フィアとエティエンヌは法皇宮殿の外に連なっていた馬車に乗り込み、息をひそめた。
馬車は荷馬車である。荷台には、布にくるまれた無数のウルヴァキア騎士たちが積み込まれていた。この中にヴィクターとオスカール、アラリスの三人もいる。ほかは顔が見えないため、誰が誰なのか分からない。
先頭の馬車が走り出し、ほどなくこの馬車も動き出した。
エティエンヌは布を羽織り、隅に座っていた。フィアはその向かいの角に、同じように布をかぶって座っている。門で検分を受けるときに、死体のふりをしてこの中に紛れるためだ。そう指示したのはエティエンヌだった。だが、彼女は今どことなく不安げな表情でフィアを見ている。
「……本当に良かったの」
エティエンヌがためらいがちに話しかける。
「どうして?」
訊き返すと、エティエンヌはしばらく口ごもっていたが、
「わたしたちは枢機卿の策に乗った。──そういうふうに見せかけているけど、でも、それで危険がなくなったわけじゃない。疑い深い枢機卿のことだから、人目につかないところでとどめを刺しに来るかもしれない」
と言った。
フィアは黙っていた。
それに焦れたのか、エティエンヌは意を決した顔になり、身を乗り出す。
「つまり──この馬車に乗っているのは危険だと言ってるんだ!」
フィアはそんなエティエンヌの顔をまじまじと見つめた。
「でも……」
口ごもった。
しばらく迷っていたが、ぽつりと呟く。
「今、降りれないから……」
「そ、それはそうだけど……」
エティエンヌはばつが悪そうに身を戻す。
馬車がそんなふたりを不規則に、強く揺らしている。
フィアは体を安定させるために、両膝を抱えて背を丸くする。
「わたしが怖いのは、死ぬことじゃない。それより、ひとりになるほうがずっと怖い」
「………」
「ここにいるのはたしかに危険かもしれないけど、でも、ここを離れたら知らないうちにみんながいなくなってしまう。どこに行ったのか分からなくなって……」
そんなのは嫌、と小さな声で言う。
エティエンヌはそれに対して何も言えなかった。
沈黙が満ちた。
それぞれが物思いに沈んでいた。
馬車は止まらず、淡々と走り続ける。
二台の馬車を操っているのは、エティエンヌの仲間の法皇騎士たちだ。本物の御者のほうはいっせいに捕らえ、口と手を封じて人目につかない倉庫に放り込んである。見つかるのは明日の正午以降になるだろうから、それまでに皇都を脱するのが至上命題だ。
「……分かったよ」
やがてエティエンヌは呟いた。思いつめるほどの真剣な顔で。
「どこへ行っても危険なのは同じだ。本当は……『わたしが守る』と言いたいけど、でも自分にそんな力がないことも分かってる。だから安易な保証はしない」
「……うん」
フィアは頷く。
「でも、これだけは言わせてほしい」
エティエンヌがまっすぐにフィアを見る。
フィアもそれを見つめ返した。闇夜で薄暗いが、目は夜に慣れてきている。
「わたしは、陛下のことは……嫌いではなかった。ウルヴァキアの騎士たちも皆、一緒にいて楽しかった。束の間、自分がヴァレンヌ人だと忘れたほどだった。だから……誰も死なせたくない」
「うん」
「その気持ちだけは同じだ。こんなことになってしまったけど、それだけは信じてほしい」
「……うん」
フィアは頷いた。
エティエンヌはほっとしたように頬をゆるめる。
「良かった」
心の底からの言葉だった。
エティエンヌもフィアと同じように膝を抱える。
「正直、わたしもわからないことばかりなんだ。どうして、陛下や皆が命を狙われるようなことになったのか。あの枢機卿が、他国の国王を暗殺なんて大それたことを企むとは思ってもみなかった……」
フィアは黙っていた。
その答えを自分は知っているのかもしれない。そう思ったが、口に出すわけにいかなかった。きっと裏で関わっているのはシグワスだ。そんな気がするが、証拠はない。それに、シグワスのことはきっとエティエンヌは何も知らない。
その存在さえも。
「でも、考えてみればこうなる運命だったのかもしれないな」
エティエンヌは独り言のように呟いた。
