KNIGHT AND SISTER《騎士と乙女》

第二十章 皇都に死す 9

馬車がどこかの曲がり道を曲がった。
そのとたん、揺れる荷台に月の光が差し込んできた。
急に明るくなった視界に戸惑いフィアは目をこすった。正面にいるエティエンヌを見ると、エティエンヌは少し疲れた顔をしていたが、それでもフィアを励ますように微笑んでみせてくれた。
(このまま無事に皇都を抜けられますように)
フィアは両手をぎゅっと組み合わせ、祈った。
しかし、そんな祈りを嘲笑うかのように蹄の音が迫ってくる。
最初に異変に気づいたのはエティエンヌだった。緊張したように膝を立て、外の様子をうかがう。それを見てフィアも気づいた。だがそのときにはもう遅かった。蹄の音はまたたくまに馬車を取り囲んだ。
地響きがする。
フィアは不安な顔で周囲を見回すことしかできない。
御者が何か叫ぶのが聞こえたが、なんと言っているのかまでは聞き取れない。ただ、馬車がゆっくりと速度を落としていくのだけは分かった。
「エティエンヌさん。馬車が……」
「道を塞がれたみたいだ。──くそっ、どうして!」
フィアの言葉に、エティエンヌが悔しげに声を絞る。
「ここまで来たのに……っ!」
外で何か言い争う声がした。
剣呑な雰囲気だ。一触即発と言ってもいい。
「か、隠れたほうがいいんでしょうか?」
フィアは布をたぐりよせ、息を呑んで訊ねる。
「こんなところで待ち伏せていた相手だ。今さらもう遅い。それに──」
エティエンヌは青ざめながら布を剥ぎ捨てた。
「生きている者がいるなら、全員馬車を降りろと言っている。降伏しないなら馬車ごと燃やすと。──戦うしかない!」
そしてエティエンヌは剣を引っつかみ、外に飛び出した。
「待って──エティエンヌさん!」
フィアはとっさに叫んだが、止められなかった。
慌てて馬車のへりまで這い寄り、外の闇に目を凝らす。
そして目の前の光景に目をみはった。
「あ……」
呟きが絶望に彩られ、色をなくしてゆく。
暗闇の中に松明の明かりが煌々と燃えている。
──十。二十。──三十。
無数の赤い炎が、あたりをまるで真昼のように明るく照らし出していた。


「──これはこれは。バルニエ家のご令嬢ではありませんか?」
黒いフードをかぶった男が、闇に溶け込みながら声を発した。
「なぜこんなところに? お父上がご心配なさるでしょう。それとも──お父上もこの騒ぎの関係者かな?」
「──黙れ。父は関係ない」
エティエンヌは細い剣を正面に構えて歯軋りした。
「関係ないですって? おやおや……そんな理屈は通らないでしょう、お嬢さま」
くくっと、笑い声が小さく響く。
「あなたはバルニエ家の令嬢で、枢機卿の娘で、法皇騎士の妹……ああ失礼、あなたご自身も法皇騎士でしたね。数合わせの飾りではあっても、法皇の威をかさに着た連中の仲間であることに変わりはない……」
エティエンヌは怒りのあまり顔を赤くする。
「貴様。人を愚弄するにもほどがあろう──」
「おやおや。お仲間が駆けつけてきたようですよ」
フードの男は目を細める。
その言葉どおり、エティエンヌの背後で幾つかの足音が止まった。
「ああ……なるほど。あなたの兄上方ですか?」
フードの男は興味深げに笑った。
その後ろに、不気味な沈黙を保つ騎兵がざっと三十。
「一家揃って反逆を企てるとは、また大それたことを考えたものですな」
「──何が反逆だ!」
エティエンヌはついに叫んだ。
「反逆者は貴様らのほうだろう! ギィ枢機卿にたぶらかされ、法皇猊下に楯突く裏切り者が! ウルヴァキア国王陛下を暗殺しようとし、その騎士たちまでも毒牙にかけた。その大罪、許されると思っているのか!?」
「はははは」
フードの男はかすれた、皮肉げな声で笑った。
