おそらく、晩餐会用に調えられた正装のためだろう。ヴィクターは白いドレス姿のフィアを抱きかかえたままという妙な格好ではあったが、要所要所で待ち構える衛兵たちからなんの咎めも受けず、悠々と宮殿の廊下を歩き進めることができた。
自分の部屋のある棟まで戻ると、懐かしい我が家に帰ったような感じがした。
まだたった二日ほどしか滞在していないが、ここにはウルヴァキアの騎士たちが揃って寝泊りしている。彼らが互いの部屋を行き来しあったり、二階に上がってメルヴィンや自分の部屋の扉を叩いたりするので、ざっくばらんな兵舎のような雰囲気が漂っているのだ。
棟に入ってしまうと、もうヴァレンヌの衛兵は姿を見せなくなる。ここからは完全にウルヴァキアの領域だ。見張りに立っているのも顔馴染みの騎士たち。だが彼らは主君に敬礼をしようとして、主君がその腕に抱えている『もの』を見て目をみはった。
「陛下、そちらが……その、お探しだったシスターで?」
驚きのあまり発された問いに、ヴィクターは通り過ぎながら頷いて答える。
「そうだ。晩餐会も終わったし、これでこの国での用事はおおかた片付いた」
「そ、それは重畳! では、我らも、もうじき帰国できるというわけですね」
嬉しさ半分、名残惜しさ半分といった声を背に、「ああ」と鮮明な声で言ってその場を去る。普段なら見張りの労をねぎらってやるところだが、あいにく、今はそれどころではない。一刻も早く部屋に戻って休みたかったし──休ませるべきだった。
広い階段を折り返しのぼって二階に上がると、アラリスが立っていた。
「無事に戻ったか」
ため息まじりの声で、ぽつりと呟く。
彼女の見事な金髪は、廊下の壁に灯された灯りを反射して赤く輝いていた。厚みのある巻き毛のその髪を、後ろで無造作に束ねている。そうしていると、背の高さもあいまって、この暗さでは男が立っているようにしか見えない。
「ああ、なんとかな」
ヴィクターは答えて、自室に向かう。アラリスは先に踵を返して歩き出しており、行く手でその扉を開けて待っていてくれた。
「おまえも、その娘も……運が強いな」
しみじみとした声が、静まり返った深夜の廊下に響く。
「……こいつと一緒にするのはやめてくれ。縁起が悪い」
ヴィクターはまだ意識を取り戻さないフィアをちらりと見下ろし、顔をしかめた。
「それに俺の運の悪さの大半は、こいつからきてるんだ。こいつは俺の疫病神でな」
「その疫病神を、わざわざこんなところまで取り戻しに来るとはね」
ヴィクターの言葉を、アラリスは鼻で笑った。
ヴィクターは反論しようとしたが、うまい理由を思いつけない。
「……仕方がない」
苦し紛れに出たのは、そんな言葉だった。
「俺にとってこいつは疫病神だが、こいつにとっても俺が疫病神だからな」
ヴィクターはフィアをベッドに下ろし、毛布をかけてやりながら言った。
アラリスは戸口のところに頭をもたれかけ、顔を傾けてそれを見守った。
「ふうん」
納得いくのかいかないのか分からない、ひとごとのような口調で彼女は言った。
そして、部屋の外に音もなく忍び出て、扉に手を掛ける。
「それじゃ、邪魔者は消えるよ。……ごゆっくりどうぞ、国王陛下」
「なんだその言いかたは?」
ヴィクターは露骨に顔をしかめた。だが、その文句は固く閉ざされた扉に当たり、空しく散っただけだった。
フィアの顔をこんなに近くで見るのは久しぶりだった。
とはいっても、相手は眠っている。
眠っているのか、意識を失ったままなのか──いずれにしても、しばらくは目を覚まさないだろう。イグナレオナから「気つけの薬がある」と言われたとき断ったのは、そんなものを飲ませるより、しばらくは何も考えずにゆっくりと体を休めて欲しかったからだった。
