韓国文化芸術の成果と展望 -演劇- 金文煥(キム・ムナン)
この論文はKorea Foundationの発行する雑誌"Koreana"1995年の特集記事「韓国文化芸術の成果と展望」を転載したものです。
(2001.5.8&2008.12.13に翻訳上の誤りや誤字を訂正)

1

解放後50年間の韓国演劇を述べようとすれば、それ以前についても言及せざるを得ない。歴史自体の基本的性格がそうでもあるが、韓国の近代演劇が日本の植民地時代に誕生した点でとりわけそうである。

もちろん、韓国は長い歴史時代を経るうちに様々の外来的影響を吸収しながら、独自の演劇の遺産を形づくってきた。そのうち代表的のものは、何と言ってもパンソリ(鼓の拍子に合わせて演ずる劇的内容の歌)12場と仮面踊りの系列ということになるだろう。しかし時代の変化も変化だが、帝国主義日本による韓民族文化抹殺政策のために伝統文化は思いのまま成長することができなかった。その代わり、主として日本から渡ってきた新劇と新派劇が演芸の主流をなした。新劇が西ヨーロッパの伝統的な演劇芸術に結びつけられるのに対し、新派劇は内容から商業主義的な大衆演劇で、ごく通俗的で感傷的な類型の演劇を通称する。

日本では従来の歌舞伎を旧派といい、これに対して新たな演劇という意味から新派劇という用語が用いられたのだが、日本の新派劇は明治20年代に始まった白由民椎運動の政治宣伝劇を基にして現代的な写実劇に発展した。この新派劇は日清戦争中に軍事劇になって現れたりもしたが、探偵劇や義理人情劇や家庭悲劇などに移行してピークを迎える。1902年、韓国に始めて協律社(ヒョンニュルサ)という劇場が建てられるに及んで伝統の劇と歌舞戯が上演された。これが私設劇場円覚社(ウォンガクサ/1908年7月)に名称を変えた後もパンソリ系のものだけが公演されていたが、1911年の冬になって日本から受け入れた新派劇がはじめて上演される。新劇のほうは、それから9年後の1920年の春、東京で文学と芸術を勉強していた留学生たちが劇芸術協会を結成することで幕が上がる。欧米の近代劇を手本とした新劇運動は、北欧(イプセン)、ロシア(トルストイ、ツルゲーネフ、ゴリキー、ゴーゴリ、チェーホフ)、イギリス(ゴールスワージ、ショー、ワイルド)、アイルランド(オケイシー、シンク)、ドイツおよびオーストリア(表現主義、シュニッツラー、ハウプトマン)、フランス(パニョル、サルトル)、ベルギー(メーテルリンク)、イタリア(ダヌンチオ、ピランデルロ)、そしてアメリカ(オニール)の影響を直接、間接的に受けて植民地下の社会的現実を演劇的に反映しようと努めた。なかでも、アイルランドに対しては歴史の歩みが韓国と似通っているうえに民族の気質も似ていると考えられていたことから、韓国の劇作家の多くがオケイシーやシンクに傾倒したし、また多くの影響も受けた。

これと共に社会主義傾向の劇が現れていることも、また見逃せない。広い意味における政治劇は、特定の様式概念であるというより価値指向的であり理念的な概念であって、現実政治と政治的なビジョン、政治批判と風刺、政治意識と理想の表出、社会階級間の複雑な葛藤、そして同時代人の政治への多様な関心と意志を幅広く収斂しながら、それらの政治間題を演劇という芸術的な方法で具現させる一連の行為を幅広く指す。しかし、ここで言う政治劇とは、主として20世紀初めからロシアとドイツを中心とする東ヨーロッパ圏でだんだん勢力を伸ばし、1920年代にピークに達したマルクス主義に基づくプロレタリア演劇を指している。韓国の場合、当時は労働者・農民運動の成熟しつつあった段階で、プロレタリア演劇は革命の理念を支持・実践しようとする同時代のインテリ層演劇人たちによってリードされていた。1919年の3・1独立運動後、この地にも左翼性向の労働者・農民・青年などによる団体が続々と桔成され、1924年には統合機構の朝鮮労働総連盟が発足した。こうした状況のもとで、カップ(KAPF)、すなわち「朝鮮プロレタリア芸術同盟」が1925年8月に組織されることになる。そして、このあと1931年3月には朝鮮プロレタリア演劇同盟が発足するが、同年8月と1934年の8月、2回にわたってカップは大検挙に見舞われて解散の羽目となってしまった。その間に、移動式の小劇場運動を通してカッフの演劇理念を実践した劇団新建設の活動もあるにはあったが、外国の軍国主義が支配する植民地下のプロレタリア演劇運動は結局潰される宿命を背負わされていたと言える。

