「ん……」
アラリスは身をよじり、それから、周りの狭さに目を閉じたまま顔をしかめた。
その直後、何か憑き物が落ちたようにふっと意識が鮮明になった。アラリスはがばっと身を起こした。寝ているあいだにかいていた大量の汗が、こめかみから伝ってぱっと周囲に振り落ちる。
「オスカール! ──フィアッ!!」
悪夢の続きをそのまま見ているような気分だった。
叫んだアラリスは、しん、と静まり返った周囲を見回す。
どうやらそこは薄暗い馬車の中だった。ガタゴトと回る車輪の音で気づく。左右には大量の荷物が積み込まれていた。白い布に包まれた大きな荷物だ。アラリスは指を伸ばし、布をめくった。
「───」
絶句した。
青ざめた、死人のような顔が現れた。
それはよく見知った、近衛騎士の顔だった。ずっと一緒に旅をしてきたから、全員の顔と名前は頭に入っている。アラリスは続けざまに他の布もめくった。次々と現れてくる『知っている顔』に、言葉もない。
「そうだ。薬を……飲まされて……」
茫然と呟き、その場にへたりこんだ。
晩餐会だ。あの夜、ヴィクターは泥酔したように二階に上がってきて、部屋に入ったきりそのまま目を覚まさなかった。動揺する自分とフィアの前に現れたのはエティエンヌで──
(わたしもオスカールも、戦う前に倒れたんだ)
不覚だ。
こんな形で、膝を屈することになるなんて。
唇を噛み、アラリスは「くそっ!!」と壁を叩く。
「やっと、話し相手ができたようだ」
そのアラリスの耳に、聞いたような声が、皮肉げな響きを帯びて滑り込んできた。
驚いて顔を上げると、隅に男が座っていた。
その顔を見て、アラリスは目を見開く。
「ヴィクター──! 無事だったの──」
「──アラリス」
驚きと、安堵で叫んだ。そのアラリスの名を、別の声が別の方向から呼んだ。
御者台のほうだ。とっさに立ち上がり、外を見る。
御者台にはフードで顔を隠した男が座っていた。
その向こうには朝焼けが紫色に広がっていた。
「残念ながら、そいつぁはヴィクターじゃない。瓜二つだが『ニセモノ』だ」
その声には聞き覚えがあった。ガーラントだ。
「族長!」
アラリスは驚いて叫ぶ。「どうしてここに?」
「心配で様子を見に来たのさ。来なきゃ良かったと少し後悔してるとこだがなー」
ガーラントは前を向いたまま飄々と答える。
「すみません。わたしが未熟で」
アラリスは唇を噛む。
ガーラントから「ヴィクターの護衛をしろ」と命じられたのは何ヶ月か前のことだった。
理由はよく分からない。実際のところ、そんなことをして何になるのかと思ったこともある。けれどガーラントは、自分の生まれた部族の族長だ。族長の命令は、部族にとっては神の掟である。だから逆らえなかった。だからヴィクターを守り続けてきた。
つもりだった。
「まあ、仕方がない。ヴィクターの護衛ってのは、案外ホネだ。あいつは人の言うことを聞かないからな」
ガーラントは言って、ゆっくりと馬車の速度を落としてゆく。
「あの、それで族長、『ニセモノ』とはどういう意味ですか?」
「ヴィクターには兄貴がいたらしい。そいつがそれだ」
「兄? 兄ですって?」
アラリスは目をみはった。
もう一度まじまじと隅の男を見る。が、どう見てもそれはヴィクターだった。向こうもふてぶてしい態度でアラリスを見つめている。よく見てみれば全身縄で縛られているのに、自分の立場が不利だと自覚していない様子だった。
「ヴィクターじゃない……? こんなにそっくりなのに?」
「アラリス、体の調子は?」
唐突にガーラントが訊いてくる。
「え? ええ、大丈夫ですが」
アラリスはとっさに答えた。
実はまだ少し本調子ではない。頭が割れるように痛いし、ひどい寒気もする。けれど、そんなことくらいで弱音を吐いている場合ではない。それに、それほどやわに育ったわけでもない。
「じゃ、変わってくれ。尻が痛くなってきた」
ガーラントは飄々と言い、馬車を止めて御者台をおりる。
アラリスも荷台からおりて、ガーラントと入れ違いに御者台に上がった。
