韓・日演劇交流の新しい章を開く 李潤澤(イ・ユンテク)
このドキュメントは2002年12月21日にソウルで開催された韓・日演劇交流セミナーの会場で配布されたドキュメントの「韓・日演劇交流の新しい章を開く」(李潤澤/演戯団コリペ代表&演出家)を翻訳したものです。著作権は原著作者にあり、翻訳の責任は岡本にあります。

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1.日本人による韓・日演劇交流の事例

韓国と日本の演劇交流は日本側の積極的な接近と努力によって始まったと言えるであろう。60年代の圧倒するような維新時代 [訳注:朴正煕大統領の統治期を言う] に日本小劇場運動の風雲児唐十郎が来韓して金芝河と交流しつつ西江大学の校庭で自身のテント芝居を披露し、86年アジアゲーム文化行事の一環として鈴木忠演出の『トロイアの女』が文芸会館大劇場公演を通じて紹介された。当時、演出も演出だが女優白石加代子の驚くべき発声と表現能力に、韓国の演劇人と観客は衝撃を受けたのだった。これに続いて太田省吾の沈黙劇『水の駅』が日本の現代演劇の美学的水準を証明したし、漢江の川辺で公演した新宿梁山泊の『人魚伝説』は、集団アンサンブルのエナジーと情熱を解き放った。90年代初期まで日本の現代演劇を眺める韓国人たちの視線は驚異そのものであったし、相対的にうらやましさと萎縮感を感じたのだった。

これに比べて韓国演劇の日本への紹介は、その規模や財政面で零細性を免れなかった。金正ト(キム・ヂョンオク)氏の『』を嚆矢として90年代から劇団木花(代表:呉泰錫)の『春風の妻』や『火の国』、演戯団コリペ(代表:李潤澤)の『オグ』や『サンシッキム』などが日本で披露されはじめた。このようなことから平田オリザの『ソウル市民』などが韓国の舞台に紹介され始めたが、日本側の積極的な企画力に比べて韓国側は企画・広報面で消極的な立場だった。日本の代表的な歌舞伎『忠臣蔵』が国立劇場で公演を行ったが、韓国人の関心を引かなかった。日本演劇界のベスト作家であるキム・ボンウンの演劇祭 [訳注:1999年のつかこうへい特別公演] は韓国の言論・批評・観客から完全に疎外された。日本演劇に対する韓国側の消極性は韓・日両国間に横たわっている歴史的被害意識と関係が無いわけではなく、これによる警戒心と目に見えない排他的雰囲気が存在していたためだった。しばしば文化侵略という用語が使われ、呉泰錫(オ・テソク)氏は倭色という汚名を着せられもした。日本を行き来したことから日本の粗雑な小劇場演劇の影響を受け、作品が騒々しくごたごたしているという式だった。

筆者は92年に文化芸術振興院の海外演習基金を受け、日本の小劇場演劇一編を日本で直接演出した経験がある 。劇作家は岸田理生で俳優は韓国人俳優に鄭東淑(チョン・ドンスク)と河龍夫(ハ・ヨンブ)、日本人俳優として宮城聰・美加理・近藤弐吉・村松恭子らがそれぞれ母国語で公演する形態をとった。反応が良くて93年に再公演を行い、ニューヨーク、シアトル、サンフランシスコ巡回公演を行った。ソウルでも公演を行ったが、惠化洞演劇実験室一期同人「Perspectiv 94」展の最初の作品『セオリチョッタ -歳月の恵み-』がこれである。アイロニーなことにこの作品こそ日本人作家が書き日本人俳優を主軸にした演劇だったが、倭色という言葉を聞かなかった。それまで韓国演劇界は倭色に対する排他性が澎湃としており、これもまた文化的被害意識と無関係では無かった。

