溯源画巻・略述 
         〜そそがれる愛と罪と悲しみの記録〜              

 私は当時24歳。第一回学徒出陣出身の陸軍航空隊下級将校として、中国虹橋飛行場勤
務。第1次から第3次までの沖縄作戦秘密基地として、日本敗戦ギリギリまで特攻機そ
の他を飛び立たせるのが任務であった。
 死ぬために同世代の青年が特攻機で飛び去ってゆく。その機影を見送ることの、なん
という苦痛・悲しみであったことか。
 腹の底まで突き通る、どうしようもない深い悲しみというものが、この世には在ると
いうことを、生まれてはじめて体験した。

※注釈:特攻機作戦とは、太平洋戦争の末期、頽(たい)勢挽回のためにとった日本軍
独自の攻撃法。若い軍人が、自分の乗る航空機に爆薬を積みそのいのちもろとも体当た
りして、敵艦を撃沈させる戦法。

敗戦の翌年三月、私は中国から帰国復員した。
母国崩壊の惨状はすべてにおいて凄まじく、そこから自己再生の難業と取り組む私の
時間が始まった。

 ただひとつ残された私の財産が、一町歩程(約0.99ヘクタール強)の原野と知り、す
ぐそこへ行ってみた。
 そこは見渡すかぎり人家ひとつ見えぬ、誠に辺びな高原の片隅の、久しく見捨てられ
た草ぼうぼうの土地。広々とした自然を、ただ寒い春の風が吹きすさんでいた。私はこ
の原野を見つめ、ここでゼロからの生活をはじめる決心をした。
 南高北低の私の原野の西側に並行して、同じ位の広さの松林が下まで続いている。そ
こを貸して頂き、ちっぽけな住まいを建てた。水はしばらくは、下の小川の自然水を汲
んで使い、また石油ランプはここでの九年間、よき夜の友となってくれた。山菜や茸は
とり放題。秋はよくとりたての初茸で、おいしい吸い物を作った。果樹も50本程植え、
サクランボが一番早く実を食べさせてくれた。林の下草は飼う生きものたちの良き生活

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の場となり、鶏は卵を生んでくれ、山羊は乳を飲ませてくれ、羊は着るものを与えてく
れる。風呂場もでき、シェパード犬は大きな体と声とで生活を守ってくれた。数年後に
は、戦前から欲しかったエミリー・デキンスン(1830〜1886;アメリカの女流詩人)の
詩集を洋書部から取りよせてもらい、すこしずつ味読する楽しみも加わった。この様に
して高原での暮らしは、実に多くのものに支えられ、充実の方向に向かっておるかの様
であった。その暮らしが九年経った頃、私は微熱に悩まされるようになった。医師は結
核と診断し、八戸市への移住と治療への専念を勧めた。

 私にとって高原での日々は、戦後の自己再生のための命がけの時間であり、そこを今
去るとなると、重く苦しく去来するものが余りにも多すぎた。その中でも、飛行場のあ
の悲しみは、いっまでも鮮明な心底の慟哭として、重く罪の様に心に迫った。それらの
前では、生や死や美の問題など、白く深い闇の底に沈むだけであった。
 生きて帰国はしたものの、心身ボロボロの白面の一青年が、荒廃空虚のドン底日本を
生きていく事は、かなりの志と意志とを必要とした。
 「他人には…やさしく…自分にも…やさしく…」と、心中でつぶやく癖がついたのも、
その頃である。そうつぶやくことで、その場の孤独を耐え、自分を支えていたのかも知
れない。そんな私にとって、何よりも必要なものは、高原の自然や大地から、豊かで本
源的な生命力を心身へ収める事である。それは飛行場での悲しみを深く照らす光となり、
すべてに正しく向い合う強じんな心も私に与えてくれるはずだった。今、その道半ばに
して高原を去る口惜しさは、とても言葉にはならない…。一方高原での運命は、既に愛
する妻と長女とを与えていた。病気療養も私一人の問題ではなかった。
 私は決心し、高原の土地も家もすべて処分し、生活を八戸市に移し、治療に励んだ。
 熱は次第に収まりはじめた。

 この様にして、流れは急変し、私はその流れに素直に従った。そんな或る日、圧倒的
な力が突然私を急襲し、次々に作品を描かせた。全霊をゆさぶられ、取り憑かれた様に

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来る日も来る日も描きに描いた。絵画制作の日々がまた私を訪れ、それは奇跡であった。

 その後、周りの方々の善意に押され、個展を1955年(昭和30年)、56年(昭和31年)、
57年(昭和32年)、59年(昭和34年)と、4回も開く、思いもよらぬ幸せに私は巡り合
うこととなった。その上、1956年(昭和31年)には長男も授かり、父親として大きな悦
び、幸せ、安らぎを戴いた。
 私は4回目の個展の後、今後のゆるぎない制作者の道について、深い思索に迫られる
ことになった。
 絵画制作というのは、私にとって最高の信頼できる思索の手段である。思索とは事の
本質を問うことに外ならない。徹底しなくては無意味としか思われなかった。今後は沈
黙に徹し、ひたすら心の声に耳を傾け、一心不乱に制作へ没頭する外、道はない。それ
が私の結論であり、38歳の決意と転機であった。

