彦(ホン・スノン)によって開館した東洋劇場をはじめとする商業劇団の興行劇一色に傾き、高等新派を自認するそれらの演劇は、1910年代の新派劇のようにいま再び民衆の挫折感と絶望を新派の涙でまぎらわしながら暗黒期を迎えた。

1930年代に全国各地に起きた傾向(左翼傾向)劇団は、大邱の「街頭(カドゥ)」劇団、開城(ケソン)の「大衆劇場」、海州(ヘヂュ)の「演劇工場」、咸興(ハムン)の「トンブク(東北)劇場」、平壌の「マチ劇場」(後の明日劇場)、ソウルの「服(チョンボク)劇場」、「ウリドゥル劇場」、「移動式小型劇場」、劇団「メガフォン」、劇団「新建設」などであり、「浪漫座」(1938年創団)もこの系列に入る。これらはだいたいにおいて地方巡演を主として、日警 [訳注:日本警察?] の弾圧下で野戦的な活動に終わるほか無かった。これらは土月会公演をプチ・ブルジョア的新劇運動であるとし、劇芸術研究会の演劇は芸術至上主義の反動的ブルジョア的演劇であり、形式主義的であり、審美主義的な演劇であると非難した。このような傾向劇は日本の左翼劇の場合と同じく、外部からの弾圧以外に内部的な理由からも、その演技や演出において政治主義的であり、奇計を案出するところへ奔走し、質的な向上を持ち得ない限界点があった。内外のこのような状況の中で、彼等の演劇運動は挫折し、宋影(ソン・ヨン)の場合のように1930年代後半に大部分が商業演劇人となった。彼らは [1945年の] 光復とともに一時盛んだった左翼劇団体の主流メンバーとして返り咲いたが、1948年に大韓民国政府が樹立してのちは大部分が越北した。

いっぽう商業劇団としては東洋劇場開館以前の「朝鮮研劇舎」、「演劇市場」、「新舞台」、「太陽劇場」、「黄金座」などがソウルを中心に全国50余の劇場を巡回した。平壌中心の「喜楽座」、元山の「朝鮮演劇号」が中央進出をはたし、また地方巡回公演を主導したヒョン・ソンファン一行の「兄弟座」もあった。この他にも、劇芸術研究会同人会評の対象にもあがったが短命だった「中外劇場」、「明日劇場」、「門外劇団」、そして明日劇場の後身である「春秋劇場」、劇団「ソウル舞台」などが明滅した。

1935年11月1日を期して開館した東洋劇場はこのとき国内唯一の演劇専門劇場として、専属劇団である青春座(チョンチュンヂャ)と東劇座や喜劇座(ヒラクチャ)を設け、団員に給料制を実施して有能な職業俳優と演出家、そして劇作家を集結させた。後に喜劇座と東劇座は併合されて劇団「豪華船(ホファソン)」を作り、青春座と豪華船のふたつの劇団がソウルと地方をかわりばんこに興行を継続し、遠く北満州地方まで巡回した。主要演技者としては青春座の朴齋行、徐月影、沈影、黄K、金仙草(キム・ソンチョ)、車紅女(チャ・ホンニョ)、池京順(チ・ギョンスン)、金鮮英(キム・ソニョン)等と、豪華船の卞基鍾、宋海天(ソン・ヘチョン)、河芝滿(ハ・ヂマン)、キム・ギョンヒ等がいたが、彼等は光復後に演劇と映画界で活躍した。専属劇作家に朴珍、李瑞求、宋影、林聖九、崔獨鵑(チェ・ドキョン)、金永壽等がおり、専属演出家には洪海星、朴珍、安鍾和(アン・ヂョンファ)らがいた。彼等のレパートリーから人気の高かった作品としては [林仙圭(イム・ソンギュ)作]『愛にだまされ、金に泣き(別名:『ホンドよ、泣くんじゃない』)』と『春香傳』、『母の力』等をあげることができる。1939年秋から経営者が代わり、演技者の一部が劇団「阿娘(アラン)」を組織して脱退するにともない東洋劇場の全盛期は過ぎ去った。とは言え、依然として東洋劇場は光復(1945年8月15日)直前まで商業劇団の牙城だった。このほかに主要商業劇団としては阿娘、 [高麗映画協会が組織した劇団である] 「高協(コヒョプ)」、「国民座」、「朝鮮藝術座」、「中央舞台」、「成劇座」、「花郎苑(ファランウォン)」、「浪漫座」等と、その他の多くの劇団が明滅した。1933年5月には朝鮮声楽研究会傘下の唱劇座とそのほかに唱劇団も商業劇団の一翼を担った。

8. 日帝末期の劇界

1940年12月に結成された日本による演劇統制団体たる“朝鮮演劇協会(朝鮮演劇協會)”に、大小劇団を合わせて30〜40個に達する当時の劇団の中から9個劇団を加入させ、劇作家協会も別に結成された。さらに次の年の7月には23個に加盟団体を増加させた。1942年7月には日本は朝鮮演劇協会と朝鮮演芸協会を統合して演劇統制を強化させ、いわゆる“国民演劇樹立”という名目で演劇競演大会を開催し、各公演には必ず一編ずつ国語劇、すなわち日本語による演劇を行うように強要した。競演大会に参加した作品もその内容においては日本の侵略戦争完遂のための宣伝や内鮮一体、つまり日本人と朝鮮人の協力を内容にしたものがほとんどだった。これらとは別に移動劇団を巡回させて職場と途方を回るようにし、侵略戦争完遂と民族文化抹殺政策を促進させた。このような中で朝鮮演劇界は本意ではなく受動的な演劇活動で暗黒期を生きながらえたが、1945年8月15日の光復を迎えることとなった。

1930年代の傾向劇団(文芸振興院「演劇辞典」から) 作表:岡本
劇団名創団年月日場所代表者備考
街頭劇団1930.11大邱未詳社会主義的リアリズム演劇運動を通じた労働者層・農民層の啓蒙を
大衆劇団1931.3開城未詳開城で結成された傾向派劇団
演劇工場1931.4海州未詳海州のプロレタリアート芸術運動団体
東北劇場咸興不明未詳未詳
マチ劇場不明平壌未詳後の明日劇場
服劇場1931.9ソウル林和・金南天ほかKAPFの芸術家達で組織された劇団
移動式小型劇場1931.11ソウル顧問・姜天煕プロレタリア演劇を一般大衆に見せるために主に農村と工場を移動して公演することを計画
メガフォン1932.5.28ソウル未詳KAPF演劇部傘下の傾向派劇団
新建設1932.4ソウル申鼓頌ほかプロレタリア演劇の建設を目標に結成
浪漫座1938.1ソウル金旭ほか文人と演劇評論家、演劇人らが提携して創立した劇団

II. 1945年から1970年代末まで 呂石基(ヨ・ソッキ)

1945年8月、二次世界大戦の終結とともに日本帝国主義の支配から解き放たれたとき、韓国人は二つの相反する事態に直面することになった。そのひとつはこの間36年以上を植民地支配下に苦痛を味わっていた彼らが、祖国を再び取り戻したという光復(クァンボク)の喜びであり、いまひとつは民族の即刻的独立ではなく、米ソの二つの強大国勢力による軍事統治とそれによる民族分断の痛みだった。前者が韓国人をして、長いあいだに傷ついた民族自尊の精神を回復するところに大きく寄与したことに反して、後者はその後数年内に世界的規模に拡大したふたつの強大国のあいだの冷戦体制が、韓半島を半永久的に分断する悲劇的結果を招来した。そこからもたらされた民族アイデンティティの損傷、外勢によって煽られた左右対立のイデオロギー的葛藤は政治・社会のみならず、文化でも韓国人を極度の混乱と無秩序状態に陥れた。この事実は1945年以後、長いあいだ韓国演劇界が経験しなければならなかったいくつもの困難を理解するところに必須の前提条件となる。

二次世界大戦が勃発した1941年頃からほとんど空白状態に陥っていた韓国演劇界が、“解放”(1945年8月15日)とともに迎えた現実は、左派演劇人によるヘゲモニー掌握だった。その当時の東ヨーロッパの場合のように、彼らは迅速に動いており、“朝鮮演劇同盟”という連合体を作ることに着眼した。そうしてその傘下に新しく結成した10個にちかい劇団を包摂し、大多数の劇作家・演出家・俳優等を引き入れるところに成功した。解放の頃、首都ソウルを中心に相当数の演劇人がいたと推測されるが、かれらの多くは日帝末期、すなわち1940年以後の数年のあいだ演劇活動を中断していたり、親日的演劇活動に消極的ではあったが協力を強要された関係で、解放とともに活気を呈した唯一のこの組織的勢力に追従するほか無かった。

