「1930年代韓国戯曲の類型に関する研究」抄 -金美都(キム・ミド)-
このドキュメントは金美都(キム・ミド)氏の著書『 韓国近代劇の再照明』(現代美術社刊 ISBN89-7727-056-1)の部分訳です。もともとは著者の高麗大学大学院国語国文学科に提出した博士論文ですが、文中から戯曲の国文学的分析を行っている部分をはぶいて、1930年代の韓国演劇を概観する読み物にできないか著者と検討中です。

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1. 序論
2. 大衆劇
  2-1. '30年代大衆劇の展開様相
  2-2. 大衆劇の特性
3. 新劇
  3-1. '30年代新劇の展開様相
  3-2. 新劇の特性
4. プロレタリア劇
  4-1. '30年代プロレタリア劇の展開様相
  4-2. プロレタリア劇の特性
5. 大衆劇、新劇、プロレタリア劇の接合と変容
6. 結論

1. 序論

本稿は既存の韓国戯曲研究が概ね文学的な作家論や作品論に重きを置いてきたという限界から出発し、戯曲と演劇の間の関連様相をより具体的に追跡しようとした。戯曲が上演を前提としたテクストであるうえは、戯曲作家は作品を書くときに上演を念頭におかなくてはならず、したがって当時の支配的な演劇様式に留意しないわけにはいかない。言い換えるならば、特定の時代の演劇様式は、その時代の様式に支配される戯曲を胚胎するほかなかったわけである。本稿で叙述対象の時期として選定した1930年代は、光復(クァンボク) [訳注:1945年8月15日の独立を意味する] 前の演劇史において、わが国の演劇舞台が最も隆盛であった時期である。1930年代に活躍した劇団は大小併せて30余劇団にいたり、これらはソウルを中心に全国50余劇場を巡回した。1910年代が新派劇一辺倒だったならば、1920年代からは土月会の活動による新劇運動と、KAPF(朝鮮プロレタリア芸術家連盟)の結成によるプロレタリア演劇運動が芽生え始める。そして1930年代に至って、新派劇が依然として優勢を振るっているなかに劇芸術研究会が本格的に新劇運動の旗を掲げ、KAPFもまた本格的な公演活動を開始することで、演劇ははるかに多様で複雑な様相を示す。

既存の演劇史はたいがい当時の演劇界を新劇・商業劇・傾向劇・学生劇の4つの形態に区分している。興行劇あるいは商業劇と呼ばれてきた演劇の分類には主に新派劇団の公演ものが該当する。興行劇とは「営利劇団が商業的に上演する演劇」とされ、レパートリーの選定において「上演ものの芸術的価値や社会的効果は副次的意義をもつものとなり、観客の嗜好に投じて収益の豊富を図ろうとすることが唯一の考慮点となる」とされた。新劇あるいは研究劇と称された演劇は主に劇芸術研究会の活動を指しており、その内的意味は近代写実主義演劇を指し示すものである。新劇運動の要諦だった劇芸術研究会の創立当時、各新聞紙上に発表された趣旨は「劇芸術に対する一般の理解を広くし、既成劇団の邪道に流れを救済すると同時に、ひきいては真正な意味のわが新劇を樹立しようとする目的」であると明らかにした。1920年代から始まった学生劇運動は韓国演劇運動の一環として1930年代に入って最も盛んだった。当時学生劇は全人的教育の総合手段として、商業的娯楽主義演劇を排斥して知識階級の教化的任務を遂行し、新劇運動の真正な同伴者となろうとした。傾向劇・左翼劇あるいはプロレタリア演劇とは1920年代から1930年代にKAPFの影響力下に、社会主義思想に基盤を置いて繰り広げられた進歩的演劇運動を指し示す。

本稿では1930年代の戯曲を大衆劇・新劇・プロ劇の3つの類型に大別して考察することとする。大衆劇は当時興行劇や商業劇などと呼ばれてきた分類の演劇に該当する。興行劇や商業劇という用語は、該当する演劇行為の本質を糊塗する危険を抱いている。本稿ではこれらの代わりに一般大衆が負担無く好む演劇としての意味で大衆劇(Popular Theatre)という用語を使用することとする。新劇は近代写実主義の演劇を指向していた劇芸術研究会(劇研)の活動と学生演劇運動が含まれる。新劇という言葉そのまま新しい演劇であるので、当初はパンソリに対立する新しい演劇としての唱劇(チャングク)、伝統演劇に対立する新しい演劇としての新派劇(シンパグク)、そして新しい近代劇としてのリアリズム演劇などと混用されてきたが、しだいに近代写実主義の演劇を指す方向に統一されていった。厳密な意味で、学生劇運動は劇研の影響下で新劇運動の底辺を拡大させるところに寄与した。プロ劇はKAPF(カプ:朝鮮プロレタリア芸術家連盟)の先導下に、社会主義理念を指向する演劇活動としてのプロレタリア演劇の略称である。当時左翼劇や傾向劇という用語も使用されたが、左翼劇は芸術的意味よりも政治的意味が濃く、傾向劇は1920年代の自然発生的な新傾向派戯曲に限定されるのでプロ劇という用語を選んだ。また、1930年代に入って本格的に社会主義演劇団体が出現し、実際に公演活動を展開することとなった。プロ劇もまたおおむね写実主義の様式を指向したが、新劇と区分したのは互いの理念や演劇行為の目的および実践過程が画然と区分されるためである。

本研究はまず1930年代の代表的演劇の類型である大衆劇・新劇・プロ劇の全般的な展開過程を見ることとなる。次に各演劇類型の特質を含んでいる創作戯曲を土台に、各演劇類型の特性を解明することになる。これは各戯曲の類型別に作品の支配的な素材と主題はもちろん、これらを盛り込む形式や様式上の特質と特定の演劇技法を見ることになる。そして大衆劇・新劇・プロ劇が互いにどのような影響を受け与えしており、その結果どのような変化過程を経てきたのか総合的に再照明することになる。

2. 大衆劇

2-1. 1930年代大衆劇の展開様相

韓国演劇史における大衆劇の出帆はまさに近代的演劇の出帆だった。韓国最初の新派劇団である林仙圭(イム・ソンギュ)の革新団(ヒョクシンダン)の1911年11月創団をはじめとして、尹白南(ユン・ベンナム)、趙一齊(チョ・イルチェ)の文秀星(ムンスソン:1912年3月創団)、1912年11月の李基世(イ・ギセ)による唯一団(ユイルダン)の創団など、草創期新派劇団の演劇はすべて大衆劇の性格を持っていた。1910年代の大衆劇はこれらからおおむね二つの系譜に分けることができる。そのひとつは文秀星・唯一団から藝星座(イェソンヂャ)と朝鮮文藝団(チョソンムネダン)に至る系列であり、いまひとつは革新団から金陶山(キム・ドサン)の改良団(ケリャンダン)と新劇座(シングッチャ)、金小浪(キム・ソラン)の聚星座(チソンヂャ)に至る系列である。1910年代の劇界が大衆劇一辺倒だったならば、1920年代からは大衆劇・新派劇・プロ劇の分化が芽生え始める。1920年代の大衆劇はおもに「改良新派」形態の新派劇であり、歌劇や寸劇も流行し始めた。代表的な劇団としては聚星座をはじめとして民立劇団(ミンニプクッタン)・朝鮮劇友会(チョソン-クグフェ)、聚星座の後身である朝鮮演劇舍(チョソン-ヨングッサ)などをあげることができる。

1930年代に入ると大衆劇・新劇・プロ劇の分化はさらにはっきりとし、これらの間で理論的論争まで活発化した。1930年代前半期を代表する大衆劇団としてはソウルを中心とした朝鮮演劇舍、演劇市場(ヨングクシヂャン)、新舞台(シンムデ)、太陽劇場(テヤングッチャン)、黄金座(ファングムヂャ)などと、平壌中心の喜楽座(ヒラクチャ)、元山(ウォンサン)の朝鮮演劇号(チョソン-ヨングゴ)があり、地方巡回を主とした玄聖完(ヒョン・ソンウォン)一行の兄弟座(ヒョンヂェヂャ)があった。この他にも中外劇場(チュンウェ-クッチャン)、明日劇場(ミョンイルグッチャン)、門外劇場(ムネェ-クッチャン)、春秋劇場(チュンチュ-クッチャン)、ソウル舞台(ソウルムデ)などが明滅した。

1930年代前半期を代表する劇団の性格を簡略に見てみよう。まず朝鮮演劇舍は1920年代に金小浪が主宰していた聚星座の後身として、金小浪に反旗を翻した団員たちが創設し、1930年代初盤に旺盛な活動を行った。池斗漢(チ・ドゥハン)と卞基鍾(ピョン・ギヂョン)が主導的位置にあり、男優には李敬煥(イ・ギョンファン)、姜孔植(カン・ホンシク)、王平(ワン・ピョン)らと、女優には李愛利秀(イ・エリス)、全玉(チョン・オク)、チ・チェスン、池京順(チ・ギョンスン)、池季順(チ・ゲスン)らが中心をなした。故高雪峰(コ・ソルボン)の証言によると、朝鮮演劇舍のレパートリーは当時の社会問題を扱った、いわゆる「社会大衆劇」が主流を成していた。1935年5月の公演に対しては柳致眞(ユ・チヂン)の劇評が伝えられているが、日本で演出の勉強を行って戻った洪海星(ホン・ヘソン)が朝鮮演劇舍に関係した後、初の演出を引き受けたという。レパートリーはマ・チュンソ翻案の歌劇『売り家』と、朴英鎬(パク・ヨンホ)が中国の野史からとったという『開化前夜』(全3幕)であり、幕間には独唱とナンセンスを加味した。ここでの『開化前夜』は時局に不満を抱いた青年たちが、夢の中に革命的事件を願うこととして現れる。1935年7月、朝鮮演劇舍の最後のレパートリーの中にも社会劇と命名された李雲芳(イ・ウンバン)作『犯罪都市』を見ることができる。

1931年1月創団の演劇市場(ヨングクシヂャン)は、主にさまざまな演劇形態をバラエティショーのように羅列する方式をとった。同年5月、公演に先立って「歌劇や寸劇、レビューや新劇など見世物の百貨店式に、初めから終わりまで幕間を短縮して、演出と装置に速度を加えてこそ新時代の先端意識にひきあうように新しい」云々と興行方針を明らかにしている。このときのレパートリーは「涙あふるる郷土劇『椿の花』、悲劇『司空の娘』、風刺とナンセンスの寸劇集『トフェ(都会?)狂想曲』、ナンセンス映画風のレビュー形式になったお笑い歌劇『結婚戦線異常無し』」の五つで構成されていた。演劇市場の中心人物は任曙ム(イム・ソバン)とパク・チョンヒョンであり、男優に李敬煥、沈影(シム・ヨン)、朴齋行(パク・チェヘン)などと、女優にイ・ギョンソル、李愛利秀、シン・カナリア等がいた。この団体は1935年頃には実質的に解散していたが、1937年3月にも演劇市場という名での公演が目にとまる。

新舞台(シンムデ)は団成社(タンソンサ)の専属劇団として1931年9月に創団した。第1回公演のレパートリーは宋海天(ソン・ヘチョン)翻案の風刺劇『お前の家を訪ねて』、申不出(シン・ブルチュル)作の郷土劇『アリラン反対偏』、安光翊(アン・グァンイク)翻案の笑劇『サンチョサン』などだった。この中でもっとも注目を集めた作品は『アリラン反対偏』で、当時の農民の生き生きとした現実を扱っている。

無気力な農民たちが農地を奪われても反抗する勇気もなく、アリラン峠を越えていく。幼くして家を失い故郷を離れ、異国で苦労したがふたたび故郷に戻った青年、すなわちキリョンに指導を受け、無意味に生きているのではなくこの農村を死守しようというところでアリラン民謡は新しい命を得た。幕が上がるや否や、片付け物をする者や臼ひきをする者は朝鮮正調の衣装を身に着けているのが哀れに見えた。しかしマクトンイ●●●●はこの悲劇に多少喜劇的「薬味」を加えようとした作家の意図から案出された役だったろうが、それにしてもそのあまりにもむやみに騒ぎ立てるさまは下人としてはうまくない。もう少し台詞と動作に注意しなければならない。次に酒店で繰り広げられたクェンガリやチャンゴなどに合わせて朝鮮の歌と踊りを踊るのは、われわれの郷土調が流れ、劇全体にもよくあって無難でると見た。ある点では賞賛もできよう。しかし洋服姿の青年三人とキリョンが格闘するときに、三青年を2〜3回さかさまに落としたりしたのは、おそらく観衆心理にあわせようとした考えなのかもしれないが、あまりにも曲芸のようで多少こっけいにも見えた。(劇芸術研究会同人合同評「新舞台初演を見て」東亜日報1931.9.12)

「民謡劇」と命名されたこの作品は、日帝の土地収奪に対抗する農民たちの抵抗を扱っているものだが、わが国固有の民謡や楽器演奏などがたいへん豊富に、調和を持って扱われていたことがこの劇評から推察できる。また、当時の観客が舞台上でのひやひやするアクロバットをしごく好んだため、そのような側面が誇張されて表出されていることがわかる。次の年である1932年3月に藝術座(イェスルヂャ)という分派が生まれたが、7月に二者は再び合わさって協同新舞台(ヒョプトンシンムデ)という名前を掲げた。続いて8月に公演した作品には時代劇と命名された佛面鬼(プル・ミョンギ)作『毒血』(全1幕)がある。この作品は旧韓末に国をゆるがせにする奸臣らに立ち向かって、志あるソンビ(官職に就かない学者)たちと百姓たちが救国運動を展開するという内容のようだ。新舞台のレパートリーにはこのように時代性が濃厚な作品が散見される一方で、高雪峰の証言では家庭悲劇や母性悲劇もよく上演したという。新舞台の男優には申不出、全景希(チョン・ギョンヒ)、宋海天(ソン・ヘチョン)らが、そして女優にはイ・ギョンソル、羅品心(ナ・プンシム)、パク・チョンオクらがいた。新舞台は一般演劇以外にも連鎖劇 [連鎖劇:連続劇のこと] として『若者よ、泣くな』『洪吉童伝』『岩窟王』などを制作した。このような作業には羅雄が監督を引き受けたり直接出演するなど、積極的に介入した。

