ヴィクターとアラリスがそこへ辿り着いたとき、すでに門は開門の準備が始められていた。
「急げ! 民を死なせてはならぬ!」
張り上げられた怒号に、ヴィクターとアラリスは顔を見合わせた。
わずかな沈黙のあと、ヴィクターはフードをかぶって自分の顔を隠す。
「──シグワスだ」
小さく呟き、慌てふためきながら開門する門兵たちに背を向ける。
足早に歩きだした彼を、アラリスもマントの裾を翻して追った。
「なぜ、奴がここにいる?」
言いながら、アラリスは振り返ってシグワスの姿を視界におさめた。
シグワスは完全にヴィクターに成りきっているのか、それとも、正体を見破られることはないと高をくくっているのか、衛兵たちに向かって本物の国王さながらに堂々と命令を下している。衛兵たちのほうもヴィクターと信じて疑っている様子はない。必死の形相で開門している。
「今のを聞いただろう? 王都を解放するつもりだ」
ヴィクターは言った。アラリスは反論する。
「しかし、火をつけたのは奴の協力者たちだろう!」
「だが、そばに枢機卿がいない」
「だから? ……火をつけたのは枢機卿の独断で、あの殿下は関係がないと?」
「かもしれないし、違うかもしれない。奴の考えていることは分からん」
ヴィクターは顔をしかめる。
いくら兄弟と言っても、今の今まで別々の場所で生きてきたのだ。ヴィクターにいたっては、シグワスの存在さえ知らなかった。その兄が何を考え、どうしようとしているかなど、分かるはずもない。本気で民を救うつもりで行動しているとは思えないが、見たところ誰かを欺こうとしているわけでもなさそうだ。
「逃げるのか、ヴィクター」
どんどんその場から遠ざかるヴィクターに、アラリスは不満を漏らした。
「今のうちに奴を斬ってしまったほうがいいのに」
「衛兵が見てる」
ヴィクターは答えた。
「だけど、わずかだよ」
アラリスは反論した。
「おまえが『ヴィクター』であることは間違いないんだから、この醜聞は、ここにいる人間の口を塞いでしまえば──」
「人の口を塞ぐのは簡単じゃない。……それに、シグワスがいるということは、ガーラントもいるってことだぞ。命が危険なのはこっちのほうだ。逃げるにかぎる」
「──城へ走らせた者はまだ戻ってこんのか!」
ヴィクターの声の上に、シグワスの怒鳴り声が重なった。
ヴィクターは一瞬、足を止めて振り返った。
衛兵の震える声がする。
「はっ、おそれながら陛下、おそらく城も混沌とした状況であると……」
「誰でも良い。もうひとり行って救援を呼んで来るのだ。それから、外に張る天幕を──」
シグワスの断固たる口調があたりに響き渡った。
自分を見ているようで、そうではないような、今まで感じたことのない不思議な感覚だった。
シグワスは何をしようとしているのだろう。
本気で民を救うつもりか。それとも、あとで自分の功績を誇りたいだけか。ヴィクターには分からない。あれほど瓜二つの容貌を持ち、誰よりも近い血を持っているというのに、シグワスの存在はヴィクターにはひどく遠く感じられた。
空は王都から立ちのぼる煙で灰色に染まっている。先ほどまでは乾いた風が吹き荒れていたが、いつのまにか空気は湿り気を帯び、彼方からは不穏に轟きながら黒雲が近づいてきていた。
──このまま雨になればいい。
ヴィクターは祈るように思い、そのまま歩き出そうとした。
しかし、神に祈った瞬間、目の前に不吉な姿が現れる。
「よう。ヴィクター。どこへ行くんだ?」
軽快に笑うような、けれど奥底に凄みを滲ませる声はガーラントのものだった。
「こんなところで会うとは奇遇だな? もっとも、こっちが撒いた餌だが……」
ガーラントは言うなり剣を抜いた。その顔は笑っていなかった。
