『劇芸術研究会と韓国演劇』 梁勝國(ヤン・スングク)
この稿は2000年10月27日と28日、ソウルの成均館大学で行われた韓日演劇比較学術シンポジウムでの発表資料です。著者である梁勝國(ヤン・スングク)先生から翻訳の許諾をいただいて掲載しました。この論文はより長大な論文の一部であり、まだ未完であることをお断りしておきます。

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1. 劇芸術研究会の成立と活動
  1-1 劇芸術研究会(劇藝術研究會)の運動基盤
  1-2 劇芸術研究会の公演活動
2. 劇芸術研究会の演劇運動論
  2-1 小劇場論
  2-2 観客養成論
  2-3 翻訳劇優先論
3. 公演方式の新たな摸索
  3-1 創作劇中心論
  3-2 大劇場と専門劇団論

1. 劇芸術研究会の成立と活動

1-1 劇芸術研究会(劇藝術研究會)の運動基盤

1931年6月18日から24日まで、劇映同好会主催・東亜日報社後援で開催された"演劇映画展覧会"が大盛況をおさめると、これに関わっていた人々は集まりを拡大し、その年の7月8日に"劇芸術研究会"を創立した。この劇芸術研究会(以下、劇研)は同年8月10日から23日まで"第1回夏期劇芸術研究会"を開催し、11月8日には直属劇団「実験舞台(実驗舞臺)」を組織する。この劇研組織当時の会員は尹白南(ユン・ベンナム)・洪海星(ホン・ヘソン)・徐恒錫(ソ・ハンソク)・李軒求(イ・ホング)・゙喜淳(チョ・ヒスン)・異河潤(イ・ハユン)・咸大勲(ハム・デフン)・張起悌(チャン・ギヂェ)・金晋燮(キム・ヂンソプ)・崔挺宇(チェ・ヂョンウ)・鄭寅燮(チョン・インソプ)・柳致眞(ユ・チヂン)の12名であった。

この時の劇研は"同人制"であったが、1932年12月の第2回公演の後"会員制"に変えて、同人以外の会員として金b燮(キム・グァンソプ)や朴龍(パク・ヨンチョル)など10余名を受け人れた。劇研初期のこうした人員構成から判ることは、劇研の海外文学派との関連性である。海外文学派は『詩文学』『文芸月刊』や、劇芸術研究会と関連した第4次構成分子たちに至ってその集団運動化が可能だったとすれば、特に劇研と関係した構成員とは李軒求・咸大勲・金光燮・徐恒錫・゙喜淳らとなる。したがって劇研が海外文学派の活動舞台であるという指摘は、すなわち彼らの活動を念頭に置いたものである。特に徐恒錫が劇研の運営の責任を負い、李軒求・余光燮・咸大勲・゙喜淳らが研究部を占めたという事実がこれをより確かに物語っている。

しかし劇研の会員のなかで演劇を専門に引き受けたのは、海外文学派を中心とした究部員たちというよりも、むしろ実践部に所属した洪海星と柳致眞であった。彼らが実践部に属することになったのは、洪海星ははじめから尹白南とともに劇界の先輩として待遇されたものであり、柳致眞は遅ればせながらも劇研唯一の劇作家として台頭したからである。このように非海外文学派に該当する洪海星と柳致眞がいたことによって、事実上劇研は劇団として運営され得たのである。

海外演劇あるいは劇作家の紹介以外に、同人制時代(1931・7〜1932・12)の演劇運動に関係した劇研会員たちの文章を読むと、柳致眞の活動がもっとも際立っており、それも多分に進歩的な演劇運動に対する実践の問題を主としていることがわかる。言い換えれば、劇研の中の海外文学派たちは単に海外文学の紹介の延長線上で演劇に関心を抱いていただけであり、それも演劇・映画に対するディレッタントな趣味域を越えていない。だから彼らは海外文学(演劇)の紹介以外には、せいぜい"演劇界の1年の活動の整理"にのみ努力した程度である。

このような劇研での柳致眞の存在は、その人員構成に見られるように初期には何の地位も得られなかったが、第3回の『土幕(トマク)』公演以後に"実践部"所属となった。これは劇研での柳致眞の位置が相対的に強化されたことを意味し、実際に洪海星が東洋劇場に移ったあと、柳致眞が劇研の演出を引き継ぐことになる糸口となったのである。演劇の本質や公演の実際的な側面に関する評論も、柳致眞と洪海星の文章を除くと、その他の劇研会員たちはほとんど残していない。洪海星の場合、「舞台芸術と俳優」(『東亜日報』1931・8・14〜9・26)や「戯曲論」(『新興映画』1932・6)などを残しているが、特に「舞台芸術と俳優」は演技論に関する当時の最大・最高の緻密な論理展開を見せた。