日本帝国主義が植民地を締めあげるなかで、太平洋戦争に突入した1940年代になってからは、いわゆる国民演劇を強いられる。国民演劇とは、日本人も朝鮮人もすベて日本の国民だという「内鮮一体」の観点から、日本が目標とする大東亜共栄圏なる新体制運動に朝鮮人を組み入れて動員しようとの目的から日本語をも採り人れた、いわば意識改造演劇のことである。朝鮮人も「内鮮一体」精神に基づいて天皇の臣下である日本国民となって、日本の勝利と繁栄のために奉仕し犠牲となる演劇にしなければならないというのである。こうして、1940年10月に「国民総力朝鮮連盟」が組織され、次いで同年12月には「朝鮮演劇協会」と「劇作家同友会」が結成される。このあと、終戦一年前の1944年7月、朝鮮演劇協会と朝鮮演芸協会(楽劇・唱劇・漫談・サーカスなどを総括)が朝鮮芸術文化協会に統合されてからは、ごく少数の者を除いて演劇人のほとんどが植民勢力がリードする親日的な官製演劇運動に参加し活躍するようになる。劇作法の技巧を凝らして観衆の興味をそそらせ、また台詞にも日常的な言葉にするなど工夫はしているものの、彼らの演劇活動の反民族・反芸術的な性格は覆い隠しようのない代物だった。そして、ほどなくして民族解放の日が訪れた。上海臨時政府を筆頭にして民族の独立運動がなかったわけではないが、結果的に民族解放は連合国の勝利によって外側からもたらされ、それも国土の分裂という不測の事態が展間されたことから、解放を迎えた瞬間から混乱と葛藤が現れるほかなかった。演劇も例外ではなかった。

2

解放(1945.8.15)から大韓民国政府樹立(1948.8.15)までの3年間は俗に「解放空間」と言われているが、この期間が当時確執を繰り広げていた勢力のうちどれもインシアチブを取れなかった一種の空白状態だったことを意味するとすれば、当を得た用語と言える。迫害していた勢力が衰えてしまった瞬間、それまでもっともひどい迫害を受けていた集団がもっとも盛んに活動するのは自明なことである。演劇の場合、1920~30年代に社会主義傾向の劇の活動をした左翼系演劇人は、日本の降伏のニュースに接するやいなや朝鮮演劇建設本部を結成する。文学・音楽・美術・映画など各部門の同調組織が朝鮮文化建設中央協議会を結成したのは1945年8月18日、即ち解放3日目のことである。組織内の過去の親日演劇人に対する批判とこれをめぐっての分裂もあったが、朝鮮共産党の勧めで朝鮮演劇同盟に再統合される。その中で38度線を越えて北へ行く越北演劇人が続出することになるが、特に1947年8.15記念公演準備中に大検挙令が下り、また朝鮮文学家同盟が閉鎖されてからというもの、越北の行列はさらに長くなっていった。右の陣営も左に劣らず組織化を急いだが、1947年10月全国演劇芸術協会を結成して、やっと朝鮮演劇同盟に対抗する右寄り陣営のまともな演劇組織ができあがった。1948年に左翼演劇人たちが催した三・一節記念演劇祭に対抗して6月に開催した全国演劇競演大会は、全国劇芸術協会がオペラ協会と協力して新しく発足させた韓国舞台芸術院の主催によるものだった。そして、過去の親日的な活動のため鳴りを潜めていた演劇人らが米軍政の庇護のもとに、長いこと練ってきた技巧を再び披露する機会を与えられた。

1948年8月、大韓民国政府の樹立に次いで9月、38線以北に社会主義政権が樹立されると、南の韓国では越北や転向の騒ぎも一応収まって演劇界が右寄りの勢力によってまとめられる。1949年10月、植民統治未期の親日的な行動のため排斥されていた柳致眞(ユ・チヂン)が初代国立劇場長に就任したことは、このことを象徴的に物語っている。1950年6月、北の共産軍の侵入により民族相争う悲劇が発生するに及んで、やっと4月にオープンした国立劇場は開館記念公演中に閉館を余儀なくされた。国立劇場が戦争中に再建され、ソウル奪還後の1954年6月、ソウルに政府が避難先の釜山から戻るに及んで活動を再開する。そして、ほどなくして国立劇団が結成され、ここで韓国演劇界は戦後時代を迎えることになる。時が時だけに反共ものの演劇が多い中で、新進作家たちが登場し60年代の土壌づくりに励む。