 それからは、制作一途の日々が日常となり、作品も多数生まれることになる。しかし
日常がどの様になろうと、飛行場での悲しみは去ることがなかった。深層でそれを受け
とめ浄化するものを、いつまでも発見できぬ自分が情けなかった。それどころか、この
悲しみは時の歩みと共に、益々鋭い問いかけとなり、混とんを深めた。
 私はよくぽんやりと、いのちの呼吸がもっとすがすがしくさわやかにできるためには、
何がどの様であればいいのかと考えることが多かった。
 想えば難しく長い宿題であった。
 その事の前では絵画の制作など、ほとんど無力としか思われなかった。

 私はその後、色々の紆余曲折を経て、カトリック信者となった。
 東京の男子修道院に通って勉強させて頂き、1970年(昭和45年)、49歳で洗礼を受け
た。戦後25年。敗戦の精神崩壊と後遺症から、私はようやく立ち上がれるのでは…、と
思った。
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神の中の自分を信じること。
 これは私にとって、人生のすべてをかけた大きな変転であった。
 そこに立てば悲しみの闇が一層深く痛切なひろがりを持つかの様に思われたが、何が
どの様になろうと、私はたじろぐ訳にはゆかなかった。祈りを知る信仰がそれをゆるさ
なかった。
 ノアの箱船以後の人間の歴史も、限りなく神の愛から遠ざかるだけと思われた。その
長い空間に充満する悲しみと嘆きを、考えぬ訳にはゆかないのであった。
 飛行場での悲しみも、もとをたどれば人間自身の所産に外ならず、そう思えばその切
なさは、かえって言葉にならぬ深みへとつながった。
 この長い悲しみの大きな河を潮(さかのぼ)り、全ての源(みなもと)であられる神
に、人間の悲しみや嘆きの本義を教示頂く画業に入るしか、答えは無いという思いが、
私には益々切実なものになっていった。
 この仕事を心で「溯源画巻」と名付けながら、どうしても着手できぬまま月日が過ぎ
た。ようやく着手できたのは1985年(昭和60年)、私64歳の6月12日である。

 初老と言われる年齢に入った頃から、私は老いというものに、またその神秘さに、深
く開眼させられる思いが強まっていった。
 年齢を加えるにつれ、感性の鋭さも幅も深さも、繊細に豊かさを加え、森羅万象と日
々交感して生きるかの実感に、日常接する様になったからである。悦びと感動が次第に
深まる日々となっていった。
 そんな事から、私は老年というのは人生の宝庫と思われて、「溯源画巻」の着手は、
今が最適最良の時と感じさせられたのである。

 約12坪程の仕事場に、タテ約1.5メートル、ヨコ10メートルひと巻きの画用紙(フラ
ンス製白キャンソン紙)が用意され、水彩えのぐの自由な抽象表現で仕事が始められた。
左から右へと描き進む、従来の絵巻物形式とは逆の形で、この画巻は制作されることに

                                     −4−

なった。
 最初の巻は全く予想外の事だったが、かぐわしい春の野を行くかのような世界が、大
変な勢いでわきおこり溢れ出し、この仕事を先導していた。人の生はしあわせのために
こそある、という強い思いが、深部から吹き出したためでもあろうか。無心からの出発
であった。
 画巻はこの様にして出発し、時の流れと共に変転きわまりないものとなっていった。
この間、私の唯一の道しるべは、天来のヒラメキだけであった。それと、祈りと恩寵に
すがる、つぎはぎだらけの一心不乱とが、この仕事を押し進めたと思われる。
 着手以来10年を過ぎる頃には、画巻も300メートルへと近付きながら、完成への見通
しは相変わらず混とんとしてつかめないままであった。その様な仕事の旅にありながら、
私は不思議な程、ひるむ心が全くおこらなかった。悲しみの、霊に対する本義を理解す
るまで、この仕事を中断するわけにはゆかないという思いだけは盛んなのであった。

 2002年(平成14年)9月下旬、午前2時。誠に神秘に満ちた透明な時間の訪れがあっ
た。
 その時81歳の私はベッドの中で目覚め、静けさの中に只無心のまま浮かんでいた。気
付くと、透明な霧の様なものが、静かにゆっくりとひろがり、私の体の中でコトバにな
っておるのであった。「……友よ……今のときを……生きてください……永遠の目で…
…神は……みていて……下さいます……友よ」と。

 後で想うと、その時、奇跡とか天啓とか啓示とかいうコトバが、どうして私の心に浮
かばなかったのかと思う。
 余りにも想像を超えた事を、極めて自然な事の様に頂いたこのコトバに、私は唯茫然
と無心に浮かんでいたかの様であった。そしてその時間の延長の様な日々が、それから
幾日も続いた。あのコトバを体に取り込み、味わい、確かめるかの思いで過ごしている
のであった。
                                     −5−