「国王暗殺……ねえ? たしかにそれは大罪だ」
「──エティエンヌ。下がっていろ」
エティエンヌの後ろに控えていた法皇騎士が硬い声で言い、前に進み出る。
エティエンヌの兄、イーヴォンだった。
「しかし、兄上──」
「危ないから下がっていろと言っている。二度も言わせるんじゃない」
刃物のような鋭い声が閃いた。エティエンヌは息を呑む。
「………」
剣を握りしめたままうつむいた。
自分が戦力にならないことは分かっている。兄の言うとおり、引き下がるしかない。
けれど相手は三十騎だ。対してこちらは、兄ふたりとその仲間の騎士を入れてもたった四名。本当はもっと数を集めたかったのだが、そこまで動ける人数が確保できなかった。急なことであったし、それに法皇じきじきの密命とはいえ、その法皇イグナレオナ自体が自分で動かせる兵士を持っていない。彼女は無力な籠の鳥なのだ。
「──ギュスラン」
イーヴォンが沈黙を保つ相手方に向かって声をかける。
声をかけられたのは誰なのか分からない。誰も反応しなかったからだ。まるで人形のようにその場に立っている騎兵たちを見上げ、イーヴォンは辛抱強く、だが抑えきれない怒りを滲ませて言葉を継ぐ。
「なぜそんなところにいる? おまえは法皇騎士だろう。法皇猊下のために働き、ヴァレンヌのために働くのが法皇騎士の役目のはずだ。なのにおまえは猊下を裏切り、祖国を裏切っている。──なぜだ? なぜ、そんな怪しげな男の命令に従っている?」
「……隊長殿」
騎兵の列の中から小さな声がした。
まだ若い騎士が松明を掲げている。冷たい青の瞳が見下す先にいるのはイーヴォンだ。
「お言葉を返すようですが、わたしは法皇猊下を裏切ってなどおりません。わたしは猊下のため、国のために働いております。──むしろわたしはあなたに問いかけたい。なぜ、ここにいるのですか、と」
若い騎士は淡々と言った。イーヴォンは思わず反論する。
「猊下から命じられたのだ! ウルヴァキアの国王を守れと──」
「いいえ、それは偽物の王です」
ギュスランが暗い表情で告げる。
彼の気分が塞いでいるわけではなかった。彼は憐れんでいたのだった。
「偽物だと……」
イーヴォンが目を見開く。
「どういうことだ? 何を言っている!?」
「何もご存知ないなら教えてさしあげましょう。──法皇府にいたのは、国王の名を騙る真っ赤な偽物。彼らは我が法皇猊下を愚弄し、ヴァレンヌを侮辱しました。そのような『賊』を討伐するのは法皇騎士の役目ではありませんか。なのにあなたは我々の邪魔をしようとしている。裏切り者はどちらですか?」
「偽物という証拠が何かあるのか!? 根拠もなくそんな世迷言を言っているのなら──」
イーヴォンが叫んだ。
──笑い声が響いた。
フードの男だった。フードの男が高らかに笑っている。
「よろしい」
フードの男は笑いながら言う。
「そんなに知りたいならお見せしよう。『真実』を」
「──兄上! 騙されないでください。嘘つきなのは向こうです!!」
エティエンヌはイーヴォンの服の袖を掴み、声を押し殺して囁く。
「国王が偽物だなんてありえません。わたしたちを混乱させようとしているのです!」
「分かっている!」
イーヴォンは吐き捨てるように言った。
「だが、証拠を見せると言っているのだ。ならば見せてもらおう」
「では、お呼びいたしましょう。本物のウルヴァキア国王を」
フードの男が唇を笑う形に歪め、うやうやしく頭を下げてみせる。
騎兵の列が静かに割れた。
一騎の馬がその中をゆっくりと進んでくる。人を乗せて。
「──な、に」
イーヴォンは目を見開いた。
エティエンヌも同じだった。
ただ、絶句した。言葉がなかった。
「ヴィクター=ウル=ファルス=シヴェリウス陛下……」
フードの男が言いながらゆっくりと顔を上げた。