その後、筆者はいっとき日本との交流を中断し、ドイツやロシアなどヨーロッパに目を向けた。わざと日本公演を忌避した理由は、日本側や韓国側相互間の情熱と努力に比べて財政的被害が激甚であり(特に日本側の)、文化的没理解と排他的な雰囲気のなかでの文化交流という名分は意味が無いと判断したためだった。しかし90年代中盤を過ぎてから日本側の積極的な交流努力によって演戯団コリペの『サンノモ、ケトンア』が飯田フェスティバルに参加し、『ハムレット』は東京芸術劇場での上演と二ヶ月間の日本列島巡回公演を行ったし、鈴木忠の利賀演劇村では『ハムレット』と平田オリザ作・演出の『ソウル市民1919』、そして宮城聰演出の『オイディプス』がともに公演やセミナー、ワークショップを開催したりした。その過程で二回目の韓・日合作劇『ロビンソンとクルーソ』を山口県秋吉台芸術村で初演し、日本国内の4ヶ都市巡回公演を行った。しかし90年代中盤以降の日本公演は交流というよりは主に一定のギャランティを得ての公演や依頼を受けて戯曲を書き演出を行う等、産業的性格を帯びて相対的に言論媒体や演劇界の関心から疎外されていた。もちろん日本の演劇人には持続的な関心の対象となったであろう。日本の演劇人たちは足繁く来韓して筆者の新作を観覧し、その消息を日本の新聞雑誌を通じて紹介をしたりもした。筆者はそのほかに演技訓練ワークショップも3回行った。しかしこのすべての日本との交流は、日本人による企画であり招請だったのである。

2002年10月、日本で編集された韓国現代戯曲集に金光琳(キム・グァンニム)・李潤澤・朴根亨(パク・クニョン)・゙廣華(チョ・グァンファ)そして張鎭(チャン・ヂン)の戯曲が掲載された。日本人の韓国演劇に対する関心はいまや戯曲翻訳の段階に至っており、その関心はまた同時代の若い劇作家たちにまで及んでいるわけだ。いまや小劇場演劇のみならず、いわゆる新劇世代と称される中堅演劇人たち、ミュージカルや児童劇などの公演芸術全般にわたって交流が本格化しているわけである。

2.国家主義が残した文化の歪曲

いままで韓国と日本の関係をあらわす社会的象徴として「コキリパプトン(象印電気釜)」があった。韓国人たちは日本に対する(正確に言うと日本国家主義に対する)歴史的被害意識があった。「米国を信じるな、ソ連に属するな、日本が立ち上がる」。この言葉は開放とユギオ動乱を経た韓国人たちの、周辺強大国に対する被害意識を端的に表現した俗語である。日本がいつか立ち上がってどんな方法であれ、再び韓半島を侵攻して来るであろうという不安感が韓国人の意識の中に深く根ざしている。したがって韓国人は日本に対する排他的感情を公然と表現することをお決まりとした。このような歴史的排他性のために、日本の文化は韓国の立場から近くて遠い異邦文化の性格を帯びた。可能ならば日本と距離を置きたがり、日本の文化が国内に流入しないように文化的障壁をめぐらしたわけだ。このような韓国人の根深い歴史的排他性に比べ、非公式的な生活文化圏では日本の製品が韓国人の日常のいたるところにしみ込んでいる。コキリチョンギパプトン(象印電気炊飯器)やソニーの電化製品、流行に乗ったファッションなどが韓国人の日常の中にしみ込んでおり、テレビ番組や大衆歌謡、新聞雑誌の編集構成が日本のものをちゃっかり模倣する風土が蔓延した。公式には排他的敵対感を示しながら、非公式には日本の大衆文化を模倣する二律背反的態度が前時代的韓国文化の様相だった。

韓国演劇は19世紀末から20世紀に移り変わる歴史的な転換期に、すでに開化期演劇という美名下に日本の公演芸術様式に影響を受けており、日本の新劇が韓国近代写実劇の概念として直輸入される過程を経た。このような日本演劇の影響は大陸中国も例外ではなく、開化期時代の文明劇、そして続く戯曲様式はまさに日本の近代大衆劇と新劇様式から影響を受けたものだった。その点で韓・中・日の3国の近代劇胎動は軌を同じくし、その先導的位置にあったのは日本演劇だったことを否認することはできないであろう。にもかかわらず、ことさら日本演劇の影響圏を否認しようとしたのは、帝国主義として現れた日本国家主義に対する民族的被害意識と敵対感が、文化的歪曲と遮断を助長した結果によるものである。このような点で東北アジア三カ国の近代劇の胎動は開化期の翻案啓蒙劇(中国では文明劇とも命名)と新劇・話劇・正劇などの公演様式として展開した。