海外演劇の紹介においても、一般の劇研会員たちが公演作家や作品の解説に重きを置いているのに比べ、洪海星は「名演出家巡礼」(『東亜日報』1935/4/16〜28)でコンスタンチン・セルゲーヴィチ・スタニフラフスキー、マックス・ラインハルト、エドワード・ゴードン・クレイグ、フセーヴォロト・メイエルホルドなどを詳しく紹介している。これは劇研での海外文学派の存在は脚本の翻訳・紹介以上の意義を持ちえず、演劇に対する専門的な論議は洪海星と柳致眞にほとんど依存していたことを物語るものである。だからこそ洪海星の東洋劇場移籍後の劇研の運動方針は、柳致眞が主導していくことになるのである。このように劇研内で演劇に関する専門的理論を展開できる会員は、非海外交学派である洪海星と柳致眞のみであったという事実は、以降の劇研の活動の展開と密接な関連性を持つのである。

1-2 劇芸術研究会の公演活動

劇研の公演活動は大きく3期に分けるられる。第1期は主に洪海星が演出を担当した1932年5月から1934年12月までであり、第2期は洪海星が東洋劇場に移って後、主に柳致眞が演出を担当した1935年11月から1938年2月まで、そして第3期は劇研座と名称を改めて公演した1938年5月から1939年5月の解散までである。この期間中、劇研は合わせて24回の定期公演を持ったが、このうち創作劇が12編であり、翻訳劇が24編である。創作劇としては柳致眞の作品が6編、李無影(イ・ムヨン)が2編、そして李光來・李曙ク・金鎭壽・咸世徳の作品が各1編ずつである。翻訳劇はロシア作品が5編、英国とドイツ、アメリカが各4編、フランス3編、そのほかにアイルランド、イタリア、デンマーク、中国の作品が各1編ずつである。

劇研の出現は創立当時からジャーナリズムの注目を受けたが、特に1932年5月の第1回公演『検察官』(ゴーゴリ作)公演は、その真摯さによって朝鮮における真の意味での新劇運動の出発という評価を受ける成功をおさめた。こうして第1回公演で得た自信によって、劇研は第2回公演のひとつに表現主義劇である『海戦』(ゲーリング作)を舞台に上げたが、観客の水準を考慮に入れない台本の選択という点と、表現主義劇に対する理解と技術不足によって失敗してしまう。こうした失敗は第3回の『友情』(カイゼル作)でも再び繰り返された。このような批判に比して、第3回の『土幕(トマク)』は劇研最初の創作劇であり、これが当時の現実を扱っているという点で観客から大いに歓迎された。しかし『土幕』の公演が成功したのは演劇の完成度によるものでなく、その題材の現実性によるものだったので、依然として劇研の公演の水準は未熟だったといえる。

これに比べると、第5回公演作品の中のひとつである柳致眞の創作戯曲『柳のある村の風景』の公演は、

  1. 題材が良く、
  2. 現実を扱った創作劇であるという点、
  3. 劇の内容と演出者の態度が堅実であり、
  4. 演技者の演技が充実している点、

などで好評を博した。草創期から翻訳劇ばかり上演するという劇界の批判に対し、こうした『土幕』や『柳のある村の風景』の成功は、劇研の翻訳劇公演はあくまでも創作劇啓発のためのものであったと主張できる根拠となった。このような主張は劇研の活動が第2期を迎えると、公式的な内部の方針として劇界にはっきりと打ち出された。実際に劇研の第2期の活動(第8回1935・11〜第17回、1937・4)においては、総17編の作品(再公演含む)中に創作劇が10編と、翻訳劇より大きな比重を占めることになった。

しかし劇研のこのような創作劇公演の成果は、それほど満足のいくものではなかったようである。第8回公演の『真昼に夢見る人々』(李無影作)に対するさまざまな指摘や、同じ回の『祭祀』(柳致眞作)に対する"劇作家としての柳致眞は詩人として認めるが、演出家としての氏は素人と見た"という批評を見れば、創作劇公演が持つ劇作と演出・演技での技術的な末熱さは、依然克服されなければならない課題として残る問題点であることが判る。

こうした点は第11回の『姉妹』(柳致眞作)の公演である程度克服されるが、このような力量が第12回の『春香伝』公演を成功に導くひとつの要因となったと見ることもできる。『春香伝』の公演は府民館の1800席が不足して補助席200余席を準備する等の大盛況を博す、朝鮮史上初の記録的な成功を収めた。しかし、この公演はちょうど秋タ(お盆)シーズンと重なったために成功したという面があり、また『春香伝』は演劇であれ映画であれ、公演(上映)すれば成功する作品であるという点を考慮すれば、この『春香伝』の成功がすぐさま劇研の発展であると解釈するには無理があろう。また、この『春香伝』の公演は、柳致眞の持論である大劇場論がついに勝利を収めた結果であり、興行的にも成功したことにより、むしろ劇研が商業劇団化するより確実な契機を整えることになった。以後、劇研の商業劇団化はジャーナリズムからもそっぽを向かれ、劇研座に名称を変えた初公演(18回、1938・5)以外には、評論界の注目を全く浴びることができなくなった。