「ガーラント──」
アラリスは目をみはりながら相手の名前を呼んだ。その声には驚きと、ついにこのときが来てしまったというような覚悟の色が滲んでいる。静かに伸ばした手が剣に触れた。そして彼女は、迷わずにそれを抜き放った。
「いけません、ガーラント。こんなところで戦いなど」
「この騒ぎだ。誰も見とらん。──見ても、忘れるさ」
ガーラントはふてぶてしく言い放つ。彼が言うとおり、門の周辺は閑散として人けがない。あるのは右往左往する衛兵の姿ばかりだ。民も、おおかたの騎士たちも教会のほうへ、王都の中心部へと集まっている時刻である。
「しかし! 剣をまじえれば嫌でも人目を引きましょう。あそこにいる男と、わたしの後ろにいる男。誰がどう見ても瓜二つです。ウルヴァキアの国王が『二人もいる』などと噂になっても良いのですか?」
押し殺した声でアラリスが問いかける。
ガーラントは舞い飛ぶ灰の中で笑った。
「噂など、いつでも潰せる。力でな」
「そう──わたしたちは力を欲してきた!」
アラリスは叫んだ。彼女の束ねた黄金の髪が、炎が生み出す熱気に煽られる。絹糸のようにほつれたそれは、美しい頬にかかってそれを悲壮に見せた。
「部族を、ヴァレンヌの奴隷という呪われた運命から解き放つために。けれどその計画のためには、ここでこの男を──ヴィクターを殺さないほうが良いのです。あなたの下した決断に文句をつけようとは思いません、けれど! だからといって、昨日まで手を結んでいた人間を斬るなどと!」
「よく考えてみろ、アラリス」
ガーラントは静かに言った。
「おまえの後ろにいる、その男。その男もまた、平然と身内を手にかける男なのだぞ」
「それは──」
アラリスは言葉に詰まった。
「下がってろ、アラリス」
ヴィクターは立ち尽くす彼女を軽くおしのけ、前に出る。
ガーラントを正面にして、ヴィクターはしばらく沈黙を保った。
フードをかぶったままだから、視界が若干遮られる。そのため、指先でフードの縁を軽く上げた。その下から鋭い目でガーラントを見据えると、ガーラントも目をすがめてヴィクターを眺めた。
「おまえのそんな顔を見るのも、久しぶりだ」
ガーラントは笑った。冷たく、静かに笑った。
「そういや、昔はいつもそんな顔をしていたな」
「そうだったか?」
ヴィクターは言いながら、マントの裾を広げて剣を抜く。
「もう覚えてない。おまえと会った頃のことなんて」
「おまえの本性はけだものだ。ヴィクター」
ガーラントはヴィクターを見つめて言った。
「自分のテリトリーにけして他人を踏み込ませない。自分より劣る人間には絶対に従わない。それは獣の生き方だ。──だがいつのまにかおまえは、野良犬から飼い犬になったようだな。ぬるま湯の人生は楽しいか? ヴィクター?」
「生憎、俺は犬じゃないんでね。犬の気持ちを聞かれても、答えようがない」
言いながら、ヴィクターは全身にびりびりとガーラントの気迫を感じていた。
ガーラントが強いのは分かっている。
知っているのだ。嫌と言うほど。
何十回、何百回と剣をまじえても、勝てたことはただの一度もなかった。ヴィクターが子供の手には余る剣を初めて持ったとき、ガーラントはすでに、数え切れないほどの人間をその手にかけていた。
前国王主催の闘技の場で、勢い余って相手の騎士を殺してしまったことさえあった。けれどそれは事故として片付けられた。すでに勝敗は決していたのに、自分が負けたことを認められず逆上した相手の騎士が、狂ったようになってガーラントに襲いかかった──それが原因だったからだ。
人の理性をずたずたにしてしまうほどの強さ。
ウルヴァキア最強の騎士。かつて、その称号は偽りではなかった。