「わたしはあの国境の一件のとき、通訳として現地へ行った。異端者たちが村に立てこもり、それをウルヴァキアが匿っている。それしか聞いてなかった。そのときはウルヴァキアに対していい感情を持ってなかった。──だってそうだろう? 異端はこの世からなくなるべきものだ。異端者たちは徒党を組んで法皇府に逆らい、自分たちの主義主張を振りかざして人びとを騙す。戦いに巻き込もうとする。そんな連中を匿うなんて、神への冒涜だと思っていた」
「………」
「法皇府では、ウルヴァキアはヴァレンヌに敵対するつもりだという見方が主流的だった。だからわたしも……最初は思ったんだ。『敵』だって」
それがヴィクターのことを言っているのだと、なんとなく分かる。
「だから枢機卿は、ヴィクター陛下を亡きものにしようと思ったのかもしれない……。でも、そんなことを神がお許しになるはずもない。枢機卿はどこかで道を踏み誤ったんだ。そのことに今も気づいていないんだろうね」
「人を殺したりしちゃ、いけないのよ」
フィアはぽつりと呟いた。
エティエンヌが顔を上げた。少し虚を突かれたような顔で。
「うん? ……ああ、そうだね」
エティエンヌは一瞬遅れて頷いた。
「いくら枢機卿でも、こんなことをした罰は受けなくてはならない」
「神さまはきっと……怒ってる。どうしたら許してもらえるのかな……」
フィアは途方に暮れたように言った。
エティエンヌは怪訝そうにそれを見る。
「許すって? ……誰のこと?」
「……ううん。なんでもない」
フィアは力なく首を振った。
エティエンヌはまだ怪訝そうにしていたが、ふと、外の様子に気づいて膝を立てる。
「声が聞こえた。門に着いたんだ」
「どうしたらいいの」
「布をかぶって、はじに隠れて。たぶん中を調べられる。何があっても動かずに、息もできるだけ殺して」
「分かったわ」
フィアは頷いた。そして、言われたとおりに布をかぶって横になる。
「フィア」
エティエンヌも同じように横になりながら、緊張した声を放った。
「うん? なに、エティエンヌさん」
フィアは布からちらりと顔を出した。
エティエンヌはそれをじっと見つめ、口を開く。
「わたし、もしかしたら死ぬかもしれないと思ってる」
「……えっ」
唐突に言われて、フィアは驚きに目をみはる。
エティエンヌは言葉を続けた。
「それくらいの覚悟をしてきた。だからおまえも覚悟を決めてほしい。一言でも声を出したり動いたりしたら、全員が死ぬことになる。今、皆の命がわたしたちの行動に掛かっているんだ」
そのあいだに馬車が止まった。外から複数の人間の声がする。
緊張のあまり、心臓がどくんと鳴った。それはやがて早鐘のようになって胸をしめつける。
「……うん」
できるかぎり短く、だが、はっきりと意志を伝えてフィアは布をかぶった。
それからほどなくだった。
何者かが荷台に近づき、何か話しながらおもむろにのぼってきた。灯りを手にしているらしく、布ごしに人の影が確認できる。フィアはかすかに手を動かして口元を押さえた。エティエンヌの言うとおり、何があっても、絶対に一声も上げてはならない。
「──全部死体か?」
「そのようだな。死体の山だ」
下から問いかけてくる衛兵に、荷台にのぼった衛兵が薄気味悪そうに答える。
「上からの命令だから、一応確かめてはみるが……」
言いながら、近くにあった『死体』のひとつを蹴った。
反応はない。衛兵は愚痴るように呟いた。
「しかし、なんだってこんな……。ぱっと見るだけで十以上はあるぞ」
「……おい、ちゃんと確かめたのか?」
「うるさいな、今やってるところだよ!」
衛兵は言い返し、別の死体の腹を思いきり蹴り上げた。
苛立ちを紛らわすためにやったことだったが、力を入れすぎたらしい。死体が跳ねた。
「なんだこれ。軽いなあ。本当に中身は人間か?」
訝しんで呟いたが、答えは誰に訊かなくとも分かっていた。ぐにゃりとした、それでいて妙に弾力のある固いものを踏みつけている足裏の感覚が、下にあるものが人間の体に間違いないと教えている。
「めくって確かめるか?」