しかし劇研初期に『土幕』『柳のある村の風景』などの創作劇を上演したこと、そしてたとえ失敗ではあったが『牛』の公演を試みようとしたことなどは、劇研の民主主義演劇の指向を見せた面目として高く評価されなければならないと言える。また、このような劇研の活動を通して、柳致眞をはじめとする数多くの劇作家が輩出されたという事実は、韓国戯曲史(演劇史)をより豊かにしてくれたという明確な意味を持つ。特に彼らのうち咸世徳のような劇作家は、最近になって活発に再照明されるほど秀でた文学性を見せており、劇研の創作劇公演は公演の技術的な面よりも、劇作家の輩出という業績をより強調されねばならないであろう。

"訳注:『牛』の公演を試みようとした"
劇研は1935年7月、第8回公演で柳致眞作『牛』を上演しようとしたが、練習中に当局から公演不可処分を受けたもの。『牛』は『土幕』『柳のある村の風景』とともに農村三部作とよばれる柳致眞の代表作。1935年6月、東京学生芸術座が初演にこの作品を選んだ。(徐渕昊『我々の演劇100年』 ISBN 89-323-1076-9)

2. 劇芸術研究会の演劇運動論

2-1 小劇場論

劇研ははっきりとした理念を持った演劇運動組織であるというよりは、同人制の"研究会"であったため、組織の綱領や行動方針が表明されたことはない。"新劇樹立"という目標のみがそこここに露見するのみである。この劇研の会員のなかで際立った批評活動を展開した者は金b燮・徐恒錫・柳致眞・李軒求・鄭寅燮などである。しかし彼らも劇研が掲げている新劇樹立の方案に対しては、具体的な公式見解を明らかにしたことはなく、単に個別に公演批評や演劇界回顧・展望などのエッセイを通して"朝鮮での劇文化の樹立"を主張するのみだった。

こうした新劇樹立論は、欧米の先進国が数世紀にわたって成し遂げた近代文明を、ここ朝鮮ではるかに短時日で成し遂げるには、翻訳劇の受容を通じた劇文化樹立が必須であるという主張に発展する。とすればこのような翻訳劇受容を通じた劇文化の樹立が、当時の朝鮮の現実の中でいかに可能であったのか。結局、彼らがぶつかった問題はまさにこの点に帰着するのだが、残念ながら彼らはこれに対するはっきりとした方針を確保できないまま、観念的な新劇樹立の主張のみを繰り返すばかりである。こうした観点から徐恒錫と金b燮の存在は、劇研の運動理論を確立しようとする実践的な模索を微弱ながら見せたという点で価値がある。彼らの実践理論とは、具体的には"小劇場論"と観客獲得論"である。まず徐恒錫の次のような言及を見てみよう。

『実験舞台の現在の劇行動は新劇運動前期に属するものである。現在においては研究的実験の過程から小劇場連動を臨時目標にしているが、その進取によってはすでに公言しているように、民衆劇運動の未来へ展開されるであろう。まず諸外国の劇文化の諸様相をある程度まで紹介する一方で、我々の生活と感情と理想をもっとも具体的に代弁してくれる力量ある劇作家の出現を促し、真正な我々の劇文学ないし劇芸術の樹立を見る時こそ、はじめて新劇運動は一段落つけたと言えるのである』(「演劇界の動向」『新東亜』1932/11)

この論理に従えば新劇運動の段階は前期と後期に分けることができ、その発展過程は"小劇場運動から民衆劇連動へ"と"外国の劇文化の紹介から我々の劇文学ないしは劇芸術の樹立へ"の二つに要約される。この時、二つ目の項目は翻訳劇優先論を開陳したもので、劇研の一般方針に該当するものでとりたてて新しい事項ではない。問題はまさに最初の項目、つまり小劇場運動から民衆劇運動への発展段階にある。新劇運動の初期段階として小劇場運動を主張しているのは、これは徐恒錫自身の演劇運動論の開陳であり、これによって劇研の運動方向はもう少し明確になってくる。このような小劇場論は1936年まで維持されたが、『三千里』が1937年1月号に載せた「新劇運動に関する私の構図」という設問で、李軒求・徐恒錫・金b燮らは、劇研の府民館公演が行われた時点でも依然として小劇場論を支持している。

こうした劇研の小劇場論の問題点は、小劇場運動というものが、彼らが最初から抱いていた啓蒙主義的演劇観とは本質的に区別されるべきものであることに気づかず、西洋演劇史の例に従い、近代劇運動のひとつの方便としてのみこれを受容したことにある。つまり西洋での小劇場運動は、浪漫主義の時期の大劇場公演を批判して演劇を民衆のなかに持ち込もうという運動であって、民衆を啓蒙する手段として演劇を利用しようというものではないことにまったく気づかなかったのである。劇研の演劇観もあくまでも明確な啓蒙主義の観点を越えられなかったのである。

2-2 観客養成論

ではこのような小劇場論に立脚して、どのようにすれば新劇を樹立できるのだろうか。それは興行劇の観衆とは異なる、新劇の観衆を獲得しなければならないという論理に繋がる。金b燮は「観衆試論」(『劇芸術』1934・12)で、近代劇の時代は単純に観衆が劇に陶酔する時代ではなく、劇と観衆が理智的・批判的につながる時代であるために、近代劇以後の新劇連動が観衆を獲得するのが難しいと説明した上で、したがってこれからは新劇の観衆を獲得するために観衆を研究しなければならないと主張している。