「おまえが憎いわけじゃない。ただ、こうなるかもしれないと、どこかで感じていたのかもな」
その最強の騎士が淡々と言う。
「おまえは変わった。良くも悪くも。そして今のおまえには、これ以上望むものは何もないんだろう。野心をなくし、剣を抜くことさえためらう。──だが言ったはずだぞ、ヴィクター。今さら平凡な人生を望んでも、引き返す道などどこにもないとな!」
その言葉が合図だった。
ガーラントが剣を構えて突進してくる。
突然、人が人の形をとることをやめ、風になったかのようだった。
打ち返したが、すぐに劣勢に追い込まれる。ヴィクターは瞬時に不利を悟った。
アラリスと戦ったときとは違う。あまりにも。たしかに彼女は強かったが、負けるとは思わなかった。なぜなら、彼女の剣筋があまりにもガーラントに似ていたからだ。ガーラントの剣を数え切れないほど受けてきたから、アラリスの攻撃は最初からある程度の予測がついていた。だから避けられたし、勝てた。
しかしこれは、紛れもなくガーラント本人の剣だ。
この剣には負けた記憶しかない。勝てる気がしない。
しかしそれも、理性が作り出した勝手な幻想かもしれない。
(勝てなかったのは──昔のことだ──今は、お互いに──変わった)
剣を打ち合わせながらヴィクターは思った。
その瞬間、突破口が見えたような気がした。
(ガーラント=オルベニウスも、不老不死ではない。殺そうと思えば──殺せる!)
ヴィクターに剣を教えたのは、たしかに、目の前の男だった。
しかし、思えばあの頃がガーラントの全盛期と言って良かった。ウルヴァキア最強の騎士が最強の地位にいたとき、手加減なしの教えを受けたのが自分なのだ。そうヴィクターは思った。──いや、感じた。剣の稽古をしていなくても、体が勝手に反応する。死を避けて動く。そのことが、ガーラントが教えた剣の『確かさ』を何よりも物語っている。
ヴィクターが打ち込んだ剣が、ガーラントが繰り出そうとしていた一撃を封じ込めた。
勢いを失い、地に落ちる剣を踏みつける。だが別方向からもう一本の剣が襲い掛かってきた。二刀流だ。ヴィクターは剣を踏みつけたまま応戦しようとしたが、バランスを崩して飛びすさる。瞬時に二本の剣が首を挟むようにして飛んでくる。避けられたのは奇跡のようなものだった。
(勝てる)
はたから見れば劣勢であるのに、閃いたのは勝利の確信だった。
それは『確信』ではなく『可能性』であったかもしれない。けれど、それでもヴィクターには大きなものだった。理性を振り捨てて叫び、剣を振るう。受け止めるガーラントはわずかに顔色を変えた。剣を打ちかわすこの距離で、彼のそんな顔を見るのは初めてだった。
「──やめて! どちらも剣を引いてください!!」
アラリスが叫んでいるが、ヴィクターの耳を素通りしただけだった。
戦いは両者互角のまま、もつれながら細い路地へと場所を移す。人けがなく、戦いに集中できるところを本能的に探した結果だ。しかし二本の剣を振るうガーラントにとっては不利な場所と言えた。
だが、ヴィクターにとっても有利な場所とは言えない。
人目につかない場所で葬り去られれば、すべてが闇に消えてしまう。表で戦えば誰かが気づいて駆けつけてくるかもしれないが、ここまでは来れない。頼れるのは自分だけだ。
研ぎ澄まされてゆく感覚の中で、剣を打ち合わせる音が魂の奥底に深く、重く響いてゆく。
前に出、後ろに下がり──それを繰り返しながら、ふたりは鉄の剣を振るって全力でぶつかりあわせた。一瞬の休みもない。
アラリスは呼吸も忘れてそれに見入っていた。割り込んで、手を伸ばしでもすれば、その瞬間に腕が引きちぎれて空を舞うだろう。そう思うほどの熾烈な戦いだった。とても手が出せない。