朝鮮演劇同盟の主導的勢力は1930年を前後して西欧近代劇導入に熱心だったエリート演劇の主導者、特にプロレタリア演劇の主唱者たちだったが、数的には大衆演劇に従事して多くの観客を引き込んだ職業的演劇人がより多かった。知識層演劇人のなかにはイデオロギー的立場から左派演劇に抵抗した勢力が一部あり、あくまで朝鮮演劇同盟に加入することを拒否した。しかし大衆演劇の従事者たちには左派イデオロギーに同調した側と、それとは関係なく同盟のヘゲモニー争奪戦略に利用された追従者たちが混在していたと解釈される。このような状態は1947年頃まで続いた。しかし米ソ対立の激化と統一韓国政府樹立が非現実的だという判断のもとに大韓民国単独政府が樹立される1948年頃には、左派演劇団体たちの活動が韓国によって阻止されるに伴い、反対派勢力が漸次活力を得ることになった。その勢力は“劇芸術協会”を主軸にした右派演劇人が中心を成した。

その主軸メンバーは1930年代には韓国新劇(この用語は西欧近代リアリズム演劇に根本を置く新しい演劇に限って使われるのが慣例であり、同じ意である日本の新劇から由来した)を代表した劇芸術研究会の継承者たちであり、その中心には同研究会の創立者の一人である著名な劇作家柳致眞(ユ・チヂン)と彼の後輩である演出家李海浪(イ・ヘラン)、俳優金東園(キム・ドンウォン)が座を占めていた。1947年以後、活動を継続してきた劇芸術協会は彼らを中心に“韓国舞台芸術院”を設立したが、その中には左翼的朝鮮演劇同盟傘下にあったいくつかの大衆演劇団体も含まれていた。政治的変化によって形勢が逆転したわけである。こうして1948年に大韓民国政府が樹立した時に演劇界は左右闘争の混乱からある程度抜け出すことができたが、その過程で人的・物的損失と消耗が韓国演劇の潜在的活力を低下させたのは不可避のことだった。

このような政治・社会的現実のなかで舞台にのせられた作品の全般的な傾向も、当然制約を受けるほか無かった。たとえば当時の代表的劇作家である柳致眞の一連の作品である『祖国(チョグク)』『自鳴鼓(チャミョンゴ)』にはっきりと現れたように、民族の団結を訴えて外勢に侵略された祖国の悲しみを歌う民族主義的色彩が濃厚な演劇が歓迎された反面、現実を直視して鋭利に洞察する作品は産出されにくかった。南北分断のイデオロギー対立のなかで、批判的リアリズムのための風土の醸成は期待することが難しい実情だった。かといって、喜劇的風刺と揶揄を通じて現実問題に接近する批判的視角も許容されにくかった。

反面、興行が芸術に先立つ商業主義演劇はむしろ活性化した。1930年代にすでに全盛期を成していた新派劇を継承したこれらの劇団、その中の代表格たる青春劇場と黄金座(それぞれ1945年、1946年に発足)は、輸入映画をのぞけば国産映画の制作がきわめて微々たるもので、テレビが出現するはるか前だった当時の一般大衆観客に根深く浸透していた。大部分が愛と涙のからみあう感傷的メロドラマの形態をとったこれらのレパートリーは、お決まりの作曲に手馴れたごく少数の作家によって量産されており、その伝統と人気は1950年代中盤まにいたってようやく終息するほどだった。そしてその頃には韓国大衆演劇の命脈は断絶し、その座に1950年代中盤から活性化した韓国映画とラジオ連続劇、引き続いて1960年代後半にはテレビ連続劇が就くことになったのである。

1948年の大韓民国建国と1950年の悲劇的な韓国戦争勃発のあいだに特記するべき事件が発生したが、それは国立劇場の設立だ。既に1946年初から一部演劇人によって提議されてはいたが、その実現を見るまでには新しい政府の樹立を待たなければならなかった。この国立劇場設立案は建国後最初に構成された国会と政府によって肯定的反応を得て1949年10月に準備を始め、次の年の4月に国立劇場法が国会で正式通過した。文化芸術に抜きん出た関心と理解があったとは考えにくいその当時に、韓国政府と国会がこのような国立劇場設置を法的に後押ししたことは、一部のヨーロッパ諸国と異なり類似した伝統が存在しなかったアジア諸国のなかで最もはやく実現した計画だった。奇跡に近かったと言わねばならないこの計画は、貧弱な政府の財政支援にもかかわらず、比較的よく練られた準備−それらは専用劇場の確保、交代制公演活動を可能にするふたつの専属劇団の設置、国家財政支援に受け入れるものの独立会計による自体清算方式の採択など−に力を得て、1950年4月末に創作劇『元述郎(ウォンスルラン)』(柳致眞作)と、続いて6月初に翻訳劇『雷雨』(曹禺作)など、二作品を舞台にあげることになった。当時のソウルの人口を勘案するならば圧倒的な数字といえる5万名以上の観客を動員しただけでなく、芸術的に抜きん出た成果をあげた。しかしこのように祝福を受けた出発を始めた新生国立劇場は、不幸にも同じ6月の下旬に勃発した韓国戦争によって決定的打撃をこうむった。

すべての分野で、この新生民主国家を壊滅の状態にまで追い詰めた以北(ウィブク)共産主義軍隊の公公然とした南侵は、演劇分野にもその後長いあいだ後遺症を誘発した。その最初の現象として、演劇界の人的資源の分散と枯渇を上げることができる。1950年6月以前に、すでに相当数の演劇人が越北あるいは脱落する兆候をみせていたが、戦争はそれを加速化した。二つめには激甚な公演場の不足現象をあげることができる。この現象は戦争が終息した後にも相当期間続いたが、特に国立劇場の運営に暗い影を落とすことになった。戦争中、活動が中断した国立劇場は1953年に避難していた南側の都市大邱(テグ)で再開館した。しかし、新しく任命された劇場長徐恒錫(彼は1930年代に柳致眞とともに新劇運動の中心に立っていた人物である)の努力にもかかわらず、首都ソウルに復帰するにはそののち4年4ヶ月という長い時日がかかった。

この不運な一連の事態によって国立劇場は劇場を持てないまま、ソウルのある劇場を借りて使うほか無くなっていた。専属劇団を組織したが、政府の硬直した国立劇場の運営方式、つまり形式的な小額の予算配定と官僚主義的運営方式がつまずきとなって、1950年代初期の発足した当時に見せていた活力と能動的な姿勢を取り戻すことに失敗してしまった。その後1960年にいたっては、それまで芸術家に与えられていた劇場長の椅子さえもが公務員と交代することによって、運営の官僚主義的要素は長い間残ることになった。年に6回程度の新作創作劇あるいは西欧翻訳劇の公演を形式的に埋めていただけで、集約的な活動成果は期待することが難しかったのが事実だ。1950〜60年代に国立劇場が成し遂げた唯一の成果をあげるならば幾人かの有能な新人劇作家の発掘であろう。しかしそれさえも懸賞による長編劇公募方式を通じてのことであり、彼等を育てていく積極的努力は見られなかった。

1950年代韓国演劇の代表的活動は国立劇場ではなく、民間団体である劇団新協によってなされた。その前身が解放後、反共右派路線に依拠して活動したことがあり、国立劇場の発足時に専属劇団の一翼を担当したこの劇団は、韓国戦争の渦中でいち早く独立した活動を開始した。それは1951年2月、つまり金日成の軍隊がソウルを再占領した直後の南部の地方都市、大邱でのことだった。

李海浪や金東園ら有能な俳優を主軸に、老練な柳致眞を事実上の指導者にしたこの企業劇団は、当時のいくつもの悪条件にもかかわらず、彼等の過去のレパートリーの再上演をしばらくおこなった。その後、すぐさまシェイクスピアの代表作『ハムレット』の上演に挑戦したが、興行的に大きな成功を上げた。これは韓国でのシェイクスピア作品の全作上演の初公演と記録される(この作品の翻訳が最初に出たのは30年前の1922年だった)。前方で織烈な戦闘が続けられている状況で(休戦成立はその2年後のことである)、このように野心的な公演企画を行ったという事実はそれだけでも演劇行為を通じた戦争の惨禍の文化的克服という、たいへんに鼓舞的な現象であると評価できる。この公演の成功に力を得て、劇団新協は続いて近代的作品に目を向けて、サルトルの新作『赤い手袋』(それまでもこの哲学者・文学者は、社会主義的人間抹殺に対する抗議を躊躇しなかった)を舞台に上げる意欲を誇示した。

1950年代を一貫して劇団新協は持続的な活動を繰り広げており、その公演は固定観客層の確保を通じて安定した成果を上げたのである。その成功の要因を簡単にまとめるならば、まずこの職業劇団がしっかりしたアンサンブルを形成・維持したという点、次に公演レパートリーの均衡の取れた内容をあげることができるだろう。前者は先に指摘したとおり、劇団組織のリーダーシップ確立と有能な演技陣の保有によって可能となったものである。しかし、後になって“新協スタイル”と呼ばれたこの方式は、若い世代によって多くの非難を受けもした。そして後者を要約するならば、1950年代の10年間にわたって彼等が公演した50余個の作品のなかに、創作劇と西欧翻訳劇が半分づつを占めており、創作劇は柳致貫の作品が13編以上で大きな割合を占めていたということと、西欧演劇は1950年代前半のシェイクスピア劇『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『ジュリアス・シーザー』を除いては、絶対多数が米国劇(12編)であるという事実だ。この中にはユージン・オニールやテネシー・ウィリアムス、アーサー・ミラーなど、現代米国の代表的劇作家が含まれている。したがって新協はシェイクスピアのみならず、1940〜50年代米国のブロードウェイ演劇を韓国に、ほぼ最初に紹介したという名声を担うことになった。おそらく人々はこの二つの異質なものがどうしてひとつの劇団によって、正しく解析・舞台化されたのかに対して訝しく思ったことだろう。