黄金座(ファングムヂャ)は成光顯(ソン・グァンヒョン)を団長にして1933年12月に第1回公演を行って後、1945年の解放直後までも興行を続けた。男優にはユ・ソニョン、イ・ウォン、チェ・ゲシクらがおり、女優はキム・ギルスン、ソン・ミョンスン、キム・ミョンオクらがいた。代表である成光顯は林仙圭から直接演劇を学んだ人物で、黄金座の演劇は林仙圭式新派劇と呼ばれてもいた。朝鮮演劇号は元山が本拠地で、1920年代末期に創団して主に地方巡演に注力したが、1935年10月に初演を行った。この劇団はとくに活劇のたぐいを多く公演したという。徐恒錫は、1930年代前半期における「興行劇界の動静は劇団の頻繁な離合と俳優の無節制な移動」と前提して、その上演ものをみると「興行だけを目標として、むやみやたらに低劣猥雑なもので観衆に驚きの声を上げさせることをこととした」と評した。しかし上演ものとしてはとにかく公演日数は相当に多く、「昨年には中央での公演が延べ日数で約8ヶ月続いたわけだし、今年も太陽劇場の第一劇場・朝鮮劇場での公演と、新舞台・協同新舞台・研劇舎の団成社での公演を延べ日数で計算するとやはり8ヶ月以上になる」とした。徐恒錫の見解を総合してみると1930年代に入って大衆劇団の結成が顕著に増加しているが、公演ものの水準はかなり低級なものと評価されている。その最も大きな理由は徹底した商業主義への指向から起因する。

当時の知識人の眼に映った大衆劇は、大衆の野卑な好みに合わせて可能な限り金銭上の利益を高めようとする演劇として認識された。にもかかわらず公演日数が一年のうち8ヶ月以上継続したということは、それほどまでに大衆劇が観客に人気を得たという事実を反証するものだ。当時の大衆劇はいったん観客の関心と好奇心に、最大限迎合する素材を選択した。内容の現実性や構成の蓋然性・必然性よりは観客が楽しめるように、できるだけ観客の笑いを多く誘発できる言葉や行為が優先的に考慮された。 大衆劇団はたいがい新派的色彩が濃厚だったし、観客の末梢的好奇心を充足させることに汲々とした。特に幕間の余興をことさら拡大することをもって、正規演劇が萎縮する副作用を生むこともあった。

大衆劇は1935年11月にわが国最初の演劇専用常設劇場として開館した東洋劇場(トンヤングッチャン)の誕生によって、新しい転機を迎えることになる。「龜子(ペ・グヂャ)と洪淳彦(ホン・スノン)夫婦、そして崔獨鵑(チェ・ドキョン)らが主軸となって設立した東洋劇場(西大門区忠正路1街62番地:現文化日報社屋)は488坪の土地に建坪373坪、客席648席に回転舞台とホリゾントまで備えた最新式の劇場だった。当時の劇場事情に照らしてみるとき、東洋劇場の開館は格別な意味を持つ。日帝の侵略以後、既存の劇場は大部分日本人の手に渡っており、その後にできた劇場もすべて日本人によって設立された。彼らは徹底した興行業者であり、収支が保障される興行ものだけに劇場を貸与しており、映画館としても混用した。このような状況のなかで、韓国人の手によって演劇専用の現代式劇場が建てられたことはまことに志あることだった。

東洋劇場は演劇のみを常設として公演するために急ぎ専属劇団を組織した。1935年12月に専属劇団青春座(チョンチュンヂャ)が発足し、次の年の2月には第2の専属劇団で、史劇あるいは時代劇を標榜する東劇座が誕生した。3月には第3の専属劇団として喜劇専門の喜劇座も組織された。しかし東劇座と喜劇座の公演はさして反応が良くなく、1936年9月末に豪華船(ホファソン)という新しい劇団に統合された。豪華船は後に星群(ソングン)と改名した。

東洋劇場はひと月に三篇ないし四編、多ければ五編の作品を上演したので、多くの台本を必要とした。そこで劇場内に文芸部を置き、専属作家と契約した。文芸部には当初朴珍(パク・チン)を部長として崔獨鵑、李瑞求(イ・ソグ)、李雲芳、宋影(ソン・ヨン)、林仙圭、金健(キム・ゴン)らが所属しており、後に金永壽(キム・ヨンス)、朴新民(パク・シンミン)、朴英鎬・金兌鎭(キム・テヂン)らが加勢した。演出部には日本の築地小劇場で直接演劇を学んだ洪海星をはじめとして朴珍(パク・チン)、安鍾和(アン・ヂョンファ)、韓路檀(ハン・ノダン)、李曙ク(イ・ソヒャン)らが所属しており、安英一と羅雄(ナ・ウン)が客員演出を引き受けるなど、優れた演出家たちが布陣されていた。東洋劇場の主演級あるいは人気俳優としは青春座にソ・ウォリョン、朴齋行、沈影、黄K、卞基鍾、韓一松、金仙草、金鮮英、ナム・グンソン、車紅女、池京順、韓銀珍などがおり、豪華船にはソ・イルソン、張鎭、全景希、孟晩植、梁白明、朴永信、ユ・ゲシン、文貞aAイ・ヂョンスン、イ・ベギらがいた。このようにそうそうたるスタッフと役者で出帆した東洋劇場は、すぐさま満都の名物となった。真夜中に東洋劇場の客だけのために、特別電車が閉幕時間に合わせて待機するほどだった。

東洋劇場のおもなレパートリーは次のごとくである。李雲芳作・朴珍演出の『検事と死刑囚』(青春座1935・12)、李光洙原作・崔獨鵑と朴珍共同脚色・洪海星演出の『端宗哀史』(青春座1936・7)、林仙圭作『愛にだまされ金に泣き』(青春座1936・7)、崔獨鵑作・朴珍演出で『女人哀史』(青春座1937・8)、李瑞求作『母の力』(豪華船1937・11)、林仙圭作『流浪三千里』(豪華船1938・10)、林仙圭作・洪海星演出の『泗ヒ水と落花岩』(青春座1939・1)、林仙圭作・洪海星演出『北斗七星』(豪華船1939・6)、宋影作・洪海星演出『秋風』(青春座・豪華船合同公演1939・7)、李光洙原作・宋影脚色・安鍾和演出『無情』(豪華船1939・11)、朴新民作・韓路檀演出の『大地の母』(青春座1940・6)。東洋劇場はソウル公演のみならず、二つの劇団が交代で地方巡演を続けながら、解放前の演劇史における大衆劇最大の全盛時代を謳歌した。しかし1939年秋に財政難によって経営者が代わり、既存の俳優たちが大部分離脱することによってしだいにその名声を失っていった。

1930年代前半期の演劇までは俗に「改良新派」と呼び習わされており、東洋劇場の演劇からは「高等新派」と命名されたりもする。既存の演劇史は、東洋劇場の演劇が20年代の改良新派から大きく抜け出すことは無く、むしろさらに徹底して観客に妥協したことから演劇を商品化させたと評価した。当時、崔獨鵑は新派と新劇を分けて「新派というのは通俗的だが面白く、新劇は芸術的だが面白くない」ものと定義し、また、「新劇の俳優をさして公会堂俳優と言い、新派演劇に出演する俳優を劇場俳優と呼んだ」と回顧する。

誰がそう名づけたのかわからないが、収支に目の利く興行業者である劇場経営者たちは、観客の量が少なくて収益の少ない新劇団体を敬遠して引き受けなかったので、舞台設備が充分でない公会堂を借りて公演を持ったためにそんな名前が付けられたのだけは事実だった。(崔獨鵑「浪漫時代-人生と演劇3」朝鮮日報1965.3.25)

すなわち新劇は芸術性を標榜したが観客からは嫌われて、公会堂などで公演をおこない、新派劇は通俗的ではあるが観客からの熱い呼応を受けて大部分の劇場舞台を掌握したと把握される。いっぽう、東洋劇場の草創期から1942年までおおよそ400余回に達する演出を行った洪海星は東洋劇場を次のように評価している。

東洋劇場の全盛時代の演劇は観衆に芸術的享楽と人心の改善と知的刺戟の源泉としての、ひとつの教化機関の文化事業だった。彼らの劇運動は自然主義的ないし写実主義的演出方法から出発し魯漫主義の準備時代だった。企業家、劇作家、演出家、演技部員たちは協同一致して活動することが彼らの義務でありあるいはまた権利であり使命だった。

ここで洪海星が言う魯漫主義とは新浪漫主義をさしているようだが、重要なことは東洋劇場の演出技法が「自然主義あるいは写実主義」に立脚したことを明らかにしている点である。東洋劇場の第一期研究生として東洋劇場に身を預けた俳優高雪峰は東洋劇場の演劇が催涙的な劇本とは別途に演技面では「リアルな演劇」を追及したと主張する。涙を搾り出すために彼ら独自の「調」を持ってはいたが、それは誇張された話法とアクションでこっけいなまで見える新派調とは根本的に異なる演技方式として、極度に切実な表現方法を模索したという。あるいはまた、東洋劇場で最も多く公演を演出した洪海星(ホン・ヘソン)は、日本の築地小劇場で徹底した新劇教育を受けた人物で、彼が指向する演劇はあくまでも写実主義の演劇の創造であったし、新派劇の質的向上だった。したがって東洋劇場は従来の新派劇を踏襲しようとするのではなく、少なくとも自然主義ないしは写実主義演劇を指向したという点を重要視しないわけにはいかない。それは新派とは一段階異なる次元でなされた、いうなれば大衆と呼吸を同じくする興行主儀、または商業主義を高めたと見るべきだろう。このような見解を総合してみるとき、東洋劇場の演劇はだいたいにおいてその内容面からは通俗性を通じた商業主義を指向したが、演技面では誇張された新派調を止揚して、日常的で自然な演技に近接したと見ることができる。すなわち東洋劇場に至って初めて「うまく作られた商品(well-maid play)」としての演劇をそのまま供給する「商業主義」が実現しており、それによって演劇従事者たちも専門的な職業人の位相を持つことになった。

東洋劇場とともに1930年代後半期の代表的大衆劇団としては中央舞台(チュンアンムデ)、高協(コヒョプ)、阿娘(アラン)などをあげることができる。中央舞台は1937年代に東洋劇場の青春座を脱退した朴齋行、沈影、徐月影、南宮仙(ナムグン・ソン)と劇研出身の孟晩植、李元根(イ・ウォングン)、卜惠淑らを中心に設立された。中央舞台は創団とともに新劇と興行劇の中庸の道を歩む「中間劇」という新しい形式を標榜して格別の注目を集めた。中央舞台は商業性に重きを置いた大衆劇を指向すると同時に大衆と遊離した状態で芸術性のみに固執する新劇運動を批判しながら、芸術性と大衆性が良く調和した演劇を指向した。しかし彼らの方針はそのとおりに実行されなかった。当時中央舞台の公演に対する評価はどれもこれも酷評で一貫している。第一回公演(1937・7)のレパートリーはピランデッロ作『しなの木の芽の実るとき』と宋影作『ばか張斗越』だった。この公演に対して徐恒錫は「中央舞台がこんかい、興行劇と少しも変わる点を見せることができなかった」と評した。第二回公演の蔡萬植作『イエスを信じなかったなら』と宋影作『エチョギ』に対してもやはり懐疑的だった。中間劇という新しい様式の演劇を指向したが、けっきょく従来の大衆劇から大きく抜け出られなかったという評価を受けた中央舞台は、1939年6月に経済難で解散してしまった。

高協は高麗映画協会によって1939年3月に組織された劇団である。中央舞台出身の俳優たちが多く加担しており、沈影や徐月影(ソ・ウォリョン)、チョン・テギ、チュ・インギュ、トク・ウンギ、朴齋行、池季順、廬載信らが主要俳優だった。高協は当時の京畿道高陽郡恩平面大棗里に高協村という集団居住地を作り、宿食をともにしつつ芸術活動を行ったという点で大きな話題を集めもした。高協は創団以来地方公演に出ていたが、1939年12月府民館で朴英鎬作『チョンオリ』を上演し、「新劇に対する優越感を持つべきである」という大好評を引き出した。高協は1940年代に劇団阿娘とともに良いライバル関係を維持しながら活発な公演活動を見せた。阿娘は東洋劇場を脱退した黄K(ファン・チョル)、車紅女(チャ・ホンニョ)、梁白明(ヤン・ベンミョン)、金仙草(キム・ソンチョ)、朴永信(パク・ヨンシン)、ソ・イルソン、文貞(ムン・ヂョンボク)らを中心に1939年9月に創団され、翌10月に林仙圭作『青春劇場』で初幕を開けた。同年12月には送年公演として、府民館で林仙圭作・朴珍演出の『彼らの一生』を公演した。阿娘は1940年代に『金玉均』『東学党』『風吹く季節』などの代表作を残し、もっとも人気のある劇団のひとつとなった。このほかに、1930年代後半期に活動した大衆劇団としては朝鮮芸術座、人間座、成劇座、人生劇場、花郎苑(ファランウォン)、浪漫座、栄光座、新生座、創作座、満笑座、日光座、芸友劇場、演劇部隊、協同芸術座などがあった。

1930年代の大衆劇の範疇には、このような一般演劇のほかにも楽劇と唱劇を重要な部分として含めることができる。楽劇というのは「セリフと動作と歌と舞踊と軽音楽で綴られたひとつの演劇」として、1930年代から1950年代中盤にいたるまで広範囲の大衆の人気を得た演劇形式である。幕間劇から出発した楽劇は挿入される歌が演劇の内容を構成するところに別に重要な意味は無かったが、バラエティショーの性格が濃厚だったために、西洋演劇においてミュージカルの前段階であるレビューやブックショー、ミンストレルショーなどに近いと見ることができる。

楽劇の成立過程を簡単に見ると、最初は1920年代に入って新派劇が広く流行しながら、公演途中に幕間を利用して出演俳優が短いコメディや漫談、大衆歌謡など隠れた芸を見せる幕間舞台から出発した。この時代に当方芸術団はキム・ムンピルの魔術と曲芸と歌と踊りをまぜたショーを公演した団体だった。1928年6月には金小浪が主管した聚星座が歌劇『クンナクチョ(極楽鳥?)』を朝鮮劇場で上演したが、このとき初めて歌劇という名称を使用した。この聚星座の歌劇というのは演劇の中に歌をいくつか挿入する程度だったが、従来幕間で歌、踊り、コメディがなんら関係なく羅列されたことに比べれば、歌の選択や配列をドラマチックに構成したという点が異なると言えよう。本格的な歌曲とショーを専門に公演しはじめた団体は1929年に組織された三千歌劇団(サムチョンカグッタン)だった。この団体のレパートリーを見ると1部では喜劇曲と呼ばれるコミックタッチの、軽い演劇に歌を挟んで音楽的効果を加味し、2部では女性たちのラインダンスチームが登場した。日本で組織された「龜子舞踊団は少女歌劇を主としたが、1930年代に帰国して寸劇と歌と踊りが複合的に構成された少女歌劇を構成した舞台を見せた。

1930年代初期には新派劇をはじめとした大衆劇が全盛期を迎え、多くの演劇団体が歌劇を公演した。演劇市場(ヨングクシヂャン)、太陽劇場(テヤングッチャン)、協同舞台(ヒョプトンムデ)、楽浪座などが代表的である。1937年には京城オペラスタジオが創立され、楽劇『春香伝』を上演した(府民館9・23~9・23)。このときから歌劇のかわりに楽劇という用語が本格的に使用された。従来の歌劇より音楽的な表現や全体的な構成において規模が大きく水準の高い内容を取り扱ったとして、楽劇として区別されて呼ばれたのである。「朝鮮古典のオペラ化」というおおげさな趣旨を掲げた『春香伝』はその規模はかなり大きかったが、創作音楽ではなく既存オペラの有名なアリアにストーリーを合わせて歌詞を付けた程度だった。1938年4月には団成社直属の花娘楽劇団が、同年8月には楽劇団トウォンギョンが創立された。