「それはいいですが、どこへ向かってるんですか?」
「道なりに走って、森に入ったら修道院を探す。まあ、明るくなれば見つかるだろ」
ガーラントはアラリスの肩を叩き、荷台に乗り込んだ。
「修道院。……はあ」
アラリスは首を傾げつつも、言われたとおりに馬車を走らせ始める。
「大事な手下に変なことを吹き込まれても困るからな。代わらせてもらった」
ガーラントは言い、よっこらしょとばかりに空いている場所に腰をおろす。
すでに馬車は走り始めていた。
隅の男──シグワスは、縛られた不自由な姿勢のままで肩を竦めてみせる。
「わたしに何が出来るというんだ? 殺されるのを待つばかりではないか」
「そのわりには元気そうじゃないか。え?」
ガーラントは足を投げ出し、肩を竦める。
「話し相手が欲しかったんだろ? 相手してやるから何か話せよ。ほら」
「おまえと話してもな」
シグワスはうつむいて笑う。
「主君は変えない主義なのだろう?」
「またその話か。あんたも懲りんな」
ガーラントは呆れて顔をしかめる。
「俺はヴィクターと『契約』してるんだ。あんたと組んでもなんの得もない」
「どんな契約だ?」
「内容を話すのは契約違反なんでね。悪いが──」
「おまえの部族の故郷、たしかエナキア≠ニ言ったか」
シグワスが突然話し出した。ガーラントの言葉を遮って。
「………」
ガーラントが一瞬黙り込む。
シグワスは言葉を続けた。
「おまえの目的は知らぬでもなかった。故郷が『法皇直轄領』として召し上げられたことに不満を抱いているのだろう? それ以来、おまえの同胞は奴隷扱いだからな。金のかからぬ労働力として海の向こうに渡らされ、行方知れずになった者も多いと聞く」
「なぜそれを?」
ガーラントは低い声で訊ねる。
「ヴァレンヌでも、そんなことを知っている人間は一部だ」
「当然だ。ここの人間は、肌の黒い人間のことなど興味はないからな」
「………」
「わたしが以前いたところと、おまえの故郷はたまたま近かったのでね。港へ行くと、よくおまえのように肌の黒い者たちが並んで船に乗せられていた。後ろから、法皇騎士に追い立てられるようにしてな。あれはなかなか哀れな光景だった」
ガーラントはいまや完全に黙り込んでいた。
シグワスは淡々と続ける。
「おまえはおまえの部族を救おうとしているのだろう? ガーラント=オルベニウス。さっきの女がおまえを『族長』と呼んだが、まさかおまえが『族長』だったとはな。それだけは意外だった。てっきり、腕が立つだけの下っ端だと思っていたからな。でなければ、ウルヴァキアに入り込んで親衛隊長などという職におさまっているはずがないと」
「勘違いしているようだが」
ガーラントは目を細める。
「『族長』は俺以外にもいるんでね。てっぺんにいるのはまた別の人間だ」
「そうか。それは失礼……というより、買いかぶっていたというべきかな」
ガーラントは黙っていた。
「これ以上ヴィクターと組んでもなんの利益もないぞ。分かっているのだろう? ガーラント」
シグワスが念を押すように問いかける。
「あの男はわたしの父を殺した。そして、そのことは枢機卿も知っている。法皇の耳に入るのも、そう遠くないうちだろう。そうなればおまえたちの企みは完全に潰える。おまえたちはお尋ね者となり、ウルヴァキアからもヴァレンヌからも追われる身となる。捕まれば断頭台に上らされ──」
全てが『終わり』だ。
そう、シグワスが言う。その唇には笑みが滲んでいた。
「……俺にどうしろってんだ?」
ガーラントは投げやりに言った。
「ヴィクターを見捨てて、あんたにつけって?」
「そうしたほうが得だろうな。もはやヴィクターはヴァレンヌから見放されている。法皇は枢機卿の操り人形だ。ここでわたしを始末すれば、枢機卿はヴィクターを告発し、結局は血を流さずにウルヴァキアを手に入れるだろう。そのほうが枢機卿にとっては望ましい結果だろうな」
「王がいないのに、ヴァレンヌから乗り込んできた枢機卿が政治の実権を握るって?」
