抑圧と開放の渦 柳敏榮(ユ・ミニョン)
このページは韓国文化院の発行する雑誌「韓国文化」1996年5月号の特集記事『韓国の演劇』を転載したものです。転載するにあたり、韓国人人名の表記に原文には無いふりがな(カタカナ表記)を加えました。

演劇の受難と同人制劇団

韓国の現代史は、圧政・分断・同族相憎・革命・軍事独裁などからなる渦そのものだった。そのはざまに狭まって存立してきた演劇が、まともに成長し得たはずがない。しかし演劇はそのしたたかな生命力で、今日までそれなりの位置を守っている。まず新劇が芽生えて発展したのが日帝植民地下だった。だから困難はつきものだった。新派劇をとっても、日本の三流劇団の影響下に成り立ち、本格的な新劇も日本留学生によって始まったものだった。よって韓国の新劇は、その多くが日本の新劇の発展パターンに似てくるしかなかった。そこから脱皮したのは結局解放後であり、1950年の「6・25動乱」を通して、すっかり整理し得たといえる。このように韓国の新劇は、苦しくも日本軍国主義の猛烈な弾圧下で屈折し、歪曲しつつ発展したのである。しかし分断と戦争はすべてを破壊した。演劇は新しく始めるしかなかった。それが他でもない、同人制劇団システムである。

実際のところ韓国は、東洋の主な国々と同じく農耕社会が長く統いたため、屋内劇場の発達がたいへん遅れた。劇場の歴史が浅いため演劇の発展が劇団中心になるほかなく、これはまさに前時代の流浪劇団の現代版といえた。たとえば同人制劇団時代の1960年代をとっても、全国で10余りの劇団が存在したが、それらが公演できる舞台はただひとつ、ソウルの国立劇場だけだった。したがって、ひとつの劇団が年に春と秋に一週間前後、計15回舞台活動するのがせいぜいだった。それほど持続的な活動が難しかったのである。さいわいアメリカのロックフェラー財団の援助で、1962年にソウルの南山(ナムサン)中腹に現代式中型劇場、ドラマセンターがオープンした。これが沈滞していた演劇を盛んにする契機となった。しかしそれもつかの間、ドラマセンターは観客不足による経営難から閉館に迫い込まれ、芸術専門学校に方向転換してしまった。このため演劇界はまたも沈滞の道に陥ってしまった。同人制システムでやっと命脈を保っていた劇団も、団員らの生活苦のため公演活動を行うのが容易ではなかった。主要メンバーが生活のため、放送界や映画畑に進出したためである。

とくに1970年代に入ると軍事政権は、いわゆる維新という美名のもとに独裁統治を行ったため、多数の人たちを相手にする演劇は萎縮するしかなかった。すなわち舞台脚本の審査が厳しくなり、政治・経済・社会間題などを否定的に扱った作品は舞台にかけることすらできなかったのである。その結果、演劇界は商業主義劇と反体制劇の2方向に分かれた。折しもソウルに大型の世宗(セヂョン)文化会館が建ち、大型公演も可能となった。そして、商業劇を標榜する劇団もひとつふたつ誕生した。一方、反体制劇は一種の路上劇で、大学や工場でアマチュアが行ったマダン劇であった。ゆえに、一〜二の大型劇場では商業劇が上演され、大学街や産業の現場ではマダン劇が主に上演されたのである。では、客席が300未満の小劇場では何を行ったのだろうか。

38KB/GIF国立劇団公演『忍従者の手』

小劇場の活躍

ちょうど70年代からは、公演場不足を解決するために、幾つかの劇国が小劇場をオープンし始めた。たとえばカフェテアトルを筆頭に、倉庫劇場・実験小劇場・空間舎廊など4つ5つの、充分とはいえない施設の小劇場などが門を開いたのである。30余の劇団に対し、国立劇場の舞台ひとつだけでは足りなかったのである。とくに、国立劇場が1973年に奨忠洞(チャンチュンドン)に大型劇場を建てて引越してからは、舞台を貸すことを渋るようになっていた。したがって劇団は、生存するために小劇場を開設するしかなかったのである。もちろん零細な劇団が無埋をして作る劇場だから、施設はよくなかった。しかし芝居は打たねばならないから、志のある演劇人らは個人的に借金をして、儲からない小劇場を運営した。