けれど、いつ終わるともしれなかったその戦いも、ふいに途切れる。
どこかで爆発音がした。
その余韻が空に轟いた。何か大きなものが崩れるような音だった。
アラリスはとっさに駆け出して路地を出た。大通りに出ると、教会の上に異様な黒い煙が上がっている。まるで異界から現れた魔神が手を広げ、教会を飲み込もうとしているように見えた。崩れたのは尖塔らしい。空に向かって三角に伸びていた細く美しい塔が、今は影も形も見当たらなかった。
「教会だ!」
叫ぶまでもなく、ヴィクターも戦いを放り出して駆けてきていた。
彼はそれを自分自身の目で確かめた。
「──なぜ」
かすれた声が漏れる。
アラリスは教会を凝視して口を開いた。
「何か爆発したぞ。あれは火事なんかじゃない、火薬の音だった。教会に火薬をしかけたんだ」
「暴徒はヴァレンヌの者だったはずだ……」
ヴィクターは息を呑んで言った。
「だとしても、見ろ! 爆発し、燃えているのは教会だ!」
アラリスは叫び、ヴィクターの肩を掴んだ。
「こんなところで時間を潰してる暇はないぞ、ヴィクター。あそこには王都中の民が集まってる。他でも爆発が起きたらどれほどの騒ぎになる!?」
その言葉でヴィクターも我に返ったようだった。蒼い瞳に生気が戻る。
命がけの戦いから、いきなり現実に引き戻されて一瞬混乱したのだろう。
それからしばらくして、雪崩を打つようにして人が押し寄せてくるのが見えた。
広い大通りを、我先にと人々が駆けてくる。
その足音と、死に追われているかのようなヒステリックな悲鳴が大地を揺るがした。子供の泣く声も重なり合い、もはや混沌とした状況だ。人々は路地裏に茫然と立っているアラリスとヴィクターには目もくれず、ぶつかりあいながら門めがけて逃げようとしている。
ヴィクターは彼らの行く先へ視線を転じた。
巨大な門は開け放たれていた。衛兵が城壁の上に立ち、津波のように押し寄せてくる民に向かって手を振り回しながら絶叫している。「こっちだ!!」「慌てるな、押し合うな!!」「落ち着け、落ち着けーッ!!」──。
その傍らに、ひとり、シグワスが立っているのも見えた。
灰を含んだ風が吹く、城壁の上から民を見下ろしている。
泣き叫び、逃げ惑う民を見下ろしている。
国王になりすまし、いちはやく王都の門を開放させた彼が何を思っているのか、ヴィクターには分からなかった。一瞬、シグワスがこちらを見たようにも思ったが、遠すぎてその確信は持てなかった。
「戦いは中断だ」
ヴィクターは振り返らずに言った。
それを、ガーラントは路地の奥に突っ立ったまま無言で聞いている。
「いずれ決着はつけると約束する。必ず。……だから今は、行かせてくれ」
「おまえに期待なんかせん。何も」
ガーラントは静かに言った。その低い声は、狭い路地によく響く。
「期待しても空しいだけだ。裏切ったのは──俺のほうだからな」
それが答えだった。ヴィクターは剣をおさめ、走り出す。
アラリスは一度だけガーラントを振り返り、走り出した。浅黒い肌の男が、光の差さない路地の中でどんな顔をしていたのか分からなかった。ただ、最後の言葉は、諦めの言葉のように聞こえた。
「族長を……殺すのか」
アラリスは走りながら、ヴィクターに訊ねた。
「でも、仕方なかった! あれは族長なりの判断だった。おまえは枢機卿に狙われている。おまえと組んでも一族は助けられない。そういう判断だった。だから!」
「おまえが気にすることじゃない」
ヴィクターは険しい表情をしながら、息を弾ませて答える。
「おまえの言うとおりだ。仕方なかった。仕方ないから戦った。──ただ、それだけだ」
建物のきわにできた少しの隙間を縫って、人の流れとは逆方向に走り続ける。