これに対する筆者の見解は次のごとくである。この劇団はシェイクスピアよりブロードウェイ演劇に対して体質的にはるかに符合しており、米国現代劇の同時代的リアリズムは演劇的共感度において、この劇団を形成する体質的特性において、はるかに近接したものだったと思われる。1962年にドラマセンターの舞台に上げたユージン・オニールの当時の最新作である『夜への長い旅路』の韓国初演は、実質的に新協俳優によって成し遂げられた記念碑的成果として記録される。

しかし1950年代を代表する劇団新協は、その時期の後半に若い演劇世代の猛々しい挑戦を受けることになった。新協路線を全的に拒否しながら1956年に誕生した制作劇会は、新協と異なり“非専門的演劇人の結合体”だった。大学時代にアマチュア演劇活動を行って本格的に演劇に飛び込んだ彼等の主な関心は、韓国演劇界に新しい気風を吹き込むところにあった。主な活動期間は5〜6年にすぎなかったし、彼等が掲げたスローガンほどには大きな成果を得るところに失敗した。しかし、その中の何人かは1960年代以後、劇作・演出・演劇経営などの各分野で指導的な位置を占めることになった。しかし彼等が強調した新しい韓国劇の出現は期待に及ばなかったし、その中の一人であった車凡錫のみが今日にいたるまでたゆまない作品活動を行っている。劇団新協が韓国のブロードウェイ演劇を樹立するところに関心をもったとするならば、制作劇会は1960年代に彼らがはじめて韓国に紹介した、英国の若い劇作家ジョン・オズボーンの話題作『怒りを込めて振り返れ』にたとえられる、韓国版“怒れる若者たち”であると言えるだろう。

制作劇会の演劇史的位相をひとことで要約するならば、1960年以降、まったく新しくなった韓国演劇界の風土を醸成するところにおいて先導的役割を果たしたところにある。その新しさとは新世代の登場に限って言うならば、韓国演劇の発展は彼ら新世代の主導下になされており、彼らのうちの大部分が大学演劇出身者であるという点だ。そして興行を主な目標としない、いわゆる“同人的劇団”を作り上げることを好んだ。現実的には大きく成功したとは言えないが、しかし各自がいくつか新しさを追求する目標とスローガンを立てて、彼等の活動に同時代的意味と重要性を付与しようと努力した。

1960年代中盤期にすでに10個団体を超えたこれら同人制劇団の出現は、興行を目標とする劇団がすでに存在しなかった韓国演劇に商業主義を導入し、いくらかの知的風土を導入するところに助けとなった。しかしそれだけに専業演劇を軽視したし(この点は1930年代の新劇運動を連想させる)、新しく出現した若い観客層(主に大学生と女学生)にのみ依存する傾向が濃厚だった。しかし同時にこれら若い劇団はアマチュア性と経営の現実的難しさにもかかわらず長い寿命を維持することになった。この点は筆者を含む何人かの予想を越える新しい現象だった。1997年現在、創団30周年を越えた少なくない数の劇団はすべてこのようして生まれたものであり、月日の経過とともに専門演劇人(団体)としての資質をそなえてきたと言えるだろう。かと言って彼らが興行に成功したとか、チケット収入に依存して劇団を維持したのではなく公共の支援を受けてこんにちまで生き残ったと言うのも難しい。

この点と関連して、次のような指摘は重要かと思える。すなわち韓国演劇で興行的に最も盛んだった大衆劇団は、古臭くて涙を誘うメロドラマを主軸とする新派劇団であれ、ボードビル的要素が加味された楽劇団であれ、あるいは伝統との連係を強調する国劇団(女性が主な観客層)であれ、このすべての既存の商業主義劇団が先に述べたとおり1950年代後半にはほとんど消滅してしまった。その主な原因は新しいメディアの陸続たる出現のためだったのである。そして1950年代の劇団新協を支えた、相対的に高級へ属する観客層も演劇から遠のき、その座に若い世代が主導する新しい演劇行為を好む若い観客層が入ってきたということだ。1960年代はまさにそのような変革で特徴付けられる時期だったと言える。

この時期に起こったたいへん重要な変化の、いくつか異なる側面に対して言及することも重要だ。そのひとつめは、先に言及した国立劇場組織の変化だ。1962年にクーデターで政権をつかんだ朴正煕(パク・チョンヒ)主導下の軍事政権は、同じ年に政府組織を変えながら、国立劇場を文教部から広報庁(のちの文化広報部)傘下へ移した。そして専用劇場を確保して、芸術人出身の劇場長を官僚に代置させて管理・監督を一層強化した。そして劇団以外にオペラやバレー・舞踊などの公演芸術専門分野を網羅する専属団体をおいて活動範囲を広くした。

しかしこのような外見上の発展にもかかわらず、組織や予算、運営等の全般的な面で国立劇場は非効率的に機能しており、人的資源を活用するところに怠慢であったし、芸術的成果をあげるのに不充分だという批評を受けてきた。このような状態は1972年に新築劇場を確保した後にも、大きく改善される気配を見せなかった。ここ数年内に半世紀の歴史を記録するこの劇場が、新しい活気を得るだろうという期待はいまだ持てない。つまり1950年春にしばらくのあいだ享受した芸術活動の真正な楽しさと活力をいまだに取り戻せないでいるわけだ。それにも拘らず、国立劇場が1960年代以後、既成および新人劇作家に創作劇公演の機会を付与してくれたことに感謝の意をあらわさなければならないだろう。だいたいにおいて同人制劇団が創作劇公演に消極的だったという事実に照らして見れば、国立劇場は間違いなくその功績に対し賞賛されるべきものであった。ひとつの例をあげれば、1962年〜72年のあいだに国立劇場が上演した作品41編のうち33編が韓国の劇作家によって書かれた新作戯曲だった。

この時期の劇作家に関するいくらかの言及がここで必要かと思える。正確な統計数値を提示することは難しいが、196年代(あるいはそれ以後)の公演レパートリーにより多くの座を占めたのは創作劇ではなく、翻訳による西欧演劇だったことは韓国演劇の根深い体質を言い表している。例外は商業主義的大衆演劇の場合で、ここでは全部が“安物”の韓国劇だ。そして前述したように、創作と翻訳劇の比率を同等に維持した劇団新協の場合はむしろ例外に属するといえる。

しかし1960年以降、新人劇作家の登場によって様相が変わることとなった。それ以前の状況から簡単に言及するならば、解放直後には一部左派劇作家(たとえば1940年代初にデビューしてその才能を認められ、解放後には左派戯曲を発表してきた咸世徳のような)を除外すれば、1950年代までも元老劇作家柳致眞の活動が目に留まるのみだった。そして彼とは対照的に社会風刺的戯曲という、従前の韓国劇できわめてまれだったジャンルを開拓した呉泳鎭(オ・ヨンヂン)の作品活動が印象的だった。柳致眞が旺盛な劇作活動を行う1950年代後半までの間に、『嫁ぐ日』『生きている李重生閣下』等の優れた作品を発表した呉泳鎭はむしろ寡作な方だった。1960代以後、前者が作品活動を中断したのに反して、彼は1970年代初に物故するまで絶え間ない作品活動を継続しており、『許生伝(ホセンヂョン)』『東方紅』等、戯曲的風刺から歴史的・社会的関心の表現にいたるまで多様な作品活動を行った。

この二人の先輩劇作家のあとに続いて、1960年代以後に何人かの次世代劇作家が出現したが、その中で際立った二人の作家をあげるなら車凡錫(チャ・ボンソク)と李根三(イ・グンサム)がある。前者がリアリスティックな性格の伝統派劇作家とするなら、後者は知的であり風刺的性格が濃厚な新しい形式の戯曲を愛好した。なにかと対照的なこの二人は、しかし現在にいたるまで35年以上を活動的劇作家として生きていることで、韓国演劇に大きな貢献をなしている。 [李根三は2003年に、車凡錫は2006年にそれぞれ他界した]

彼らを代表とする世代の劇作家はこの他にも何人かいるが、この二人のように印象的で影響力のある作品を残せなかった。むしろ1960年代以後を新しく代弁する劇作家は、その次の世代から発見されねばならなかった。1970年を前後して登場した新人劇作家中の何人かのみ簡単に言及するならば、寡作であるが分断韓国の状況を独特の方式で扱った朴祚烈(パク・チョヨル)、秀でた演劇的想像力を駆使して新しい演劇言語を創造するところに熟達した(彼はほとんどの自作を演出した)呉泰錫、時代状況に敏感であるが舞台の上では深刻なジェスチャーを繰り広げるところに才能のある尹大星(ユン・デソン)、韓国民族が処した過去と現実に対して誠実な観察を劇化するところに注力してきた廬慶植(ノ・ギョンシク)、演劇的メタファーをさまざまに駆使しながら現実を寓話的に批判する李康白(イ・ガンベク)らがいる。彼等といまだ言及できないその他のいく人かが1970年代以後の韓国演劇を、折しも本格的影響を与え始めた米国およびヨーロッパ演劇の激しい波の中に陥没させること無く、その主体性を支えた張本人だったと言っても過言ではない。