1950年代以降、60年代末に至る過程で西欧の多様な公演様式(不条理劇・叙事劇・英米モダニズム劇など)が東北アジア三カ国に紹介されたが、その公演様式的特性は新劇様式のリアリズム的演劇論が適用された公演ものがほとんどだった。ここで演劇ジャンルと公演様式の不一致があらわになり、不条理劇は意味伝達がうまくいかない曖昧模糊とした演劇に、叙事劇は図式的な感情の同化と異化によって区別される演劇のように扱われた。それほどまでに韓国演劇や日本演劇は、しばらくのあいだ新劇あるいは正劇という名前で展開したリアリズム的演演劇論が支配的な雰囲気を成しており、ここに西欧現代劇の近代写実劇的受容で現れる公演様式の不一致を経験することになる。

3.韓・日現代演劇交流の事例

新劇様式とは異なる独自の民族的様式であると同時に、同時代的真実を表現できる現代演劇は小劇場運動を通じて展開された。日本は60年代に早稲田大学前の銅羅摩館小劇場運動で始まった鈴木忠の作業、寺山修二の演劇実験室作業、唐十郎のテント劇場作業などを通じて新劇と区別され、日本的であると同時に現代的な実験演劇が登場した。韓国では金芝河(キム・ヂハ)・林賑澤(イム・ヂンテク)・蔡ヒワンらが展開したマダン劇運動、南山ドラマセンターを中心に柳徳馨(ユ・ドキョン)・安民洙(アン・ミンス)らが展開した伝統の解体と再構成作業、金正ト(キム・ヂョンオク)の集団創造作業、許圭(ホ・ギュ)による伝統の再創造作業などが独自の公演様式を探し出した第一世代の演劇作家たちだった。近代性を克服しようとするこのような一連の韓・日両国の動きは、しぜんに自国の民族的伝統と同時代的公演様式的特性をさらけ出すことになり、これによって共有することのできる現代的演劇性をお互いの間で発見することになったわけである。日本の演劇人は韓国演劇を理解しようとする方向、あるいはまたこのような一連の韓国演劇の独自性を発見し、理解しようとする方向に展開した。

日本現代劇の第二世代とされる太田省吾は自身の沈黙劇『水の駅』を披露して後 [訳注:転形は1988年に釜山市民会館とソウルの現代(ヒョンデ)トアートホールで『水の駅』を上演した] 、韓国演劇に対する持続的な関心を持ち続けた演劇人だった。第二回東京国際演劇祭芸術監督として『オグ』 [訳注:演戯団コリペ(李潤澤演出)によって東京芸術劇場で上演された] を招請し、近年は韓国に来て自身の戯曲『更地』に韓国人俳優を出演させて演出を行った。いま日本の現代劇の第三世代と言える平田オリザは逸早く延世大学校語学堂に韓国語を学び、『ソウル市民』『ソウル市民1919』など、韓国と日本の歴史的関係を扱う作品を続けさまに発表している。特に『ソウル市民』は日本の俳優全員がソウルで韓国語による公演を敢行した。しかしこのような日本の現代の劇作・演出家たちの努力は、国内ではそのまま評価されなかった。演劇以前の、歴史的歪曲による文化遮断の壁がさほどに高かったわけである。しかし相対的に日本側の企画・招請による韓国現代演劇は、日本にありのままに知られていた。90年代初期から呉泰錫・李潤澤・金亜羅(キム・アラ)などの韓国現代演出家たちの作品が次々と日本の小劇場演劇界に紹介され、比較的直裁的な評価を受けたわけである。近来には元老演出家林英雄(イム・ヨンウン)の『ゴドーを待ちながら』とミュージカル『ギャンブラー』が日本で良い反応を得ており、韓・日両国の劇作・演出家たちが共同作業を試みる方向に発展している。

いまや韓国と日本の文化的障壁はほとんど撤回されているようだ。日本映画が直輸入され、日本の大衆歌謡のファンが国内に生まれ、若い大学生たちのファッションは区別できないほどに至った。韓・日合作の国内テレビドラマで●●日本語が相当時間放映されたとして韓・日文化交流委員長である池明観(チ・ミョングァン)氏が抗議声明を出すほどである。このように放送(機関)の一方的で利己主義的な文化交流は逆機能を生むという警告であるわけだ。演劇もまた小劇場演劇交流の次元を抜け出て韓国の演劇・ミュージカル・児童劇などがきわめてしぜんに往来している。キム・グァンボや朴根亨などの若い劇作・演出家たちが日本に行って公演を行い演出も行っている。このような状況に到達したいま、我々はどのような意識と態度で韓・日演劇交流を進行させていかなければならないのだろうか?これが今日のセミナーの主題として設定されているようだ。