観客養成というのは、いちはやく1920年代に洪海星と金祐鎭(キム・ウヂン)が新劇運動の具体的方案として提示したことがある。さほど目新しいものではなく、また劇研でも観客養成という具体的用語を使ったことはない。これは劇研の実践活動において、観客に演劇(新劇)を知らしめようという目的と結びついたもので、演劇が存在しない社会で演劇を可能にするために、主に西洋の近代劇を紹介する啓象的次元で展開された。

劇研はこのための具体的事業として演劇講演会を開催している。第1回大会は1931年11月28日に開催されたが、講演の演題は、

などである。これを見ると西洋諸国の近代劇連動に重点を置いて講義がなされたことが判る。これは劇研の会員たちが演劇の本質論にアプローチする理論的水準に満たないという点や、西洋のものを紹介することによって、韓国での近代劇を創り上げることができるであろうという自分たちなりの判断によるものであると考えられる。

このあと1934年7月には"夏期女性短期講座"を開催しているが、この時の講座内容は、

  1. 世界女流劇作家論(異河潤)
  2. 演劇と観衆(金b燮)
  3. 近代劇論(李軒求)
  4. 世界の近代劇作家概観(゙喜淳)
  5. 世界の名女優伝(咸大勲)
  6. 近代劇に現れた女性(徐恒錫)
などで、金b燮の講座を除外すればやはり西洋の演劇を紹介するにとどまっている。このような啓蒙主義的な講座は1936年7月から8月の"夏期劇研講座"に至っては、演劇の現実問題がいま少し強化されたものに発展するが、この時の課目は、
  1. 古典劇と浪漫劇(李軒求)
  2. 近代劇と現代劇(金b燮)
  3. 劇場と観衆、戯曲論・俳優論(柳致眞)
  4. 舞台美術論(李相南)
  5. 朝鮮古代劇(宋錫夏)
  6. 朝鮮現代劇(徐恒錫)

などである。これを見ると、この時の講座は初期よりずっと充実した作りになっており、俳優論や舞台美術論だけでなく韓国の伝統劇に対するものまであって、1936年に劇研が強調した"創作劇中心論"の方針が多分に反映されていることがわかる。

このような活動から推してみると、劇研は学生を対象とした啓蒙的な演劇運動に多くの努力を傾けていたことがわかるが、実際に彼らは学生劇に間する評論を発表し、直接学生たちの演劇活動を指導・批評してやるところに積極的であった。しかし少数のインテリと学生層を除いた一般的な観客たちを、いわゆる観客として獲得するところには、はっきりした成果を得られなかった。このような限界は劇研が初期に一貫して主張した"翻訳劇優先論"の方法論が、韓国の現実を自覚した基礎の上にはっきりとした運動方針として提起されたものでないという点と、20年の歴史を持つ"興行劇"の影響力を一方的に無視してしまった優越主義に起因すると見ることができる。

2-3 翻訳劇優先論

劇研の公式的な演劇連動論がはっきりと闡明されたことはないが、彼らの劇文化樹立論において、しかしもっとも共通する論旨はこの"翻訳劇優先論"である。

彼らの翻訳劇優先論に違いがあるとすれば、韓国の演劇伝統をいかに把握しているかという点においてである。つまり韓国には歴史的に演劇の伝統が全くなかったため、ひたすら西洋式の演劇を紹介しなければならないとする極端な主張と、過去には演劇があったが今日では忘れ去られてたという主張だ。したがって一方ではこのような伝統劇を発展させつつ、西洋の演劇を受容しなければならないとする折衷式の立場がそれである。この折衷的立場を最初から唱えた論者は柳致眞である。柳致眞は彼の最初の評論である「演劇映画展を開催するにあたり」(『東亜日報』1931・6・19)で、自国の演劇の伝統を探すことに関心を持っていたが、このような彼の論理は演劇の大衆性を強調する場(「演劇の大衆性」『新興映画』1932/6)で、わが国の仮面劇を継承しようということに発展する。このような彼の立場は実験舞台の演劇活動が継続されるなかで、創作劇に対する関心に発展することとなり、これは後の第2期劇研の創作劇中心への転換論を引き出すことになる。こうした論議の延長線上で、柳致眞は翻訳劇受容はあくまでも創作劇を生み出すためのものであると主張した。

これに反して韓国の"演劇伝統皆無論"を掲げ、海外の演劇を受容しようという立場を主張した代表的な論者は李軒求と金b燮である。特に金b燮はこのような文化的な偏見によって、はなはだしくは外国劇の受容が韓国の劇文化樹立のための唯一の道であると主張している。