しかし1970年代の韓国演劇を論ずる前に、1960年代初に起こったたいへん重要な演劇界の事件である“ドラマセンター”の出現に対して語らねばならないだろう。先に何度か言及した柳致眞は1950年代中葉に、当時としてはきわめて稀だった米国とヨーロッパ演劇界視察の途に就き、新しい演劇体験をすることになった。そのとき彼は韓国演劇発展のための新しい希望と抱負を持ち始めた。この野心的演劇指導者は新しい計画を実行に移すことにしたが、それは当時の条件では不可能に近かった演劇専用劇場の建設に関することだった。その結果、ソウル市内の景観優れた公園地帯に彼が夢見た開放舞台形式の中規模劇場を建て、さらに演劇活動と関連する総合的機能(専属劇団、演劇学校、アカデミーなど)をそこに与えようとした。のみならず当時韓国では前例の無かったレパートリーシステムを導入した公演計画をたてるところに熱中した。このような計画にはいつも理想と現実の乖離がつきものだが、ほとんどから手でドラマセンターと名付けられたこの演劇施設を実現させたところには、ロックフェラー財団が彼に支援した50000ドルの寄付金が最大の助けとなった。米国の著名な文化財団が韓国に巨額の支援を行ったのはこれが初めてだった。当時の韓国の状況を思うとき、しいて比較するならばジョセフ・パップがニューヨーク市当局を説得して、パブリックシアターを手中へ収めたことよりももっと難しかったのではないかと筆者は思う。

しかし柳致眞はパップほどには運が良くなければ有能でもなく、その巨大な夢はいくらもたたないうちに壊れ始めた。劇場を維持し、演劇学校をきりもりするだけでも彼は全力を注がなくてはならなかったが、それらは思うようには行かなかった。資金・人力・企画など、すべての面でつまづいたためである。そうこうして、新しい面貌を備えて活気を取り戻すには10年近い月日が必要だった。孤軍奮闘の末に1970年初、彼が他界した後に米国で新しい演出技法を学んだ後継者柳徳馨(ユ・ドキョン)が帰国して、新しく生まれ変わる契機を得たのだった。しかし韓国演劇界はこの巨人を忘れることはできない。日本統治下の抑圧と挫折や解放直後の分断の混乱、韓国戦争の惨禍など、多くの曲折を経た後に新しい出発と夢の実現に自身のすべてを奉げたこの演劇人は、時には妥協と屈服を甘受しており、その内部にはいつも古いものと新しいものを混在させた謎の人物でもあった。初代国立劇場長を務め、ドラマセンターを創設し、比較的早い時期(1958)にITI韓国本部を創設した国際的感覚の所有者でもあった彼は、我々の時代の韓国演劇の象徴であるといっても過言ではない。

1970年代を迎えて表面化した韓国演劇のいくつか特徴的状況を列記すると次のごとくである。まず国立劇場は新しく専用劇場を建設し、演劇や舞踊、オペラなどの広範囲の公演活動を標榜した。しかし、新しい劇場が位置した快適な周辺環境にもからわらず、旧態依然たる運営方式と、不足したうえに硬直した予算運営によって改善の可能性を見せられないまま、公演実績も形式的水準にとどまった。二つめに、民間演劇は先に述べたように職業的専門性は欠如した反面、知的で優秀な人材がいくらかは混じっており、同人制劇団が簡単には消滅しなかったことで、韓国演劇を主導する座を確固としたものにした。このことによって韓国演劇には米国ブロードウェイや英国のウェストエンド演劇が全く成立し得ないことが証明されたわけだ。のみならず、テレビを含む他媒体が一部の演劇俳優を誘引していきはしたが、劇団運営から経済的要素を最小化させ(彼らに経済的反対給付はなかったことだろう)、善かれ悪しかれ、彼らを好むごく少数に観客層を局限することに慣れていたため、逆説的に演劇活動はむしろ持続し得たのであった。

三つめとして、韓国政府による新しい文化芸術振興策の導入をあげることができる。1970年代中盤に文化芸術振興法を制定し、その実践の一環として韓国文化芸術振興院を設立した韓国政府は、東アジア地域国家としては初めて公共資金による文化芸術支援政策を繰り広げた。映画館入場券から取りたてたいくばくかの振興基金を元手に、かなり盲目的な小額支援で始まったこの制度は、その後(1980年代に)放送広告に拡大され、90年代に再び政府予算の一部として支給されることになったが、1997年度までの基金積み立ては3000億ウォンに達している。しかしこの制度も、やはり支援対象の選定と支援金支給方式において、充分でもない金額を官僚主義的に配分するところからくる多くの問題を解消させることはできなかった。演劇に対する支援はおもに公演場の確保や公演経費の一部補助、創作劇の振興支援や国際交流のための部分的援助などであった。1970年代後半に導入された“大韓民国演劇祭”、1980年代初に始まった“全国演劇祭”(地方演劇振興のためである)などの制度的装置は、この振興計画による成功例として挙げることができる。異なる芸術分野と同じように、演劇分野へおいても韓国政府のこのような公共支援政策が効果的であるとか満足すべきものだと考える演劇人はほとんどいない。そして軍事政権期に“表現の自由”に対する侵害を糾弾する芸術人の立場から、ともすれば国家支援は必要悪として受け止められたかも知れない。そのうえ“支援するが干渉しない”芸術支援政策とは距離のあるものであったが、その効果は無視することはできないし、国際交流のような一部の領域においては望ましいものと受け取られていることも事実だ。

以上、制度的変化をいくつか振り返ってみたが、ここからはこの時期の韓国演劇が内的にどのような変貌を経たのかに対し簡略に言及することとする。

1970年代韓国演劇の流れを理解するために使用するキーワードのひとつとして、筆者は“自身のアイデンティティ探し”という言葉を使いたい。なぜならばそれ以前、すなわち1960年代の演劇活動が相対的に自然発生的な“演劇のための演劇”に重きをおいたものであったのに反し、1970年代は演劇行動の当為性ないし方法論に対して演劇人みずからが問い始めたからである。このような“演劇する”あるいは“演劇作り”の自覚は両方向から衝撃が加えられたものと考えられる。そのひとつは1960年代以後西欧、特に米国演劇から一気に始まった変化と革新の波が、おそらく10年の時差をおいて韓国演劇に波及し始めたのがまさに1970年代初であったということだ。もうひとつは、韓国の新演劇が始まってのち初めて意識された、韓国の伝統民族演劇の諸般の様式に対する新しい目覚めであると言える。したがって、前者は多分に演劇においての実験的、前衛的な演出中心の傾向を助長しており、後者は長いあいだ忘れられてきた韓国人伝来の身振りや言葉遣い、そして諧謔と風刺の精神をよみがえらすところに寄与した。そして前者が外来文化的要素を露出させ、時には消化されない外面的・機械的模倣という批判を伴いもしたが、この時期以後の韓国演劇を多様に活性化させるところに大きく寄与したことは間違いない。そして後者は西欧文化に盲従してきた韓国現代劇に対する民族主義的代案として、演劇人たちにまでアイデンティティに対する可能性と希望を抱かせるところに成功した。そしてこれが当時“祖国近代化”というスローガンのもと、急激に進行した経済発展と軍事独裁が追いやった、表現の自由の制限および人権弾圧に対する有効な抵抗手段として活用されたという点も指摘する必要がある。ところで、ここで乗り越えなければならないことは先に指摘した、一見しただけでも相反するような二つの内と外の流れが互いにぶつかったと言うよりは、両者の融合をめざす方向に演劇活動が行われたという事実だ。

このような作業に貢献した演劇人の活動に対し、ここでいく人か代表的な例をあげよう。米国で演劇の勉強をおこない1970年代初に帰国して、いっとき優れた業績を残した演出家柳徳馨(ユ・ドキョン)。彼とともに活動しながら劇作家呉泰錫の作品を独特の演出方法によって視覚化したり、あるいはまた『ハムレット』を韓国ものとして翻案して新しい美学的美しさを創出した(ヨーロッパと米国公演の時にエレン・スチュアートを含むいく人かの人々から激賞された)安民洙(アン・ミンス)をあげることができる。他方、1970年代初に先輩劇作家呉泳鎭の『許生伝』を韓国人特有の諧謔的センスで演出して後は、一貫して伝統と現代の接木を試みている演出家許圭(ホ・ギュウ)、ベケットの『ゴドーを待ちながら』を韓国へ最初に紹介した林英雄(イム・ヨンウン)、フランス戯曲の演出の名手として出発して後に何回か変貌し、韓国伝統民族劇の借用を通じて独特の方式の“集団創作”の試みを始めた金正ト等をあげることができる。その一方、先に言及した劇作家呉泰錫は難解だと言う評もある演出作業をこの時期の後半から始めていた。それはかなり異色の、自身の直接書く作品の素材を韓国の民俗祭儀から得て、それを大胆な実験的手法で解いて行く作業である。