4.韓・日両国の演劇史に対する理解が前提にされなければならない

いままで韓・日演劇交流はおもに同時代作品を中心に企画・招請する形式をとった。当事者も個人企画者や劇場主、あるいは劇団側の個別的な趣向と親交による交流が主となっていたわけだ。そのせいで両国演劇の全般にわたった理解とはならず、客観性の欠如した部分が少なくなかった。同時代演劇のなかで必ず紹介されなければならない作品が抜け落ち、その反面、国内で評価を得ることのできないアマチュアリズム的公演ものが、韓国公演美学の代表のように日本に紹介される事例も無くは無かった。日本で開かれる多様なフェスティバルの中に韓国側と紹介されている公演ものを見ると、国内では見慣れない名前を目にすることもしばしばである。在日韓国人であったり、国内で評価されていない名前かと推測されるが、このような作品が韓国公演芸術の代表性を持つように公演される現象はきわめて危険であり、新しい歪曲を生み出す憂慮がある。韓・日両国の交流がありのままに行われるためには、両国の演劇史に対する全体的な理解が先行しなければならない。

まず伝統に対する理解が最初の一歩であろう。日本や中国には能や歌舞伎、京劇などの室内公演ものとして様式化された伝統美学がある。しかし我々の伝統は即興性と興が主流を成す野外公演的性格である。一人歌曲形式のパンソリがあるが、日本と中国に比べて伝統公演様式が不在のように感じられるのである。しかし日本と中国には伝統公演美学があり韓国には無いとする式の観点は間違っている。大きい規模の大陸的スケールを自慢する中国と、繊細なディテールが公演様式として現れる日本に比べ、我々の伝統公演美学は様式美よりも興と即興性により重きを置いたために様式美学が発展しえなかっただけである。これは互いの民族美学の独自的性格として理解されなければならないことである。我々の伝統公演芸術に様式美は欠如しているかのように見えるが、公演美学に対する原理と規則は厳然と存在しているからだ。このように伝統公演美学はおたがいに異なる独自性を帯びているのである。このような互いに異なる民族美学が相互比較および交流の対象となるわけだ。互いに異なる民族美学を理解して認めることから真正な交流は始まらなければならない。このとき初めて共存の関係が成立するのである

近代劇様式に至っては西欧近代劇の受容と自国の公演形式としての定着という課題を後に先にしながら伴うことになる。ここでは日本を通じて西洋演劇を学習したとする韓国演劇のコンプレックスはもはや意味は無い。中国も同じ境遇であったし、このような西欧異色文化の通路は第三世界的文化圏が歩んだ共通の道であったし、明治維新という近代化過程をまず歩んだ日本が少し先立っただけである。その点から韓・中・日三国の近代劇の受容は西欧演劇、特に近代写実劇や表現主義的演劇を東アジア圏がどのように自国の公演形式として受容したのかを比較・分析する演劇史的探求課題となるだろう。

現代演劇の場もまた自国の伝統と西欧美学の衝突という課題から同じ道を歩んだ。70年代の安民洙演出の『ハミョルテヂャ』が倭色という声を聞いたが、当時日本の伝統と西欧演劇を衝突させた鈴木忠や蜷川幸雄などの公演様式と比較され得る韓国演劇のバージョンだったために着せられた汚名ではなかったかと思われる。しかしニューヨークのラママ劇場へ行ってみると、いまだに安民洙演出の『ハミョルテヂャ』のポスターが保管されている。それほど「韓国現代演劇としてのシェイクスピア劇」として評価を受けた作品であることは間違いない。このように韓国近現代演劇は相互間の文化的障壁にもかかわらず共通の課題を抱いて互いに別の道を歩んできたのであり、その共通の課題が互いを理解する基準となり得たのである。しかし韓・日両国の民族的認識と情緒による、はっきりとした差別性が現れる場合もある。新宿梁山泊の『人魚伝説』は国内で全幅の好評を得たが、『少女都市からの呼び声』や『盲導犬』などは高い評価を得られなかった。作家が在日韓国人鄭義信(チョン・ウィシン)であり、その内容が韓半島から渡来した話を扱った『人魚伝説』は、認識と情緒面で韓国人に迫るところのある作品だったようだ。しかし唐十郎の一連の作品(『盲導犬』と『少女都市からの呼び声』)は認識と情緒面で韓国人にごたごたした印象を惹起させる作品であったようだ。日本では高い評価を得ている解体社の肉体の演劇が、国内では非難を受けた。なぜ人を裸にしておいて殴るつけるのかというわけだ。このような問題は両国の民族的伝統と生の様式が異なるところから生じる観点の差異として理解しなければならないだろう。しかし客観的美学と生の普遍性を扱った演劇は、どこであれ理解され感動を与えることができるという信念が両国の交流を可能にする。たった二人の俳優が登場して熱演した名古屋? [訳注:おそらく神戸の道化座のことと思われる] 所在の地域劇団の演劇が韓国の観客に新鮮な美学と感動を与える事例もあり、日本の児童劇が韓国の子供たちと批評家に感動を与える場合もあるためだ。