『我々にも仮面劇のようなものが歴央的に見てないこともないが、演劇の伝統と言えるものは全くないと言っても過言ではない。(中略)いったい演劇の伝統がなく、したがって劇を見たこともない人間が、どうして本を書くことができようか。(中略)だから劇がない社会に劇をあらしめる - 劇文化を生み出そうとするなら、劇のある国から劇を持って来なければならないということだ。このように移入されているのが批判の的になっている外国劇だ。最近朝鮮でも劇芸術研究会をはじめとして学生演劇に至るまで、驚くほど外国劇が上演されている。これは演劇ではなく、あるいは沈滞している社会にこれを振興させる、または樹立する唯一の道である。』(「わが国の演劇と外国劇の影響」『朝鮮日報』1933・7・30)

このように外国劇の上演が劇文化樹立の"唯一"の道であるという金b燮の発言は、プロレタりア演劇側の閔丙徽(ミン・ビョンヒ)からすぐさま批判を受けた。閔丙徽(「外国劇の移入だけで朝鮮の劇文化は樹立できるか - 金b燮氏に問う」『朝鮮日報』1933・3・18)は「朝鮮でも既に新劇運動が発起されており、多くの天才的な芸術家の努力で演劇は"新派時代"から"新劇時代""文芸劇時代""プロレタリア演劇時代"と、社会の発展と同時にその形態も変えつつ発展してきたし、発展している」という前提のもとに金b燮を批判した。

翻訳劇の上演に対する頭ごなしの批判は、文化受容の面で望ましいものではない。金b燮が"アイルランドが生んだプロレタリア劇作家であるオケイシーもシェークスピアに私淑した"として、(韓国の)プロレタリア演劇側の古典軽視を批判しているように、国家間の文化の流れを人為的に遮断する必要はない。問題は劇研が主張する"翻訳劇時代"の次にこそ"創作劇時代"が来るという段階論的立場と、当時まで朝鮮には演劇(創作劇)が存在しないとする前提に対する妥当性の可否である。

金b燮が翻訳劇受容の論拠として引用している築地小劇場の例をみても、築地小劇場の活動とともにその翻訳劇公演を批判する、いわゆる"築地小劇場論争"が起っている。それにもかかわらず築地小劇場が翻訳劇中心の方針を表明することができたのは、すでに"創作劇翻訳劇論争"のなかでの自由劇場の活動(1909〜1919)があったため可能だったのであり、あるいはまた1800年代末からの新派劇が存在していたから可能だったのである。こうして見ると、1924年に始まった築地小劇場の運動を1932年から韓国で試したのが劇研であるが、その運動の前段階として韓国にも10余年以上前から新派劇が存在していたことと、外国劇を上演した土月会の前例もあるため、その土壌はある程度形成されていたと言える。

しかし劇研は自分たちの公演の根拠となる、このような韓国での演劇の伝統を完全に無視してしまうという論理的な矛盾を犯したのである。すなわち過去を克服して新しい演劇を始めるというならば、当然その克服対象を実体として認め、それを批判することによって自分たちの位相を定立しなければならないにもかかわらず、特別な論理的根拠もなく、"朝鮮においての演劇の伝統は皆無である"と断定してしまった。これは1921年に玄哲(ヒョン・チョル)が犯した論理的矛盾を、ちょうど10年後にもう一度繰り返したわけである。

劇研が上演した翻訳劇のうち、築地小劇場のレパートリーであった作品は次の通りである。
劇研公演作品名築地小劇場公演
第1回(1932/5/4-6)『検察官』第25回(1925/4/1-10)、第56回(1927/1/6-16)
第2回(1932/6/28-30)『海戦』第1回(1924/6/14-18)、第3回(1924/6/28-7/2)
第3回(1933/2/9-10)『記念祭』第12回(1927/1/8-30)
第5回(1933/11/28-30)『ベニスの商人』第40回(1926/1/1-17)
第7回(1934/12/7-8)『桜の園』第21回(1925/2/1-15)、第59回(1927/3/4-27)、第83回小山内薫追悼公演(1929/2/2-24)
第9回(1936/2/28-3/2)『闇の力』第48回(1926/5/14-30)

この他に第3回公演ではカイゼルの『友情』、第4回公演でのショーの『武器と人間』、第23回ではシュニッツラーの『盲弟』を上演したが、これらの作家の別の戯曲が築地小劇場で上演されている。したがってこれらの作品まで含めると、劇研が上演した24編の翻訳劇のうち10編の作品が築地小劇場の公演と関係していることがわかる。特にこれらの7編の公演は『海戦』を除いてすべて洪海星が出演した作品であることが注目される。

劇研の翻訳劇のレパートリーが築地小劇場のそれと重複すること自体はそれほど重要ではないし、ましてそれが劇研の欠点とはならない。なぜなら世界的に優秀な戯曲であれば、国境を越えていくらでも繰り返し公演され得るからだ。問題は上のような戯曲を選択することになった、劇研の運動的な根拠が全く不透明であることにある。韓国での最初の翻訳劇上演が何であったかはっきりしていないが、1921年の劇芸術協会の巡回公演の時から既にはっきりした翻訳劇のレパートり一が確認されている。以後の土月会の公演においても同じ状況であるを見れば、劇研の翻訳劇上演はより明確な演劇史的根拠の上に成り立っていなければならないはずである。