ガーラントは顔をしかめる。
「ウルヴァキアの貴族や騎士連中が黙ってない」
「ああ。内乱になるだろうな」
シグワスは当たり前のように頷いた。
「だが、結局は法皇騎士団に鎮圧される」
「………」
「数や質ではウルヴァキアの騎士団が勝っても、ヴァレンヌには他国からの援軍がある。法皇が一声かければ、ウルヴァキアにはありとあらゆる国から軍隊から送り込まれるだろう。……そうしておまえの故郷も失われた。そうではなかったか? ガーラント」
ガーラントはもはや何も言えない。
いやな感覚が胸を焦がす。
追い詰められる感覚だ。
「枢機卿がヴィクターよりもわたしを選んだのは、枢機卿の『理想の統治』とやらには、わたしのほうが都合のいい『駒』だからだ。それに、わたしを王座に据えておけばウルヴァキアを平和的に手に入れられる。いくら枢機卿でも、内乱だの戦争だのは避けたいところだろうからな」
シグワスの言葉を聞きながら、ガーラントは胸のうちで(馬鹿が)と呟く。
(おまえのヘマだぞ、ヴィクター)
しかし、ヴィクターのせいではないことも分かっていた。
シグワスは、前国王の息子だという。まさかそんな人間が現れるとは思っていなかった。
どうやってシグワスが父親の死を──暗殺されたと──知ったのか分からないが、そんなことはどうでもいい。問題は、シグワスが信じ、話すことを、枢機卿はそのまま真実として受け入れるだろうということだ。自分の野心のために。
「それでもわたしを殺すか? ここで」
シグワスはガーラントを見つめて問いかける。
その口調はあくまで穏やかだ。しかし、言っている内容はナイフのように鋭い。
「俺がその『枢機卿』とやらをグサリとやったら、そりゃただの夢物語にならないか」
ガーラントはぼそりと言ったが、シグワスは無理だというように笑う。
「枢機卿は用心深い。それに、おまえの故郷は法皇騎士団に占領されているのを忘れたのか?」
シグワスの言うとおりだ。
今は表立ってヴァレンヌに逆らえない。故郷の部族は人質にとられているも同然だ。だからこそ、ガーラントが自らウルヴァキアに入り込み、国王に近づいたのだ。ウルヴァキアの力をもってヴァレンヌと交渉し、部族の自由を取り戻すために。
「チッ。ついてねえ」
ガーラントは舌打ちする。
「──わーかった!」
ついに降参したように両手を上げる。
「俺の負けだ。どうすりゃいい?」
悔しいが、縛られ、身動きすらできない男に完敗した。
「では、わたしに従うのか?」
「そうすりゃ、あんたは俺の力になってくれるんだろ? え? 断るなら斬るぞ」
なかば冗談、なかば本気で言うと、シグワスはふっと笑う。
「もちろんだ。しかし、それなりの働きはしてもらうぞ」
「この期に及んで何をしろって?」
「そうだな。まずは……」
シグワスは一呼吸おき、静かに言った。
「この縄をほどいてもらおうか? 少し窮屈でね」
「分かったよ」
ガーラントはため息をつきながら腰を上げ、シグワスに近づいた。
自分が縛った縄を苦労してほどきながら、まじめな顔で口を開く。
「ひとつ、言っていいか」
「何だ」
「あんたの父親を殺したのは、この俺だ。それでもいいのか」
「………」
シグワスはしばらく黙っていた。
その沈黙は思いのほか長く続いた。
ガーラントはそのあいだ、黙々と結び目と格闘する。
「わからんな」
やがてシグワスは呟いた。
「なぜ皆、あの男を庇う?」
「別に庇ってるわけじゃない」
ガーラントは最後の結び目をほどき、縄をくるくると外しながら言う。
「あんたの父親は、俺が殺した。焦ったんだよ。あんたの父親じゃあ、いつまでたっても俺の目的は達成されそうになかったからな。だが、ヴィクターが国王になればそれが叶うと思った。だからやった」
言いながら、ガーラントは縄の最後のはじをたぐり寄せた。
シグワスはようやくいましめから解き放たれ、疲れたように首を回す。
「まあ、そういうことにしておこうか?」
彼は感情の見えない顔と声で言った。