楽劇は徹底した商業主義を指向しながら、優秀な劇作家や作曲家たちに幅広い活動舞台を提供しており、有名な俳優と歌手を多数輩出した。楽劇はひとつの作品に平均20余曲の歌がうたわれたが、劇の糸口が開くときに必要に応じて歌を挿入させるのが基本的な形式だった。既存の大衆歌謡をそのまま歌ったり、劇の内容によって歌詞を代えることもあり、創作歌謡が作曲されることもあった。楽劇はその形式の成熟程度によって四つの類型に区分できる。最初は短いコメディを行うなかに歌手が歌をうたうものだ。二つめは劇中の意味のある部分で、歌で情緒に訴えるものだ。三つめは作品内で劇的な対話を劇の内容と一致する歌でやりとりすると同時に、音楽と舞踊が劇に合わせられるものだ。この四つめの様式が現代のミュージカルともっとも良く似たものだが、このときは歌が40曲以上、60曲まで動員された。

1930年代後半の楽劇舞台を変化させた特徴的な現象のひとつは、レコード会社で宣伝を兼ねた演奏会という名称で専属歌手の実演舞台をしつらえたことだ。レコードの吹き込みで有名になった歌手たちの歌を実際に見て聞くことができるという魅力が興行に有利な条件として作用した。しかし歌だけでは不足した感があり、短いコメディや簡単な劇的内容を組み込むことをはじめたが、このような団体が後に専門的な楽劇団に発展した。その代表的なものとしてOKレコード社が組織したOK演奏会(1937・6)はOKグランドショー団(1938・10)に変わったが、再び朝鮮楽劇団に改名した。ビクターレコード社が組織したビクター大演奏会(1938・4)はビクタースプリングコンサートに、そしてビクター歌劇団に改名して、1940年代には半島歌劇団となった。1940年代になって楽劇団が雨後のたけのこのように増え、楽劇は大衆劇のもっとも人気のある形式のひとつとなった。

唱劇は1933年、朝鮮声楽研究会の発足を契機に画期的な発展をとげた。朝鮮声楽研究会の創立で、パンソリが分唱化することで形成された演劇形式に唱劇という用語が公式に導入され、唱劇形式が本格的に定立したからである。朝鮮声楽研究会は1933年に当時の代表的パンソリ広大であるイ・ドンベクがソン・マンガプらとともにソリ(声)の価値を高め、唱劇の人材を養成するための目的で組織した。最初は33人の会員で出発したが、会員が増えながら理事長にイ・ドンベク、事務理事にチョン・ヂョンヨル、会計にハン・ソンヂュン、事務にキム・ヨンスンらの人員をおき、声楽研究部や器楽研究部、教習部、興行部、外交部などの部署を組織した。

朝鮮声楽研究会は第一回試演会として1936年2月に「朝鮮固有の喜歌劇」『ペビヂャン伝』(1936・2、東洋劇場)を上演することになる。続いて『片時の春』(1937・6)、『春香伝』(1937・9)などを上演しており、1938年5月には創立5周年記念として『春香伝』と『沈清伝』、『フンボ伝』を一日ずつ上演した。

朝鮮声楽研究会の公演はそれ以前に比べていくつかの側面で発展した様相を見せる。最初に、さまざまに異なる興行ものといっしょに、ひとつの場面だけを唱劇化して公演していた以前の公演形式と異なり、ひとつの完結した作品を独立的に上演することを始めたという点だ。二つめに、完結した作品を舞台に上げることを準備しつつ演出の概念が導入され、朴珍のような東洋劇場の演出家が関与することもした。三つめに、脚色者の役割が際立ってきており、以前の時期の台本と比較して戯曲の舞台指示文に該当する解説部分が省略され、登場人物の対話を中心に再編成されて、登場人物の性格化と行動化が可能になった。四つめに、写実的な舞台装置と演技を考慮しはじめた。これは朝鮮声楽研究会がおもに東洋劇場の舞台を使用して密接な関連を持ったために、東洋劇場の写実的な演劇スタイルに鼓舞されたものと思える。

2-2. 大衆劇の特性

大衆劇類型の戯曲に現れる特性としては、まず幕間余興の氾濫をあげることができる。30年代大衆劇における幕間劇はほとんど必須のものであり、新派的な色彩の強い劇団では特に威勢が良かった。幕間劇はたいがい悲劇的内容の正劇と、その次のプログラムである喜劇との間に挿入されるものとして見られる。幕間劇の内容は団長の挨拶と作品の宣伝をはじめとして、歌や漫談、レビューなどが含まれていた。レビューはバラエティショーの一種であり、ナンセンスや漫談、寸劇などはたいてい二〜三人の俳優で仕立てた10分内外のこぢんまりとした笑劇である。当時、幕間劇がことさら拡大されて、幕間余興のみを専門に公演する藝苑座(イェウォンヂャ)という団体も生まれた。

朴珍(1905〜1974)は1923年に渡日して日本大学芸術学部に学び、1925年から土月会に加担しつつ本格的な演劇活動を始めた。1927年には洪思容(ホン・サヨン)とともに劇団山有花会(サニュファフェ)を組織しており、次の年には劇団ファヂョフェを組織して活動した。1929年に土月会の再起にしばらく関与したが1935年に東洋劇場が開館するとともに文芸部の責任者となり、旺盛な作品活動を行った。朴珍はおもに軽い笑いと諧謔で成り立った幕間劇の名手として知られている。朴珍は土月会に関与していた時期から喜劇と幕間劇に注力しはじめた。その後、朴珍はかなりの作品を生産したが多くは幕間の小作品であり、現在はほとんど伝えられていない。『窃盗病患者』は朴珍の喜劇的な作品世界を完全にうかがうことのできるほぼ唯一の作品である。彼は作品の冒頭にみずから「これよりお見せするのはナンセンスに、しかし意味ある脚本にも似せてレビューとして」ものと前提している。このことからこの作品を通じて1930年代前半期大衆劇のレパートリーで重要な部分であった幕間劇としてのナンセンスやレビュー的性格を充分にうかがい知ることができる。『窃盗病患者』は各界各層の人物たちの窃盗病症状をこっけいに描くことで笑いを誘発する。ひいては窃盗病を治療する医学博士までも窃盗病の症状を見せる。反復的にだましだまされる関係、そのような関係の中での疑心と誤解の豊富な喜劇性を内包している。窃盗病患者たちが互いの物を盗む場面や、窃盗病発作の治療方法として医学者がほほを張り飛ばすことなどが特にそうである。最後の場面で窃盗病患者たちが病院で盗んだ物を下げて列を成して通りを闊歩する場面は、窃盗病症状を極度にカリカチュアライズしている。この作品はこのように笑劇特有の即興的セリフや誇張された動作と諧謔、騒がしい雰囲気などで満たされている。朴珍が受容したレビューという形式は幕間に見せるバラエティショーのようなもので、その中に時事的なあるいは風刺的な寸劇が入っていたのである。

当時の幕間劇の氾濫に対しては、さまざまに憂慮の声が上がっている。咸大勲(ハム・デフン)は幕間劇がけっして線劇の正道ではなく、卑劣低俗な幕間劇の拡散によって正規演劇にまで深刻な弊害を及ぼしていると指摘した。洪海星もまた興行劇が発展するためには幕間余興が撤廃されなくてはならないことを強力に主張している。レビュー式幕間余興の氾濫でむしろ正規演劇が萎縮する本末転倒の現象を警戒したのだった。洪海星は東洋劇場の演出を引き受けながら、このような立場を堅持して幕間劇やバラエティショーをいっさい公演しなかった。「藝術」誌1935年1月号には「幕間劇をどのように思うか」という設問調査を特集にしたが、このとき徐恒錫、アン・ハムグァン、イ・テヂュン、チェ・ヂョンヒ、パク・ヨンヒらがいちように幕間劇撤廃を主張している。1930年代の後半期に入って、幕間余興に対する叱責の声がだんだん少なくなることから、大衆劇が正規演劇を主として再編成されていくことを知ることができる。

二つめに、大衆劇分野で産出された喜劇は、新劇やプロ劇に比べて圧倒的な分量を記録している。1935年から1939年までの喜劇作品の統計を見ると100余編を越しており、この中の大部分は東洋劇場で生産されたものである。東洋劇場以外の新派劇団で生産された喜劇までを含めるとかなりの数になるであろう。このように大衆劇で喜劇が大量生産された理由は、大衆劇の公演レパートリー自体が喜劇を必須として含んでいたためである。当時の新派劇公演は基本的に悲劇風の正劇と笑劇風の喜劇が公演されており、ここに幕間劇が追加されることがあった。喜劇の添加もやはり興味本位の大衆趣向に迎合したレパートリー構成で、このような興行偏重のレパートリー構成がけっきょく非正規演劇たる幕間劇の過ぎた拡大を引き起こしていたのである。幕間劇を撤廃した東洋劇場でも正劇と喜劇をいっしょに公演する慣行はしばらくのあいだ持続した。すなわち東洋劇場でも正劇→喜劇の順から喜劇→正劇に順序を変えてレパートリーを配置していたし、喜劇は依然として重要な比重を占めていた。東洋劇場は当初、専属劇団を構成して喜劇専門にする喜劇座を作り、1936年3月26日に第1回公演を行った。しかし当時の観客からは喜劇はおまけとして見るものと認識されていたために、興行には大きく成功しなかったので、約6ヶ月のあいだ10余回の公演を行って後に解体した。その後、喜劇作品は青春座で正劇と抱き合わせて公演する方式をとる。当時、東洋劇場で喜劇を量産した作家には崔獨鵑(筆名:九月千人)、李瑞求(筆名:花山學人、冠岳山人)、朴珍(南宮春・洛山人)、宋影(首陽山人・殷龜山)、李雲芳(蓬莱山人)などをあげることができる。

大衆劇自体が卑下されていた当時の実情から、喜劇はよりいっそう低く取り扱われており、やはり残っている台本を探すことは難しい。現存する喜劇台本の中では宋影の『黄金山』が、青春座の喜劇台本として唯一残っているものである。宋影(1903〜?)は1922年から焔群社(ヨムグンサ)に参与しつつプロ劇系列の戯曲で劇作を始めた。しかし1931年と1932年のKAPF1次・2次検挙事件で検挙されてから後はプロ文学活動を中断した。その後、彼は1937年から東洋劇場に所属して、解放になるまで旺盛な作品活動を繰り広げた。彼は東洋劇場に加担したことに対してみずから「商業劇本に手を出したことが私の芸術のすべてではなく、劇場の専属となったとしてすぐさま堕落したわけでもなく、劇場を通じて良い劇作が出るように努力する」と明かした。しかし彼の性格はがんらい大衆的な戯曲により適合していたのかもしれない。30年代大衆劇で産出された喜劇は高級戯曲(High Comedy)というよりは笑劇的要素を多分に含んでいた。大衆劇の喜劇は猥褻で淫乱であったり、奇形的な身体的動作の反復や誇張に重きをおいた最下級の喜劇にまで落ちることは無かった。その代わり誤解・変装・誤認・ものまねやくい違いなどのコミック・プロット(Plot devices)と、茶目っ気・ギャグ・ウィット・ユーモアなどの言語的機知を主に活用する。宋影(ソン・ヨン)の『黄金山』が性格喜劇の面目を見せているが、観念喜劇はほとんど発見されていない。

三つめに、大衆劇で最も好んで扱う素材は男女間の愛欲の葛藤や、このような葛藤から派生する問題である。東洋劇場最高の人気レパートリーだった林仙圭(イム・ソンギュ)作『愛に騙され金に泣き』と、李瑞求(イ・ソグ)作『母の力』はその端的な例といえる。林仙圭の『愛に騙され金に泣き』は東洋劇場で最高の人気レパートリーであり、解放前の演劇史上最大の観客を動員した作品としても知られている。この作品は「ホンドよ、泣くな」という題でも広く知られているが、これは主に流浪劇団 [訳注:流浪劇団は旅回りを主とする劇団のこと] が変造して使用していた名称である。この作品における主な葛藤は「身分を超越した自由恋愛」と、それに向き合う固陋な因習との対決で成立する。それはすぐさま近代的価値観と前近代的価値観の対立がかもし出すひとつの断面と言える。このように愛欲の葛藤を描いた大衆劇では、たいがい女性をプロタゴニストとして際立たせる。30年代新派劇のばあい、主人公はほとんど善良で逼迫した女性たちであり、彼女たちを不幸にするのは貧しさと旧道徳である。女性主人公の中でも最も頻繁に登場する人物類型は妓生(キーセン)である。依然として封建慣習の支配を受ける環境の中で、女性はがんらい被支配的であり惰弱な存在であるうえに、キーセンという後ろ暗い身分によって悲劇的運命におちいる可能性が倍加する。妓生を主人公にした作品が多いことは、当時の花柳界女性たちが劇場の馴染み客であったという点とも関係がある。妓生たちは劇場の重要な顧客層であり宣伝でもあったので、彼女たちを主人公として登場させるのみならず、好ましい方向に創造して観客たちの同情心と哀情を誘発した。

大衆劇は愛欲の葛藤とともに新旧モラルの葛藤が噛み合っているのがお決まりで、その典型的な素材は「自由恋愛」をめぐる対立と不和である。「自由恋愛」の問題はそれ自体が当時最もセンセーショナルな話題であったし、さらには家門や身分、学閥や経済力などに顕著な差異がある二人の男女の「自由恋愛」である場合、それは焦眉の関心を触発することになる。ところで、大衆劇作品における植民地下という歴史的・政治的背景は、ほぼ見出すことができない。そのような要素が登場するといっても作品の葛藤や人物たちの生に具体的な影響を与えない。人物たちの生はおおむね物質の力によってどんどん刻薄になっていく都市ソウルを背景にしており、彼らの行動半径はひとつの家庭の内部に局限されている。大衆劇は可能な限り歴史性と社会性が排除された、極めて個人的な生の欲望に注目しているのである。

四つめに、大衆劇は形式的にメロドラマと最も類似した様相を見せる。『愛に騙され金に泣き』や『母の力』のような代表的作品は、緻密な well-made play の構成を備えている。たいがい劇の初盤には既に大きな問題点を内包している男女関係が明確に提示されており、不安ではあるが幸福な状態が提示される。劇が展開しながら、彼らの愛に反対する人物たちが現れ幸福を破壊しようとするが、彼らの極めて純粋な愛は、いったん障害物を乗り越えたかのように見える。反対者たちの陰謀はさらに邪悪なものとなり、不幸を予告する事件が引き続き重畳して最大の危機に向かう。しかし、結末は最も劇的な瞬間に主人公の汚名や潔白が明らかにされることで、観客の絶大な同情と支持を受けることで終わる。