『聖女』だのなんだのと、くだらない騒ぎだと思っていた。
だが今日、あの晩餐会の席で、フィアが何を背負ってきたのかがよく分かった。この華奢な肩には重すぎる肩書きだったろう。ヴィクターは初めてフィアに同情した。『オルカンヌの聖女』──いや、今は、『イグナチスの聖女』というべきか。晩餐の席で、誰かがそう呼んでいた。由来までは知らないが。
「まあ、おまえはよく頑張ったよ。……おまえにしては」
汗ばむフィアの額に手を伸ばし、はりつく髪をかきわける。
あのとき、フィアは病人の手を握れないだろうと思っていた。青ざめるか泣くかして、その場から逃げ出すのではないかとさえ思った。けれど彼女はそうしなかった。それがヴィクターには意外だった。
いつのまに、あんなに強くなっていたのか──。
そうしたのはエドアルドなのだろうか。彼と旅をしながら、フィアはどんな毎日を送っていたのだろう。眠っていてもかすかに苦しげに眉をひそめている、目の前のフィアを見下ろしながら、そう考えずにいられない。
聖女としてあがめられ、かしずかれ、なんの不自由もない生活を送ってきたのならば、あんな顔で病人のそばに跪かなかったろうと思う。あのときフィアの顔に浮かんでいたのは、後悔と懺悔にも似た、苦しみの表情だったからだ。
ヴィクターでさえ、あれを見ては、もはや近寄ることができなかった。
イグナレオナの復讐めいた思惑も感じ取っていたし、高みの見物を決め込むギィ枢機卿やガルヴェ枢機卿たちに腹立たしさも覚えた。だが、それでも、歩きだしたフィアを止めることはできなかった。
『聖女』──
いや、ただ、山奥の修道院育ちの無垢で無邪気な娘が、世間知らずのまま大人になっただけのことだ。だからこその純粋さ。無謀さだ。
しかしその一方で、そういった純粋さは、世間に出れば簡単になくなってしまうものだとも知っている。慎み深い深窓の貴族令嬢であっても、社交界に出るようになれば人の心を操る術を覚え、自分のことで一喜一憂する男たちを見てほくそ笑むようになる。それが普通だ。
けれどフィアは、いつまでも純粋なままでいるように思える。
その純粋さを利用して、ああいった場でフィアに病人の手を握ることを強いたイグナレオナは、もう昔の心を忘れてしまったのだろう。法皇として強くならねばならないと決めたときに、彼女はそういった『弱さ』や『迷い』を振り捨てようと決めたのかもしれなかった。そして自分の再生の第一歩に彼女が選んだ行為は、『復讐』。エドアルドを奪ったフィアを、彼女は絶対に許すことができないのだろう。おそらく、これからも。
(エドアルドを奪った……か)
ヴィクターはフィアの頬に、折り曲げた指を触れさせた。
不思議なものだ。自分にしてみれば、国境の村で奪われたのは『フィア』だった。しかしイグナレオナのほうから見れば、あのとき奪われていたのは『エドアルド』だったのだ。
言われてみれば確かに、エドアルドはフィアに執着しすぎだった気がする。彼は『聖女』に対して幻想を抱いていた。その幻想を、前の聖女では満たしきれなかったのだろう。だから簡単にフィアに乗り換えた。そしてフィアを理想の聖女にしようとして、その目論見は──あの晩餐会でのできごとを見る限り、成功したように思える。
「聖女になんて……」
ヴィクターは意識のないフィアに向かって呟いた。
「ならなくていい。おまえには似合わない」
その言葉が聞こえたのかどうか──
フィアがかすかに身じろぎした。
ヴィクターは息を殺してフィアの上に身を屈めた。傾く体は、ベッドの天蓋を支える支柱に右手をかけて支える。そして『その瞬間』を静かに待った。それはほどなくやってきた。まるで生まれたての雛のように、フィアが、睫毛を震わせながらゆっくりと瞼を押し上げた。