 日が経つにつれ、人間の在り方の真理を、これ程まで平易に、しかも優しく示すコト
バがあろうかと思われてきて、深い感動が唯々湧き溢れてやまなかった。そこに流れる
奥深い雄大さに、私は言葉を失う外なかった。2002年の師走近い或る目、画巻の制作中、
私は体に、「……もう、……この位で……仕事は……充分でしょう……安らか…・おゆ
きなさい……」とおっしゃっているのを感じた。かたじけなさに体が震え、全身光の中
にあるかの思いであった。

 この様にして画巻の終了を感じさせられると、これまで一度も経験しなかった様な雑
念想念が、ほんのひとときながら、勝手に吹き溢れた。溯源画巻というこの仕事は、全
てにおいて、私の大きな誤算によるものではなかったか。余りにも身の程をわきまえぬ、
大変な神への甘えではなかったのか…、と言う風な。確かに飛行場でのあの悲しみの痛
烈さは、私の生涯の悲しみの原点となり、溯源画巻制作へとそれは向かわせた。そう言
うことも、戦後生き残った人間に課せられた、ひたすらな義務の様なものかと感じなが
ら生きてきた。それらは共に、切実な事実であるのに、時の流れや人間の持つ不完全さ
にいつしか押しやられ、真実と私との間に、大きなズレを生み出してはおらなかったか
……。心底で鳴り続けてやまぬ戦争への悲しみと死者達への深い鎮魂の思いの切実さが、
この画巻の探求へと向かわせ、一心不乱の制作へとつながっていた筈であったが、果し
てそうか。それは単に独り善がりの愚直の歳月ではなかったのか。三百数十メートルの
長大な紙の上に、単にえのぐを塗り続けたと言うだけの事だったのではあるまいか、等
々。やり切れぬ雑音ばかりであった。

 しかし、画巻制作に入れば、どんな雑音も雲散霧消した。
 私にとって、午前2時に頂いたあのコトバは、至高の宝の輝きであり、その後の制作
の無二の指標となった。最終巻である第36巻と取り組むに当たって、私の生きる勇気を
根底から浄めるものとなっていた。
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 最終巻を描き終り、眺めた時、前巻までの仕事とは、全く質の違う表現がそこに在る
のを私は感じた。
 そこには寡黙な清々しさの様なものが、静かに、全紙面を覆っていた。それは一見何
でもないものの様に見えながら、よく見ると、その底に流露するものが、尋常のもので
ないことが解ってくる。それを言葉にすれば、「空(くう)の貴さ」とでも言うべきも
のかと思われた。
 「空(くう)」とは何であろう。最も具体的には、神が人間に与えて下さった空間。
永遠の目で神が見ていて下さる場所、と私は理解する。

 第36巻というのは、この全画巻の言わば結論であり、「終曲」である。にもかかわら
ず、結果的には新しい世界へと向う何か「序曲」の感じがあり、無明の明という言葉も
フト浮かんだりして、不思議な想いが残った。そしてまた、第35巻までの仕事全部が、
ここへ行き着くためには必要不可欠な道程だったと、深く納得させられた。

 この制作へ18年余り純粋に燃え続けさせたものを考えると、それは矢張り、恩寵の無
限とあふれる神の愛にあること、それを信じない訳にはゆかないのであった。
 私はこの仕事に、「そそがれる愛と罪と悲しみの記録」と副題を付け、終了とした理
由も、そのためである。そして、2003年7月15日、溯源画巻は全てを終る。
 長い紙上の旅であった。

 こうして紙上の旅は終ったが、これからの、この画巻自身の運命の旅はとなると、遥
かにそれは、人智を超えるものであろう。世の中には展示などと言うことを、全く念頭
に置くことなく、ただひたすらに描き続け、時の流れと歩み、余りにも長大なものにな
ってしまったという、この画巻の様な例も実在するのである。そしてまたこの長大さが、
展示の際の最難点となる。現実的には、36巻全てを通観できるように展示することなど、
先ずは不可能に近いと思われる。
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 全巻を仮に六曲屏風に仕立てたとすれば、72枚。それを同時に並べて見ることができ
たら、さぞかし壮観であろうが、実現となると、殆どそれは夢のまた夢であろう。ヘリ
コプターを使えば、全巻を見られるのではないかとか、左から巻きつつ、全巻を見られ
る装置を作るしかないとか、それ専用の丸い広々とした展示場を作れば、一件落着では
ないかとか、冗談をたたく方々も色々である。しかし全巻を鑑賞できる最良のものとな
ると、それは全く今後を待つしかないと思われる。

 現実的には、数巻だけを展示し、鑑賞することは可能であろうから、そんな場合を想
定し、ご覧下さる方々のために、私は、かくも長大な抽象画巻がなぜここに在り、なぜ
それは描ふれねばならなかったかの由来を、略述させて頂いた。この記述が、はじめて
この画巻に接する方々との心をつなぐ一助ともなれば、社会の一員として、それは望外
の幸せと思われるからである。

                           2003年9月
                                昆野 清一
▲ 終 了