たとえば1909年に日本の自由劇場が創立公演として選んだのはイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルグマン』であったが、これは当時日本で流行していたイプセンに対する熱気を反映したものであり、その後引き続き、『犬』(チェーホフ)、『夜の宿』(ゴーリキー)、『奇跡』(メーテルリンク)などの戯曲を上演している。あわせて、このように自由劇場が西洋近代劇を公演することができたのは、既に坪内逍遥によってシェークスピアの紹介が充分に行われていたためであるという点も見過ごせない。このような翻訳劇公演の環境が整っていたからこそ、築地小劇場の創立公演『海戦」は成功したのである。そのうえドイツで学んで帰国した土方与志がドイツの表現主義演劇に対して充分に知っており、1923年の関東大震災後の状況が、大戦後のドイツの状況と似ていることに主眼を置いた公演であったため、その成果はさらに大きかったのである。

これに比して劇研の翻訳劇公演は、その当為性が非常に微弱である。そればかりか、そのレパートリーの一貫性が欠如していることがより大きな弱点として指摘される。第2回公演『海戦』(1932・6・28〜30)のような表現主義的な公演が失敗したずっと後になって、第6回公演に『人形の家』(1934・4・18〜19)のようなリアリズム劇を上演することが、これをよく物語っている。こうした劇研の翻訳劇優先論はプロレタリア演劇だけでなく、"興行劇"側からも批判を受けることになり、けっきょく劇研は第2期の活動を迎えるに、劇研の内外に創作劇中心の活動方針を表明して方向転換を模索するに至るのである。

3. 公演方式の新たな摸索

3-1 創作劇中心論

1934年12月、『桜の園』の公演を最後に演出家洪海星は、1935年11月に開館した東洋劇場の専属として移籍した。その後は柳致眞が劇研の演出を引き継ぐことになり、いわば劇研第2期の活動が始まるわけだが、まさにその頃である1935年の夏に創立4周年を迎えた劇研は、創作劇中心に新劇樹立の方向を修正することになる。柳致眞は自分が創作劇を要求する理由を次のように明らかにしている。

『最近、我々の新劇樹立において創作劇の必要を、私は機会あるごとに力説してきた。私が創作劇を要求する理由は、最初に、翻訳劇の過食は我々の俳優の演技を台無しにしやすいことと、二つめに新劇と距離をおいている現在の朝鮮の観衆の処女地は、創作劇の力を借りずには到底広範な範囲に開拓することができないということを言ってきた。しかし以上の二つの理由は言ってみれば傍系の理由であり、我々の新劇樹立のためにはどうしても創作劇産出を図らなくてはならない根本的な理由は別にある。それは言うまでも無くわが国の劇作家を輩出するためである。つまり稚拙ではあっても我々の創作劇を上場して我々の劇作家を養成しない以上、我々の演劇の向上は枯死し、我々の演劇自体が"存在"し得ないからである。』(「創作戯曲の振興のために」『朝鮮日報』1935・8・3)

ならば、このような創作劇中心の方案は、はたしてどのように実践されたのであろうか。劇研の第2期活動の成敗はまさにここにあった。

柳致眞はこの頃、「歴史劇と風刺劇」(『朝鮮日報』1935・8・27)を発表し、歴史劇と風刺劇の創作を提案するが、これは『牛』の公演が不可能になった後、創作の方向を新たに模索しようとした方案のひとつであったことは周知の事実である。歴史劇と風刺劇は既に演劇界一般で活発に公演されていた創作のひとつの方向で、これはすんなりと劇研の方針として受け入れられたが、柳致眞はこのうち歴史劇により一層の関心を持つようになり、その方便として仮面劇・人形劇・唱劇などの伝統劇の受容を主張する。柳致眞はいち早く劇研初期から伝統劇に人一倍関心を持っていたところ、このような関心が劇研の第2期活動を迎えて歴史劇の創作とともに具体化され、これは『春香伝』の創作という形で結実を得た。

劇研は創立4周年を迎えて"創作劇中心"に運動方針を改めたが、しかし"翻訳劇優先"という当初の方針を完全に拾て去ったのではなかったので、翻訳劇の公演のための新たな模索も同時に行われることになる。そして、"翻訳劇というのは外国人の生活感情を描いたもので、わが国の観衆を感情的につかむことができない"と翻訳劇の弱点を指摘した柳致眞は、その打開策として次のような観衆本位論を打ち出した。

『我々は今後の翻訳劇をいかに観衆に近づけるかという問題に関して私はひとつの答えしか持たない。それは"観衆本位で"という一言に尽きる。これまでの我々の翻訳劇活動を振り返ってみると、主に原作に対する忠実!これが第一であった。(中略)であるので、その結果は観衆の不平に現れた。"我々(観衆)はこの劇を理解できない" - つまり、この不平はこれまで我々が観衆を顧みることなく、原作者が第一位とし(あるいは原作を尊敬する演劇人本位で)劇を舞台に上げてきたために生じた"ジレンマ"である。(中略)我々にいまだ優れた創作劇がない以上、どうしても我々は翻訳劇をもっと鑑賞しなければならない運命にある。この事実はどんなにいやでも拒否できない。したがって私は読者とともに暑さにもめげず、この文章を書いている。できるなら今後は我々の観衆を本位にした(朝鮮的な消化を主眼に)翻訳劇台本の制作と、その上演を企図してもらいたいものだ』(「演劇時評 - 翻訳劇上演に関する私考」『朝鮮日報』1935・8・27)