教会から立ちのぼる黒い煙は、いっこうに衰える気配を見せない。
何かが燃え続けているのだ。その事実が、ふたりに止まることを許さなかった。
教会前の広場は、かつて、王都の文化を凝縮したような美しい場所だった。
円の形に敷き詰められたレンガは、微妙に色合いを変えながら、異国から取り寄せた高価な絨毯のように複雑な模様を描き出していた。
そこから見上げる教会は巨大で、壮麗だった。
建築には数十年の歳月がかけられていた。空にのびた尖塔の、その頂上で鳴らされる鐘が王都の民にいつも時間を教えた。柱や壁には綿密な彫刻がほどこされ、中に一歩足を踏み入れれば、なんの飾り気もなくとも、大聖堂の広さと静寂とが人の心を打たずにはおかなかった。
けれど今は、それらはすべて過去の栄光と言うしかなかった──
最初に聞こえたのは赤ん坊の泣き声だった。
天をつんざくような声だった。それが瓦礫の下から響いていた。
人をかきわけ、かきわけしてなんとかそこへ辿り着き、階段を駆け上って広場に立つと、目の前に広がっていたのは地獄のような光景だった。
崩れ落ちた教会の尖塔が、木っ端微塵になって広場に散乱している。空にのびていたときにはあれほど小さく見えた三角の屋根も、いざ目の前にしてみると、家ひとつぶんほどの大きさがある。それに押しつぶされた人々が、血に染まって倒れていた。生きている者も、叫ぶ気力がある者はわずかだった。皆、ぐったりと目を閉じているばかりだ。
アラリスは赤ん坊を探しているようだった。他に助けを待つ大勢の人間がいるのに、彼女がなぜそれを真っ先に探したのかはヴィクターには分からない。女の本能なのかもしれなかった。その必死な背中から視線を外し、ヴィクターはざっと周囲を見渡した。
瓦礫の直撃を逃れ、運良く助かった者たちも大勢いた。彼らは広場のはじに身を寄せ、言葉もなく震えていた。一瞬のうちに数十人が瓦礫の下敷きになり、その惨状を見て足がすくんでしまったらしい。
「王都の門は開いている。ここから離れて、そちらへ行くんだ!」
ヴィクターはマントをかなぐり捨て、彼らに向かって怒鳴った。
彼らは突然現れた男が何か言い出すので、驚いているようだった。
「ここはもう安全ではない。早くここから離れろ!!」
ヴィクターはもう一度怒鳴った。
それでようやく正気を取り戻したのか、人々はのろのろと動き出した。
やがてそれは小走りになり、駆け足に変わった。遅すぎる悲鳴を上げるうち、ようやく状況が飲み込めたのだろう。やがて彼らは全速力で逃げ出した。その姿は煙にまかれて、あっというまに消えてしまう。まるで別世界に飲み込まれてしまったかのように。
そのあいだに、ヴィクターは近くの瓦礫を放り投げていた。
あたりには、瓦礫が飛び散らせた細かな破片や埃が舞っている。あっというまに髪や手に降り積もり、白くなった。それを振り払う暇もなく、瓦礫の下でぐったりしていた何人かの男や女を外に引きずり出す。
「大丈夫か。しっかりしろ!」
必死で声を掛けても反応がない。
なんとかしたいが、人手が足りなかった。もどかしさに歯軋りしつつ、地道な作業を続けるしかない。瓦礫を持ち上げ、放り捨て、その下から年端もいかない子供と老人を助けた。老人のほうは意識がなかったが、子供はなんとか自力で立つことができた。
「怪我は?」
「わかんない……けど、大丈夫だと思う。立てるから」
十歳ほどの、そばかす顔の少年だった。少年は気丈に言ったが、その頬には血がついている。
どこから出血しているのだろうと思ったら、頭皮にもベッタリと血が滲んでいた。痛みはないようだが、あまり軽い怪我ではない。ヴィクターは少年の肩を引き寄せて言った。
「頭を打ってるぞ。どこかに座って休んだほうがいい」
「でも、お母さんが……」