馬上の人物は何も言わなかった。
手綱を握ったまま、冷ややかな瞳をすっとエティエンヌとイーヴォンに向ける。
「ヴィクター……陛、下?」
エティエンヌは青ざめた。
「どういう……こと? どうして、陛下がそこに──」
あえぐように言い、あまりのことによろめいた。それを支える手はなかった。イーヴォンですら茫然と立ちつくすばかりだった。エティエンヌは地面にしりもちをつき、そのまま立ち上がることができない。
「こちらが本物のウルヴァキア国王陛下だ」
フードの男が言った。
「少々姿かたちが『似ている』からといって、陛下の御名を騙ったのはやりすぎだったな。ウルヴァキアの内情にお詳しく、真実を知っておられるギィ枢機卿はご立腹だ。不届きな『賊』をとらえ、その二国を欺いた大罪を『命をもって償わせよ』と我々に命じられた……」
「──お喋りが多いな。ゲルヌ」
馬上の『ヴィクター』は呟いた。いささか皮肉げな口調で。
「くだらぬ口上はやめよ。時間が惜しい。どうせ全員始末するのだ」
「……は」
ゲルヌと呼ばれたフードの男は殊勝に頭を下げてみせる。
その名にエティエンヌは聞き覚えがあった。
ようやく立ち上がり、弾劾するように指差す。
「おまえ──ゲルヌ=デュトワか!? 猊下を堕落させたのはおまえ……おまえなのに……」
言葉が震える。
目の前の男のせいでイグナレオナは駄目になった。彼女がもっとも孤独だったとき、『自分だけは味方だ』と甘い言葉を囁いて近づいたのがゲルヌだった。イグナレオナは愚かにもそれを信じ、ゲルヌに心を許した。
──彼女は堕ちた。神聖であるべき救世母教の教主が、神の代理人である崇高な存在が、ただの普通の女になったのだ。──そして裏切られた。彼女は絶望し、周囲は失望した。それがすべての元凶だった。
「おまえは都払いを命じられているはずだ。なのになぜ、ここに」
「わたしの罪は赦されたのだよ。──法皇猊下によって」
ゲルヌは薄く笑った。
無精ひげが目立ったが、顔立ちは精悍な中にも甘さがあり、魅力的な男ではあった。だが手のひらを覆う火傷のあとが彼の卑しい素性を語っている。イグナレオナを裏切り、激怒して感情的になった彼女によって焼かれた手。神の座にいた女を地上まで引きずり落としておきながら、それを見て『浅ましい』と笑った男に下された、それがささやかな罰だった。
「嘘だ。猊下がおまえを赦すわけがないっ!! あんなに憎んでおられたのに──」
「ところが、赦されたのだ」
ゲルヌはあっさりと言って肩を竦める。
「『癒しの聖女』を皇都に連れてくればすべて不問に伏すと、猊下自ら仰った。──わたしへの憎しみは、より大きな憎しみによってかき消されたのだ。お気に入りの法皇使徒を死に追いやった娘に対する、抑えがたい憎しみ──」
その言葉を聞いてエティエンヌは青ざめる。
「やめろ」
エティエンヌは息も絶え絶えに呟く。
「それ以上言うな──」
「何が不満だ? 人の身でありながら神と呼ばれている女が、やはりただの女だったと知らされるのがそんなに嫌なのか?」
ゲルヌが嘲笑する。
エティエンヌはついに叫んだ。
「──ゲルヌ、貴様ぁぁぁっ!!」
その声は闇を切り裂いて響く。
「貴様の言葉など聞きたくない! 猊下を貶め、苦しめ続けた貴様の言葉など──!!」
「さて。苦しめているのはどちらかな?」
生ぬるい風が吹く。
ゲルヌの体を覆う黒いローブがその風をはらんで膨れ上がり、はためいた。
「わたしは彼女の望むものを与えただけだ。だが、おまえたちが何を与えたというんだ? せいぜい『重荷』くらいだろう。彼女はそれに苦しんでいた。だから解放してやったんだよ。感謝されこそすれ、憎まれる筋合いはないな……」
「もういいだろう」
馬上の『ヴィクター』が静かに言った。
