「空が、真っ赤だ」
手綱を引き絞るように引いて馬を止め、オスカールが茫然と呟いた。
ヴァレンヌからウルヴァキアまで休むことなく馬を走らせ続けた彼は、後続の集団を遥か彼方に引き離していた。周囲にいるのはほんの数騎、ヴァレンヌ随行員の中でも若く体力のある者たちだけだ。
「王都が燃えている? そんな馬鹿な──」
若い騎士のひとりが隣に並び、ほかに成す術もないというように絶句した。
見渡すかぎりの緑の丘陵の果て、目指した王都は炎の色に染まっている。そこから生み出される黒雲が、まるで空の青を憎むかのようにどす黒く塗りつぶしてゆく。それは、見たこともない不吉な光景だった。誰もが皆息を呑むばかりで、その場から動くことすらできない。
──兄弟、家族は無事だろうか。友人は。仲間は。そして城は。
言葉にできない想いが交錯する。
その場は重い沈黙に包まれた。
「どうすれば……?」
誰かが落とした絶望の声に、誰も答えられない。
「とにかく」
オスカールは仲間を振り返る。
「行くしかない。そうだろう?」
強い口調で言うと、視線を合わせた騎士は我に返ったようだった。
「あ、ああ。だが──」
「考えるのはあとにすべきだ。ここで出来ることは何もない、それが事実だ」
「そ……そうだな。オスカールの言うとおりだ」
誰かが頷いて言う。
「戻ろう。王都へ」
「そうだ。戻ろう」
「あそこが我々の家だ!」
口々に賛同の呟きが広がった。
オスカールは一足先に手綱を持ち、馬の腹を蹴る。
勢いよく走り出す馬は、行き先を知らないのだろうか。リズミカルに動く足に迷いはない。
「なぜ、おまえがここにいる?」
ヴィクターが茫然として訊ねかけると、アンセルム=ギィ枢機卿は小さく笑った。
「聖職者ですからね。教会にいるのはなんら、不自然ではないと思いますが?」
まったく訛りのない、流暢な──というより、完璧なウルヴァキア語だった。
この場にいる王都の民は、黒衣の枢機卿が異国人であるなどとは露ほども思わないに違いない。その証拠に、なんの疑いも持たず、彼の周りに座り込んで一心不乱に祈っている。さきほどの爆発で、尖塔が崩れ落ちたことが大きな衝撃となったに違いない。
大人が大人の肩に乗って手を伸ばしても届かないような高さにある、細い二階通路の壁には大穴が開いていた。尖塔は見事に外側に崩れ落ちていったらしい。そこから見える空は赤黒く光って、この世のものとも思えなかった。そこから煤や煙が、ぱらぱらと小石が崩れる音と共に舞い落ちてくる。
「ヴァレンヌの枢機卿であるおまえが、なぜ、ウルヴァキアの王都の教会にいるかと訊いている! おまえの行方は知らないとイグナレオナも言っていたぞ! 法皇に命に背いて国を出るなど、およそ『聖職者』たる枢機卿の振る舞いとは思えないが」
ヴィクターが声を荒げると、枢機卿はすっと目を細めた。
「おや……。ウルヴァキアの国王陛下は少々口がお悪いようだ。あの尊いお方の名前を、まるで吐き捨てるように仰るとは……」
「権威には服従しない主義でね」
「それはまた滑稽なことですな。あなたこそ権威そのものではありませんか。ヴィクター陛下」
「それが悩みの種だよ。……どうでもいいが、ここにいる者たちを解放してくれないかな。枢機卿?」
ヴィクターが言うと、枢機卿は両手を広げて見せた。
「見てのとおり、わたしは何も強制しておりませんが」
「では、ここから立ち退かせるのを黙って見ていてくれるのだろうな」
「どうぞ、ご自由に……。わたしはただミサを行っていただけですよ。今日は祝日ですのでね……」
枢機卿はそう言ったまま動かない。
ヴィクターは後ろを振り返り、控えていた騎士たちを教会の中に入れる。
「民を安全な場所へ誘導しろ」
「はっ」
騎士たちが続々と教会の中に踏み込んでいく。
動くのを嫌がる者たちを、脇の下に手を入れ、無理やり立たせるようにして外へ連れ出した。諦めて自分で立ち上がる者もいれば、抵抗して泣き出す者もいた。そういう者は引きずり出すしかなかった。
「おまえのミサは、よほど彼らの心に響いたらしいな」
ヴィクターは泣きながら引きずられていく者を横目で見つつ、軽く腕を組んで皮肉を言った。
「どんなものだか、一度聞いてみたいものだ」
「あなたが表舞台から去った折には、いつでも」
枢機卿はそう言った。内容の物騒さのわりには穏やかな声だった。