「探して助けるから、とにかく座ってるんだ」
「……わかった」
少年は力なく頷く。ヴィクターは少年を広場のはじに連れて行くと、花壇のふちに座らせた。
膝をつき、少年に目線を合わせる。
「ここにいるんだ。教会には近づくんじゃないぞ。また崩れるかもしれないから」
「お母さん、教会の中にいるかもしれない」
少年は泣きそうな顔で言った。「妹のスザンヌも一緒に」
「……ああ、探すよ。だからじっとしてるんだ、いいな?」
「うん」
少年は涙を拭って頷いた。
そのあいだにも、瓦礫に埋もれた人々が助けを求める声が聞こえていた。弱々しく、今にも潰れてしまいそうな声だった。ヴィクターは立ち上がり、身を翻した。その目に、馬で階段を駆け上がってくる騎士たちの姿が鮮明に映った。
「──陛下!! ヴィクター陛下!!」
ひときわ力強い声が響き渡った。
次々と広場に乗り入れてくる馬の先頭から聞こえた声だった。
「ウルリク……」
ヴィクターは呟き、頭を振って灰を振り落とした。
「陛下、お戻りで──いえ、よくこの騒ぎの中、ご無事で!」
馬上から飛び降りて礼をとったのは、近衛騎士団団長のウルリク=ユハースだった。年はヴィクターの父親かと思えるほどだが、きびきびとした身のこなしや引き締まった体つきが年齢を感じさせない。
「お帰りなさいませ、陛下!」
「お帰りなさいませ!」
他の騎士たちも、次々に馬をおりて膝をつく。
ざっと見て、総勢二十人。とりあえずは十分な人手だ。
「助かった。この状況をなんとかしてくれ。俺ひとりではどうにもならん」
ヴィクターが言うと、騎士たちは「はっ、ただちに!」と素早く立ち上がった。
あちこちに散らばり、瓦礫をどかしはじめる。さすがに騎士団長自らが率いてきた手勢だけあって、よく訓練された者ばかりだった。自分の判断で素早く動き、何も言葉を交わさなくても協力しあって救出作業を進めていく。
「執務補佐官から『城下へ』と言われ、城から駆けつけて参りました。陛下なら、そう命じられるだろうと彼が」
ウリルクは目を細めてあたりを見回しながら言う。
「正しい判断だ」
ヴィクターはレヴィンがまっとうに働いていることに、少なからず安堵する。
「しかし、この惨状はいったいどういうわけでしょう? 尖塔が崩れるとは……」
「爆発音がした。火薬が仕掛けられていたのだとしたら、また爆発するかもしれん」
「教会に火薬、でございますか?」
ウリルクは眉をひそめる。
「では、この暴動は教会に恨みを持つ者の犯行でしょうか?」
「異端者の仕業だとでも? 王都にはほとんどいないはずだが……」
ヴィクターは言ったが、ウリルクの言葉に思うところがあった。
「『教会に恨みを持つ者』か」
眉をひそめて呟くと、ウルリクはその顔を探るように見る。
「何かお心当たりがおありで?」
「いや」
ヴィクターは首を振る。
「ただおまえが言ったように、そう見せかけたい連中がいるかもしれないということだ。……だが今は、誰の仕業かなどどうでもいい。教会の中にも大勢避難しているはずだ。扉を開いて、中にいる者を門へ誘導する。ここはもう危ない」
「それはそうですな。では、広場に道をあけさせますので少々お待ちを。雪崩を打って出てこられては、寝かせている怪我人が危険な目に遭いますので」
「そうだな。頼む」
ウルリクに任せておけば安心だった。ヴィクターはそう言って、自分も救出活動に戻った。
「陛下! ここは危険です、城にお戻りください!」
それを見つけて、近くの騎士が慌てて駆け寄ってくるが、ヴィクターは手で追い払った。
「どこも同じだ。いいから作業に戻れ」
「し、しかし、御身に何かあっては!」
「『代わりはいる』。……俺のことは気にするな」