最後に1970年代演劇のひとつの特徴として、演劇公演の量的膨張にともなう多様化現象を指摘しなければならないだろう。公演場およびそれにともなう公演回数の増加は、特に翻訳劇を好む傾向と密接に関係があることを知ることができる。さらに新しい世代の登場で西欧前衛演劇の模倣と韓国伝統劇手法の借用を当然のことのように受け入れて、過渡期的興味あるいは雑多さを印象付けたこの期間は、大衆文化を独立したテレビ媒体の影響と成人観客層の不在にもかかわらず、韓国演劇のアイデンティティを模索した前段階的10年であると説明できるだろう。その成果は依然として雑多な趣向にもかかわらず、新しい1980年代を開く機会をつかんだと評価される。

III. 1980年代からの韓国演劇 韓相普iハン・サンチョル)

1.政治・社会劇が氾濫した1980年代演劇

演劇が社会の鏡であるとするならば、過ぎ去った1980年代の10年間、その鏡に映った韓国社会は絶え間なく揺れ動く混乱の姿だった。

1980年代はひとことで激変と変遷の時期だった。すべての国民を憤怒と絶望の中に追いやった5月光州事態とともに始まった1980年代は、その後、矢継ぎばやの政府による過激な各種社会改革政策の発表で、社会は驚愕と混沌の渦中に陥っており、社会全般に激甚な不安と恐怖、懐疑の雰囲気が垂れこめた。社会の基本秩序と道徳的価値をその根から揺り動かす軍部独裁政権たる第5共和国 [全斗煥政権期,略して5共] は、絶え間ない非理と罪悪によって1980年代上半期を慨嘆と鬱憤で満たし、激甚な言論弾圧と表現の自由の抑圧で言論と芸術を窒息させた。いっぽう、社会的には経済成長と商業化にともなう典型的症候群である農村の荒廃化、人口の都市集中、貧富の格差、階層間の葛藤、生活環境の破壊など各種の社会疾病を患っていた。あるいはまた拝金思想と極端な利己主義、手段方法を選ばない出世第一主義が澎湃とした。熾烈な経済と酷薄な人心は過去の美徳を投げ捨てて新しい価値観と意識を備えさせ、組織化された忙しい生活と増加した経済的成長は従来の生活様式とパターンを変えてしまった。それによって趣味と嗜好もやはり新しく、多様になった。それを煽り立てたのは商業主義とテレビなどの強力な広報媒体だった。商業主義は大量生産と大量消費文化を創出させながら、国民を画一化するところに尽くしたし、軽薄な興味と俗な遊びに慣れ親しむように国民の感受性を混乱させ、商業的なテレビがこれを拡散させた。

しかし“5共”の独裁と悪はついに週末を告げることになった。国民の火のような抵抗と熱い民主化と自由化要求に跪き、5共は1987年に“6・29宣言”を発表することをもって、韓国社会を新しい進路へと向かう歴史的転機を迎えた。この時から韓国社会はすっかり民主化と自由化熱気で熱くなって、あるいはまた5共の悪と非理の暴露・批判が社会すべての関心の焦点となった。演劇界もまた政治・社会に対する鬱憤を吐き出し始めた。そのなかに暗闇の中に閉じ込められていたある純朴な個人が、軍隊の非人間的な組織によってどのように破滅していくのかをみせつける『オヂャングンの足の爪』(朴祚烈作)がある。1980年代後半、韓国演劇は過去の政治社会悪を暴露し攻撃する批判・風刺・揶揄する演劇、いわゆる政治社会劇の洪水をなした。

このような時代的背景下で、1980年代韓国演劇は度を過ごした政治・社会現実の暴露となった面がなかったわけではない。政治的・社会的・経済的にかなり分離した条件にもかかわらず、演劇の自生力を育て活性化の方法を探して足掻いたのは事実である。したがって10年のあいだに3回の国際演劇祭に加えて10回のソウル演劇祭と7回の全国演劇祭を挙行した。いっぽう、公演活動を規制する公演法改正と、検閲と何ら変わりの無い公倫事前審議制度の撤廃のために闘争してきており、ついにはその目的を達成した。こららは1980年代演劇の代表的な事件だった。

1981年、韓国は第5次“第三世界演劇祭”をソウルで開催した。有史以来はじめて韓国で開かれた世界的な演劇祭だった。第三世界国家および関連地域国家の代表的な公演団体と個人を招請して国際文化交流を促進し、第三世界地域の演劇芸術の特殊性に対する理解と探求を通じて韓国を含む第三世界各国の演劇芸術の独自的伝統に対する認識を確立させ、演劇文化の価値と必要性を国内社会に認識させようとする目的からだった。インドを含めた東南アジアや中東、米国、日本など9カ国10個団体と韓国から15個団体が参加しており、個人人事としては評論家であり『シェイクスピアはわれらの同時代人』の著者であるヤン・コット(Jan Kott)、アメリカの演劇学者オスカー・ブロケット(Oscar Brokett)、ジェイムズ・ブレンドン(James Brendon)、ユーゴとポーランドの劇作家・批評家、ドイツとイギリスのジャーナリスト等、30余ヶ国から170余名ほどが参加したマンモス大会だった。“第三世界演劇と西欧演劇の相互影響”という会議で得られた結論は、東西演劇の排他的な関係や無関心ないし没理解という態度は禁物であり、未来の世界演劇創造に共同で努力していかねばならないことを念押しした。この演劇祭は韓国の演劇は伝統があって豊富であり、西洋演劇の影響下でも伝統をよく保存活用しており、いくつかの韓国現代劇は舞台的成果から世界的な演劇と比較され得る事実を確認させた。いっぽう、第三世界演劇祭は第三世界国家、特にアジア国家の演劇が我々と同じく伝統の現代的な接木の問題で悩んでいることを見せており、当時としては韓国演劇が相当に成功的に発展していることと判断された。

我々は1986年ふたたび国際演劇祭に接することになった。今回はアジアゲームを開催する機会を利用して、ソウルで文化芸術祝典行事の一環として“国際演劇祭”を開催したのだった。この演劇祭は日本の劇団SCOTとインドのChau舞踊団のみ招請した、少規模の演劇祭だった。しかし鈴木忠演出の『トロイの女』は日本の伝統とギリシアの伝統が相互にどのように衝突し、どのような方式で新しい作品として誕生するのかを見せてくれる貴重な機会となった。

三つめの国際的な演劇祭は現代韓国演劇史の転換点となった歴史的な祝祭だった。1988年の第24回国際オリンピックの一環として“ソウル国際演劇祭”を準備した。この行事には国内13個団体とギリシア、フランス、日本の国立劇場による最高の古典劇と、ブラジルを含んだ3ヶ国の現代劇が招請された。特記することは史上はじめて東欧圏国家の演劇が2編、わが国で公演されたことである。チェコとポーランドの現代劇がそれである。オリンピック開催の国際的関係と飛躍的な経済発展、そして1987年の民主化闘争を踏み板に、韓国は共産圏に対する開放化政策をとった。このような雰囲気に乗って1988年末に『三文オペラ』、1989年には『人間は人間だ(A man`s a Man)』がはじめて上演された。チェコのパントマイムは反体制的性向を強く表した喜劇であったし、ポーランドの演劇もまた共産圏演劇で許容されにくい、かなり抽象的な提議演劇であった。そしてこんかい歌舞伎の公演で、1985年の文楽や1981年の能とともに日本の3大伝統劇が韓国にすべて紹介された。

以上、三つの演劇祭を通じて我々は演劇に対するより幅広い視野と展望を持つことができ、その中で韓国演劇の位相がどうなのかを認識することができた。世界の演劇人たちとの交流はたいへん有益だった。彼等の我々の文化と芸術に対する理解は、篤い人間関係を結ぶことを可能とし、それは韓国演劇の海外進出と地位向上に決定的な要因となった。1980年代の韓国演劇の海外公演と演劇人の国際行事への参加は際立った現象であったが、外国との頻繁な演劇交流で結ばれたひとつの結実だった。1981年、第三世界演劇祭の成果は威力的であるというほどだった。その年、自由劇場の『何になるというのか』はヨーロッパ公演の招請を受け、パンソリが外国演劇人と音楽家の関心を引き、フランスITIが用意した発声関係のワークショップの研究対象として挙がるまでになった。1988年世界演劇祭に参与したマーチン・エスリン(Martin Esslin)は劇団サヌリムの『ゴドーを待ちながら』を見てHistory of world theatreに参加することを提案し、その結果1989年アビニョン演劇祭に公式招請されたのみならず、ダブリンと東欧圏国家からも招請を受けた。国際演劇祭が国内観客に与えた影響もまた至大だった。いつも演劇を見る観客は言うまでもなく、演劇とは距離のあった観客にも国際演劇芸術祭はたいへん魅力だったし、いったん優秀な公演を見た後では演劇芸術に対する観念が変わり、劇場が馴染みの無い場所ではなくなった。