ところでここで注目すべきは、韓国の小劇場は西欧などのように実験劇を上演する場ではなかったという点だ。ただ中型もしくは大型の舞台が絶対的に不足していたから、便宜的に小劇場で公演活動を繰り広げたに過ぎないのである。言い換えると中・大型劇場の縮小版として小劇場が使われたのである。そして演劇が小劇場中心になると、二つの現象が現れた。ひとつは、演劇がもっばら小品になったこと。そしていまひとつは、長期の公演態勢が定着したことである。70年代の初めだけをとっても各劇団がひとつの作品を公演できたのは一週間そこらがせいぜいだった。劇場側がそのくらいしかスケジュールを割いてくれなかったのである。それが1976年には、劇団「実験劇場」が自前の小劇場で一作品を半年間ロングランしたのである。その作品はイギリスの作家、ピーター・シェファーの「エクウス」だった。これより観客が急に増え、他の劇団も面白そうな翻訳劇を長く公演するように変わった。

モノドラマが流行したのもこの頃である。一例として、性格俳優の秋松雄(チュ・ソンウン)の脚色した「アカのピーターの告白」(カフカの小説「文書課に贈る報告書」から)が六カ月上演されたことが挙げられる。以来、演劇界はすっかり翻訳劇一色に染められた。収入を上げるには翻訳劇しかないと捉えられたからである。その当時の翻訳劇と創作劇の比率は5対1ないし、6対1にまでなった。よって小劇場は翻訳劇中心の、商業劇の本拠地となってしまったのである。こうした商業劇は大劇場へと拡がり、人気の高いコメディアンや歌手をも動員し、かつての楽劇の類いまでこしらえてしまった。そして、演劇界で「商業劇論争」が起きた。このように演劇が堕落すると、一部の大学生たちは「演劇を観ない連動」すら繰り広げた。これは韓国演劇史上初めてのできごとである。

37KB/GIF林英雄(イム・ヨンウン)演出『ゴドーを待ちながら』

マダン劇の誕生

政府は創作劇育成のために大韓民国演劇祭を開くことにした。この催しは劇作家たちにとって大きな刺激となり、創作劇が急伸長した。演劇祭を通して、尹朝柄(ユン・ヂョビョン)や李康白(イ・ガンベク)・呉泰錫(オ・テソク)らのような劇作家たちが脚光を浴びた。しかし演劇祭は中央集権的な演劇界の構造を、より深化させてしまうこととなった。政府の演劇支援は、中央にのみ集中してしまったのである。このため不毛状態に置かれた地方の演劇人たちの不満は、いや増すしかなかった。そうしたことから1983年度からは地方演劇祭もともに行うことになった。大韓民国演劇祭という名称はソウル演劇祭に変更された。演劇祭は、ソウルと地方とに二元化された。地方演劇祭も、やはり創作劇だけを公演させることになった。地方演劇祭の実施により全国のあちこちに劇団が誕生し、大変活気を帯びるに至った。こうして演劇が「官」主導に流れるにつれ、反体制演劇は幅広く拡散していった。

反体制演劇すなわちマダン劇は、一種の開かれた演劇を指す。"マダン"という言葉自体が、多くの人びとが白由に集まれる広場を意味している。マダン劇は一種の政治劇であるといえる。なぜならば、"5.16軍事クーデター"から維新独裁へとつながる政権に対する抵抗としてスタートした演劇活動だったからだ。マダン劇の主導者たちの歴史観は比較的、急進的だった。彼らは韓国の近代文化を"歪んだ両班(ヤンバン)文化と日本の大衆文化が結合し、植民地文化として形成されたもの"とした。そしてその後は、アメリカ文化が結びついた支配文化となったと捉える。したがって、これに抵抗する民衆文化が登場せざるを得ず、おのずから朝鮮時代の庶民文化といえる歳時風俗・民俗劇・民俗芸能および伝統儀式などに演劇の源流を探ることとなったのである。

マダン劇の主導者たちは民衆文化の三つの原則を設けた。ひとつ目は、実際的な生をその内容とするという(抑圧的生を打破し、新たな生を指向する)。二つ目は、生産に従事する層・進歩的学生・知識人が主体となり、直接自らの手で文化を生産・享有・伝承するということ。三つ目は、集団的作業を指向するにあたり、個人的生から共同体的生へ、その指向を移行させねばならないこと(朴仁培など)である。このような基調に則り、マダン劇の概念を次のように規定した。

「植民主義的史観から脱皮した視覚でもって、民族固有の伝統民俗演戯を、その精神と内容、形態面から創造的に継承し、今日に反復された主体的演劇。複製文化を量産する各種情報伝達媒体と、これを受容する大衆階層間に発生する乖離感を解消し、大衆の中で、大衆の手で直かに創造、享受される自給自足、自力更生の自己表出通路。空虚な芸術至上主義、あるいは高級な者たちの有閑趣味でない、人本主義的立場より地域的、階屠的文化偏在現象を克服し、疎外された人々の健康な生命力が発揮される生の武器としての演劇」(林賑澤/イム・ヂンテク)。