「気がついたか」
「……はい」
ごく普通の口調で問いかけると、少しの沈黙のあとに返事がきた。
「今ので起こしたらしいな。……悪い」
ヴィクターは上体を起こしてため息をついた。
「もう少しゆっくり休ませてやろうと思ったのに」
「いいんです。あの、それより……」
フィアは体を起こそうとした。だが、額を押さえてそのまま動かなくなる。
脂汗の滲む、苦しげな様子だった。ヴィクターは心配してそれを覗き込む。
「なんだ。頭が痛いのか?」
「少し……」
「なら、寝ていろ」
ヴィクターは強引にフィアの両肩を掴み、頭を枕に押し戻させた。
フィアはため息のような息を吐き出し、空ろな視線を彷徨わせる。
「──ごめん、なさい」
やがて、そう謝った。
「何がだ?」
ヴィクターはフィアの肩から手を離そうとしていたところだったが、意味の分からない言葉に眉をひそめる。手を離すチャンスをなんとなく逃したため、その手は、そのままフィアの肩の上に留め置かれた。
「黙って行ったりしたから……」
フィアはなぜか目を逸らした。
「『黙って』?」
ヴィクターはフィアを上から覗きこみつつ、怪訝な顔をした。
「なんの話だ?」
「気がついたら、馬車に……乗せられてたんです。枢機卿さまが、晩餐会に出るんだって仰って、それで……わたし、何も知らなかったから」
「ああ?」
何を言おうとしているのか今ひとつ呑みこめなかったが、ヴィクターはとりあえず相槌を打っておいた。フィアはあまりに疲れすぎており、今はなかば夢見心地で、まともに頭が働かないのだろうと思ってのことだ。
「でも、わたし……話したりしませんでしたから」
フィアがなおも言葉を重ねる。
自分の手のひらを額にやって、その下で、うっすらと目を開いて。
「誰と?」
「ヴィクターさん、と……」
フィアはそう呟くと、もう目を開けているのもつらいというように、ぐったりと瞼を閉じた。その額には冷たい汗が滲んでいる。熱をはかろうと手を伸ばしたヴィクターは、だが、その言葉を聞くなり動きを止めた。
「……俺と?」
訳が分からなかった。
何を言っているのだろうかと心配になる。
だが、言われてみれば、たしかにフィアは自分を避けていたふしがある。はなから目を合わせようとせず、たまに合っても逃げるように視線を逸らしていた。おかしいとは思っていたが、まさか避けられているとは思いもしなかった。
「……避ける理由は?」
何か後ろめたいことでもあるのかと問い質したくなるのをこらえ、訊ねる。
「だって、言ったでしょう?」
フィアはヴィクターを、焦点のぼやけた瞳で見つめた。何を見ているのか分からないが、見ようという意志はたしかにある、そんな弱々しい瞳だった。
「あなたの言うことをきけば、あの人を傷つけたりしないって……。だからわたし、約束は、ちゃんと守ったから……」
「何を言ってるのか分からん」
ヴィクターは顔をしかめた。
「シグワスさんも、約束、守って……。お願い……」
フィアは苦しげな声でそう言った。
そして、飲み込まれるように眠りに落ちてしまう。
「おい、フィア」
ヴィクターは思わず身を乗り出し、フィアの頬を手のひらで押さえた。
呼吸の音がしない。一瞬そう思ったが、顔を近づけてみるとかすかに息はしている。安堵と、どこか釈然としないような気持ちのあいだで、しかしヴィクターはフィアを起こすことを諦めた。今は休ませるのが先決で、そうするよりほかにない。
ヴィクターは静かに身を起こし、詰めていた息を吐いた。
それから、さきほどのフィアの言葉を頭の中で反芻する。
(『シグワス』?)