主要登場人物たちは、性格的にはっきりとした個性を見せない。彼らの性格は劇の進行過程において、心理的であろうが道徳的であろうがほとんど変化しない。自然に興味の焦点は事件の調整に置かれ、事件の渦の中に巻き込まれる彼らの位置と立場が強調されるだけである。彼らは作品の主題と多様性の必要によって既に一定の役割が決定されているために、しばしば偶然の一致によってともに関連付けされたりもする。登場人物たちの性格は善であれ悪であれ、いずれかその一方であり、劇中行為はそのような人物たちの道徳性によって、明白で単純に遂行される。彼らは自身の行うべきことに別に苦心しなくとも、善であったり悪である基本的道徳性によって行動に表してゆく。通常、主人公とその協調者たちは善の人物たちであり、反対者たちは悪の人物たちだ。反対者たちは特別の哲学によって主人公の幸福を妨害するというよりも、より本来的に悪の心性によって主人公を煩わせる。言語面でも単純で直接的な台詞を構成する。登場人物たちは自身の感情と動機に対して公開的に陳述するので、善である人物は自らその善を自慢するように敬虔で自足して見え、悪い人物は自身の悪である性格を剥き出しにして闊歩する。極めて善であるにもかかわらず逼迫した主人公に対してはねんごろな憐憫と同情が、盲目的に邪悪な加害者に対しては強烈な憤怒と憎悪が芽生え始める。

1930年代韓国の大衆劇とメロドラマ形式の類似性のあいだには、日本の後期新派の直接的な影響力が介入しており、また微々たるものであるがフランス・メロドラマの洗礼を受けたと見ることができる。しかしメロドラマ形式は必ずしも外部から輸入されなくとも、その形式自体がどの時代のどの国でも出現する可能性を内包している。メロドラマが追求する悪徳と美徳は人間の最も基本的で実際的な関心事であり、勧善懲悪と因果応報の原理はすべての人間に普遍的にアピールする情緒であるためだ。

五つめに、大衆劇で頻繁に誘導される涙こそメロドラマの必須条件として、作為的な感傷主義を助長する劇的装置である。大衆劇のレパートリーの中に「悲劇」であると前置きされた作品が頻繁に目を引くが、ここでの悲劇という用語は単純に「悲しい演劇」、つまり「涙あふれる演劇」程度の意味で使われたのである。大衆劇ではふつう悲しみが高潮する部分に意図的に涙を誘い出す台詞を配置したり、純真無垢な子供の涙を通じて感傷を刺激する。いっぽうで、無理やり涙を搾り取るために作品全般に涙が程よく散らばっている場合もあるが、このように悲しみの情緒を強要する作品であるほど新派調の台詞が色濃く滲んでいる。

この間、大衆劇の涙を植民地下という当時の歴史的状況と結びつけて、観衆たちの肯定的な意識と価値を破壊してきたという評価を受けてきた。植民地下の大衆が精神的圧迫と不安の中で大衆劇の涙の中に逃避したことは事実であるが、涙の洪水の中に少しずつ虚無と退嬰の中に陥っていったと見ることは即断である。基本的に涙は感情を洗い上げるひとつのメカニズムとして、不幸な人々のカタルシスであると言える。思う存分泣くことは自分自身に対する憐憫を意味し、自己憐憫は生存競争におけるひとつの武器となる。すなわち力の無い大衆は思う存分泣くことで被支配国民としての鬱憤を洗い流し、再び生を支える慰安を得たと見ることができる。涙が氾濫しているといって、終始一貫して悲劇風に展開するのではない。時には極端な率直さと単純さを備えた喜劇的性格の人物たちを登場させて、気の利いた笑いを誘発させることで心理的休息を誘い出す。いっぽうで観客を思う存分泣かすことで情緒的浄化効果を創出すると同時に、適当量の愉快な滋味をあしらうのである。大衆劇のこのような劇的テクニックは、一時的であるが観客たちを日常の心理的圧迫から解放させることで、新しい生の弾力を持たせるのだと見ることができる。

六つめとして、大衆劇のレパートリーの中に稀ではあるが、時代性や社会現実を反映している作品がある。ときたま「社会劇」あるいは「時代劇」という前提を付けたりもする。その代表的作家としては朴勝喜(パク・スンヒ)と朴永鎬(パク・ヨンホ)をあげることができる。このような作品はたいがい男女間の愛情を描いたメロドラマ的エピソードと噛み合っているが、通俗性の度を越した拡大が、時代と社会の問題をくもらせていたりもする。あるいは問題の根源を社会や経済体制の構造的矛盾から発見することができない。主人公は自分たちを抑圧する不当な現実に対して論理的対応や積極的な抵抗の体制をとれないまま、皮相的で感傷的な逃避的結末に向かって駆け上るのがお決まりである。これは大衆劇の属性の持つ本来的限界でもある

3. 新劇

3-1. '30年代新劇の展開様相

1920年代に土月会の演劇で兆しを見せていた新劇運動は、1930年代に入って劇藝術研究会(略称劇研)の創立とともに本格化し始めた。劇研の活動は大きく3期に分けることができる。

劇研は1931年6月18日から24日まで劇映同好会主催・東亜日報社後援で開かれた演劇映画展覧会を母体として誕生した。当時、東亜日報学芸部記者だった徐恒錫(ソ・ハンソク)は、作家尹白南(ユン・ベンナム)の紹介で日本の築地小劇場で修行した洪海星を知ることになった。徐恒錫は演劇への意をきちんと述べることもできないまま不遇な日々を送っていた洪海星を助けるために展覧会を計画した。ところで主催者にふさわしい形式を備えるために、徐恒錫が劇映同好会という団体名を任意でつけたのだった。この展覧会を契機に意を同じくする人々が集まり劇研を組織した。劇研は1931年7月8日に正式創立され、11月8日には直属劇団である実驗舞台を組織する。組織当時の会員は尹白南、洪海星、徐恒錫をはじめ、李軒求、異河潤。咸大勲、張起悌、金晋燮、崔挺宇、鄭寅燮、柳致眞の12名だった。劇研は創立趣旨を「劇芸術に対する一般の理解を広くし、既成劇団の邪道の流れを救済すると同時にひきいては真正な意味のわが新劇をを樹立しようとする目的」であると明らかにした。劇研は最初に同人制で出発したが、1932年12月に第2回公演を終えて後、会員制に組織を変更する。そして新しい会員として金b燮(キム・グァンソプ)、朴ヨンチョル、李ウン、ユ・ヒョンモク、朴ハクソン、ヒョン・ヂョンス、シム・ヂェホン、趙容萬(チョ・ヨンマン)、尹泰林(ユン・テリム)、ユン・ヂョンソプ、高長煥(コ・ヂャンファン)、チョ・イヨン、李無影(イ・ムヨン)、金フェチャン、モ・ユンスク、金スイム、金ヨンオクなどを受け入れた。このときに改変された役員陣を見ると庶務部へ徐恒錫、実践部へ洪海星と李ウン、観察員に尹白南とシム・ヂェホンなどであった。1934年の役員改選では庶務部に徐恒錫と朴ヨンチョルと金復鎭、研究部に金b燮と李軒求に咸大勲、゙喜淳、実践部には洪海星をはじめとして柳致眞、李ウン、ユン・ヂョンソプ、ユ・ヒョンモクらが所属した。

劇研の活動は大きく3期に分けることができる。海外文学派が主導権をつかんでいた第1期(1931・7〜1935・10)活動は、西洋演劇に対する紹介と翻訳劇公演が中心を成していた。このような様相は劇研が創立初期へ李軒求や咸大勲、金b燮、徐恒錫、゙喜淳などの「海外文学派」の活動舞台として活用されたという点と深い関連がある。このことは劇研が1931年11月28日に開催した第1回公演会が、大部分西洋演劇の紹介に重きを置いたことにも現れている。劇研は全期にわたって総24回の定期公演を行ったが、その中で翻訳劇が24編で創作劇が12編と、翻訳劇が2倍になる。第1期には7回の公演を行ったが、総13作品のうち11作品が翻訳劇で占められており、創作劇は柳致眞の『土幕』と『柳のある村の風景』ただ2編だった。このような翻訳劇に重点を置いた現象は、海外文学派の翻訳劇擁護論が優勢だったからである。李軒求と金b燮はわれわれに演劇の伝統が皆無であるという前提下に、劇文化を樹立するためにはいったん西欧の翻訳劇を受容するのが急務であると考えた。このような劇研の趣旨と立場はすぐさま手厳しい批判を受ける。特にプロ演劇界から「プチブルジョア知識階級の芸術至上主義」という非難が強烈に提議された。プロ演劇側の非難は劇研がたんに海外文学派の翻訳戯曲を紹介する通路に過ぎず、これは民衆の生を度外視したブルジョア知識階級の芸術至上主義的態度として要約される。ところで劇研が第1期に公演した翻訳劇11編中の6編が日本の築地小劇場での20年代後半のレパートリーだったという点から、劇研側の独創的な翻訳・紹介だったと考えることは困難である。さらに築地小劇場と関連した作品の中には『海戦』を除外したほかの作品はすべて洪海星が築地小劇場で活動していた時期に出演したものだった。洪海星を除外した劇研内の海外文学派人士は、築地小劇場に関連していたり具体的な観劇経験があったという証拠は発見されていない。これは劇研の翻訳劇レパートリー選定が体系的研究や一定の計画なしに洪海星に便宜的に依存していたことを示唆するものである。したがって劇研を築地小劇場の韓国版として規定していた一部の見解は過ぎた拡大解析である。

劇研の公演を外部から見た評者たちは劇研の演劇がおおむねアマチュアの水準に過ぎないという点をあげており、これは劇研の会員みずからも認めたことである。第1回公演の『検察官』に対しては「処女出演であるにもかかわらず、ある部分は既成劇団を圧倒するばかりの天才的神技を見せるとき、まさに感嘆せざるをえない」と激賛されもしたが、2回公演からは酷評が続いた。表現主義演劇『海戦』に関する劇評では、観客たちが表現主義に対する不慣れと難解さのせいでたいへん当惑したことを伝えた。ある評者は観客の水準を考慮しないレパートリー選定と、表現主義に対する公演者自身の没理解を批判した。このような失敗は第3回公演『友情』でも繰り返された。やはり表現主義演劇であるこの作品もまた「幕が上がってみると平凡な写実主義の舞台そのままであったし、人物の言語・動作もあるいはそのままだった」という評価を得た。同時に公演された『土幕』は劇研最初の創作劇であるが、当時の現実を取り扱ったという点から歓迎されたが、演技水準はやはり不充分と指摘された。第4回公演作『武器と人間』は「がんらい第1幕から観衆の注意を最大限に引き寄せるはずだったができなかった」という評価を受けた。

柳致眞が主導権をつかみ始めた第2期(1935・11〜1938・3)活動は、創作劇公演の強化と専門化段階として要約される。しかしこの期間中に公演された創作劇のレパートリーの変貌過程は、劇研がしだいに通俗性と妥協していく様相を見せている。柳致眞(ユ・チヂン)の『牛』が検閲を通らなかった事態を経て後、劇研のレパートリーが大衆劇に後戻りするやいなや、一部演技者たちが脱退して中央舞台に移った。そのうえ劇研を思想団体と疑心した当局の圧力が強まるなかで、劇研はいったん1938年3月に解散を決定した。劇研は解散後、すぐさま専門劇団である劇研座と改称し、公演活動を再開する。この時から第2次解散までを第3期(1938〜1939・5)活動と想定することができる。この時期には明白な職業劇団としての商業主義が露骨化し、大衆劇との弁別力をほとんど喪失することとなる。

いっぽう、劇研の影響力下に成長した学生劇運動も1930年代新劇運動の一翼を担った。1920年代に民衆啓蒙の次元から散発的に試みられた学生劇運動は、1930年代初盤に入って各専門学校を中心に活発に展開しながら新劇運動の底辺を拡大させるところに大きく寄与した。当時学生劇に対しては普通、延禧専門、梨花女専、中専、世富蘭偲醫專、培材学堂、梨花女高専、權花、貞信女学校などを中心に公演記録が残っている。学生劇運動家たちは学生劇が商業的娯楽演劇を排斥しながら実験的新劇の温床となり、演劇を通じて社会教化の任務を遂行すると信じた。1930年代前半期学生劇を通じて成長した若い演劇学徒たちは専門的演劇知識の必要性を感じて東京へ留学し、1934年6月に東京で東京学生芸術座(略称東京学芸座)という演劇集団を誕生させた。劇研が初期におもに翻訳劇を公演したことに比べれば、東京学芸座は日本の地で『牛』『春香伝』などの創作劇に重きを置いた公演を行った。

3-2. 新劇の特性

新劇類型の戯曲に現れた特性としては、最初に写実主義様式への指向を挙げることができる。劇研の標榜した新劇とはイプセンの『人形の家』からはじまり、近代写実主義の演劇として特に自我覚醒の哲学および啓蒙的・科学的要素が社会問題として提供される演劇を指し示している。特にイプセンの中期演劇に現れる自我維持や女性解放、社会改造の理念は当時の新劇運動の精神的指標となった。

劇作術の面でも緻密な動機付与と因果関係による必然的展開、舞台装置やジェスチャーに対する詳細な舞台指示文などが普遍的に指向された。柳致眞の『牛』と咸世徳(ハム・セドク)の『童僧(トンスン)』はその構成の緻密性において写実主義劇の模範を見せている。『牛』は大豊年のゆったりとした仲睦まじい雰囲気から出発し、劇が進行する間いたるところ滑稽さと諧謔で彩色されるなか、しだいに不安と圧迫と絶望の色が高潮し、ついには放火という悲劇的結末で終えることになる。この作品はいくつかの葛藤が複合的に絡む混合構成を取っているが、一頭の牛をおいて繰り広げられるマルトンイ、ケトンイ、マルム(小作管理人)の熾烈な角逐戦は、三人すべてにはっきりとした名分を与えているために最後まで興味とサスペンスが持続する。『牛』はwill-made playの構成技巧を備えたわが国最初の本格的写実主義演劇であると言える。咸世徳の『童僧』に至っては、will-made playの構成はほとんど完璧に近い仕組みを見せる。これは「発端−上昇−危機−下降−破局」の5段階構成原理を念頭においた緻密な展開を基盤にしている。

緻密な構成とともに、新劇系列の創作劇からは写実的で細部的な舞台装置が際立った。写実的な舞台装置は写実主義演劇の必須の概念である「写実的幻覚」を形成させるところで最も基本的な条件となる。劇研初期の演出を担当していた洪海星は、特にアンドレ・アントワンヌの写実的な舞台装置に深い関心を示している。洪海星は写実的舞台のみならず、自然な写実的演技に対しても徹底した認識を持っていた。彼は劇中の台詞が自然に聞こえるには人為的な技巧が内在しなければならないという逆説を理解していた。写実的演技のために写実的台詞が要求されることはあまりにも当然のことである。劇研の創作劇には母国語に対する卓越した言語感覚が固持されていた。写実的言語の創造は劇研系列の戯曲が成し遂げた最も大きな成果中の一つとしてあげることができる。