下の衛兵が言って、手近な死体のひとつから布をはがした。
そこから現れたのは青ざめた男の顔だった。衛兵はカンテラを掲げると、空いているほうの手で男の瞼をこじ開けた。黒い硝子のような瞳をのぞきこみ、用心深くたしかめてから、ため息をついて身を離す。
「あーあ。こりゃ駄目だ。しかも、もう冷たくなってやがる」
「だが、どこにも血が見えないぞ」
上にのぼっている衛兵が馬車の中を見渡し、眉をひそめた。
「なのに、なぜこんなに大勢死んだんだ。まさか……毒殺か?」
「おい、物騒な詮索は無用だ。余計なことを考えるな」
「そうだな」
上にのぼっている衛兵は、そう呟いて荷台からおりる。
「馬車二台分の死体の山がどうやって作られたかなんて、俺ら下っ端は知らないほうがいいな。どうせロクな理由じゃないんだ。異端者にしろ、伝染病にしろ……」
「伝染病? 冗談言うな! 今触っちまったじゃねえか!」
「その手で俺に触るなよ。病気がうつっちまう」
「なんだと。くそっ、俺だけ死んでたまるか! おまえも道連れだ!」
「や、やめろ、ふざけんなって! ──離せよ!! 俺はまだ死にたくない!!」
「──おい、何やってる? そっちはちゃんと確認したのか?」
別の声が割って入った。別の馬車を検分していた衛兵だろう。
「あ、ああ、こっちは全部死体だったよ!」
衛兵が憮然としながら叫び返す。
「じゃあ、門を開くぞ──……」
複数の声と、人の気配が遠ざかってゆく。
しばらくして門が開かれる音が聞こえた。
馬車がゆっくりと走り出す。
それからどれくらい走っただろう。息詰まる沈黙が、ふいに、ゲホッと咳き込む音で破られた。
「エティエンヌさん」
フィアがはたまらず身を起こした。
「大丈夫? 踏まれたりしなかった?」
「踏まれはしなかったけど、思いきり蹴られたよ」
エティエンヌは苦しげに咳き込みながら答えた。
「すごい衝撃だった。はらわたが飛び出すかと思った……本当に」
「け、蹴られた? お腹を? 本当に大丈夫なの?」
「あざになるだろうなあ。……それよりフィア、そっちは平気だった?」
「う、うん。わたしは平気」
フィアは頷いた。
踏まれたといっても一瞬のことだったから、さほど痛くはなかった。ただそれが髪だったから、引っ張られた瞬間に反射的に声を上げそうになってしまったけれど。
なんとか踏みとどまった。
エティエンヌも、蹴られてもまったく声を上げなかった。そのことに感嘆する。
「これで、無事に皇都を出られるかな」
フィアが訊ねると、エティエンヌは頷いてみせる。
「そのはずだよ。さっきは中を調べられたけど、それは本当に死んでるかどうか確認したかったからだ。正門のほうはそんなに警備が厳しくないから、枢機卿の書状一枚で通り抜けられる」
「さっきの人たち、なんて言ってたの? 少ししか聞き取れなくて……」
「別に、たいしたことは言ってなかったよ。命令だから確認しただけで、この死体の山が誰のものなのかも分からなかったみたい。これがウルヴァキアの国王とその騎士たちだと知ったら、きっと仰天するだろうね」
エティエンヌはちょっと笑ってみせたが、にわかに顔をくもらせる。
「たぶん、自分が直接調べたいけど、そうしたら足がつくから控えたってところかな……。たいした念の入れようだよ。そうまでして、絶対に暗殺したかったってことか」
「………」
暗殺という響きがフィアから言葉を奪う。
(ヴィクターさんは……生きてる……)
フィアは自分に言い聞かせた。
何度も。
そう信じているからこそ、今はなんとか平静でいられるのだ。少しでも疑ったら、このまま本当に息を引き取ってしまいそうな気がする。
周りには『かりそめの死体』が山になっている。そこから寝息は聞こえない。呼吸の音もなく、体の熱も感じられない。満ちているのは生の気配ではなく死の気配。それに取り囲まれたこの状況は異様というしかなかった。
(生きてる……でも……)
フィアは自信がない。
たしかに、今はヴィクターはそばにいる。布にくるまれてしまってどこにいるのか分からないが、同じ馬車の中にいる。