このようなマダン劇の概念規定を詳しく分析すると、場所と状況、芸能と芸術、純粋と参与を巧みに結びつけており、演出家の金雨玉(キム・ウオク)が指摘した通り「芸術のための芸術や、美学のための美学を追及する演劇ではない、民衆の苦痛と無念を打ち破り、民衆にそれを分からせ、共同対処へと導く一種の目的劇」であるということができる。このようにマダン劇は社会性の濃い進取的演劇として、頽廃的外来文化が幅を効かせているなか、風俗の演劇・現場の演劇・示威の演劇・行動の演劇として、新たに登場したのだった。このようにマダン劇は単純に通念上の演劇というより、基層民衆文化運動であると同時に社会政治運動的性格を帯びている。そのためマダン劇は公演場所を劇場や閉ざされた屋内空間ではなく、野外の広場に設定する。登場人物の典型化や、場面と場面の連鎖的結合、風刺的で戯画的台詞と動作、とんち・踊り・歌・悪ロ・怒鳴り声・演説・示威・物真似・儀式の導入など、伝統民俗の公演技法を援用するのが特徴である(鄭址彰/チョン・ヂサン)。マダン劇の多様な形態を分類すると、仮面劇および農楽に根ざしたものから巫俗を借用したもの、パンソリの形態を活用したもの、知識・事件伝達式の記録劇・叙事劇に立脚したもの、事実主義や表現主義的手法を導入したもの、そしてこれらを複合的に受容したものなどがある。

それ以外に、語り劇・歌劇・舞踊劇などの様式を借りたものもあり、今日、斜陽となった路上劇(薬売りの演技、宣伝行脚など)・サーカス・新派調なども、積極的な表現形態のひとつとして取り入れもした。こうした形は、おのずと共同創作によってのみ可能な形へと転換したが、もちろんこれは北韓のこの種の創作とは性格の違うものである。

演劇形態と素材の多様さもさることながら、関心を示す分野もまた広範囲で、軍事独裁排撃を筆頭に主体意識の鼓吹、労働の神聖性堅持や政治経済社会の不条理を暴き出し、民主主義と封建打破のための進歩史観、植民地時代の残滓の清算、統一意思や韓半島の非核化、あるいは公害追放などとても幅広かった。マダン劇はだいたい大学街や工業団地、教会などで行われた。観劇層も演劇の担い手も、学生や農民・勤労者などであったことから、マダン劇は社会改革的であると見ることができる。とくにマダン劇の本質といえる状況的真実性・集団的信憑性・現場的運動性・民族的典型性こそ、彼らの理念と哲学を圧縮し表現した言葉といえる。

マダン劇の哀退と社会の変化

このようなマダン劇は1960年代末朴政権の時期に芽生え、1980年代の廬政権の時代まで続いた。そのためマダン劇は「真実への通路が遮断され、虚偽ばかりが溢れていた暗黒の時代における、広野に叫ぶ抵抗の声」であった。このような暗黒時代に真実の声を淋しく叫んでいたマダン劇に対し、否定的な見解を持つ演劇人も少なくなかった。評論家である韓相(ハン・サンチョル)は、「マダン劇は芸術としてはあまりに生硬粗雑であり、急進的な政治劇である」と批判した。またある人は、「マダン劇は、ョーロッパにおけるゲリラの街頭演劇のように政府および権力層を揶揄し、攻撃の対象とした政治劇」と決めつけている。

マダン劇の中心的な存在、蔡煕完(チェ・ヒウォン)・林賑澤・朴仁培(パク・インベ)らはソウル大学出身のエリートであった。これほど意気盛んであったマダン劇も、1980年代の半ば以降から少しずつ哀えはじめ、民主化が進んだ1990年代半ばに入ってからはほとんど姿を消してしまった。これはマダン劇が追及していた政治社会改革がある程度実現したことを端的に示す証拠ともいえる。

以上のように、暗い時代に広野で叫ぶ淋しい声であったマダン劇が、当時の規制の枠にはまった演劇とは流れを別にしていたあいだ、一般演劇は商業主義に基づき、現状を維持するにとどまった。その理由は、厳格な検閲の間題だけでなく、公演の場所が非常に不足していたため、突破口を探すことが容易ではなかったからである。そのような時期の1979年に「10.26政変」が起きた。1980年、第五共和国へと政権が変わったとき、政府は善人政策として公演法の改正を行った。これは演劇界を変える重要なきっかけとなるでき事であった。なぜなら、いままで施行されていた公演法は、植民地時代に韓国文芸を抑圧してきた朝鮮興行取締規則がその母体となっていたからである。