そうなることが自然で、最善なのだと信じているような口ぶりだ。
「そこまで俺が邪魔か?」
ヴィクターは頬を歪めて笑った。
「ヴァレンヌの枢機卿の不利益になるようなことをした覚えは、それほどないんだがな……」
「何を仰います。あなたはいずれ、『我が教会』にとって脅威になるお方。早々に芽を摘んでおきたいと願うのは当然のことでしょう……異端騒ぎで教会の求心力が落ちている今なら、なおさら」
「ヴァレンヌに手を出すつもりはない。無論、ウルヴァキア国内の教会にも余計な干渉をするつもりはない。──ただ、それと税のこととは話が別だろう? 『税を払いたくない』と駄々をこねるのは、およそまっとうな聖職者のすることじゃないと思っただけだが。それがそんなに気に入らなかったか」
「……俗なお話だ」
枢機卿は呟いた。
ヴィクターは軽くため息をつく。
「……そうか? 俗な話で腹を立ててるのかと思ってたよ」
「誤解するのも無理はない。あなたは俗世で生きている方だ」
枢機卿は微笑んでいた。
ヴィクターはそれを、訝しむような目つきで眺めていた。
俗世で生きていると言われて、否定するつもりは別にない。どうでもいい話だからだ。
しかし、自分はまるで俗世とは関わりがない、というような主張をする枢機卿には納得できなかった。何しろ目の前にいる男は、自分の選んだ娘を無理やり法皇の座に据え、その後見人として思うままに権力を牛耳ってきた男である。
それが俗な世界でなくて何というのか。
そう思ったが、いちいち問い質す気力も今はなかった。
「では何が気に入らない? 俺のかわりにシグワスを王位に据えて、貴様の思い通りになるとは思えないが……」
「あなたと彼はよく似ていますが、根本的に違っていることがあります」
「……何だ?」
「……『光と闇』」
枢機卿は薄く笑った。
「光と闇?」
ヴィクターは顔をしかめる。
「俺が闇で、奴が光だとでも?」
乱暴に言いながらも、ふと何かが引っかかった。
ずっと昔、似たような言葉を聞いた気がする。
あれはどこだったか、誰が言ったのか……。
ヴィクターは思い出そうとしたが、うまくいかなかった。そのうちに考えるのが面倒になってきて、あれは錯覚だったと言い聞かせるしかなかった。──だいたい、この男の言うことをまともに受け取るほうがどうかしている。
「あなたが闇で、彼が光か。それとも彼が闇で、あなたが光か。……どちらでも良い。所詮は同じことです。この世界は合わせ鏡。どちらが真実で、どちらが嘘かなどと考えても空しいだけでしょう。しかし……」
枢機卿はゆっくりと歩きだした。黒衣の裾が揺れる。
「ひとつだけ、真実のお話を教えてあげましょう」
「真実の話?」
ヴィクターは繰り返したが、その顔には疑いの色が隠しようもなく滲んだ。
「とある国の辺境に、ワラキアという小さな領土がありましてね」
枢機卿はヴィクターに近づくでもなく、遠ざかるでもなく、床を踏みしめるようにして歩いていく。ちょうどヴィクターを中心にして、円を描くように歩くつもりなのだろう。得体の知れない男にぐるぐると周りを回られるのは愉快ではなかったが、口に出して咎めるほどのことでもないので、ヴィクターは顔をしかめたまま黙って見ている。
「その領主は公明正大なことで知られていたのですが、どうしたことかあるとき急に理性を失い、魔に魅入られたようになって、罪もない人々を大量に殺したのだとか……。その数は百とも二百とも伝え聞いております」
枢機卿はゆったりした歩調で歩き続ける。コツ、コツ──と靴音が規則的に響いた。ヴィクターは胸がむかつくのを感じながらそれを目で追っていたが、ふいに舞い飛んでいた灰が目に入り、「つっ……」と呟いて片目を押さえた。
「串刺しにされた死体は、手を触れることを固く禁じられ、一年ものあいだ街中に晒されつづけました。肉が腐り、その腐臭にひかれて虫がたかり、やがてはそれを食い尽くして骨にするまで。……人々はその前に我先にと街から逃げ出し、街は廃墟同然となったそうです」
無理に目を開いてみたが、枢機卿の姿はかすんで見えた。
そのせいか、まるで人間ではなく、黒衣をまとった死神のように一瞬見えた。
「特別な話と思うかもしれません。……しかし、こんな例は過去にいくらでもあります。理想に燃える者であればあるほど、それが叶わないと知ったときの絶望が大きい。そのときに自分ひとりの絶望ですめばよいが、世界の全てを巻き込んで破滅したいと願う者も稀にいる。そういう人間が、権力の座にあるのは悲劇です」