1981年、公演法の改正は演劇発展のための環境造成としてまたひとつの重要な作用をした。8・15解放後、日本植民地時代の遺物たる公演取締法を基本として制定された公演法は、演劇活動の中心地たる公演場の設置を極度に制約していた。したがって1970年代から一気に始まった小劇場運動は、この法によってそれぞれ受難を被らなければならなかった。演劇界は力強くこの法の改正を要求してきており、ついに公演場の設置が許可制から申告制に変わったし、そのほかにどんな制約も受けることが無くなった。この間、劇団は専用劇場を持てず他の劇場を借りなければならなかったし、練習場が無くて技量を練磨しようとしてもできなかった事情からだったのだろうか、自身の劇場所有に対する劇団の熱望はたいへんなものだったが、ついにその夢が実現する展望が見えたわけだった。その結果、サヌリム小劇場をはじめとして1980年代だけでも約20個の小劇場が新しく生まれ、あわせて約30個の小劇場がソウルで門を開いた。しかしながらこのような多くの小劇場のせいで、韓国演劇は小劇場が主導していくかのような現象を見せ始めた。なぜならば現在ソウルにある大劇場は全部で8ヶ所しか無いうえに、主に劇団が借りて使用できるところは2ヶ所のみだったからである。それ以外は高い貸館料や、劇場の自主使用などの理由で利用することが難しかった。1980年代に新しく建てられた大劇場はたった3ヶ所だけだった。したがってわが国の小劇場は小劇場本来の、非営利的な実験場であり前衛的な作品を上演するための空間としてのみ考えることはできない。このようにして小劇場は作品の性格や規模、観客の選別的考慮などはまったく無視し、どんな演劇でも誰の前でも行うことのできる全天候型公演場に変わった。小劇場演劇として韓国演劇の規模が矮小したことは致命的な逆効果だった。小劇場演劇にのみ傾倒してきた演劇界は、いまや演劇を小劇場公演としてのみ考えるようになり、したがって大劇場公演の技量を失いつつあった。

1988年はオリンピックの年として記憶されるだろうが、演劇人には表現の自由のための熾烈な闘争の年としても記憶されるだろう。この闘争の結果として1989年に公倫の検閲制度が撤廃されたためだ。1988年、パタンゴル小劇場は『売春』公演を企画しており、公倫は猥褻で退廃的な内容を改作しろという但し書きをつけて台本を差し戻した。パタンゴルはこれを拒否して公演を強行、あげくのはては公演の中断、劇団登録の取り消し、公演場の閉鎖処置にまで発展した。公権力の干渉と制裁に民間劇団が全面挑戦したこの事件はわが演劇史の事件であるのみならず、演劇と表現の自由の問題をもっとも先鋭にさらけ出した重大な事件だった。パタンゴルは最後まで屈することなく、法院に提訴するいっぽうで公演を継続した。パタンゴル事件に対する全マスコミの集中的な報道とオリンピックムードで、公倫と政府が趨勢に押しやられながらしだいに変化の気配が見え始め、とうとう次の年である1989年に公倫の台本事前審議制を廃止することを決定したという政府発表がなされた。じつに軍事政権26年ぶりに表現の自由が実現したのである。したがってすべての劇作家と劇団はいまや事前審議の脅威と規制を免れることになり、審議から来る心理的不安や自己規制から解放され、どのような素材でもどのような表現でも自由に創作し表現して公演できるようになった。

1977年、創作劇の振興と発展のために韓国文化芸術振興院と演劇協会が始めた“大韓民国演劇祭”(1983年ソウル演劇祭に改称)は13回を続ける間に韓国の代表的な演劇祭として根付き、まいとし演劇界の最大行事として全演劇人と市民そしてジャーナリズムの関心の焦点となった。1980年代、演劇祭が確固として定着しながら現れたもっとも重要な現象は、それまで翻訳劇に圧倒されていた創作劇が、むしろ翻訳劇を抜いて韓国演劇を代表するようになったことである。振り返ってみればこれはきわめて当然のことだったが、伝統的に翻訳劇優勢現象が続いてきた現実を勘案するとき、画期的な現象であると受け取られたのも無理は無い。1960年代から新しい劇作家たちが大挙して登場しはじめ、1970年代の驚異的な成長と発展の時代を開き、1980年代に至っては創作劇を完全に韓国演劇の中心に押しやったと見ることができる。韓国の劇作家たちは元老から新人まですべてこの演劇祭に自身の新作を発表することを望んでおり、そのなかで1980年代に注目するに値する活動を行った作家は金相烈(キム・サンヨル)、呉泰錫、尹朝柄(ユン・ヂョビョン)、李康白、鄭福根、李鉉和(イ・ヒョナ)、金義卿(キム・ウィギョン)、廬慶植(ノ・ギョンシク)、尹大星(ユン・デソン)、李載賢(イ・ヂェヒョン)、黄ル暎(ファン・ソギョン)らだった。1980年代の新人としては李潤澤(イ・ユンテク)が注目されるが、彼は歴史の解体と韓国人の精神世界を長いあいだ支配してきた“クッ”を現代的に解析するところに卓越した。

音楽が我々の生活に深く入ってきた1980年代にはミュージカルや音楽劇が多くなっており、若い観客たちはそれに熱狂する現象を見せた。『お嬢さんと与太者たち』はいくつかの劇団が何年も継続公演する異変を生むまでに至った。しかし林英雄演出の『屋根の上のバイオリン弾き』を除いては、感動と洗練味のあるミュージカルはこれといって無かった。ただ、1989年ロッテワールド芸術劇場開館プログラムである『鏡の中の魔術』はブロードウェイミュージカルの俳優を招請、合同公演を行うことで本場の香りを味わうことのできる本格的なミュージカルだった。制作費が16億ウォンだったということも韓国では初めてのことであり、ミュージカルはそれほど多くの制作費を投資してこそ成果を上げることができるという、唖然とする教訓を提供した。反面、アメリカの企業化された商業的ミュージカルとはまったく異なる、韓国的な歌劇を作らねばならないという運動が起きたことはたいへん鼓舞的なことであった。ムン・ホグンの韓国音楽研究所の活動はいまだ未熟な段階であるが、未来の展望を明るくしてくれた。

成人ミュージカルと別個に青少年のための演劇を目的に誕生した金雨玉(キム・ウオク)の東郎レパートリー青少年劇団のミュージカル『星シリーズ』は、青少年演劇の重要性を認識させたという点とミュージカルとしての演出と技巧が優れていたという点で評価しなければならないだろう。1985年国連が“世界青少年の年”を宣布し、この年から韓国では“青少年公演芸術際”が催されていることとあわせてソウルで“世界人形劇際”が開催されたが、このような行事は比重がしだいに大きくなる青少年公演芸術に無関心だった過去の過ちを、遅まきではあるが是正していく良い現象であると言わなくてはならない。

1980年代初は1970年代に続いて、演出家が劇作家の上に君臨する演出家の時代だった。しかし呉泰錫は劇作と演出を分離しないで一編の演劇作りにおける総体的な責任者となり、韓国人のアイデンティティを執拗に追求する代表的な演出家としての地位を確立した。その他に鄭鎭守、尹ホヂン、林英雄、權五鎰(クォン・オイル)、孫ヂンチェク、蔡允一らが注目される活動を行っており、1980年代出身の演出家としては金錫萬(キム・ソンマン)、金雨玉、金明坤(キム・ミョンゴン)、金光琳(キム・グァンニム)らが断然引き立った。金雨玉(キム・ウオク)はマイケル・カービー(Michael Kirby)の『ネ・ムル・ビッ』(Smoke.Water and Light)を演出、わが国で初めて構造主義演劇を紹介して注目された。それはストーリーとプロットと性格などのドラマの3大要素を完全に排除し、ただ追跡と逃亡という2つの構造のみを利用して作った異色の作品だった。キム・ソンマンは1985年に、分断の悲劇を描いた劇団演友舞台(ヨヌムデ)の『韓氏年代記』を叙事的技法で演出し、華麗な登場をした。金明坤は俳優出身ではあるが、民衆抗争を扱った『カボセ カボセ』(1988)で演出技量を立派に発揮しており、金光琳はフランツ・サボ・クロツ(Franz Xaver Kroetz)の『水族館』の緻密な演出家として1988年東亜演劇賞の受賞者となった。蔡允一(チェ・ユニル)はひとえに演出家の執念を生かして1986年い李鉉和(イ・ヒョナ)の『0.917』を、創作劇としては初めて一年近い長期公演したことと、『カデンツァ』もまた話題作として長期公演させたことはセンセーショナルな事件となった。

韓国演劇のもっとも深刻な問題は演技者の不足である。なによりも舞台経験が豊富な中年をこえた演技者が不足している事態は、演劇を危機に追いやっていると思える。1960年代から1970年代にいたるあいだ、韓国演劇の棟梁的役割をしてきた演技者たちがすべてテレビや別の生業を求めたために、現在韓国演劇には埋めることのできない大きな空白が生じたわけである。その空白を埋めているのは幾人にもならない40代の俳優たちだ。零細な現在の各劇団は1980年代に入って演技者の出演料要求事態に直面、団員をそれ以上劇団にのみ引き止めておくことができなくなった。創団20年を迎える大部分の優秀な劇団が、実質的な演技者団員を保有できないありさまである。