この時期の特徴として取り落とすことのできないのは、米軍政のもとでアメリカの愛国劇と反ファシズム劇が流行り、韓国の演劇に少なからぬ影響を及ぼしたということである。米軍政は公報院を通じてアメリカの作品の公演を後援したりした。オ二ールらアメリカ人作家の作品が上演され始め、また指導的な演劇人のアメリカ視察が相次いだ。こうした頻繁な接触による実りの一つが、1962年にロックフェラー財団の後援で建てられたソウルのドラマセンターである。ここでミュージカルをはじめ主にアメリカの戯曲が上演されたのは、むしろ当然な成り行きだと言える。しかし、この劇場は観客の入りが振るわぬことから少なからぬ負債を抱えたまま1年余りで閉館してしまった。間館中に6編の作品が公演された。

1950年代の韓国の演劇で特記すべきことは、演劇界の停滞に新たな突破口を間いた制作劇会(1956年)の発足である。大学劇出身のメンバーからなる製作劇会の発足は、60年代の韓国演劇界を決定づける同人制劇団の続出につながっていく。これらは戦争経験をも踏まえていて不条理系の劇を国内に紹介したり、世代間の葛藤関係を示すドラマを好んで公演して新たな気風を演劇界に盛り上げようと熱意を示す。しかし、TVが登場するに及んで演劇人の演劇離れが進み、演劇界は全般に活気を失う。そうした中にも、大学劇は演劇・映画科の設立とともに活発になり、またこの科は演劇人力を尽きることなく供給する泉となった。

芸術分野のうち特に演劇は、それが持っている協業的な性格のため時代に対する反応が多少遅れがちである。1960年に李承晩政府の不正に抗議して起こった学生革命が政権を変えてはおいたものの、政治家たちが分裂と反目を続けている中で翌年の1961年には軍事クーデターが発生する。このクーデター勢力は、そのあと民政移管を事実上拒否して学生たちの激しい抵抗にぶつかる。時の朴正煕大統領は、一方では再び日本を引き込んで産業化をゴリ押しに進め、開発独我を合理化するため「韓国的民主主義」を標傍した。政治的な弾圧が続く中で経済は発展し続け、消費生活に村する社会的な欲求も増幅する。TVは、まさに新たな社会的な欲求を満たすものの一つであった。こうした変化に対する演劇側の反応は、ほば1970年になってやっと現れ始める。もちろん1960年代にも民主主義的価値を擁護するような内容の演じ物が全くなかったわけではないが、1970年代に入ってやっと抵抗的な性格の演劇運動が広がるようになる。また、1974年には政府が文芸振興事業に取り組んだことが契機で、韓国文化のルーツ捜しがいろいろな方式で展開される。抵抗勢力の反体制圏が伝統の民族劇の再発見に向けた作業もルーツ捜しの一つである。

1970年代は、また演出の技法が多様になり、実験的な作業の成呆が顕著に現れる。さらに小劇場が本来の役目を果たした年代であった。1970年代は、ひと言で韓国演劇の跳躍期であったと言える。評論活動が活発になったのも、70年代であった。

3

1980年代の韓国社会は物質的なゆとりと政治的な安定を謡歌したかにみえるが、実際は軍事独我による不均等な分配と搾取、反共公安政局や外交的な対外従属など、1960年代以来抱えていた諸問題が一層深刻になっていた。そしてそれは1980年の光州市民の民主抗争がシンボリックに示しているように、いつ爆発するかしれない不安な火薬庫を抱えていた。演劇界は量的に膨らんで多様化と大衆化を果たし、いわゆるマダン劇(広場の演劇)を中心とした抵抗的な演劇運動もまた活発に繰り広げられた。1981年には公演法が改定され、公演者の登録が事実上自由化するなど小劇場許可の制限が大幅に緩和される一方で、表現の自由制限と検閲はかえって強化されるというアンバランス現象が現れた。しかし正統性の間題でいまなおやり玉に上がっている、いわゆる第五共和国(全斗煥政権)の中心勢力は、政権の「正当性」を示す目的から第三世界演劇祭(1981年)やソウル・オリンピック(1988年)の国際演劇祭に肩入れした。ところが、皮肉なことに、後者は韓国でタブー視されていた社会主義圏の演劇世界を開放する契機を作ることになった。権威主義的体制は、日増しに高まる民主化の波に逆らえなかったのである。かといって、反体制圏のマダン劇がことさら成長したのでもない。権威主義政府の政治的弾圧が厳しかったときに比べ、民主化が進むにつれてマダン劇への熱はむしろ冷めてきている。

