シグワスはひとりで城への道をのぼっていた。
王都の外では、数え切れないほどの民衆が寒空の下で不安な夜を過ごしている。今晩食べるものもない彼らのために、城の食料庫を開放してはどうかと、騎士のひとりがおそるおそる提案してきた。シグワスはしばらく考え、「そうだな」と答えた。そして自ら、そうするために城に戻ろうとしている。
城の場所はよく知っている。
何しろ自分は、生まれてこのかた、ずっとそこで暮らしてきたのだ。
ただし、けして光の当たることのない、暗黒の部屋で……。
城の地下に、誰にも知られることのない一室がある。
何かあったときのために身を隠すための部屋として、それは作られた。何百年も昔のことだ。しかし長いあいだ王都が直接攻められることはなく、それはいつしか忘れられた部屋となっていた。
シグワスは、自分がどのようにしてこの世に生まれてきたのか知らない。
ただ、父の顔も母の顔も、直接仰ぎ見ることはないままにここへ連れてこられた。どうしてそうなったのかは分からない。そもそも、人には父や母がいるのだという当たり前のことすらも、ずっと知らないで育った。
自分を育てたのは年老いた女だった。
最初のうちは貝のように口をつぐんで何も言わなかったが、シグワスが物心つきはじめた頃に老いにむしばまれ、意識が混濁することが増えていった。やがて彼女は自分の命が長くないことを悟り、ある日、奇跡のように意識が澄み渡った一瞬に、シグワスに出生の秘密と、地上に出るための方法を教えてくれた。
──国王の息子。
しかし、誰にも知られることなく、祝福されることなく生まれてきたこと。
実の父の国王でさえ、シグワスの誕生を知らないのだという。だから何も期待するなと老女は言った。『この秘密を人に話せば、必ずや、あなたは死ぬことになるでしょう』という不吉な予言とともに。
そしてたったひとつの鍵で、シグワスは自由になった。
地上は──目が眩むほどまぶしかった。
ずっと薄暗い地下で育ったシグワスには、太陽の光はまるで毒のようだった。
彼は逃げるように走り出した。
早くここから離れたかった。城は彼にとって牢獄以外の何物でもなかった。いつまた、あの暗い地下に連れ戻されるか分からない。だから無我夢中で逃げた。途中で衛兵に見つかって咎められはしたが、子供だったので、いたずらはするなとつまみ出されるだけですんだ。
あの当時──城にはまだ、ヴィクターすらもいなかったのだ。
城から王都の街に戻る途中で、四頭立ての立派な馬車とすれ違った。
中に乗っていた男の顔がちらりと見えた。なぜか、あれが父だと直感した。
周囲に美しい女を何人もはべらせて、薄笑いを浮かべて虚空を見ていた男。
国王、ジグモンド。
その姿を瞼に焼きつけて、シグワスは王都を去った。秘密を人に知られれば死ぬことになるという、老女の予言だけが不吉に頭の中で鳴り響き続けていた。
老女はシグワスの人生の全てだった。
それ以外の人間に出会うことがなかったからだ。
けれど外の世界に出てみれば、数え切れないほどの人間がいた。世界とはこれほど広く、これほどたくさんの人間が生きている場所だったのかと愕然となった。自分と老女しかいなかった世界から、突然、果てのない自由へと放り出されたのだ。
シグワスは無意識のうちに自由を恐れた。手の届かない、広すぎる青空を恐れた。自分の姿を容赦なく人目に晒す太陽を憎んだ。
そして逃げた。どこまでも逃げ続けた。
世界は緑の海だった。果てしない世界は、不安しか与えてくれなかった。
あの薄暗くかび臭い、小さな部屋が懐かしかった。しわがれて醜くとも、あの老女が懐かしかった。老女の持ち物であった、彼女の若い頃の肖像画。せめて、あれだけは持ってくれば良かったと後悔した。肖像画の中の彼女は美しい貴婦人だった。──少なくとも、シグワスの目にはそう映った。
けれど、もう戻ることはできないのだ。
彼女は遠からず死ぬだろう。それだけはシグワスにも分かっていた。
彼女のほどこした教育は、シグワスに物乞いのような行為を許さなかった。夜になると無用心な旅人たちがカンテラを揺らし、歓談しながら通り過ぎていったが、食べ物を分けてくれと頼むことはできなかった。
歯を食いしばり、飢えをこらえて進み続けた。
そしていつしか、小さな村に辿り着いた。
食べ物のにおいにつられて食堂に入ると、柄の悪い男たちが大勢いた。シグワスはなんでもないような顔で彼らのそばに座り、食べ物を持ってきてくれと食堂の娘に頼んだ。娘はやせ細った子供を訝しがりながらも、スープとパンを出してくれた。
『お金はあるの? ぼうや?』
食べている最中に話しかけられ、シグワスは首を振った。