今まで厳しかった劇団の組織化や公演手続き、小劇場の開設などを時代の流れに合わせ大幅改善した公演法の改正は、演劇界に大きな変化をもたらした。実際のところ今までの公演法は、純粋演劇と夜間営業の商行為との間の区別がつかないほど前近代的であった。それを前向きに改善したのである。そのため演劇行為は厳しい規制から解放され、演劇人の自律に託されるようになった。すなわち演劇人は、いつでも自由に小劇場を開設し、劇団を組織し、公演活動を行うことができるようになったのである。しかし、規制の枠が外されたことによって演劇人たちは自由になった反面、自立する演劇人の離合集散が懸念される状況ともなった。否定的な側面からその変化をみると、まず小劇場ではなく商業ベースの小型映画館が大挙登場したことである。最初に映画界で変化が起き、続いて設備不良の小劇場が乱立し、もともと不足していた劇団の人材をさらに分散させた。誰もが劇団を組織し、小劇場を間き、公演を行うという方向に変わったのである。その結果、多くの劇団が人材不足と財政難のため大作や大劇場での公演を忌避するようになり、そのため演劇は矮小化し、その上、商業主義が浸透して興味本位の粗悪で低質な演劇が氾濫する事態に陥ってしまった。

つまり各劇団が争うように作品よりも観客動員に重点を置く非常手段に出た結果、固定客は増えず、一回限りの観客だけを動員する一回勝負の風潮が蔓延した。1980年代の初めは第五共和国の暗い時代であったため、文化弾圧も厳しく、演劇人たちは小劇場などを中心に恋愛を題材にした翻訳劇と比較的軽い喜劇ものなどを主に公演し、演劇界は文字通り堕落の温床になっていた。このように大部分の小劇場が大型劇場の縮小版として時代錯誤的な公演に明け暮れていたとき、実験劇を研究した巫世衆(ム・セヂュン)がドイツから帰国し、時代精神を表出した総体劇を試みて新鮮な衝撃を与えた。彼は台詞を用いずにチュムサイ(踊りもの)、パントマイム、呻吟ソリ、さらに光と音響だけで「統一のためのマッコリ(濁り酒)サルプリ」という総体劇を試演した。巫世衆の実験劇は数年の間、演劇界の一隅で演じられていたが、巨大な商業劇の波にのまれ消えてしまった。しかし当時ほとんどタブー視されていた統一間題を舞台劇で提起したことは、重要な意味を持つといえる。

作家達の系譜

70年代と80年代は劇作家の輩出が非常に少ない時期でもあった。そもそも独裁統治下での作家輩出は容易なことではない。そのいい例がソ連など社会主義国とスペインのような国である。韓国もそうした国と状況が類似していたのである。1960年代までは10年を周期に少なからず劇作家が登場したが、1970年代の維新時代後は、詩人や小説家に比べて劇作家の出現がはるかに少なくなった。李鉉和(イ・ヒョナ)をはじめとする李康白・金相烈(キム・サンヨル)・鄭福根(チョン・ボグン)などが1970年代に登場した劇作家であるとすれば、1980年代には李潤澤(イ・ユンテク)・李萬喜(イ・マニ)・崔鉉黙(チェ・ヒョンムク)などが注目を浴びる作家として登場した。もちろんこの時代は、前の時代に比べれば劇作家のための門戸は一層広がった。各新聞社の新春文芸をはじめ、文芸雑誌・三星文芸・国立劇場公募など十余カ所が新人劇作家を待ち望んでいた。しかし毎年デビューする10余人程度の新人劇作家たちは、大部分がそのまま消えてしまった。そのため韓国戯曲界を主導している人たちは、1960年代以前にデビューした元老作家である車凡錫(チャ・ボムソク)をはじめ、李根三(イ・グンサム)・呉泰錫・朴祚烈(パク・チョヨル)・尹大星(ユン・デソン)・尹朝炳・廬慶植(ノ・ギョンシク)・李戴賢(イ・ヂェヒョン)らと、それ以降に登場した李康白・鄭福根・李潤澤・李萬喜・崔鉉黙など十数名程度である。