1983年には初めてソウルを除外した、全国の道・市の演劇祝祭である“全国演劇祭”が釜山で開催された。演劇がソウルにのみ集中していた現象が変化し始めたのは1980年代であり、ソウルと地域文化の平等な発展がたいへん重要であるということが認識されつつ、この演劇祭が制定されたわけである。年ごとに地域予選を通じて代表を選出し、開催地を変えながら開催されているこの演劇祭によって、開催地はもちろん、全国で演劇熱気がたいへん高潮し、地域住民たちに演劇を鑑賞できる絶好の機会を提供することになった。

1980年代にもっとも注目されて隆盛だった演劇のひとつが“マダン劇”である。ここで言うマダン劇は韓国伝統の演技を母胎にする一般的な意味のマダン劇ではない。もちろんそれを主要な基本形態とするが、より意識的な集団が政治・社会問題に対する直接的な表現のために作った運動的性格のマダン劇を意味する。この“マダン劇”は1970年代に大学街と在野の運動圏でまず我々の主体的な演劇形態を確立して後に、矛盾と非理に満たされた社会現実を演劇にこめて、民衆の主体的・自主的力量を示威するために主にキャンパスや農村・職場で始まった。1980年代にはその勢力を全国的に拡張しながら、おいおいと制度圏演劇の反体制としてその存在を確固とし、韓国演劇を両分する脈として成長した。1980年の安種官(アン・ヂョングァン)の『土先生伝』と黄ル暎(ファン・ソギョン)の『チャンサンゴンメ』はマダン劇の80年代を開く象徴的な公演だった。以後、マダン劇は内容が少し過激・急進的に発展、1984年反体制的公害問題劇『私の住んでいた故郷』が公演禁止事件を招きもした。

マダン劇が主に扱った内容は光州事態や農村問題、労使葛藤、イデオロギーと南北分断の問題、反米、公害問題などだったが、それまで疎外されていた民衆の苦痛を世間に広く知らしめて、彼らの力を判らせたという点で重要な意味を持つのである。しかし異なる一方では、これらは個人の体験よりも社会の改革をより尊重したあげく、真正な芸術とプロパガンダの違いを無視する危険を犯しもした。そのなかで『クミ5月』は光州事態の犠牲者である妹の目と心を通して光州の痛みを叙情性たっぷりに描いた。

1980年代の翻訳劇は大部分が興行を主とする軽い喜劇と再公演が圧倒的に多かったし、1970年代のように韓国演劇に養分を提供するほど優秀な作品公演はきわめて少なかった。80年代の翻訳劇のうちヒットした作品はハロルド・ピンターの『ティーパーティ』、ピーター・シェーファー『エクウス』、ジョン・ピルミア(John Pielmerier)の『神のアグネス』であり、我々の同時代作品としてはウォレ・ソインカ(Wole Soynka)『狂人と専門家』、サム・シェパード『ほんものの西部劇』、ディビッド・マネ(David Manet)の『アメリカンバッファロー』、フランツ・クレッツ『水族館』程度だった。サミュエル・ベケット生誕80周年を記念して劇団チョンウォンがベケットの一幕劇のうち、韓国初演作8編をもって“ベケット・フェスティバル”を創団公演にしたのは特記するべきことである。韓国の翻訳劇史上、最多公演目録を見るならば『セールスマンの死』『ガラスの動物園』『楡の木陰の欲望』などと、喜劇ないしは風刺喜劇(farce)や軽いメロドラマが圧倒的だが、これからはこの目録が変わらなくてはならないのではと思う。輸入劇と内容の変化も開放と民主化、芸術的成長と発展に重要な要素となるためである。我々はこの点をソウルオリンピックの時に切実に感じた。

ITIは80年代の代表的戯曲として次のような作品を選定した。 [作表ならびに年代補填は岡本による]
作品名年代(劇団)解説
○○楽浪○1980 韓国の国文学を世界的な水準に引き上げたチェ・イヌンが、韓国の伝統説話をきわめて現代的な理論と技法を通じて解析した戯曲
農地1981 写実主義者である尹朝柄が、歴史の受難を経ながら農地を守った韓国の農夫像を感動的に描き出した
神話,900 社会が真実と正義を基本としておらず、独善と偏見に陥ったときに個人の権利と尊厳は無残にも破壊され得ることを精神病棟の裁判劇形式で描いた尹大星の代表作のひとつ
植民地から来たアナーキスト1984(民衆劇団・鄭鎭守演出) 日帝の植民地政策に反抗し、最後まで民族的自尊心を曲げなかったある愛国者の話を金議卿が力いっぱい劇化した作品
春の日 秀でた寓話作家である李康白がモチーフに韓国人と韓国人の生、そしてその情緒を独特に表現した作品
チルスとマンス1987(演友舞台) ビルの屋上の広告塔で仕事をする二人の塗装工が、現実を懐疑的に風刺するオ・ヂョンウの処女作
不可不可韓国史のある部分を今日の現実に符合させて模倣した、李鉉和の唯一の作品

この他にも1980年代を輝かせた演劇は呉泰錫の『自転車』と『父子有親』があったし、南北統一がもたらす悲劇を扱った廬慶植の『空ほどに遠い国』と、国を守る目に見えない守り神を描いた女流作家鄭福根(チョン・ボクン)の『チキミ(守り神)』がある。朴祚烈『オヂャングンの足の爪』と、尹大星『韓氏年代記』もまた80年代の秀作だった。

2.方向性を失った90年代演劇

1987年6月29日に民主化宣言があってのち、軍事政権は顕著に勢力を弱化させた。ついには大統領直選制によって1993年、金泳三大統領の文民政府が樹立することでじつに32年ぶりに軍事独裁制が崩壊した。攻撃の相手が突然くず折れて表現の自由が完全に提供されるやいなや、演劇界は方向をつかめず、何をどのようにしなければならないのか判らなくなった。まずできることは旧悪を清掃することだった。1987年から1990年まで韓国の演劇はことごとく旧悪に関係した政治・社会劇の氾濫をなしていたが、1991年からこのような演劇は顕著な衰退現象を見せはじめた。彼らは政治・社会問題を感情的・即興的な鬱憤晴らし式に扱ったために観客はすぐさま食傷し、背を向けてしまった。このような類いの作品は大部分が軽薄な喜劇的雰囲気をとっており、問題を見る彼らの視線には斬新な洞察力が欠如していた。政治劇ないし社会劇を主導してきたマダン劇系列の活動もそのほとんどが洞察力を欠いていた。90年代に入って韓国演劇は過去の政治・社会劇が占めていた座が、軽い喜劇に代わったかのようである。重くて暗い過去の雰囲気から抜け出すやいなや、突然人々は軽くて頭を使う必要の無い気分に浸りたかったのようである。名前もよく知られていないブロードウェイの喜劇と笑劇が、急ごしらえの喜劇とともに舞台を席巻したようだった。特にセックスコメディが観客の大きな呼応を得ており、その余波で司法当局の審判を受けた作品まで出てくるようになった。東西を問わず演劇にはジョン・バリッシュが憂慮した、反演劇的偏見を惹起させるほどの危険な状況がいつも存在するようだ。

このような喜劇ブームは、豊穣な社会が持つ生の目的喪失と感覚的快楽主義とも緊密な関係があるようだ。韓国は暗澹とした政治に対する補償としてこの間経済的な富を増殖させてきており、その富が提供する各種の快楽と奢侈と便宜主義を胸いっぱい享受してきたのだった。大部分の韓国人に深刻で頭の痛い問題は、可能なかぎり忌避の対象となった。

喜劇とともに90年代を特徴付けるのはミュージカルの急成長だった。韓国の観客の趣味が変わったのである。ミュージカルは1980年代後半から徐々に起こり始めたが、90年代に入ってからはミュージカル専門俳優と演出家が生まれはじめ、ついには70年代・80年代演劇の演出家として確実な基盤を築いたユン・ホヂンがミュージカル専門劇団を創団し、わが国近代史の悲運の王妃『明星皇后(ミョンソンファンフ)』のような大型ミュージカルを制作・演出した。その他にもいくつかの創作ミュージカルが生まれ、ブロードウェイミュージカルをそのまま移していた今までの状況に変化を与えたようである。米国と英国のミュージカルが直接韓国の舞台に進出し、相当な衝撃とともに関心を引いた。わが国のミュージカル水準の向上にもかかわらず、ミュージカルはいまだ韓国では巨大資本による本格的な娯楽産業として成長し得ないでいる。そして観客は大部分が若くて教育を受けた階層に限られている反面、歳をとった昔の観客層のためには1920〜30年代に大衆芸術として寵愛を受けていた、しかし純粋芸術たる現代写実劇によって軽視されてきた新派劇が何十年かぶりに復活し、爆発的な人気を呼んでいるのである。このような新派劇は昔の内容を現代的に修正しており、舞台技術を桁外れに向上させた。