もう一つ、1980年代の変化のうち見落とせないことは、演劇界が多様化と大衆化に進んでいる中で、創作劇の比重が相対的に高くなってきたことである。こうした現象の背景としては、おおよそ次のようなことが指摘できる。第一に、1980年代は韓国の演劇全般にわたって韓国社会の現実に対する関心が大きくなったということ。第二に、1970年代以来、伝統的様式の継承への関心が引き続き高かったこと。第三に、大韓民国演劇祭(1977年発足)など創作劇に向けた制度的なテコ入れがあったこと。四に、TVやビデオなどを通じて欧米式ドラマを見慣れた観客が、演劇では不慣れな翻訳劇よりも自らのものを望んでいたことである。だからといって、翻訳劇の需要が全くなくなったわけではない。とくに、国内の政治状況に対する間接的な批判の手立てとして南アフリカの体制抵抗的な作品やイタリア民衆作家の作品が公演されており、ハントケとべケットの作品を通じて実験的な作品の不足による渇きをいやそうとする試みも行なわれた。解禁になったブレヒトに対する関心も注意を引く。またブロードウエー流のミュージカルものが引き続き製作されて観客を集めたが、これは創作ミュージカルにつながっていく。1980年代の演劇の大衆化と観客の拡大では、いわゆる女性演劇の役割も無視できない。主として劇団「サヌルリム(山彦)」が指導的な役割を呆たしてきたが、フェミニズムを標傍した演劇は根気強く引き続き公演されている。青少年劇もやはり流行りはじめた。

1980年代の韓国の演劇は、このように多彩である。そこで、もう一つ特徴的なものを挙げると反体制圏の「民族劇」がある。民族劇運動は、主に大学の演劇サークル中心の活動から出発して新たな様式を作り出した後、全国の労働現場や労働争議の現場を中心に活発に繰り広げられた。この運動は伝統の継承という面からも、また当面した現実間題の演劇的な受容という点からも一つの代案演劇的な機能を呆たしたと言える。それは、また世界的なレベルからみるとき、20世紀後半の冷戦状況のもとで第三世界の民衆劇と呼吸をともにするという特徴をも持っている。すなわち、わが国の民衆劇も一般化して言えば西欧帝国主義列強による被支配と西欧列強の間接的な影響力による経済の従属、軍事独裁支配といった共有の経験が下敷きとなっている。こうした経験のある国々で生まれた反帝国主義的な民衆劇一般がそうであるように、韓国の「民族劇」も欧米的な文化にひしがれた自国文化の伝統を民衆側に取り戻して、文化帝国主義から解放させようとする意図を共有する。こうして、次のような新たな演劇美学的特徴が現れる。踊りや歌を大胆に取り入れ、ストーリーよりは状況中心に構成する。また人物を類型別に誇張し、時間と空間の縮小と省略を自由に行ない、劇場も舞台装置も簡素にする。さらに、観客の反応を積極釣に引き出し、叙事的な解説者をしばしば登場させる。「民族劇」の定義については「民主化と国土分断克服による統一を当面の民族史的悲願とし、この悲頑の実現に携わる一切の演劇芸術」とし、また演劇の目的については「民族の当面の課題を解決するため隠蔽・歪曲された民衆的な事実を明らかにし、これを民衆的な展望と世界観の中で形象化する演劇行為の一切」と述べている。換言すると、伝統文化との様式的なつながりを模索していた初期とは違い、政治的理念を優先しているのである。社会主義的な内容を民族的な形式に盛った、いば「主体」芸術を目指すものとも言われているが、スターリン主義の政治権力によって独占的に庇護されている北韓の革命劇と、数多くの演劇団体の一つとして白らを維持している韓国の民族劇を同列において比較するのは無理であろう。筆者は「民族劇」が統一に向けた演劇の模索にプラスになると思っている。

1990年代になって韓国の演劇界はいろいろな挑戦にぶつかっている。いわゆるポスト・モダニズムの上陸とも無関係ではないが、混乱した状況の中で「民族劇」系列は活力を失いかけている。また、映像媒体の多様な展開も演劇にとっては脅威となっている。しかし危機は、いま一つの機会を意味する。長い歴史を持つ演劇は、関連ジャンルの発展を吸収しながら自らの生命力をさらに強健に育んでいけるからだ。こうした対応はいわゆる世界化にも結びついているだけでなく、文化的なアイデンティティと発展というテーマとも緊密に関わり合っている。近くは単細胞的に引き継がれてきた北韓の演劇を取り込み、世界的には文化的なアインデンティティによって、人類文化の発展に貢献できる方策を模索することこそ21世紀を迎える韓国演劇の最大課題といわざるを得ない。

© 金文煥(キム・ムン-ファン)&季刊KOREANA / © 岡本昌己(SPAM対策:*を@に置き換えてください)