二つめに、新劇系列の創作劇は当時の農村の現実を背景に、農村の構造的矛盾を取り扱った作品が圧倒的比重を占めている。『牛』以外にも柳致眞の『土幕』『柳のある村の風景』、李光來の『村先生』、蔡マンシクの『落日』『農村スケッチ』『米価大暴落』『間島行き』『薄れ行く影』『蟷螂の伝説』、李軒求(イ・ホング)の『鋤光』などはすべて当時の農村問題に注目した作品だった。このように農村問題を取り扱った作品が大量に創作されたのは、伝統的農業国家である韓国において1930年代の農村現実とは、まさに1930年代の民族の現実と等価的意味を帯びていたためである。1920年代から加速化した産米増産計画とそれに伴う農地改良事業や土地改良事業などによって、1930年代のわが国農村は日本資本主義の商品市場として転落した。このような現実下において、当時の農村事情は劇作家達に最も豊富な素材を提供した。柳致眞は実際に演劇のブナロード運動と農民劇の必要性を力説しており、農村問題を扱った作品で劇作活動を開始した。蔡マンソクは農村問題を扱うにあって小説よりは戯曲ジャンルを格別に好んだが、彼が書いた戯曲の相当数が故郷である全羅道の農村を背景にしており、単純に背景や人物を農村から借りてきたのではなく、農村社会に増幅している矛盾と葛藤を鋭く透視している。

三つめに、劇研は創立当時から演劇を民衆啓蒙のひとつの手段として考えていたので、戯曲作品にも啓蒙的観念性が部分的に投影されて現れる。李軒求は実験舞台の誕生に際して『朝鮮のような社会において劇芸術が持つ本質的使命の分野は、大衆を教導教化する文化運動の一部分とならなければ』として貢献したし、徐恒錫や金b燮(キム・グァンソプ)らも同じ立場をとった。柳致眞が提唱した演劇のブナロード運動もまたそのような次元から提議されたものである。このような立場から劇研系列の創作劇では、啓発し導こうとする作家の教訓的メッセージがそのまま流れ出る場合が多い。大概は学識の高い近代的意識を持ったエリート的人物たちを立てて、作家の信念を披瀝するように作る。彼は作品全体の蓋然性を壊したり、劇的言語と行動を弱化させながら堅苦しい観念を、それ自体でさらけ出すことをお決まりとする。にもかかわらず、新劇運動を主導していた作家たちのエリート意識は演劇を通じて民衆を啓蒙させ、教化しなければならないという義務感を強迫観念のように伴っていた。

四つめに、新劇系列の戯曲で並外れた成果として注目されるのは、個性的性格の人物たちが創造されている点である。これは大衆劇やプロ劇の登場人物たちがおおく類型的性格の設定にとどまっていることと良い対象をなしている。

まず柳致眞の『牛』に登場するククソ、マルトンイ、ケトンイ、ムンヂンなどに独特の個性を見出すことができる。父親ククソは1930年代韓国の典型的農民像として、彼の個性は牛に対する執着が病的に強いというところで発現する。牛に対するククソの人一倍の執着は、すぐさまこの作品の悲劇性を高める効果を持つ。上の息子マルトンイは純朴で愚直な農村青年の典型である。アイロニカルなことは、ククソが牛を利用して嫁を迎えさせようとする息子を虐待して恨むが、じつはマルトンイこそククソが大事にしている牛の気質と最も似通っていることだ。下の息子ケトンイは自身の目標と利益を追求するのみで、家の事情その他は預かり知らぬ、徹底して利己的な人物である。村の日雇いムンヂニは事ごとに薬屋の甘草 [薬屋の甘草:必ずあるという意味ででしゃばりを指していう] のように口をはさみ、見当違いを常として滑稽とずうずうしさで喜劇的効果を高める。このような喜劇的人物類型の設定はオケイシーの影響に負うもので、『土幕(トマク)』でのパンボもやはり絶望的現実の中に喜劇的活力を呼び起こす。

咸世徳作『童僧』の主人公であるトニョムは、30年代戯曲で最も独特な個性を持った人物である。天真爛漫な少年の典型でありながら、長いあいだ寺という拘束的な状況の中で抑圧されていたために、自由に対する渇望は子供らしくないほどに切迫して具体的である。あるいはまた寺を離れる最後の決断では単なる世間知らずではなく、自身の人生と単独で向き合う独自的主体性と強引な意地を表出する。

五つめに、新劇系列の戯曲は日帝下の民族現実に対する具体的認識を見せながらも、大部分の作品は発展的展望を提示できない。まず大概の作品は検閲を意識して、敵対勢力を背後に隠しているために葛藤の強度が落ちるほかなかった。また日帝との葛藤を、単純な個人内部の批判の次元にまで高めることができなかった。敵対勢力の隠蔽は劇的葛藤を顕著に弱化させ、被害勢力が抵抗し応戦すべき対象を持ち得なかったことで、現実的闘争の対決に発展し得なかった。その代わり無気力な諦念と放棄、むなしい嘆きと感情的な鬱憤晴らしに帰結し、これらの先にある未来は依然として暗澹で惨憺たるものであった。

このように、既に提議された現実的矛盾を論理的に打破したり克服できないまま絶望の確認として終わるところには、リアリズム演劇に対する作家たちの誤解とも関係なくは無いように見える。柳致眞をはじめとする劇研の作家たちは、たいてい現実に対する客観的反映ないしは忠実な模写がすなわちリアリズム演劇という図式論に陥って、「模写的リアリズム」あるいは「自然主義的リアリズム」の段階に安住していた。彼らは内在する矛盾を改革して未来的展望を内包できる、より発展的概念としてのリアリズムには進めなかった。

そのような点から蔡萬植(チェ・マンシク)の『祭りの日』は、独特の形式を通じてより発展したリアリズムの認識を見せた。『祭りの日』は民族の自尊と独立を守ってゆくための間断無い闘争の歴史を見せた。ある家族の四代にわたる家族史的闘争は、作品の末尾でプロメテウス神話と連結しており、闘争の永遠性を象徴する。この作品は歴史を扱ってはいるが、現在との連関性の中でその意味を付与し、未来への楽観的で進歩的なビジョンを確保しているという点で、健康で躍動的な歴史意識を内包している。あわせて場面による構成や解説者の導入などは、当代リアリズム演劇の規範を一次元飛び越えるモダンな技法として叙事的リアリズムと称する。鏡写しの客観主義的描写がリアリズム形式のすべてであるわけは無く、むしろ真正なリアリズムは客観的描写を通じて読者や観客が歴史発展に参与するように目覚めさせる刺激とならなくてはならない。

六つ目に、リアリズムを追求したが陰鬱な現実の壁にぶつかった新劇は、けっきょく通俗性と妥協することになる。このような変化は「劇研」活動の第二期にさしかかった1935年11月から可視化した。柳致眞は表面的に「リアリズムを土台にしたロマンチシズム」という新しいスローガンを掲げた。彼は自身が提議したロマンチシズムの概念は、18世紀の幻想的・夢想的浪漫主義とはっきりと異なることを強調している。暗澹とした残酷な現実を描く中で、心のともし火を通じて久遠を求めなくてはならないと主張した。しかし『春香傳』公演と柳致眞の『祭祀(チェサ)』『姉妹(チャメ)』、李曙ク(イ・ソヒャン)の『母』、金鎭壽(キム・ヂンス)の『道』などを通じてはっきりと現れたロマンチシズムの実態は、社会的問題から個人的問題へ、現実的矛盾から個人的モラルの問題へ焦点を向けただけである。すなわち「ロマンチシズム」との結合とは、じっさいは常套的な通俗性との妥協に過ぎなかった。大衆劇でありふれて目撃される常套的・通俗的素材を借用しながらも、作為的な構成によって通俗的な面白みまで半減させる結果を生み出した。

ロマンチシズムとの成功的な結合は、後進作家たる咸世徳によって成った。彼は『童僧』でWell-made Playの構成技巧を充分に発揮し、緻密な写実的舞台と台詞および行為の基盤の上に美しい叙情性と浪漫性を具現している。この作品は表面的には死んだ母に対する懐かしさというきわめて通俗的な素材を扱っていながら、裏面では燃え上がるような愛を弁証法的に追求している。この過程で具現化される高度の浪漫的情緒は「詩的リアリズム」あるいは「叙情的リアリズム」と称することができ、『童僧』は1930年代劇作術が成し遂げた最高の水準として上程するべきである。

4. プロ劇

4-1. '30年代プロ劇の展開様相

韓国最初の社会主義文化団体は1922年に組織された焔群社(ヨムグンサ)であるが、実際に演劇活動を行っていたのかの可否については具体的に確認されていない。1926年に結成された白鳥会(ペクチョフェ)や1927年に組織されたプルケミ(山蟻)劇団は確実に進歩的演劇活動を標榜していた団体だが、実際に公演を行うことはできなかった。最初の進歩的演劇公演は、1927年11月に綜合藝術協会が公演したアンドレエフの『ほほをたたかれた息子(邦題未確認)』だった。朝鮮プロレタリア芸術家同盟(KAPF)は1927年からはっきりとした目的意識下に、方向転換を試行しながら演劇運動の必要性を認識していた。KAPF(カプと発音)で演劇に対する、より積極的な関心を見せたのは1930年4月「第2次方向転換」時からである。彼等は芸術のボルシェビキ化という前提下に、労働者や農民を対象にしたアジ・プロ(アジテーション・プロパガンダ)事業が重要な任務であると提議された。KAPFはこのために従前の文学人に重きを置いた組織を全芸術分野に拡大・改編した。KAPFは新設した技術部に文学・演劇・映画・美術・音楽の五つの分野を置いたが、このときの演劇部の責任者はシン・ウンソク、安漠(アン・マク)、金基鎭だった。KAPFは再び各分野別に同盟を結成して独自の活動を強化することとし、これに演劇部は林和の責任下に「朝鮮プロレタリア演劇連盟」として拡大することとした。しかしこのような方針は1931年8月「第一次検挙事件」で主要人物たちが検挙されたことによって、ただちに実効を得ることはできなかった。ともあれこのような組織整備過程で、演劇は芸術運動の重要な一部分として確固として認識された。

1930年代に入ると全国にわたって自然発生的なプロ演劇団体が組織された。これらの団体は完全に自生的と見ることは難しく、1920年代から拡散した自発的なしろうと劇運動と、日本で活動していたインテリ演劇人たちの関与が基盤となっていたと思われる。1930年3月に平壌のマチ劇場を皮切りに、11月に大邱の街頭劇場、31年に3月に開城(ケソン)の大衆劇場、海州(ヘヂュ)の演劇工場と元山(ウォンサン)の朝鮮演劇工場、32年3月咸興(ハムン)に東北劇場などが組織された。これらの中でも大邱の街頭劇場は後にKAPF演劇部に所属する李相春(イ・サンチュン)が深く介入していた。彼らは労働大衆の中に演劇を持ち込むこと、劇場支持会や維持券などの発行で観客を組織すること、朝鮮プロレタリア芸術運動を全国的に統一糾合することなどを方針に打ち出していたが、公演記録は残っていない。閔丙徽が開城(ケソン)で組織した大衆劇場もまた公演準備の消息のみがあり公演記録は伝えられていないが、「大衆劇場」(1931・4)という雑誌を発刊したりもした。ソウルでも31年4月に青服(チョンボク)劇場が結成されたが公演は霧散してしまい、11月に組織された移動式小型劇場に至って具体的な公演成果を得ることになった。移動式小型劇場は32年3月から西北地方で公演を持ったが、彼等のレパートリーはフーセル?の『街頭行進』、秋田雨雀『国境の夜』、村山知義『馬鹿治療』などの翻訳劇と、金斗鎔(キム・ドゥヨン)作『こじきの夢』、宋影の『護身術』、イ・ヒョソク『多難期』、石一良(ソク・イルラン)『昨年』『われ等の悲劇』などがある。

移動式小型劇場は演劇大衆化方案のもっとも大きな成果であると言える。「移動劇場」の必要性は1929年2月、日本で組織された日本プロレタリア劇場同盟(略称PROT)の活動から影響を受けて台頭した。日本プロレタリア劇場同盟の活動方針のうち「大公演、移動劇場、朗読などすべての形態を通じて演劇を広く大衆の中に入り込むこと」と、「闘争の激化に伴いますます要求される移動式劇場の拡充と強化を期する」は任務遂行のための基本であった。プロ芸盟東京支部会員たちがこのような移動劇場の実践のために1929年7月に計画した来鮮巡回公演は、はたして検閲によって阻止されたが、国内のプロレタリア演劇運動に大きな刺激となっており、特に大衆化論議を活性化させるところに寄与した。金基鎭もこれを契機に、移動劇場に対する論議をさらに具体的に開陳した。金基鎭はいったん組織の技術不足と資金欠乏を認めながら、将来の移動劇場結成のための人力養成と、地方のしろうと劇団に供給できるプロ戯曲創作の必要性を強調した。移動劇場はまた、高い入場料を支払えない労働者や農民の負担を軽減するという方便としても有用だと認識された。営利を目的にする劇場を借りて公演する場合は高い入場料が不可避となり、労働者・農民はこれをまかないきれないので、移動劇場の形態で直接労働者・農民の現場の中に進入しなければならないという主張だ。当時劇場を訪れる観客の大部分は中流層や学生層であったため、労働者・農民を包摂するには新しい公演方式の創出は必然的だった。このような論議の中で組織された移動式小型劇場は、移動劇場としての面貌を具体的に実践したものであった。

移動劇場とともにしろうと劇もKAPF演劇部の重要な運動方針だった。1920年代からすでに各地方の青年会を中心に数多くのしろうと劇が行われていたが、伝えられている記事から推し量るに、はじめは大部分改良主義的文化運動に見合った新派劇公演がおおもとを成していたと推測される。しかしこのような大衆運動の思想的基調は長くは続かず、社会主義路線に転換し、1930年代に各地方で自生的にプロ劇団が出現する原動力となった。KAPFではボルシェビキ大衆化の方便として、しろうと劇に対する論議も活発に開陳された。

その実践方法として農民組合や青年同盟などには移動劇部を設置して、平素へ演劇に関する知識の獲得と非常時出動の準備をしておくことであり、そのような移動劇部のような常設機関を置かずとも、農民夜学などは小作争議発生時あるいは農閑期や祝日などを利用してしろうと演劇会を開催することだ。時には近隣の農民組合や農民夜学に巡回移動もおこない、各農組・夜学のしろうと演劇部の交換活動を行うことも有意義だろう(申鼓頌「演劇活動の出発-現段階のプロレタリア演劇」朝鮮日報1931.8.4)