「……誰の話だ?」
ヴィクターは目を押さえて言った。
「俺のことを言ってるのか。俺がそうなると」
「いいえ残念ながら。……わたしがお話したのは、ワラキア公と呼ばれた男の身の上話ですよ。はじめにそう申し上げたはずだが」
「誰だそれは? おまえのくだらん作り話を聞いている暇はない」
「作り話ではありません」
「どうでもいい。気分が悪いから失礼する」
「おや、陛下は意外に繊細でいらっしゃる」
枢機卿は皮肉げに言った。ヴィクターはその顔を片目で睨みつける。
「さっさとこの騒ぎを片付けておまえを王都から追放してやりたいと、そう言ってるんだ。分かったか?」
そう言って、一刻も早くこの場を立ち去ろうと歩きだしたが、片目が思うように開けられない。いつもと違い、つい足元を見てしまうのはそのせいだろう。おかげで何か妙な、白い粉が落ちているのに気づいた。
よくみれば、それは線のようになっている。
目で追ううちに、それが自分を囲んで円になっていることに気づいた。
文字のようになっている部分もあった。読み取れるほど鮮明ではないが、文字らしいということだけは分かる。──これではまるで、何かの呪術に使われる魔方陣ではないか──そう思って顔を上げると、枢機卿が感情のない顔で微笑んでいた。
「……なんの真似だ? これは?」
ヴィクターが苛立ちを向けると、枢機卿は声を上げて笑い出した。
「ただのいたずらですよ、陛下。もしお気に触ったのなら謝罪いたしましょう」
「この非常時に──いたずらだと? 『いたずら』?」
ヴィクターは笑った。唇のはじを吊り上げるような笑いかただった。
それから何か言おうとしたが、うまく言葉にならなかった。
喉が痛くてたまらない。目を開けていることすらできない。
「あなたの目など見えなくなってしまえばいい。言葉もなくしてしまえばいい」
枢機卿が静かに言った。聖書を読むような口調で厳粛に、だが、どこまでも冷たく。
「──もしそう言って、それが現実になるなら……さぞかし面白かろうに。わたしはこの口先で、あなたに呪いめいた言葉を吐くことしかできないのだ。大いなる力を失ったこの世界では、言葉などなんの意味もない。……それが残念です、ヴィクター=ウル=ファルス=シヴェリウス」
「貴様……何者、だ。聖職者では……なかっ……」
かすれる声を絞り出し、ヴィクターは膝をつく。
「聖職者」
枢機卿の声が頭上で響く。
「ええ……たしかに、わたしは聖職者です。しかしわたしの崇める神と、あなたがたが崇める神は同じではない。あなたがたの世界では、わたしのような者をこう言うのですよ。『異端者』──と」
底知れぬ声で笑いながら、枢機卿の足音が遠ざかってゆく。
ヴィクターは目を開けることもできず、うずくまったままだった。
「異端者……? 貴様が……?」
「二度とお会いすることはないでしょう、陛下。わたしとあなたは、所詮生きる世界が違うようだ。それともう一つ」
枢機卿の足音がふいに止む。
「ワラキア公。さきほど話した哀れな狂人、その名を『シグワス』と言うのですよ」
最後に響いた声が、ヴィクターから立ち上がろうとしていた僅かな気力を奪った。
「……でたらめだ」
呟いた声に、もう答えは返らなかった。
ヴィクターはうずくまり、顔を押さえていた。長い間。
そのあとばらばらと駆け寄ってきた足音は、彼の騎士たちのものだった。
「……陛下。陛下!」
「どうなさいました!? ここにいた男は──」
「今の今まで何をしてた? 外で立ち話でもしていたか」
思わず咎める口調になったヴィクターを、近衛騎士団長のウルリクが宥める。
「何やら込み入ったお話をなさっているようでしたので、遠慮申し上げておりました」
「さっさと入ってきてくれたほうが良かった」
ヴィクターは不機嫌に呟いたが、ウルリクの判断を非難することは出来なかった。それはある意味で正しい判断だったからだ。枢機卿とは立ち入った話をしすぎていたし、シグワスのことも会話に出してしまった。それを立ち聞きして、ウルリクが誰もこの中に入らないように止めてくれていたのだろう。
シグワスの存在は、まだウルヴァキアでは知られていない。
知られてはならないのだ。
残るべきはどちらかか、その決着がつくまでは──……。