5.演劇学の交流が伴わなければならない

韓・日両国の演劇交流がありのままに行われれば両国の演劇学の開かれた関係が組成され、相互間の活発な論議と学習が展開されるであろう。韓・日両国の公演ものの交流は相当に活気を帯びながら進捗しているのに比べ、相対的に演劇学に対する理解と論議は欠乏している。きつい言い方をすれば、あれは日本演劇だから、あるいは韓国演劇だからという式の一方的な先入観のみがあり、相手に対する概念的規範が無い。このような式の交流は水と油の関係のように馴染まないものとなるばかりだ。例を挙げれば、現代英米戯曲を専攻したりドイツやフランスの演劇専攻者たちは国内で活発に活動を展開している。戯曲翻訳から演劇論図書の発刊、そして公演と分析に至るまで理論と実践の場が準備されているわけだ。これに比べて近くの日本演劇に対する演劇学的理解は幾人かの専門家や関心のある演劇学者に止まっており、韓国演劇の中心部に進入できないでいるしだいだ。日本で演劇学を専攻したり公演活動を繰り広げた当事者たちが、韓国で研究および公演活動の領域を確保し得ないでいることがその理由のようだ。この問題もまた歴史的先入観のせいにすることもできるが、中国演劇に対する理解もまた同じであり、歴史的先入観はここでは根本的な理由となりえないだろう。一言で言うと、それほどまでに韓国演劇が西欧演劇指向的であったということで、近くの東北アジア文化圏に対してはむしろ無関心で消極的だったという結論に達することになる。いまからでも日本演劇と中国演劇に対する関心と、共同探求の場が開かれねばならないだろう。これを通じて西欧演劇と異なる東北アジア文化圏の伝統美学を理解し、近・現代演劇に至る過程を比較・分析しつつ未来の演劇の方向性を提示できる道を探さねばならないだろう。

6.戯曲/演劇関連書籍の翻訳作業からはじめよう

未来志向的な韓・日演劇交流の実践的課題は翻訳作業である。相互の公演ものを招請し観覧する交流の段階はきわめて原始的な出会いの方式である。戯曲や演技、演出や舞台美学全般にわたる相互間の演劇的概念と、創作物を翻訳・紹介し、双方が自国の公演美学として自由に選択し受容できる道を開くときに交流は本格化する。韓国の演出家が英米戯曲やヨーロッパの古典を選択し公演するように、日本の戯曲を韓国の公演ものとして受容し公演できる与件が造成されなければならない。そして相互が他国の演技論や舞台美学が自国の公演美学として受容できなければならない。倭色と言うにはおあつらえ向きかもしれないが、それは演出家が自身の観点で受容できずに模倣や借用の段階に止まっているときの話だ。骨折って金を使い公演を行うために海を渡って来る前に自国の演劇的資産として適用することができるとき、創造的な演劇交流の場が開かれるのであり、その最初の段階が翻訳作業であることは多言を要しないであろう。