すなわち「移動劇部」のような常設劇場ではなくとも、農民組合や農民夜学・青年同盟で随時しろうと劇を開催する必要性を強調したのだった。申鼓頌(シン・ゴソン)のこのような主張は32年5月「演劇運動」創刊準備号が発刊されたことをもって、KAPFの具体的方針として強化されて現れた。「演劇運動」2号(1932.7)の社告には、そもそも雑誌の「編集においてもたやすく大衆的にトンム(友達の意)たちのしろうと劇活動の良い指針となるようにする」という意図を明らかにしている。「演劇運動」の続刊(1933.1)にも「しろうと劇の化粧法」(筆者未詳)が掲載されるなど、しろうと劇はKAPFのたゆまない関心事だった。

KAPFが劇場公演を完全に排除したのではなかった。プロ演劇運動の根本目的は労働者・農民のための闘争であるが、「労働者・農民をアジテーション・プロパガンダする中に、闘争を通じて小市民のための闘争を行うこと」も重要であったためだ。このような問題を解決するために考案された方案が「ドラマリーグ」(一種の観客組織)である。プロ演劇の劇場公演に観客を組織的に動員することで、観客の負担を少なくするとともに、劇団の経済的問題も解決しようという戦略だった。

ドラマリーグは工場労働者を中心にあるいは学生を中心に、会社を中心とした会社員などで組織するものである。労働者には公演時に労働者券を発行し、学生・一般には割引券を発行して労働者を中心とした批判会?開催、機関紙・パンフレットの配布等を行うものである(申鼓頌「演劇活動の出発-現段階のプロレタリア演劇」朝鮮日報1931.8.4)

ドラマリーグの方式がたいへん効率的に提示されはしたが、具体的に実践されることは無かった。

移動式小型劇場は32年5月末に解散し、よりボルシェビキ化した劇団として再整備された劇団メガフォンが結成される。移動式小劇場で実践された移動劇場の方案は、ボルシェビキ的大衆化の確固とした演劇方針として確立され、後のメガフォンや新建設などに継承された。劇団メガフォンは『朴僉知(パクチョンヂ)』『地獄』(キム・ヒョンヨン作)『護身術』『メガフォン・シュプレヒコール』『覚めた長恨夢』などのレパートリーで、32年6月7日にソウル・ピョンヤン・インチョン等で公演を行った。メガフォンの公演で新しく試されたのはシュプレヒコールという特殊な形式である。合唱・合唱詩などに翻訳されるシュプレヒコールは、特別な舞台装置や衣装も無く、多数の登場人物が用意した詩を簡単なジェスチュアとともに朗読する形式である。その劇的形式の簡潔さと扇動性によって、芸術運動のボルシェビキ化が提唱されたときに集中的に創作・上演された。シュプレヒコールはがんらい初期ドイツ労働者演劇で公演脚本が不足するや、詩を独唱と合唱に分けて朗読したものである。これがたいへんな成功をおさめるやいなや、シュプレヒコールだけを専門的に行う集団がいたるところに生まれた。このような形式は日本での実験を経て、申鼓頌によって韓国に紹介されたものだ。しかしメガフォンのシュプレヒコールはさほど成功を収めなかったようである。

…しかしメガフォンの第1回公演を見て一番感じたことは、彼らが世界を見て朝鮮の現実を見ていないようだった。いや見えなかったというのではなく、その特殊性を洞察して研究し、分析するに不足があったとするのが適当であろう。それは世界の進歩したプロレタリア演劇形式を軽率に直輸入したことにもうかがい知ることができる。具体的に言えば、朝鮮プロレタリアの現実からシュプレヒコールという形式がさだまるのであり、理解されるのであろうか。進歩した劇的形式の輸入と適切な用法は立派な効果を出すであろうが、そのためには常に現実と充分な生きた交渉があるべきであろう。(金b燮「劇団の展望、提言」朝鮮日報1933.1.14)

このような否定的評価が劇研メンバーによって指摘された点を勘案しても、シュプレヒコールの急な試みは、未熟な模倣にとどまってしまったようである。この後、プロ劇団でシュプレヒコール形式が試されなかったのは、このような誤謬を反証するものである。

1932年8月にはKAPFと緊密に連結した劇団新建設が生まれた。新建設は第1回公演を準備していた1933年2月に、一部の会員が拘束されという困難を経ながらも、11月23日と24日にレマルク原作の『西部戦線異状なし』を上演した。新建設の第1回公演と前後して、KAPF内部では冷静な自己批判が遂行された。

しかし私は絶対に、絶対に客観的な不利へのみ向けるものではなく、重要な原因は主観的力量問題だと見る。ここで私は、われわれが味わっている難関をくずして進展するためにも、急速なKAPF演劇部の活動方針を大衆的に決定しなければならないと同時に、新建設の急務は●●●の貯水池をつくり、財政的基礎の樹立のためにわれわれは努力を傾注しなければだめだと見る。(キム・スンイル「演劇の発展の為に」朝鮮日報1933.10.3)

このような指摘は客観的な状況よりも、依然として劇団内部の力量不足がもっとも大きな難関であることを自認するものである。新建設は第1回公演を終えた後、朴英熙(パク・ヨンヒ)のKAPF脱落を契機に召集されたKAPF中央委員会の演劇部に執行委員会を置くこととし、その責任者としてイ・サンチュンに目を付けた。

組織の再編以降にもKAPF演劇部の無能に対する批判は継続する。

自己批判がこんにちにおいてさらに活発になった動機を考えてみるとき、最初にKAPFの持つ原始的組織形態および方針と素朴な政治主義と宗教主義、二つ目に専門的劇団および労働者・農民の自立演劇の熾烈、プチブルジョアジーおよびインテリ出身の同伴者と進歩的学生劇の高揚に対する具体的対策の無方針、三つ目にだんだんと情勢の混乱するにしたがってわれわれはどんなコースに向かってどのように進むのかという不安などである。(羅雄「演劇運動の新段階-KAPF演劇部の新しい発展の為に」朝鮮中央日報1934.3.21)

続けて羅雄(ナ・ウン)は、KAPFが極度の中央集権的統制主義に固守することで、各芸術団体が独自の活動を遂行できないことから大衆的自己批判を絞殺し、イデオロギーによる少数のセクト的組織に固定された結果を批判している。彼はあるいはまた、KAPFがこの間徹底して武装したイデオロギーとともに専門的技術を備えた芸術家を同時に要求していた原則が無理であったことを指摘し、芸術と政治の差別性を認めなければならないことを力説した。

このような危機意識の中で、新建設の第2回公演は台本変更と公演中止の曲折を経た果てに34年5月1日から二日間、『西部戦線異状なし』と宋影作『新任理事長』を上演した。この後、新建設は宋影作『サンサンミン(山上民)』で第3回公演を計画したが検閲によって中止され、34年6月のいわゆる「新建設社事件」で団員たちがすべて検挙されてしまった。そして35年5月にKAPFが公式解散し、新建設も6月4日に解散することをもって、国内での公式なプロレタリア演劇運動は幕を下ろすことになった。

4-2. プロ劇の特性

プロ劇の特性のひとつめは、プロ劇類型の戯曲は創作劇と一幕劇を好んだことである。開城の大衆劇場のレパートリーの中で創作劇は宋影作『面会一切拒絶』『正義とカンバス』、李箕永『月会?』、閔丙徽『若者たち』『マドロスとウェートレス』、ユ・ヂノ『朴僉知(パクチョムヂ)』、キム・ヂョンイン『旅立つ人』、金永八『訃音』、キム・ソヨプ『漁港に暮らす人々』、共同制作の『農村哀話』と『覚めた長恨夢』などが採択された。海州の演劇工場のレパートリー中の創作劇としてはキム・ヂャヤンムン『洗濯屋と詩人』、アン・ヨン『愛の階級性』などがあった。咸興の朝鮮演劇工場では朴英鎬『八百号甲板上』『十五前後』『出獄した夜』『流れ行く群れ』『北関夜話』『太陽街』『人生ABC』などがあった。ソウルの移動式小型劇場の脚本の中で創作劇は金斗鎔『乞食の夢』、ユ・ヂノ『朴僉知』、キム・ユヨン『地下層揺動』、宋影『護身術』、石一良『昨年』と『われらの悲劇』、イ・ヒョソク『多難期の記録』、金永八『訃音』などであった。劇団メガホンのレパートリー中で創作劇は文芸部作『シュプレヒコール』と『覚めた長恨夢』『朴僉知』、キム・ヒョンヨン『地獄』、宋影の『護身術』などだった。また新建設ではキム・ヒョンヨンの『地獄』や宋影の『新任理事長』と『山上民』、韓雪野作『その前夜』などがあった。

このようにプロ劇において創作劇が圧倒的比重を占めていることは、同じ時期の劇研(劇藝術研究会)の活動と大いに異なり対照的である。KAPF陣営では当初から劇研の翻訳劇偏重の公演を辛らつに批判することで、劇研の演劇との差別性を強調した。

演劇文化の発展!これは世界経済の交互関係と、あるいは交通関係によって発見される事実だ。すでに朝鮮の演劇も日本から模入(模倣と移入?)したそれに基本を置いて、朝鮮民衆のための演劇を上演してきており、あるいはまた新境地を開拓して人類解放のための文化闘争の道具にまでいたる科学的な芸術形態に発展した。しかし芸術至上主義を云々する金氏のたぐいは朝鮮にいまだに演劇が無いと外国劇を引き入れて、朝鮮の新劇文化を樹立しようと寝言を言うのである。(閔丙徽「外国劇の移入でのみ朝鮮の劇文化は樹立されるのか?」- 金b燮氏に問う『朝鮮日報』1933・8・19)

彼らは劇研の翻訳劇公演をブルジョア知識階級の芸術至上主義的態度として罵倒しつつ、プロ劇によってはじめて真正な新劇文化が樹立されていることを強調した。プロ劇団の創作劇を好む傾向は、移動式小型劇場結成に至ってレパートリー選定の公式基準として闡明される。朝鮮だけの特殊な現実が反映された創作劇を、レパートリー選定の最優先課題に設定したことから、演劇文化に対するプロ劇界の主体的で民族的な認識を認めることができる。朝鮮の農村や工場の実態に立脚した演劇であればこそ、朝鮮の農民と労働者に具体的感動を与えることができ、これを通じた宣伝・扇動が可能であると信じた。「良い脚本というのは労働者一般に向かう脚本ではなく、労働者生活の個々の生活を舞台で再現する脚本--同時にその生活をプロレタリアートと結合させてアジ・プロし、彼を大衆的行動にまで誘致して○命に結びつける脚本(イ・ビョンチャン「移動劇場」『無産者』1号)」であるわけだ。

創作劇を選んだものの一幕劇に制限した理由は、現場性と経済性を同時に考慮した結果である。農村や工場の会館や広場など、公演施設を持っていない現場で公演するならば、短時間内に小規模舞台装置で公演可能な作品で無ければならなかった。あるいはまたプロ劇団では俳優をはじめとする専門人力が不足したために、登場人物が少なく舞台の活用も簡単な作品が要求された。実際、当時創作されたプロ戯曲はたいがい舞台転換の無い一幕ものが大部分である。一幕もののプロ劇作品での舞台はたいていひとつの場所に固定されており、大部分が簡単な舞台装置を指示している。基本的に写実的舞台を指向したが、当時の大衆劇や劇研側が見せる精密で精巧な舞台とは大きな距離がある。はなはだしくは舞台装置が抽象化・様式化する様相を露呈した。『新任理事長』の場合、山林会社の事務室内部が仔細に描写されているが、実際に公演に必須のセットはテーブルが三つ四つに象徴的な事務什器のみであった。これはプロ劇において舞台的要素がさほど重要ではなく、作品じたいが舞台装置に拘束されず、人物たちの階級的葛藤に焦点が置かれていたことを知ることができる。

一幕劇は単一の葛藤の単純構成を取るほかなかった。一連の明白な葛藤が導入部からはっきりと提示され、危機の頂点を越えて結末に向かってすばやく駆け上る。その単一の葛藤とはプロレタリア階級とブルジョア階級の対立で醸しだされ、プロレタリア階級の意識的覚醒と決起という予定された結末に淀みなく進み行く。このように短いながらも高度の扇動的凝集力を持っている一幕の創作劇は、しろうと劇のレパートリーとしても適合した形態だった。

二つめに、劇研側で生産した創作劇が大部分農村問題に基盤を置いているところに比べ、プロ劇では労働者と資本家の葛藤がもっとも重要なテーマとして現れる。プロ劇において農村問題は、ユ・ヂノや蔡萬植(チェ・マンシク)などで一部現れるのみで、KAPF系列の本格的なプロ劇作家たちは主に労働問題を扱った。労働者と資本家の葛藤を扱った作品としては、宋影の『正義とカンバス』『ホシンスル(護身術?)』『一切面会拒絶』『アヘン争議』、金永八(キム・ヨンパル)『三人家族』、李箕永(イ・ギヨン)『ウォルヒ』、韓雪野(ハン・ソル-ヤ)『総工会』、李北鳴(イ・ブンミョン)『しかし私は行かなくてはならない』、金南天(キム・ナムチョン)『チョヂョンアン(調整案?)』などをあげることができる。

宋影は30年代のもっとも代表的なプロ劇作家として、彼の作品は実際にプロ劇団のレパートリーとしてもっとも多く選定された。大衆劇場では『面会一切拒絶』(1931・3)と『チョンウィとキャンバス』(1932・7)をレパートリーとして選定したこともあった。『護身術』は1931年11月移動式小型劇場と1932年6月大衆劇場のレパートリーとして採択されたが、公演の可否は確認されておらず、1932年6月にはメガフォンによって実際公演された。『山上民』が新建設の第2回と第3回のレパートリーとして選定されながらも、二つながら実現しなかった。『新任理事長』は34年5月に第2回公演における公演作品のひとつとして上演された。

このように30年代プロ演劇で労働問題が重要素材として登場するのは、20年代に比べてプロレタリア階層での労働者たちが占める比重が大きく増したためである。1920年代から進行した植民地工業および鉱山業、交通運輸の発達によってしだいに増加しはじめた労働者の数字は、1930年代に工場労働者のみで10万名を越えた。これに鉱山・運輸・土建労働者などを合わせると100万名を上回った。

植民地下での朝鮮人労働階級者は、過酷で劣悪な労働条件のもとで半奴隷的に搾取されており、長時間労働に苦しめられながらも常識以下の賃金で飢餓に呻吟した。当時、プロ劇で労働問題を好んで素材としたことは、頻発する労働争議に鼓舞されたものと見ることができ、争議現場で上演する目的がからんでいた。このような作品は究極的に全労働者を覚醒・決起させることをもって、労働者階級の勝利を祈願していた。

三つめに、プロ劇では否定的人物を正面から批判するよりも、むしろ諧謔化を通じた風刺の技法を選択している。諧謔化の対象となる人物たちは、もちろん資本家をはじめとするその周辺のブルジョア階層だった。諧謔化の方法がもっとも全面的に現れたのは宋影の作品である。宋影は『ホシンスル』『一切面会を拒絶せよ』『新任理事長』などで否定的人物を主人公として出し、みずから威信と体面を失墜させることで諧謔の対象となるようにする。李箕永の『○○教主』もまた似非宗教の教主の虚偽意識を風刺することをもって、ブルジョア階層の欺瞞心を暴露している。