何かが頭の中に引っかかる。
もつれた糸をほどく糸口を見つけたような、そんな感覚。
だが、それを解きほぐす気力が今は沸かない。
(……まあいい。説明は、明日の朝でも十分間に合うからな)
とりあえずは、今ここにフィアがいる、それだけでよしとするべきだった。
フィアがギィ枢機卿に連れ去られたと聞いて以来、取り戻すためには多大な労力と犠牲を払わねばならないのではないかと思っていた。場合によっては、配下の騎士を引き連れて枢機卿の屋敷に踏み込むことさえ考えていた。
だが、そんなことをせずとも、フィアは無事取り戻すことが出来た。
病人が息を引き取ったあと、イグナレオナはなかば放心状態だった。枢機卿や貴族たちも動揺し、我を失っていた。あれが唯一のチャンスだった。だから皆が正気に戻る前にと、かっさらうようにフィアを抱き上げて部屋を出たのだ。あの瞬間を逃せば、またフィアとは引き離されたに違いない。イグナレオナか、ギィ枢機卿の手によって。
だから、いいのだ。
フィアは多少混乱──いや、錯乱しているようだが、それも明日になれば落ち着くだろう。支離滅裂なことを言うのは、いろいろなことがありすぎて気が昂ぶっているだけだ。そうなるのも仕方がない。あれだけのことがあったのだから。
ヴィクターは吐息をつき、フィアに背を向けるようにベッドの縁に腰掛けた。
「──陛下」
小さい、どこか控えめな固い声がしたのはそれからしばらく後のことだった。
ヴィクターはいつのまにかそのまま横になり、毛布もなしで眠りかけていた。
声に気づいて体を起こす。正装のままだったので、服に皺ができていた。
「……なんだ?」
軽く頭を押さえながら肘で体を起こし、小さな声で応える。
「失礼いたします。酔い覚ましの水をお持ちいたしました」
オスカールの声だった。
ほどなく扉が開き、銀の盆を持った親衛隊の若者が現れる。
ヴィクターは眠気覚めやらぬ、怪訝な顔でそれを眺めた。
「水? 別に、頼んでないが……」
「え? しかしアラリス殿が『陛下がご所望だ』とさっき……」
オスカールは眉をひそめた。
それから、何かに気づいたように、おもむろにため息を吐き出す。オスカールは入り口のところに立っており、ヴィクターは部屋の奥にあるベッドで半分だけ体を起こしている状態だから、ずいぶん離れている。それでも聞こえるような、嫌味なほどに大きなため息だった。
「陛下……」
オスカールはベッドを見て、揶揄するような口調で口を開いた。
「ここはウルヴァキアではありません、ヴァレンヌですよ……。しかも、仮にも神聖なる法皇宮殿であり、あなたの後宮ではないのです。あ、な、た、の」
オスカールは妙にはっきりと区切り、眉間に皺を作って言葉を続ける。
「久方ぶりの再会で『気分』が盛り上がっておられるのは分かりますが、少しはご自重くださいませんか? 第一、ここではシスターの素性も知れています、知られたら双方大変な立場になりますよ!」
それくらいお分かりでしょうと、速やかに扉を閉めながら説教する。
さすがに、扉を開け放したままの話としては不適切だと思ったようだ。
しかし、ヴィクターは返事をするのも面倒くさかった。──眠いのだ。
「いや。別に……何も。さがっていいぞ」
『いや』、こいつとはそういう関係じゃない、だから『別に』『何も』ないし、何もするつもりはない。だから妙な心配など無用だ、安心して『さがっていいぞ』と、そういう気持ちを込めて言ったつもりだった。
しかし、それは通じなかった。
あまりに言葉を省きすぎたせいだ。
オスカールは呆れ果てたような顔で、片手を腰に当ててみせる。
「『何も』と仰っておられますが、今、陛下はシスターと同じベッドにいらっしゃるように見えるのですが、これはわたしの目が悪いせいでしょうか? 人から『目が悪い』などと言われたことはないのですが……?」
そして、水差しの乗った重たげな銀の盆を片手で携え、近づいてきた。
どうやら、盆をどこかに置こうとしているようだ。それが向こうにあるテーブルならまだしも、このベッドの脇のサイドテーブルだとしたら、さすがに今、そこまで近づいてこられるのは鬱陶しい。
「オスカール」
ヴィクターはやや棘のある声を発した。