90年代になってもうひとつの変化した特徴があるとすれば、それは女性を主題にした女性主義の演劇が増えたことである。韓国社会は伝統的に男性中心社会であり、したがって女性に対する抑圧と虐待が強い方だった。しかし高等教育が女性に普遍化し、西欧思想が相当に深く女性の意識を覚醒させたために、過去のような男女の儒教的倫理観や道徳観をそのまま信じて実践する者はほとんどいない。とは言うものの、女性の解放と権利を主張して先に立って進もうという女権運動も、いまだ社会的運動の次元で積極化されてはいない。80年代後半のシモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールまで、約30編の女性主義演劇が上演されたが、フェミニズムはいまだ公論化されて大衆的争点として浮上したことは無い。相当に話題となった翻訳作品としてはマーシャ・ノーマンの『Night Mother』、Nel Dunnの『浴場(Steaming)』、アーノルド・ウェスカー『娘に送る手紙』、Ariel Dorfmanの『少女と死』、Caryl Churchillの『トップガールズ』、エドワード・オルビー『背の高い3人の女(Three tall Women)』などであった。大部分が女性である観客たちは、公演中に演劇の訴求力に感傷的な涙を流しもした。

伝統ドラマの領域から、90年代は歴史をもう一度紡いで歴史的な人物の怨恨を晴らしたり、歴史的な史実に異なった解析を行おうとする試みが多かった。その中、代表的な作品が李潤澤の『問題的人間燕山』(1995)だった。16世紀韓国の王であった燕山(ヨンサン)は奢侈と享楽に陥っていた暴君だったが、王のそのような心理状態と精神世界を超現実主義的に再解析して再構成した演劇だった。おそらくこの演劇は90年代の記念すべき演劇として残るであろう。呉泰錫の『白馬江(ペンマガン)、月の夜に』(1993)は7世紀百済の滅亡とその最後の王の怨魂を慰める伝統祭祀の形式を借りて、死の世界に頻繁に出入りしながら展開する演劇だった。呉泰錫のもうひとつの傑作『沈清はなぜ印塘水へ身を二度投じたのか』(1991)は、あまりにも非人間的な現韓国社会を、我々のたいへん教訓的な伝説を借りて無慈悲に批判している。李康白の『寧越(ヨンウォル)行き日記』(1995)は15世紀中葉、14歳の幼い王を殺した彼の三寸(サムチョン) [三寸はいわば親戚] である王の権力欲を扱っているが、歴史的な史実のうらに隠された話を想像力で再構成し、ドラマとして現象化した点が注目された。

こんにちの演劇を成すところの基盤となった実験精神は、1970年代以後にもっとも旺盛だった。その後、実験精神は商業精神に代わって、実験的な演劇らしい実験劇を長いあいだ見ることができなかった。しかし90年代に入って実験的な作品が現れはじめ、劇団小さな神話が共同創作してチェ・ヨンフンが演出した『戦争音?楽! 2』をはじめとする一連の作品が、ポストモダニズム的特性をよく表している。それらの作品には事件が無く、断片的な場面のみが羅列されて、物語よりもイメージをより重要視して、論理よりは感覚をより前面に出す。彼らにとっての関心の的は共同体的観点と認識では無く、あくまでも個人的な、個人主義的な直感と洞察である。しかし彼らの作業は理論的な確信に弱く、方法論上の妥当性と説得力が微弱で、ともすれば悪ふざけをしているように見えるときもある。

実験的な作業は創作劇よりも翻訳劇側ではるかに活発である。ハイナー・ミューラーの『ハムレット・マシーン』は観劇のために日本から観客が来たほど話題をふりまいた。チェ・スンフン(演出)は怪奇性とセンセーショナリズムを塩梅して特異な雰囲気を創出した。ITI委員長の金正トはロルカの『血の婚礼』を韓国の葬式という枠の中にはめ込み、シェイクスピアの『ハムレット』を韓国のシャーマニズム儀式であるクッ形式にはめ込んで韓国とヨーロッパの観客から大きな共感を得た。金亜羅(キム・アラ)は『オイディプスとの旅』でソフォクレスと韓国の小説家チャン・ヂョンイルの世界を併置して、相互に反映させる実験を行った。

翻案作品として注目するべき作品は、呉泰錫が演出したシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だった。彼は二つの家門の葛藤を分断された韓国の南北に代置して、その二つの国の和解と平和は決して成されないことを展望した。アリストファネスの『女の平和』はその内容が性を通じた戦争抑止策であったことから大衆の呼応も大きく、ブレヒトの『コーカサスの白墨の輪』もまた多く人気を得た。また、90年代にはレニングラードのマリ劇場が来韓して『桜の園』を完璧な写実的演技スタイルで公演し、スタニスラフスキー演技術の真髄を鑑賞できる機会を得た。

1992年に来韓した英国シェイクスピア劇団の『マクベス』は現代の衣装を着たマイケル・ボグダノフの新鮮な演出作だった。外国団体の公演として真正な感嘆を引き出した作品は、モスクワ中央人形劇団の『珍奇なコンサート』だった。90年代に我々は二回の国際演劇祭を持ったが、最初は91年“アジア太平洋演劇祭”であり、この演劇祭に参加したポーランド人ビブ・チェセ(Biv Chese)の『カリギュラ』は男女の性を入れ替えた配役と、舞台と客席を入れ替えた空間配置が特に異色だった。これに参加したもうひとつの劇団は世界的な名声を得ているが、韓国には初めて来韓するパンと人形劇団だった。この劇団は『コロンブス、新世界の秩序』を公演したが、特に彼らの野外人形劇公演は韓国の観客たちに大きな反応を引き起こした。もうひとつの国際演劇祭は94年に初めて開催された“ベセト演劇祭”だった。この演劇祭に中国は人民芸術劇院の『天下○○○』という自然主義風の現代劇を、日本は鈴木忠志が率いる劇団SCOTの『リア王』を公演した。鈴木は『リア王』を日本の伝統劇様式で表現した。この演劇祭は毎年場所を変えながら開かれており、観客の関心がしだいに大きくなっている。これは経済的なブロック化に対する文化的なブロック化で、西欧演劇に対する極東アジア3カ国の文化的提携を目的としているところに意味がある。

1995年に金正トが東洋人としては初めてITIの委員長に選ばれ、1997年に“ITI総会”と“世界演劇祭”をソウルで開催したことは韓国演劇の自慢であり、栄光である。その間、韓国演劇が国際的に進出しようと努力した結果ではないかと思う。

1991年、政府ではこの年を“演劇・映画の年”と決めて、集中的な支援を与えた。支援方法のひとつとして“愛の演劇祭”を制定した。この演劇祭は希望する劇団はどの劇団であれ自由に参加することができたため、32個の劇団が総41編の演劇を公演した。特にこの祝祭に参加する劇団には観客の入場料を割引し、その割引額ぶんを政府が劇団に補助として与えたために、観客と劇団がともに恩恵を受けることができるようになった。この演劇祭は春に開催され、秋にはすでにソウル演劇祭が毎年開催されていた。したがってソウルには二つの大きな演劇祭があることになり、秋の演劇祭にも自由参加制度を設けて観客支援を行うこととした。この制度は演劇の発展のために画期的な支援策として評価されている。1991年、最初の年の最優秀作として選定された作品は、19世紀末の平民出身で教育を受けられなかった天才的な画家に関する劇として、画家の芸術的魂を主題にした金亜羅の演出が際立った『囚われた霊魂』だった。同じ年、秋のソウル演劇祭にはソウル市立劇団(1997年創立)の団長だった金義卿作、李潤澤演出の劇団現代『旅立つ家族』が大賞を受賞し、ニューヨーク公演を行った。この作品は現代韓国美術家の苦難と挫折に満ちた生涯を描いた詩的で幻想的な作品である。

小劇場公演の中には年を越えて長期公演を行う劇場が生まれもした。過去に愛していた二人の男女が再び出会い、昔の愛に火をつける『灯かりを消して』(イ・マニ作、大学路劇場)、軍事政権時の不合理性と暴力を扱った『我らの歪んだ英雄』(李文烈作、カマン小劇場)、ジョン・フィルモアの『神のアグネス』(実験小劇場)、乞食の物乞いを劇化した金詩羅作・演出の『プンバ』がそれらである。

90年代にわが国では初めて、既存の劇作家を記念して彼らの過去の戯曲を集めた演劇祭が催されたが、第1回は“呉泰錫演劇祭”(1994)、第2回が“チェ・イヌン演劇祭”(1966)だった。戯曲を一回公演したら投げ捨てて、めったに再公演を行わない我が劇界の風土を勘案してみるとき、このような再公演祝祭は作品の生命を新しく延ばすことであるのみならず、作家本人や新しい観客層のためにもたいへん喜ばしく価値あることだ。呉泰錫演劇祭、チェ・イヌン演劇祭を主催したところは芸術の殿堂だったが、ここは1993年に開館したわが国最高の公演芸術センターである。また、2年後の1995年には国立劇場の別館形式として都心地に貞洞小劇場が生まれ、主に外国人を相手に韓国の芸術と文化に接することのできる劇場として活用されている。

本稿の著作権は李杜鉉&呂石基&韓相浮ニITI韓国本部にあり、翻訳の責任は岡本にあります。