しかしこれら劇作家の性向は、おおよそ二つに分けられる。ひとつは韓国演劇の本流といえる写実主義系列で、もうひとつは反写実主義系列である。たとえば韓国新劇の泰斗である柳致真の弟子、車凡錫と尹朝炳・李戴賢・廬慶植・鄭福根などは正統写実主義戯曲を書く作家群であり、その他はそこから逸脱した作家である。もちろん写実主義劇を拒否した作家たちの性向は様々である。たとえばアメリカで学んだ李根三はテンポの早い喜劇の世界を開いたし、同じ喜劇系列でありながら朴祚烈は不条理劇を試みた。また、悲喜劇を主に書いた尹大星は叙事劇作家である。非常にユニークな演出家兼業の呉泰錫は、超現実主義劇を根気よく追及している。前世代の作家である朴祚烈と似た性向を持つ李鉉和は、イギリスの作家ハロルド・ピンターに似た傾向を見せており、李康白は寓話劇という新しい様式を提示した作家である。このように10余人の劇作家たちは、それぞれ非常に独特な個性を持って作家活動を繰り広げている。さらに最近脚光を浴びている李潤澤は、ポストモダニズムの傾向を示している。その点では呉泰錫に似ているといえよう。

伝統の再創造

劇作家たちの諸傾向は、演劇界の雑多な傾向をそのまま現すものである。当初から韓国新劇には、大衆的な新派劇と西欧近代劇を輸入した正統新劇、すなわち写実主義劇の二つの流れがあった。それが1950年の「6・25(ユギオ)動乱」で新派劇は完全に消滅し、写実主義劇だけが残った。この写実主義劇は、1910年代の「土月会」、1930年代の「劇藝術研究會」、1940年代の「現代劇場」、1950年代の「新協」、1960年代の「ドラマセンター」、そして1970年代以後の「国立劇団」などにつながった。1960年代に入り、いわゆる同人制劇団時代が展開され、演劇の形式と思潮が多様化した。日本文化とアメリカ文化一辺倒から離れ、西洋演劇を幅広く受容しながら演劇実験も活発となり、戯曲形態・演出方式などにも大きな変化が生まれた。それはだいたい1960年代から1970年代にかけて現れた。たとえばベケットやイヨネスコのような不条理劇実験とブレヒトのような叙事劇、そしてポストモダニズムの傾向まで、多様であった。

しかし新劇の西洋風に反発した一部演劇人たちの、主体性を求める実験が1970年代初めに起きた。それは他でもない、演出家許圭(ホ・ギュ)を中心にした劇団民藝が行った伝統の現代的再創造作業である。このような伝統芸能の継承と再創造作業が政治社会運動とつながり、前述したマダン劇の風潮をもたらしたのである。

しかし今日の韓国現代劇がすべてその傾向に流れているのではない。依然として写実主義劇が主流をなしている中で、多様な実験が行われている。たとえば演出の流れだけみても、1920年代の築地小劇場で学んだ洪海星(ホン・ヘソン)、柳致眞(ユ・チヂン)、李海浪(イ・ヘラン)、林英雄(イム・ヨンウン)らに受け継がれたスタニスラフスキ・システムが主流をなしている中で反写実主義演出技法も登場した。欧米で学んだ柳徳馨(ユ・ドキョン)、安民洙(アン・ミンヂュ)、金正ト(キム・ヂョンオク)らは、グロトウスキの新演出技法を導人したことで非常に開放的な作品も出している。また最近は呉泰錫と李潤澤らが非常に動的な演出技法を見せている。

『空ほどに遠い国』
廬慶植(ノ・ギョンシク)作/林英雄演出

韓国演劇の行方

1970年代以後の韓国演劇も、植民地時代の抵抗精神をそのまま継承し、反日・反独裁・分断克服の間題をもっとも大きな主題とした。そのような主題を時には直接的に、また時には隠喩的に表現していた。しかし1988年のソウル・オリンピックをきっかけに開放社会へと進んでいく中で、演劇の主題も抵抗一辺倒から脱皮し始めた。まず全体的に、演劇の主題が社会間題から人生の間題へと変わっていった。それは演劇が娯楽行為としての役割に変わっていったともいえるだろう。君子の舞台から、裸身が登場する場面など、題材も重いものから軽いものに変わった。またミュージカルが大勢をなくしているのがその端的な例といえる。とくにプロ・スポーツが活気に満ち、映像媒体が多様化する中で、演劇だけが重い題材を扱っていては生存自体が脅かされると演劇人白身が承知している。その上、大企業がミュージカルを企画し、映画会社を作るという話もある。千数百年の間、受け継がれてきた正統演劇が生き残るためにはどうすればいいのか。それはただ演劇人だけの悩みではあるまい。

© 柳敏榮(ユ・ミニョン)&韓国文化院 / 岡本昌己(SPAM対策:*を@に置き換えてください)