こうした柳致眞の見解は、劇研のこの間の翻訳劇公演に対する根本的な問題点を、いまだに認識できていないことを物語っている。したがって、このような観衆本位論に対する反論が李石薫によってすぐさま提起された。李石薫は"現在、朝鮮の観衆が新劇と距離をおいている理由に対して、柳致眞は単純に観衆に不親切であったためであると糊塗している"と彼を批判した後、その距離をおいている理由として単純な"不親切"ではなく具体的に、

  1. 外国の脚本の稚拙な翻訳
  2. 演技能力の低劣
  3. 演出能力の幼稚
  4. 稽古不足
  5. 舞台装置、その他舞台条件の不備

などを指摘した。これは既に沈勲(シム・フン)が実験舞台に対する批判として提起(「演芸界散歩」『東光』1932・10)したものをより具体化して繰り返し、劇研の公演活動が既に4年が経ってもいまだに初期の問題点を元服できないでいることを示すものである。

このように、劇研は第2期の活動を迎えるにあたって創作劇中心の方針を打ち出したが、その実践の成果は微々たるものであった。もちろん若干名の新人劇作家(李光來・李曙ク・金鎭壽・咸世徳)を発掘した点は高く評価されねばならないが、彼らの創作劇公演の大部分はそれほど注目されなかった。むしろ彼らの創作劇がこんにち戯曲としての文学性において高く評価されていることを考慮するなら、これらの作品を舞台化した劇研の当時の公演水準がさほど優秀では無かったことを類推できる。

3-2 大劇場と専門劇団論

1800席の大劇場である府民館での公演をきっかけに、柳致眞は"大劇場論"を本格的に開陳することになる。しかしこれは劇研の公式的な方針というよりは柳致眞の個人的な見解に近い。"新劇運動に関する私の構図"(『三千里』1937・1)という設問に、李軒求・徐恒錫・金b燮など劇研の他の会員たちが共通して、柳致眞とは異なり"小劇場論"を主張しているのを見れば良くわかる。柳致眞は上のアンケートで大劇場賛成の理由を次のように明らかにしている。

『小劇場連動というのは、それをもってある演劇形式が構成されるがごとくなっている現在?私自身がやっている演劇にも、この小劇場の影響が致命的に沁みついていますが、できることなら小劇場式演劇から抜け出せればと思っています。その理由は、小劇場演劇という演劇のひとつの実験室という意味ではたいへん尊敬できますが、小劇場が持つその舞台条件が、演劇の本質的生命を去勢してしまった感があるからです。演劇が持つ小劇場的な要素は完全に映画に譲り渡してしまい、今日の演劇が備えるものはその本然的な生命で満たされることです。現代において演劇が映画に押されているのは事実です。これに対する打開策は、現在われわれが持つ小劇場的な悪弊を拭い去るところから新しく出発しなければならないのではないかと思います。こうした意味で私は小劇場運動に対してはさほど希望を持てず、むしろ反対する者の一人です』

小劇場に対するこのような批判は、小劇場が持つ欠陥として大衆性の欠如という点を、度を過ごして意識したところに始まるものだ。小劇場的要素を映画的性格と規定する上のような言及は、小劇場演劇は大衆性が不足し、大衆性の不足は演劇よりも映画の特性であると判断したところに起因する。こうした柳致眞の発言から推して、彼は劇研の小劇場連動をはじめからそれほど信頼していなかったことがわかる。これは築地小劇場の演劇には関心がなく、劇研に適応するのに時間がかかったとする後日の回顧とも相通じる部分であると言える。このような点から柳致眞の観客本位論は、翻訳劇をもう少し親切に観衆に見せるための方便として提起されたものであるが、実情は上で見たような小劇場運動に対する否定的な視角で、劇研の経済難を克服するための"専門劇団"としての転換と"ロマンティシズム"の創作方法の模索などを意図した、彼の一連の演劇運動の構図にしたがって提起されたものである。

こうして観衆木位論と専門劇団の方針が、柳致眞の"リアリズムを基盤とするロマンティシズム"の創作方法と結びつき、その実現形態として『春香伝』が上演される。この『春香伝』の公演を前に劇研の会員たちは春香伝と歴史劇の問題についてあらためて関心を注いでいるが、"春香伝も新劇か"という批判もかなり激烈に提起されている。