オスカールがすっと足を止める。
「……は、」
「悪いが、速やかに出て行ってくれないか」
そう言うと、オスカールは顔をしかめた。
「なぜですか?」
生真面目な若者は叱責も恐れず反論を試みる。
「見れば分かるだろう? 俺は眠いんだ」
ヴィクターは不機嫌な顔つきで言った。
だが、オスカールは怯まなかった。
「シスターがベッドを使っておられるなら、陛下には、狭いですがわたしの部屋を提供させていただきます。わたしは廊下で見張りに立ちますし、この部屋はアラリス殿に警護していただいて」
「おまえの部屋で寝ろと?」
「陛下、どうか、ご自分のお立場をお考えください。ここは教会の総本山です。そんな場所で、まだ年若いシスターと、しかも『聖女』と呼ばれているシスターと同衾した──などということが知られたら!」
オスカールは案外必死な様子でまくし立てた。
本当に『万が一』の事態を案じているらしい。
ヴィクターは額を押さえ、苦いため息をついた。
「分かった……」
「お分かりいただけましたか」
「楽をしようとしたのが悪かった。手を抜かずに説明するべきだったな」
ヴィクターが言うと、オスカールは一瞬言葉に詰まった。
すでに、できれば聞きたくないという表情になっている。
「なんの説明でしょうか」
「この修道女はたしかに『聖女』と呼ばれているが」
ヴィクターはフィアをちらりと見て切り出した。
「……はい」
オスカールは神妙な顔で頷いた。ヴィクターは言葉を続ける。
「おかげで、伝染病で死にかけの病人の手を握って『回復を祈れ』と法皇に命令された。この娘はそれを忠実に実行し、その結果、疲労困憊してぶっ倒れたわけだ。祈りの甲斐なく病人は死んだ、そして、この娘は──」
「病気をうつされたと」
オスカールが素早くあとを引き取った。
とたん、彼はさっと銀の盆を足元に置くと、ざざっと後退した。
「──いうわけですね、陛下」
「……まあ、そういうことだ」
ヴィクターは相手の反応にいささか戸惑ったが、顔をしかめたまま頷く。
「では、その場にいた陛下も?」
「病人に直接触れてはいないが、この娘をここまで運んできたから、もしかしたら」
「分かりました」
オスカールは妙に焦ったような、聞き取りづらい早口で言った。
「今晩はゆっくりお休みください。わたしは明朝医師を呼んで参ります。それまではこの部屋に誰も立ち入らぬよう周知徹底いたしておきますので、どうぞご安心を」
そして、バッと扉を開けて廊下に出る。
「では、失礼いたしました!」
「あ、ああ……」
ヴィクターの言葉が途切れないうちに、バタン! と音がして扉が閉まる。
ヴィクターはその閉じられた扉を、しばらくのあいだ不満そうに眺めていた。
それから「なんだあいつは」と呟くと、苦いため息をつき、再び横になった。
隣では、まだフィアが寝息もひそやかに熟睡している。
いつのまにかこちらに向けられていたその顔を眺めているうちに、ふいに苦笑がこみあげた。
「まあいい。これでしばらくは邪魔されずに眠れるな、お互い」
ヴィクターは仰向けになり、独り言のように呟いた。
それから、折り曲げた片腕を頭の下に差し入れ、枕代わりにする。
目を閉じた。
細々と燃え続けていた蝋燭の火が、ふっと息を吹きかけられたかのように突然消えうせた。──とたん、夜の闇があたりを重く押しつぶす。隙間のない分厚いカーテンの向こうには、夜空さえも見えない。ただ、闇と沈黙が広がるだけだ。
ヴィクターは沈黙の中で、隣から聞こえてくるかすかな寝息に耳をすませる。
それを何度聞いたときだろう。泥が崩れるように一気に意識がゆるみ、数瞬、とぎれとぎれに記憶が飛んだ。もう眠りに落ちずにはいられないというときになって、ヴィクターは空いているほうの手を伸ばし、枕の上で所在なげだったフィアの手を握りしめた。
──これで、安心して眠れる。
手を離せば、またどこへ行ってしまうか分からない。ひとりでは何もできないくせに、いつも、気がつけば離れたところで厄介ごとを起こしている。もう始末してまわるのはたくさんだ。
(起きたら、まずは盛大に……説教だな……)
形のない夢に足を踏み入れながら、ぼんやりと思った。
それが、この慌しかった『世紀の一夜』の──最後の記憶だった。