プロ劇でこのような方法が有用に採択されたのは、検閲を意識したひとつの抜け道と見ることができる。風刺の真の目的は悪の矯正におかれている。諧謔化された資本家階級は観客たちに嘲笑され、軽蔑されながら懲戒と矯正の対象となると同時に、観客たちは舞台上の否定的悪習を踏襲したり受け入れないように知覚する。

四つめに、プロ劇ではいくつかの形態の、図式的人物類型が登場する。その最初のものは資本家階級の社長・工場主・高利貸し等として登場させ、彼らは型にはまったように労働者を悪辣に搾取する吸血鬼型人間として行動する。二番めの人物類型は資本家にへつらって利用される寄生的人物群がある。彼らは資本家と同じブルジョア階級として、ともに既得権を維持しようとする群れと、プロレタリア階級に属しながら資本家の懐柔に落ちた群れに大別される。資本家と同じブルジョア階級に属する人物たちは、富を守ろうと資本家の論理を自身の論理として受け入れてこれに積極同調する。いっぽう、同じ労働者でありながら資本家の側に立っている人物は、労働者全体の利益よりも自身の私的な利益と生計維持に汲々とする人物たちだ。三番めの人物類型は労働者階級として、これは当初から意識的に徹底して武装した闘士型人物群と、後に覚醒する前向きな人物群に大別できる。前者の闘士型人物たちは、たいてい闘争の先頭に立つことになる動機が省略されたまま登場し、後者の人物たちに農民組合もしくは労働組合の当為性を説教調で説明し、先鋒となって示威を扇動したりする。後者の典型的人物群は、最初は現実認識の不在状態で登場するが、資本家に不当な対応を受けて個人的不満にさいなまれていたところ、闘志的人物によって意識的に覚醒し、集団行動に参与する過程に進む。他の類型の人物たちがすべて平面的キャラクターとして設定されているところに反し、典型的人物たちのみが立体的キャラクターとして現れている。

五つめに、プロ演劇の究極的な目的は労働者や農民に対する宣伝・扇動であるとするとき、必然的にそれらのための技術問題が台頭しないわけには行かない。プロ劇の基本要件は、まず労働者や農民が理解できる単純でやさしい内容でなければならず、その中で多様な宣伝と扇動のメカニズムを活用する。もっとも確実な方便は、扇動家を直接登場させることである。図式的登場人物の類型中、劇の始まる前から社会主義イデオロギーで武装した闘志型人物たちが、たいがい扇動家として登場する。激烈な扇動効果のためには「群衆の喚声」あるいは「乱闘場面」などを活用し、群集心理を扇ぎたてる。太鼓の音や歌も示威の雰囲気を高潮させるところに大きな役割を果たした。作品の中に挿入された民謡は、民衆たちに親しみやすい大衆化の技法であると同時に、作品内の現実を普遍的現実として拡張させる効果を持っている。ブルジョア階層によって犠牲となった人物の死や屍の登場もまた蜂起の決定的契機として作用する。

シュプレヒコールは劇全体が宣伝・扇動のスローガンで満たされた形式である。シュプレヒコールが詩をソロと合唱で朗読したのは、ギリシア悲劇のコロス(Chorus)に着眼したことであるに違いない。シュプレヒコールはコロスの機能のみを全面的に際立たせ、時には集団で歌ったりしゃべったり、時には個別に歌ったり語ったりする方式を適切に配合した形式と言える。しかしシュプレヒコールは劇的行動がほとんど排除された観念詩の立体的朗読の水準にとどまったため、堅苦しくて教条的な形式として受け取られるほか無かった。感情的に没入する演劇に慣れている当時の観客に、異化効果で武装したシュプレヒコールは見慣れない形式であったろうし、当時のプロ演劇界の水準から推して、立体朗読のアンサンブルも満足に成されなかったことだろう。けっきょくシュプレヒコールは実験のための実験に終わってしまった。宣言と念押しのみで満たされたシュプレヒコールは、完全に無知な労働者を階級的に教化するには不適切な形式に思える。ある程度階級意識で武装した集団の中で、争議や示威などの行使と結びついて公演されるときに、所期の目的を達成することができるのであろう。

六つめに、プロ劇の結末はたいがい資本家に対する労働者・農民の闘争に火がつくことで締めくくる。これは新劇系列の作品が、たいがい具体的闘争意思を見せられないまま現実に安住することと大きな対象を成す。資本家階級と意識的に闘争する労働者・農民の現象は、1920年代のプロ文学と弁別される1930年代プロ文学の特徴でもある。

30年代プロ劇の結末に登場する労働者たちの決起はすべて集団的性格を帯びていた。しかし闘争の点火があるのみで、資本家階級との直接的な衝突は幕の外とされた。個人的な次元であれ労働組合の次元であれ、労働者たちが資本家に自身の権益を主張する場面は排除されている。そのような主張があったとしても、それは既に芝居の始まる前に試みられたとか、資本家によって拒否されたこととして設定されている。劇中に登場する資本家階級は、そもそも労働者たちの主張をまったく受け入れないであろう悪人として設定されているため、労働者たちに残されたのはいまや行動だけだった。最後の手段としての労働者の示威行為も、資本家に対する直接的な危害までには至らなかった。このようにプロ劇の結末が過激な暴力事態を排除しているのは検閲を意識したせいでもあるが、労働者たちのイメージを最後まで健全なものとして維持する効果を創出することもある。資本家階級の偽善と不道徳は最大限に強化される反面、労働者の暴力性は可能な限り抑制されることで、資本家階級に対する労働者階級の人格的優位を維持するのである。全面的な衝突以前に幕が下ろされることで、その結果は確認されないが、並外れた決意を通じて労働者階級の勝利が充分に暗示される。

このような結末構造が見せる闘争の集団性と勝利への暗示は、当時KAPF陣営の創作方法論の主流を成した「プロレタリア・リアリズム」の反映と見ることができる。プロレタリア・リアリズムは「弁証的写実主義」とも同一の概念で、現実を全体的に、発展的に把握して描写しようとする態度であり、従来の模写的リアリズムや批判的リアリズムを一度止揚し、克服しようとしたものである。これに立脚して30年代プロ劇団は、労働者・農民の闘争を一個人の衝動的抵抗ではなく集団の持続的闘争に連携させており、労働者・農民たちに社会主義理念が機械的に注入されるのではなく、不当な現実の中で、具体的体験を通じて本質的に変化するように意図する。合わせて歴史の必然的な発展途上で、究極的にプロレタリア階級が勝利するだろうという確信を強く植え付ける。

5. 大衆劇、新劇、プロ劇の接合と変容

1930年代前半期にあって、大衆劇・新劇・プロ劇はそれぞれ相違する様相を示しながらお互いを克服・指向しなければならない対象とした。

1930年代前半期の大衆劇は20年代から受け継いできた新派劇様式を基盤に、幕間余興の要素を拡張しながら、すでに広範囲の観客基盤を確保していた。1931年から本格的に新劇運動を主導した劇芸術研究会(劇研)は、新派劇中心の大衆劇を低級な大衆指向に迎合する低劣な演劇として罵倒し、この地に新しい近代写実主義の演劇を定着させようとした。しかし韓国的情緒にそぐわない西洋翻訳劇に重きをおいた公演は、形式と内容のすべての面で一般観客からよそよそしく受けとられた。いっぽう、1930年代に入ってKAPFの連帯下に実際的公演活動を開始したプロ劇団体たちは、大衆劇と商業主義と劇研の芸術至上主義的態度をともに批判して立った。プロ劇団体は有閑階層の趣味にへつらう大衆劇に向き合って、労働者と農民のための演劇を創造しようとしており、さらには労働者・農民みずからの演劇活動を先導しようとした。あるいは西欧翻訳劇に没頭している劇研のブルジョア的演劇行為に対抗して、労働者・農民を社会主義意識に転換させ得る内容の創作劇に注力した。ここでプロ劇の批判が大衆劇よりも劇研側に向かってはるかに激しく提議されていることは注目するべきことである。これはプロ劇と大衆劇がともに創作劇に重きを置いたという共通分母を持っており、プロ劇が大衆化方案を積極模索したなかで、大衆劇様式から多くのヒントを得たためであると思える。

新劇とプロ劇は様式の側面や認識の側面でリアリズムを指向したという共通点がある。しかしプロ劇はリアリズムの様式的な実践に失敗しており、新劇は認識の側面で脆弱さをさらけ出した。プロ劇はイデオロギーの強制的注入に汲々とするまま、芸術的完成度の問題をなおざりにしており、新劇は模写的・自然主義的リアリズムにとどまって、時代と現実に対する批判と反省が不足した。

劇研は1935年11月から柳致眞(ユ・チヂン)中心の第2期活動に入りつつ、創作劇中心にレパートリーを再編し大舞台に進出する等、多角的に大衆化を模索したが、演技術の未熟は簡単には克服できなかった。このころ最先端の劇場条件をそろえた東洋劇場が新しく開館したが、スターシステムによる華麗な演劇を披露して大衆劇の本山として君臨するにつれ、劇研の演劇はさらに萎縮するほか無かった。けっきょく劇研の演劇は通俗性と適当に妥協するようになり、1938年4月に劇研座として変貌した後はほとんど大衆劇との弁別性を喪失してしまった。

プロ劇は当初の抱負とは異なり、経済的にも技術的にも難関を克服できなかった。興行性を念頭に置かないことによって公演経費を手当てすることが難しく、技術的には劇研の演劇よりも劣った。このような内部的矛盾の累積は1932年、劇団新建設組織に前後して鋭い自己批判を提議することになった。その過程で建設的な輿論が形成されはしたが、1934年にいわゆる「新建設○事件」とともに、公式のプロ劇運動は幕を下ろしてしまった。プロ劇運動が座礁して以降、プロ劇界の宋影(ソン・ヨン)、朴英鎬(パク・ヨンホ)、羅雄(ナ・ウン)、安英一(アン・ヨンイル)等は東洋劇場の作家あるいは演出家として活躍することになった。

新劇運動の不振とプロ劇運動の終息の裏面で東洋劇場を中心にした大衆劇は、依然と大衆的人気を享受していた。東洋劇場の演劇はレパートリー面では既存新派劇と似た家庭悲劇と花柳悲劇が主流を占めていたが、演出と演技スタイルでは写実主義様式を指向した。これは劇芸術研究会の新劇普及による写実主義演技様式に、相当刺激されたものと見ることができる。事実、東洋劇場の演出を任されていた洪海星・朱永渉・安英一・李曙ク・羅雄らはがんらい日本の築地小劇場で劇芸術研究会系列とともに新劇運動に参与していた者たちであり、東洋劇場に作品を提供した咸世徳・宋影・朴英鎬らが文学的な戯曲を残した劇作家であり、こうして見れば新劇と新派のふたつの世界の間にはっきりした境界があるのか疑問である。このような疑問はすでに当時でも提議されていたが、申不出(シン・ブチュル)は当時劇研の公演がすでに興行劇のそれと何らの違いは無いと見ており、むしろ技術的な面では興行劇より劣等であると断じた。けっきょく1930年代後半期にさしかかって、新劇系列でも大衆劇の長所を取り入れようと提議された。新劇が大衆劇から取り入れるべき主な長所としては、韓国的情緒に基盤する創作劇と高い水準の舞台完成度などに要約される。

大衆劇はよしんば技術的な面で自信を持っていたが、その裏面では新劇運動に対する羨望と好感が無くは無かった。このような限界を克服しようとして現れた試みが、まさに劇団中央舞台の「中間劇」理論である。中央舞台は東洋劇場で活動していた宋影・朴英鎬などの代表的劇作家と、朴齋行(パク・チェヘン)・沈影(シム・ヨン)・徐月影(ソ・ウォリョン)・南グンソンらの人気俳優が主軸となって、ここに劇研側の孟晩植(メン・マンシク)や李ウォングンらが加勢した。新劇と興行劇の中間を歩むという趣旨は、けっきょく新劇の芸術性と大衆劇の興行性を結合させようという試みであった。しかし中央舞台の実際公演に対する当時の評価は、公演の質と内容が従来の大衆劇から大きく抜け出られなかったことを批判している。

中央舞台は責任演出者だった延鶴年(ヨン・ハンニョン)の突然の死と、累積した経営難で1939年6月に解散したが、新劇と大衆劇を結合させようとした彼等の意図はふたたび劇団高協(コヒョプ)に継承される。高協は沈影・徐月影・朴齋行・池ゲスンら、やはり代表的な大衆的の俳優たちが主軸を成していたにもかかわらず、「朝鮮新劇の先駆」というスローガンを掲げて現れた。当時林和(イム・ファ)は高協の団員たちがすでにながいあいだ大衆劇の興行主義のなかで厳しい風霜に耐えてきた人物たちであるので、大衆劇の限界を克服しながらも、新劇の職業化の可能性をあけることと展望していた。しかし劇団高協の演劇や同じ時期の東洋劇場の演劇も、客観的評価で新劇の範疇に収まることは無かった。当時安英一は『まことに劇団高協が飛躍的な発展をとげようとするならば、健全な生活から真正な演劇の生産という初志を忘れずに、真正な大衆劇の樹立でふたたび観客大衆の信頼を得ることをもって新劇的方向に進展しなければならないだろう』と忠告したことがある。安英一はまた劇研座解散後、はっきりとした求心点を失った新劇運動に対して、新劇は新劇を愛する演劇専門家の手によって新しく生まれ変わらなければならないと忠告する。これは新劇の専門家ないし職業化ということが、演劇専門家では無い海外文学派たちによってはとうてい望むべくも無いことであり、ながいあいだ大衆劇の習性に飼いならされた作家や俳優たちによって成就されることでも無いことを洞察したものである。すなわち安英一は大衆劇はむしろ真正な商業主義演劇として観客の信頼を得なければならない、新劇は文学徒たちによってではなく、新劇の情熱を持った専門演劇人たちによって追及されなければならないことを強調している。彼は当時の時点で新劇の職業化とは不可能であると断言し、その宿願は次代にたくした。実際に新劇の専門化がなされて大衆的基盤を確保するのは東京学芸座と、その次の世代の演劇専門家が活動する1940年代後半に入ってからである。

このように1930年代後半に展開した大衆劇と新劇の接合と変容様相は、結局は演劇性という演劇本質の問題にほかならない。事実、30年代新劇運動やプロ劇運動の限界は、まさに「文学的、芸術的職業化」の失敗にあったとみることができる。新劇運動は一日も早く西洋の写実主義様式を移植する道のみが新しい演劇文化創造の捷径であるとし、通俗性と妥協したのちも演技術と舞台術の未熟を克服できなかった。プロ劇は労働者・農民に階級意識を注入するという理念のみが澎湃したまま、やはり演劇技術の側面から苦情と不振を免れ得なかった。反面、大衆劇は演技術と舞台術で飛躍的な発展を見せたが、作品の内容面では文学的風格や芸術的香りを充分に確保できなかった。