このような劇研の新劇からの逸脱を合理化するための適切な用語として登場したのが、まさに柳致眞が言うところの専門劇団である。この専門劇団の意図は1935年度からはっきりと現われており、柳致眞自身も1936年4月の府民館公演から劇研が専門劇団化したと陳述(「今年度劇界概観」『照光』1937・12)しているが、内外に公式的に劇研が専門劇団として劇研が変貌したことを明言したのは、劇研座にその名称を変えた1938年4月からである。劇芸術研究会から劇研座への変貌は、劇芸術研究会から研究会という尻尾を取ってしまうことで専門性を強化したものであり、日帝によって無職者(演劇以外の職業を持たない者)でのみ劇団を構成するように圧力を受けたため、専業演劇人による組織としたものである。こうして、これまで副業的に参与していた劇研の海外文学派の文士たちは劇団を脱退することとなり、劇界を完全に去ることになったわけだ。この専門劇団とはどういう意味で使用されたのだろうか。

『劇研としては現在、第2期の活動に入ろうとしている。この第2期活動というのは劇研の飢立時代の目標において、初期には仕方なく我々の劇的栄養を外国劇から摂取しなければならなかったが、ある期限をおいて我々が独自の作品を打ち出す機会を待つことにした。そうして遂にその時が来たのである。すなわち今回の公演を機軸に、今後は劇研のレパートリーを創作劇にその中心(決して翻訳劇をやらないということではない)を置こうということである。これを我々は第2期活動と青う。つまり言うなれば今回の公演は第2期活動の関門というわけだ。この他に我々は劇研の公演を素人的結合から、技術者としての向上を今後は企図するつもりである。これはすなわち、将来は劇研の活動を素人劇から演劇専門劇団へと前進させようというものである』「劇芸術研究会第八回公演を前に」『東亜日報』1935・11・17)

このように既に1935年度から柳致眞は用心深く専門劇団という用語を使っていたが、上の文章を見ると、その意味を素人劇と相対的な概念として把握していたことがわかる。このようにそれまでの劇研の演劇を素人劇であるとはっきり呼んだのは劇研内部では柳致眞だけの規定であり、これを克服して専門劇団の活動をすることがまさに彼の演劇目標であった。

劇研の演劇が素人劇であるという規定は、事実上それまでの劇研の自負心を根こそぎ否定することになるが、これを押しても専門劇団としての道を選択せさるを得なかったのは、その根底に劇研は既にこの間の"研究会"的な活動だけでは既に存在意義を失ったという現実認識がこめられている。このような演劇の現実とは、1930年代劈頭とはまったく違ったもので、それは具体的に柳致眞個人的には創作方法論の修正という現実的制約と、演劇環境としては東洋劇場の設立による興行劇界の発展を意味している。このような現実のもとで選んだ劇研の方向が、まさに専門劇団という道であった。

このような劇研の専門劇団の概念は、けっきょく"職業劇団化"であることがはっきりしてくる。したがってそれ以後の劇研の活動は、結局は技術の問題において興行劇よりどれだけ優れているかによって、その成敗が決定されることになる。これは東洋劇場の開館(1935・11)以後、全盛期を迎えた興行劇に対応する唯一の方案であったろうが、1936年6月に劇研の俳優11名が脱退するなどの内紛を経ており、また『春香伝』以外には興行面でもさほど成功を収めることができなかったため、専門劇団への変身もその意味を失ってしまった。

その後、東京学生芸術座の李海浪(イ・ヘラン)、李眞淳(イ・ヂンスン)などの新人たちを演技者として迎え、19回(1938・7)の『目撃者』、20回(1938・9)の『覚めて歌え』(オデッツ作)などの公演に成功するなどの活動を見せたが、1938年の内紛以後の『カチューシャ』公演(1939・1)は、1920年代の土月会のそれと似たり寄ったりの通俗劇に過ぎないなど、劇研(劇研座)は商業化の道と新劇精神の間でさまよった。その後"東京学生芸術座事件"と関係した李曙クらを除名するなどの再起の努力を繰り広げたが、1939年5月の公演を最後に劇研座は消えてしまった。このような劇研に対する大衆劇界の演劇人、申不出の次のような批判を反芻することで結論に代えることとする。

『新劇団体が興行劇団の演劇を演劇ではないと見る理由のひとつは、興行劇団の演出法はすべて日本内地の新派式だという点にあるのだが、ならば興行劇団は新派式の演出法で演劇を行ってきたとすれば、新劇団体の劇団はいったい何式の演出法で演劇を行ってきたというのか?万一、青春座を興行劇団とするならば、興行劇団である青春座の俳優たちの抑揚と表情・動作と、新劇団体とかいう劇研の俳優たちの抑揚と表情と動作にどれだけの差異があるというのか。(中略)演劇の無い朝鮮に真正な意味の新劇文化の樹立を不滅の希願とするのが劇研であるとするならば、公演回数が増えていくことを自慢するのではなく、まさに新劇100年を企図する準備工作としての、ひとつのはっきりとした"朝鮮的な演出法"を既に持っているべきではなかったのか?』(「劇芸術協会に送る公開状」『三千里』1937・1)

© 梁勝國(Yang Sung-kuk)/ 翻訳 岡本昌己(SPAM対策:*を@に置き換えてください)