7.相互間の演劇市場性を確保していかねばならない

演劇交流が活気を帯びたものの中途で二の足を踏んだり消滅したりする理由は、根本的に相互依存的な交流方式のせいである。具体的な例を挙げると政策当局や企業の文化支援の恩恵を得られなければ、演劇交流の成立は難しいのがいまの状況である。日本は国際交流支援基金やセゾン文化財団基金、文部省の基金などの支援を受けて韓・日演劇交流を展開させてきている。韓国側も文化芸術振興基金、●●舞台制作支援基金などを受けなければ日本へ公演に行ったり日本側を招請することは困難である。民間次元での純粋な演劇交流は招請当事者の一方的な出血と犠牲を前提にする。これほどまでに、互いにやり取りする公演ものが市場性を確保できないわけだ。このような演劇交流は消極的な親善と名分だけであり、交流の歴史を記録するのみである。火花を散らす想像力の流通構造を通じて、相互間に刺激と活力を与えることのできる演劇交流を成そうとするならば演劇市場性が確保されなければならない。

1992年日本経済新聞の文化面に興味深い記事が掲載されたことがある。「いま日本演劇の演出家たちはどこにいるのか」という題目で書かれた記事の内容は、英国ロイヤルシェイクスピア劇団の演出家、オーストラリアの演出家やシンガポールの女流演出家、ひきいては韓国の演出家たちまで来日して演劇を作っているのに、さて日本の演出家たちはいま何をしているのかという叱責の記事だったと記憶している。このような記事は一見日本の演出家たちに侮辱を与えるように感じられるが、むしろ刺激を与えて作業意欲を培うエナジーとして作用するであろうことは間違いない。英国の●●●センターの公演プログラムを見ると蜷川幸雄が演出した『ハムレット』があり、ドイツの劇場街にはチリの演出家や日本人演出家、ブラジルの演出家たちの名前を発見できる。パリの劇場街へ行ってみるとまさに人種の博覧会のような雰囲気を味わうことができる。東欧圏の有名劇作・演出・舞台芸術家たちの相当数がフランスで作業を行っている。映画『●●』に乞食の老人役で出演した俳優はじつはドイツの演出家であり、彼はドイツの現役演出家の身分でパリに居住しながら演技と演出作業を行っている。サンドニ劇場にはポーランドの演劇人たちが居住して公演活動を繰り広げている。自国の演劇的資産と他国の演劇的資産が自由に往来しつつ相互競争性と多様性を提供できるとき、真の演劇交流の場は花を咲かせるのである。このときに期待されるシナジー効果は相当なものである。演劇人たちはもう少し広い活動領域を確保することができ、制作与件と収入源を多様に確保することができる。あわせて観客もまた、もっと多様な演劇に接することができるようになる。日本が韓国演劇の人力の市場となり、韓国が日本演劇の人力の競争力のある市場となれるとき、演劇交流は実質的な力を得ることになる。

あるいはまたこのように言うだろう。「また別の文化的従属が憂慮されはすまいか。それでなくても日本の大衆文化の被害が激甚であるのに、純粋芸術まで倭色が羽振りを利かせる世の中になるのではないか」。しかしこのような憂慮は韓国演劇の力量を良く知らない視角による、漠然とした被害意識というだけである。一方の文化が異なる方に比べて一方的に劣等であり、輸入ルートとなるときに該当する言葉であるからだ。筆者の判断では、韓国演劇はいまや日本演劇に対する被害意識と劣等感にさいなまれるほど虚弱ではない。最小限同等の立場と条件のなかで相互共存できると思えるからだ。演劇的力量がそうであったとしても現実的で経済的な条件は韓国が劣悪ではないかと反問するかもしれない。筆者の経験では韓国の演劇人や日本の演劇人、みんな貧しいことは同じである。当局の支援制作と後援ルートが、日本がより多様で数多いのではないかと査定してみることもできる。しかしそれほど日本は韓国よりも劇団も多く演劇人も多いし、日本による支援や後援は外国人や外国の劇団にも恩恵を与えている。中国公演に行って、このように問うたことがある。中国は共産主義国家だから国家から演劇支援がなされており、演劇人は演劇のみきちんと作っていれば良いのではないかと。その答えはこうだった。中国の歴史上、演劇人が食い扶持の心配をすることなく演劇を行ったことは無く、これから先もこのような窮乏の人生は永遠であろうと。金の心配や国家政策を論ずる前に、演劇人はみずからが開拓者的な意識で未知の世界に自国の演劇的想像力で拓いて出て行く態度が演劇交流の正しい道であると思える。

© 李潤澤(イ・ユンテク)&韓・日演劇交流協議会 / 翻訳:岡本昌己(SPAM対策:*を@に置き換えてください)