6. 結論

1910年代の新派劇から花を咲かせ始めた大衆劇は1930年代に至って数多くの劇団が明滅しながらもっとも多くの観客層を確保していた。1930年代前半期の大衆劇団はたいがい新派的色彩が濃厚であったし、観客たちの末梢的好奇心を充足させるために汲々とした。特に幕間余興を度過ぎて拡大することで正規演劇が萎縮する副作用を生みもした。大衆劇は1935年11月にわが国最初の演劇専用常設劇場として開館した東洋劇場の誕生によって新しい転機を迎える。東洋劇場は錚々としたスタッフ陣と俳優陣を備え、直属劇団である青春座と豪華船を運営しながら技術的によく作られた演劇を大量に供給した。東洋劇場の演劇もまた素材面では花柳悲劇や家庭悲劇が主流を成していたが、演技面では新派調を指向して自然な演技に接近したものと見れる。

大衆劇類型の戯曲に現れる特性としては、まず幕間余興の氾濫をあげることができる。幕間劇の主要な形式であったレビューはバラエティショーの一種である。ナンセンス、漫談、スケッチ、寸劇などはたいてい2〜3人の俳優がつむいでいく10分内外の短い笑劇である。幕間劇とともに喜劇も大量に産出されたが、その理由は大衆劇の公演レパートリー自体が喜劇を必須的に含んだからである。大衆劇の喜劇は高級喜劇というよりは笑劇の要素を多分に内包していた。

大衆劇でもっとも好んで扱った素材は愛欲の葛藤や、そのような葛藤から派生した問題である。このような作品にはたいがい女性をプロタゴニストとして打ち出す。主人公はほとんどが善良で逼迫した女性たちであり、彼女たちを不幸にするものは貧しさと旧道徳である。女性主人公のなかでももっとも頻繁に登場する人物類型はキーセンである。これは当時の花柳界女性たちが劇場のなじみ客であった点と無関係ではない。大衆劇では愛欲の葛藤とあわせて新旧モラルの葛藤がかみ合うのがお決まりだが、その典型的な素材は自由恋愛をめぐる対立と不和である。結末はたいがい若い時代の新しい価値観が擁護される方向に向かうことになる。

大衆劇は形式的にメロドラマともっとも類似した様相を見せる。『愛にだまされ金に泣き』や『母の力』のような代表的作品は緻密に well made play の構成を備えている。登場人物たちの性格は善であれ悪であれ、そのどちらか一方であり、劇中行為はそのような人物たちの道徳性によって明白に単純に遂行される。言語面でも単純で実質的なセリフを構成する。きわめて善であるにもかかわらず逼迫した主人公に対してはねんごろな憐憫と同情が、盲目的に邪悪な加害者に対しては強烈な憤怒と憎悪が芽生えることになる。

韓国の大衆劇とメロドラマ形式の類似性のあいだには日本の新派劇の直接的な影響力が介入している。しかしメロドラマ形式は必ずしも外部から輸入されなくてもその形式事態がどの時代、どの国でも出現可能性を内包している。メロドラマが追求する因果応報の原理はすべての人間に普遍的にアピールする情緒であるからだ。大衆劇で頻繁に誘導される涙こそ、メロドラマの必須条件として作為的に感傷主義を助長する劇的装置である。この間大衆劇の涙は植民地下という当時の歴史的状況と結びついて、観衆たちの肯定的な意識と価値を破壊してきたと評価を受けてきた。しかし基本的に涙は感情を洗い上げるひとつのメカニズムとして、不幸な人々のカタルシスであると言える。観客たちは思う存分泣くことで生存競争での新しい力を得ることができる。大衆劇のレパートリーのなかには、希ではあるが時代現実および社会現実を反映する作品がある。そのような作品はたいがい男女間の愛情を描いたメロドラマ的エピソードとかみ合っているが、通俗性の度過ぎた拡大が時代と社会の問題をぼかしたりもする。

1920年代に芽生え始めた新劇運動は1930年代に入って劇研の創立とともに本格化し始める。劇研の活動を大きく3期に分けてみることができる。海外文学派が主導権を握った第1期の活動は西洋演劇に対する紹介と翻訳劇の公演が中心となる。このような傾向は特にプロ演劇界からブルジョア知識階級の芸術至上主義という非難を受けた。柳致眞が主導権を掴み始めた第2期活動は、創作劇公演の強化と演技の専門化段階として要約できる。しかしこの間に上演された創作劇レパートリーの変貌過程は劇研がしだいに通俗性と妥協していく様相を見せており、技術の未熟からむしろ大衆劇に立ち遅れるのではという憂慮をさそう。劇研の商業化に対する批判の声が高まる中で、専門劇団である劇研座に改称して活動した第3期は明白な職業劇団としての商業主義が露骨化し、大衆劇との弁別力をほとんど喪失することになった。

新劇類型の戯曲に現れる特性としてはまずしゅ実主義様式の指向をあげることができる。特にイプセンの中期演劇に現れる自我意識、女性解放、社会改造の理念は当時の新劇運動の精神的指標となる。劇作術面でも緻密な動機付与と因果関係による必然的展開、舞台装置やゼスチャーに対する詳細な舞台指示文などが普遍的に指向された。セリフ面でも日常的な会話体が比較的自然に駆使され、いくつかの作品では母国語に対する卓越した言語感覚が堅持されている。素材面では当時の農村現実を背景に農村の構造的矛盾を取り扱った作品が圧倒的比重を占めている。作家たちは単純安背景や素材としての農村ではなく、農村の疲弊した生それ自体の中に内在した矛盾に注目する。生き生きとした農村現実に基盤を置いて、現実の桎梏をリアルに描出した点は写実主義戯曲を成熟させるところに大きく寄与している。

劇研メンバーは演劇を民衆啓蒙の一手段として考えたので、戯曲でも啓蒙的観念性が部分的に投影されている。民衆を啓発し導こうとする作家の教訓的メッセージを一方的に伝達しようとするところに、作品全体の蓋然性が壊れてしまったり堅苦しい観念がそのまま現れたりする場合が多い。新劇系列の戯曲でもっとも大きい成果として注目されるのは、個性的性格の人物たちが創造された点である。これは大衆劇やプロ劇の人物たちがたいがい類型的な性格にとどまっていたことと良い対照を成している。新劇系列の戯曲は日帝下の民族現実に対する具体的認識を見せながら、大部分の作品は発展的展望を提示できなかった。たいがいは検閲を意識して敵対勢力を巧妙に隠蔽しており、これをまた単純な個人事や家族間の葛藤に縮小させることによって、矛盾に対する具体的解剖および批判の次元に至らなかった。

リアリズムを追求したものの暗鬱な現実の壁に突き当たった新劇は、けっきょく通俗性と妥協することになる。劇研は表面的にロマンチシズムとの結合を主張したが、実際に作品を通じてあらわにしたロマンチシズムの実体は社会問題から個人的問題に、現実的矛盾から個人的モラルの問題に焦点を向けただけである。大衆劇でありふれて目撃される常套的・通俗的素材を借用しながら、作為的な構成によって通俗的おもしろさまで半減させる結果を生んだ。ロマンチシズムの成功的な結合は後進作家である咸世徳によって成される。

プロ劇は芸術のボルシェビキ化という前提のもとに労働者・農民を対象にした宣伝・煽動の任務を遂行しようとする。1930年代に入って全国にわたって自然発生的なプロ劇が組織されたが、実際の公演活動は微々たるものだった。31年11月にソウルで結成された移動式小型劇場は労働者・農民を直接訪ねていく移動劇場の面貌を具体的に実践する。移動劇場とともにしろうと劇もKAPF演劇部の重要な運動方針である。移動式小型劇場が発展的に再整備されたメガフォンとその後の劇団新建設はKAPFが解散するまでプロレタリア演劇運動の求心点となった。プロ劇類型の戯曲は創作劇と一幕劇を好む。KAPF陣営では当初から劇研の翻訳劇に重きを置いた公演を辛らつに批判したが、移動式小型劇場結成に至って創作劇優先論がレパートリー選定の公式基準として闡明される。創作劇を選んだが一幕劇に制限したのは現場性と経済性を同時に考慮した結果である。農村や工場の会館・広場などの公演施設を備えていない現場で公演するならば、短時間内に小規模の舞台装置で公演可能な作品でなければならないからである。

プロ劇は素材面で主に労働者と資本家の葛藤を採択する。30年代プロ劇において労働問題が主要素材として登場するのは20年代に比べてプロレタリア階層で労働者が占める比重が大きく増加したためである。プロ劇作家たちは当時実際に頻発していた労働争議に鼓舞されたものと見られ、争議の現場で上演する目的性を念頭に置いていた。プロ劇では否定的人物を正面から批判したり攻撃することよりも、諧謔化を通じた風刺の技法を選ぶ。諧謔化の対象となる人物たちはもちろん資本家をはじめその周辺のブルジョア階層である。プロ劇でこのような方法が有用に採択されたのは検閲を意識したひとつの出口と見ることができる。諧謔化された資本家階級は観客たちに嘲弄され軽蔑されることで懲戒と矯正の対象になると同時に、観客は舞台上の否定的悪習を踏襲したり受け入れないように自覚する。否定的人物の諧謔化とともにプロ劇にはいくつかの形態で図式的人物類型が登場する。社長・工場主・高利貸しなどの資本家階層は、判で押したように労働者を悪辣に搾取する吸血鬼型人間として描写される。次には資本家にくっついて利用される寄生的人物群がある。彼らは資本家と同じブルジョア階級としてともに既得権を維持しようとする群れと、プロレタリア階級に属しながら資本家の懐柔にくだった群れに大別できる。労働者階級の人物類型は、当初から意識的で徹底して武装した闘士型人物群と、最後に覚醒する転向的人物群とに大別できる。

プロ劇の究極的な目的が労働者・農民に対する宣伝と煽動であるとするならば、必然的にこれらのための技術問題が台頭する。プロ劇の基本用件はまず労働者・農民が理解できるほど単純で簡単な内容でなければならず、その中で多様な宣伝・煽動のメカニズムを活用する。イデオロギーで徹底して武装した煽動家が直接登場したり、「群集の喚声」または「乱闘場面」などを活用して群集心理をあおぎたてる。太鼓の音や歌声なども示威の雰囲気を高潮させるところに大きな役割を担当する。シュプレヒコールは劇全体が宣伝・煽動のスローガンであふれた形式である。プロ劇の結末はたいがい資本家に対する労働者・農民の闘争が火のつくところで終わる。これは新劇形式の作品がたいがい具体的闘争意思を見せられないまま現実に安住することと大きな対照をなしている。しかしプロ劇の結末は闘争の点火があるのみで、資本家階級との直接の衝突は幕の下りた後に残される。このようにプロ劇の結末が過激な暴力事態を排除しているのは検閲を意識したものでもあるが、労働者たちのイメージを最後まで健全に維持する効果を創出する。全面的な衝突以前に幕が降りることでその結果は確認されないが、並々ではない決意を通じて労働者階級の勝利が充分に暗示される。このような結末構造が見せる闘争の集団性と勝利への暗示は、当時KAPF陣営の創作方法論の主流を成した「プロレタリア・リアリズム論」の反映と見ることができる。

以上のように1930年代の戯曲ないし演劇類型は大衆劇・新劇・プロ劇の3つの類型に大別できる。これらは1930年代の前半期にそれぞれ相違した様相を表しながら互いを克服、あるいは指向しなければならない対象とした。しかし1930年代中盤以後にさしかかってからは大衆劇・新劇・プロ劇のあいだにある程度の接合と変容が起こる。プロ劇は大衆劇の余興的技法を宣伝・煽動の有用な手段として借用したし、KAPFの解散とともにプロ劇が終息した後にはその成員に一部が大衆劇に参与することになる。劇研は柳致眞が主導権をつかんだ第2期活動から通俗化の傾向を見せ、劇研座に変貌して後は大衆劇との弁別性をほとんど喪失した。大衆劇は1935年に開館した東洋劇場の演劇から写実主義演技および演出様式を指向することとなり、30年代後半期に創団した中央舞台や高協は意図的に新劇との折衷をはかった。大衆劇は作品の文学性面で、新劇とプロ劇はすべて劇団経営と演劇技術の問題から苦戦したが、これらそれぞれの分野で成就した演劇的成果は相当なものである。

大衆劇類型の戯曲はまず人間を愛欲と新旧モラルの問題などの日常生活の問題を扱いながらも、メロドラマ形式を通じて当時の観客の日常的情緒にもっとも普遍的にアピールした。このような作品がよく発達した舞台術と俳優術を通じて華麗に包装されることで、技術的に当時もっとも発展した形態の演劇を供給した。わが国の演劇史にあって30年代の大衆劇は、プロフェッショナリズムと商業主義を根付かせ、演劇人を専門的な位置に格上げさせた。30年代以降、大衆劇は正規演劇の持続的な興行のみならず、1940年代から50年代に楽劇と国劇の分野でふたたび猛威を振っており、その後も弛まなく平凡な大衆の愛顧を受けてきた。

新劇類型の戯曲は意図的に徹底して写実主義様式を指向したために、劇作術における構成や言語。性格や舞台指示などにわたって写実主義的技法を顕著に発展させた。特に植民地下の民族現実に対する具体的な認識が、洗練された劇的構成技巧と噛み合うように考案されたのは大きな成果であると言える。劇研の公演が演技面でおそまつであったために、毎度毎度意図しただけの成果をあげることはできなかったが、写実主義演技に対するはっきりとした認識は、新派調にとらわれていた大衆劇まで肯定的な影響を与えた。興行性とともに写実主義の演技様式に対する確固とした信念を持っていた安英一が、30年代後半から東洋劇場で演出を担当したことは、東洋劇場の演劇をよりリアリスティックな体系に発展させたであろう。こうして劇研によって形成された写実主義戯曲および演劇は、1930年代以降韓国演劇のもっとも大きな流れとなる。

プロ劇類型の戯曲はプロ劇団が指向していた移動劇場やしろうと劇運動を念頭において書かれたために、簡潔で明瞭な構成と宣伝・扇動のための図式的展開を見せる作品が大部分である。しかし現実的矛盾を具体的に認識するのみならず、これに積極的に対応して未来のために発展的展望を確保している点はリアリズムの認識次元で新劇系列の戯曲より一歩進んでいた。特定のイデオロギーを信奉していた30年代のプロ劇は、以降わが国の演劇に政治劇と民衆劇という新しい分野を開拓する。

大衆劇で発展したメロドラマの形式と舞台術および俳優術、新劇で急速に成長した写実主義的な戯曲様式と演技様式、そしてプロ劇で生まれた発展的リアリズムの認識は、1930年代戯曲および演劇が成し遂げた総合的な成果として相互に肯定的影響を受け与えするなかに、わが国の現代演劇発展のよく肥えた土壌となった。

© 金美都(KIM mi-do) / 翻訳:岡本昌己(SPAM対策:*を@に置き換えてください)