でも、この先また命を狙われないという保証がどこにあるだろうか? 国王であるかぎり、こんな危険と無縁ではいられない。殺し、殺され、憎んで憎まれるのだ。そうなることをヴィクターは分かっていたはずなのに。誰よりも、彼が身に染みて分かっているはずなのに──。
(それでも、避けられないんだ)
気持ちは沈むばかりだ。
それでもここがウルヴァキアだったなら、護衛の騎士たちごと全員毒殺されるなんて、そんな物騒なことにはならなかったろう。ここがヴァレンヌだから、異国だから、そんなことになった。そして、成す術もなく逃げるしかない。
(ノイエさんがいてくれたらな……)
フィアはつい、そんなことを考えた。
彼がもう戻ってこないことは分かっている。彼は枢機卿と──シグワスと取引をしたのだ。国王が入れ替わるという無茶な計画に協力するかわり、ヴィクターには手を出すなと。
その約束をシグワスが守っているのなら、ヴィクターはこんな目に遭わなかった。
シグワスは嘘をついたのだ。悲しいけれど、人は簡単に嘘をつく。エドアルドを見ていて、それが学んだことでもある。
それでもノイエは戻ってこない。
もしかしたら黒幕はギィ枢機卿ひとりで、シグワスもノイエも何も知らないのかもしれない。──けれど、そんなことはさして重要なことではない。重要なのは、今ノイエの助けが必要なのに、彼はここにいないということだけだ。
『どちらかが引き下がらねばならないのなら、シグワス殿下ではなく、ヴィクターさまが引き下がればいい。……それが、殿下と枢機卿の共通の認識です』。
以前のノイエの言葉が脳裏をよぎる。
あのときはよく意味が分からなかった。でも今は少し分かる。あれはノイエ自身の思いでもあったのだということが。
(こんなことになるんなら、もっと早く言えば良かった)
フィアは泣きたい気持ちで思った。
(『王さまなんて辞めて、田舎で暮らすほうがずっと楽しい』って。それを言わなきゃって、ずっと思ってたのに……どうして言えなかったんだろう。昨日のうちにでもヴィクターさんを説得できてたら、きっとこんなことには──)
──いや。
無理だ。どう考えても。
ヴィクターが、自分の言うことなどまともに取り合ってくれるはずがない。どうせ「脳みそが乏しいんだから、おまえは何も考えなくていい」などと言って、わずらわしそうに手を打ち振るだけに決まっている。
たとえ誰が忠告しても、ヴィクターが田舎に隠遁などするわけがない。そうしたければとっくにそうしていたはずだ。けれど彼は平穏な人生を選ばず、自ら望んで国王になった。そのために血の繋がった肉親を殺してまでも──
それが、彼の手に入れたかったもの。
いったい何と引き換えにしたら、それを諦めてくれるのだろう。
人生をかけてまで手に入れたものを、どうしたら捨ててくれるのだろう。
説得すると言ったところで、引き換えになるものをまるで思いつけない。
そんなものがあるのだろうか? 全てをなくしてでも、ほかに望むものなど──。
(どうにもならないのかな……)
なかば諦めるような気持ちで思う。
(こうなっても仕方がなかったのかな……)
「なぜ、枢機卿はヴィクター陛下を暗殺しようとしたのだろう……」
エティエンヌの声が、フィアの行き詰まった思考を中断させた。
「……え?」
「だって、おかしいと思わないか?」
エティエンヌはフィアを見た。
「枢機卿は大勢いるけど、その中でもギィ枢機卿は強硬派ではなかった。穏健派でもなかったけど……少なくとも他国を侵略して領土を拡大しようなんて、そんなことを言ってはいなかった。なのに、どうしてこんなことに」
「………」
フィアは黙ってうつむいた。
シグワスだ。枢機卿を動かしたのは、おそらく彼なのだ。
彼が現れなければ、枢機卿もこんな計画を思いつかなかっただろう。けれど彼はあまりにもヴィクターに似すぎている。それを見たとき、枢機卿の心の中に今までにない変化が起こったのかもしれない。シグワスを利用すれば、一滴の血も流すことなく──
ウルヴァキアを、あの広大な王国を、手に入れられるのだ。