「国に帰れば、わたしは『ヴィクター』だ。『叔父』を殺した大罪人と、後ろ指を刺されるのも少々都合が悪いのでね」
ガーラントはそれを聞き終えると立ち上がり、御者台にいるアラリスに声をかける。
「アラリス」
「……はい」
やや強張った声が、すでに答えだった。
「話は聞いてたな?」
「少し、聞こえました」
普通なら、耳をすませても聞き取れないだろう。ほろつきの荷台の中で交わされる会話など。
しかしアラリスは別だ。舗装されていない道に車輪の音を響かせて馬車を走らせながらでも、他のあらゆることに注意を払える。小さなころから、そういうふうに訓練されてきた。
「内容は把握してるか」
「推測はできました。でも、族長」
「俺はこいつにつくことに決めた。おまえもそれで異議はないな?」
「………」
しばらくアラリスは沈黙していた。
「ないな?」
「……はい」
念を押され、アラリスは押し出すように頷いた。
「では、馬車の速度を上げろ。後ろの馬車を振り切ったら、俺はこの男を連れて飛び降りる。おまえはこのまま修道院を目指せ」
「わたしを置いていかれるのですか?」
アラリスがようやく振り向いた。
その顔に、苦しみが滲んでいる。
それを見て、ガーラントは悟った。
初めから分かっていた。
(やっぱりな。こうなると思ったんだ)
心の中で呟き、ガーラントは目を閉じる。
(あの人たらしが! 手塩にかけて育てた手下を横取りしやがって)
「わたしは、一族のために戦ってきたつもりです! あなたが行かれるなら、わたしも」
「いや。おまえはこのまま修道院に向かえ」
ガーラントは冷たく、断固として言った。
「それから隙を見てヴィクターを始末しろ。いいな?」
「殺せと?」
アラリスの声は青ざめていた。
「ああ、そうだ。殺せ。こうなったらあいつは邪魔だ。必ずやり遂げて、ウルヴァキアに戻って来い。待ってるぞ」
「それが、あなたの命令ですか。ガーラント」
アラリスの声は震えていた。手綱を持つ手も震えている。
「そうだ」
ガーラントは頷く。
「『族長』の命令は絶対。そうだな? アラリス」
「そ、う──ですが──でも」
アラリスはまだ迷っていた。
ガーラントは囁くように言葉を重ねた。
「掟に背いて、村を追放されたおまえの母のことを思い出せ。またあの惨めな生活に戻りたいか? どこにも行き場がなく、食べるものも着るものもなく、打ちひしがれた母の手を引いてさまよい歩いたあの生活に」
それで、アラリスは意を決したようだ。
「分かりました」
その声に、もう迷いはない。
「あなたの命令どおり、ヴィクターを殺します」
その声はわずかに震えていたが、アラリスはまっすぐに前を見つめている。
「文句はないだろうな?」
振り返り、ガーラントはシグワスに向かって鋭い視線を投げる。
「こうなった以上、ヴィクターを生かしておいては邪魔になる」
「さっそく働いてくれるというわけか。ありがたい話だな」
シグワスはいささか皮肉げに言った。
「あんたを『ヴィクター』と認めよう」
ガーラントは眉間に皺を寄せ、言う。
「そのかわり、ヴィクターが俺に約束したことは、あんたにやり遂げてもらう」
「おまえの故郷から法皇騎士団を全員撤退させ、『法皇直轄領』から『自治領』に格上げする。──たやすいことだ。せいぜいわたしの機嫌を損ねないように働くことだな。ガーラント=オルベニウス」
シグワスはガーラントをじっと見て言った。
「………」
ガーラントは憮然とした表情で目を逸らし、その場にどさりと座り込む。
(『自治領』だと? ハッ。やっぱりヴィクターのほうが気前が良かったぜ)
やりきれない気持ちで思う。
(まあ、あいつの約束はただの口約束だけどな。もう忘れてるだろうし)
馬車がにわかに速度を上げる。
(だが俺は、それでも良かったんだ。なのに──)
もう戻れない道へと走り始めている。
振り向けば、そこにあるのはどうやら断頭台らしい。味気ない現実だ。
(お互い、ヘタ打ったな。ヴィクター)
ガーラントは胸のうちで呟く。そして彼らしくもなく、珍しく憂鬱な気分になったのだった。