「時間がないと言った。さっさと馬車に火を放て」
「……して、このヴァレンヌ人たちはどういたしましょうか、陛下?」
ゲルヌが慇懃に問う。
『ヴィクター』はそれをちらりと一瞥してから、エティエンヌとイーヴォンに視線を戻す。
その後ろには末兄のジュリアンが青ざめて立っている。法皇騎士ではない彼は御者としての役目を与えられていた。剣をまともに握ったことがなく、戦いには不慣れだ。こんな状況になってしまい、ジュリアンは言葉もなく茫然と立っていることしかできない。
その横に立っているのはイーヴォン配下の法皇騎士だが、その男もまた動揺していた。これほど危険な任務とは知らされていなかった。しかも、敵として立ち塞がっている騎士たちの大半に見覚えがある。どう見ても彼らは法皇騎士だ。仲間が敵として現れるとは思ってもみず、どうしていいのかわからないでいる。
「──聞くまでもあるまい」
『ヴィクター』はゆっくりと馬首を返しながら呟いた。
「おまえに任せる。ゲルヌ」
「御意……」
「あ──あなたは誰なのですか!?」
エティエンヌは『ヴィクター』に向かって叫んだ。
「本当にヴィクター陛下なら、わたしたちのことを──」
「よせ、エティエンヌ」
イーヴォンがかすれた声でそれを制する。
「彼は我々を殺せと言った。今ので分かったろう? どちらが本物か偽物か分からないが……わたしたちが一緒にいたのはあの男ではない。話しかけても無駄だ」
「で、でも──」
「……それより、どうするんだっ!」
後ろからジュリアンが声を荒げる。
「相手はあの数だぞ! いくら兄上が強いといっても、この状況じゃどうにもならない。早いところ負けを認めて逃げたほうが──」
「逃げられるわけがないだろう」
イーヴォンが剣を構えなおす。
「だが、それはわたしの話だ。おまえは騎士ではない。早くここから逃げろ」
「あ、兄上はどうするんだ!?」
「どちらが本物の王か偽物の王か──そんなことに興味はない。わたしはただ猊下のご命令に従うだけだ。だからこの馬車を守る」
「イーヴ兄上、わたしも──」
「おまえもだ、エティエンヌ」
イーヴォンは前を見据えたまま鋭く命じた。
「無駄死にはするな。……父上が悲しむ」
最後だけ、口調が優しくなる。
エティエンヌは融通の利かない頑固な兄の横顔を見つめ、息を呑む。
イーヴォンは引かない性格だ。それにわりとすぐ頭に血がのぼる。冷静なふりをしているが、きっと今もそうだろう。こうなってしまったら何を言っても無駄だ。だが、だからといって、こんなところにひとりで残していけない。それでは見殺しにしたも同然だ。
「お、俺は──」
イーヴォンの配下の騎士は動揺していた。
「おまえも無理はしなくていい」
イーヴォンがそれにも声をかけた。
騎士はまだ新米だった。彼はみるみるうちに戦意を喪失し、へたり込んでしまった。
なんのために戦うのか定かでないうえ、相手が仲間の騎士たちとくればそれも仕方がない。実直な男だが、実直ゆえにこのようなときには役に立たなくなる。イーヴォンは仕方がないと諦めた。
「エティエンヌ」
彼は妹に声をかけた。
「は、はい」
「馬車の中にいるシスターを連れて逃げろ。ジュリアンは屋敷に戻ってテオドールに援軍を頼め。それまで──死なないでいるように努力はする。だがもし戻ってきたときにカタがついていたら、すぐに引き返して父上を連れて逃げるんだ。おそらく我々は反逆者にされる」
「あ、兄上」
エティエンヌは蒼白だった。
「……分かった」
ジュリアンは短く言い、身を翻す。
だが、敵の騎士が動いた。すぐにジュリアンの前に回りこみ、道を塞ぐ。
「無駄だ」
冷たい声が響く。
「くそぉっ……!」
ジュリアンは追い詰められ、冷や汗を流しながら後ずさる。
もはや成す術もない。
──絶体絶命だった。