ヴィクターが皮肉げに呟いた言葉は、騎士には理解不能だったようだ。
「は? 代わり? なんのことです?」
それを無視して、山をなしている瓦礫を取り払っていく。
そのとき、かすかなうめき声が耳を打った。
女の声だった。見れば、灰に埋もれて白い手がぐったりとしなだれている。ヴィクターは急いで瓦礫をかきわけた。爪の中に小石が食い込み、割れかけたが構っている暇はない。白い手の持ち主を慎重に外に引きずり出すと、その女は修道服を着ていた。どうやら修道女らしい。
「大丈夫か」
抱き起こして鋭く声をかけると、女は朦朧とした意識の中で小さく頷いた。
「大丈夫……です……。だから、わたくしより他の、人を……」
清楚な顔立ちの女だった。抱き起こした体はひどく細く、軽い。今にも折れてしまいそうというのは、こういう女のためにある言葉だろう。開いた瞼のかたほうが小刻みに震えて、息をするのも辛そうに見える。
「こんなときまで……自分のことだけ考えればいい!」
ヴィクターは思わずきつい口調で言った。
なぜ自分がそんな言いかたをしたのか分からなかった。ただ、無性に腹立たしく思ったのだ。
「意識をしっかり持て。諦めたら助かるものも助からない」
「神の……御許へ行くのは、怖くは、ありません」
細い息の下で、女がかすれた声で言う。その唇のはじが少しだけ動いて、笑みを作った。
そこから糸のように鮮血が流れ落ちる。女は満足そうなため息をついた。
「だから……良いのです。わたくしより、他の、人を……」
微笑むような顔で言い、そのまま息をしなくなった。
命を失った体はなぜか、最初よりも重く感じられた。
「──くそっ! 始末に負えない連中だ」
ヴィクターは奥歯を噛みしめて呟いた。そして女が言ったとおり、その体はその場に投げ捨て、他に生きている者の気配を探した。そのうちにウルリクが足早に歩み寄ってきて、「道は確保しました。教会を開放できます」と報告した。
「では教会を開放する。息のある者を全員助け出したらここから撤退だ」
ヴィクターは言い、教会の扉に向かって歩きだした。
「はっ」
ウルリクが背後で頭を下げる。
直後、彼の声があたりに響いた。
「教会を開放する! 逃げる者たちを慌てさせるな、落ち着かせろ。無用な怪我人は出すな!」
ヴィクターはウルリクの命令を背に、教会の扉に手をかけた。
この中に民が身を寄せ合っている。あの爆発音を聞き、轟音を立てて尖塔が崩れても、扉を開いて外に逃げようとはしなかった。なぜなのか分からないが、さきほどの修道女のように、死ぬのを怖ろしいと思っていないのかもしれない。
この極限状態の中で、教会という異空間にいればそういう心境になるのかもしれない──。
向こう側の静寂を不気味に思いながら、ヴィクターは静かに扉を押し開いた。
そしてその向こうの光景を眺めた。
──それは異様な光景だった。
広々とした大聖堂の中、数百人を越える人々が円を作って座り込み、頭を垂れて、ただ一心に祈り続けている。その中心にひとりの男が立っていた。立っているのはただひとり、その男だけだった。
「祈りなさい」
厳かに響く声が聞こえた。
「生きることを渇望せず、死ぬことを恐れもせずに、ただ祈るのです」
心の奥底までゆるゆると沈んでいって届くような、穏やかで美しい男の声だった。
「祈りは神に通じます。そして救われる。救われるのは肉体ではない、あなたがたの魂、心です。もはや恐れるものは何もない。心を無にして祈り、そして神をたたえなさい。わたしたちはそうするためにこの世に生を受けたのだから……」
「──アンセルム=ギィ」
ヴィクターは扉に手をかけたまま、頬をかすかに歪めて呟いた。
黒衣の枢機卿が、その視線のはるか先で、静かに笑っていた。