『ないよ。……お金って何?』
その答えに、柄の悪い男たちがどっと笑った。『こりゃいいや!』と。
そして彼らは面白がって、シグワスに肉や酒を奢ってくれた。初めて口にしたエールは吐きそうな味がした。食事だけは、城の厨房で作っているものを老女がそのまま持ってきてくれていたので、まずい食事には慣れていなかったのだ。
顔をしかめるシグワスの顔をのぞきこんで、男たちは言い合った。
『こいつぁ、どっかの金持ち貴族のボンボンじゃねえのか?』
『なら、おうちに連れ帰ってやりゃあ、謝礼金がたんまりと貰えるかもしれんな』
『どうかねぇ。この痩せようを見てみろよ。こりゃ捨てられたんじゃねえのか?』
『しかし、子供が一人いりゃあ便利だよな。今度の仕事にも……』
『まあな。相手も、子供を見れば油断するだろうし……』
『裏口から屋敷にもぐりこませときゃ、見取り図なんかも書かせられるしな』
そうして、知らないあいだにシグワスは盗賊の一味となった。
金持ちの家を襲い、金品を強奪する。屋敷の者に顔を見られれば、殺した。証拠を隠滅するために火を放ったこともある。シグワスはその悪事に加担した。自分が何をしているのか分からないではなかったが、だから何だ、という気もした。
幼いころ、人とあまり触れ合わずに育ったせいか、目の前で人が死ぬのを見てもなんとも思わなかった。最初のうちはシグワスを「頭がいいし、要領もいいから便利なガキだ」と褒めていた男たちも、次第に気味悪く思うようになったようだ。
「おい、このガキ、どっかおかしいんじゃねえのか?」──と。
しかしそんな盗賊たちとの生活は、シグワスに世の中について数え切れないほどのことを教えてくれた。男たちから見れば楽しそうに見えなかったかもしれないが、自分なりには楽しんでいたつもりだった。
生きることは面白い。
生きることに必死になる人間たちの姿を見ているのは、面白い。
そう思っていた。
だが、そんな生活もある日突然終わった。
いつものように金持ちの屋敷に押し入り、金品を奪った。シグワスも少し成長していたから、この頃になると、金目のものを見分けて懐に押し込むくらいのことは出来るようになっていた。だが、言い争う声を聞いて振り返ると、仲間の男が、屋敷の女主人と揉みあっているところだった。
いつもなら何とも思わない光景だった。
むしろ、進んで手を貸したかもしれない。
だが、このときばかりは平静でいられなかった。
その女主人が老いた老婦人だったから──。それとも、あの老女に似ていたから──。
理由は分からない。だが、体があわだった。その目の前で、仲間の男が銀の燭台で老婦人の頭を殴りつけ、昏倒させた。それを見たのが、シグワスにとっての最後通告だった。──仲間たちにとっても。
気がつけば、仲間の剣を奪ってその男を刺し殺していた。
まだ暖かい血が、刃を伝ってシグワスの両手を濡らした。目の前の男は、何が起こったのか分からず呆然と目を見開いたまま絨毯の上にくず折れた。シグワスはその男の目から最後まで目を逸らさなかった。逸らせなかった。
ああ、この男は、今の今まで生きていたのだ。
ふいにそんなことを理解した。
他の男たちは仰天していたが、シグワスが何をしたのかを理解すると、雄たけびを上げて一斉に襲い掛かってきた。シグワスは自分の体の二倍ほどもある男たちの攻撃を次々にかわし、彼らの命を奪っていった。なぜ自分がそんなふうに動けるのか分からなかったが、命を奪う瞬間の、その手ごたえを両手に感じるたびに、シグワスの意識は冴え渡っていった。
そうして盗賊たちを全員打ち倒し、シグワスは血まみれのまま、ひとりで屋敷を出て行った。
振り返ると、主を失ったばかりの屋敷は静まり返っていた。
それまで感じなかった感情が胸にこみあげてきて、知らず知らずのうちに頬に涙が流れた。
あの老女も、殺されるために生きてきたわけではなかろうに──。
人を殺して初めて、人が生きることの難しさを理解した気がした。
あの老女はまだ生きているだろうか、と不意に思った。
けれどそんなわけはない。あれから何年も経っている。とうに息絶えただろう。
あの地下で、あの老女も、誰にも知られることなくその存在を消し去ったのか。そう思うとひどく憐れになり、たとえ骨になっていようとも、老女に会いたいという思いがわきあがってきた。
シグワスは感情のままに、王都に舞い戻った。
見上げた城は、昔と何ひとつ変わらなかった。
門の前まで辿り着くと、衛兵が怪訝そうに『ヴィクターさま?』と訊ねてきた。
『どうなさったのです。陛下のお召しで?』
シグワスは何も言わずに頷いた。
どうやら自分は誰かと間違えられているらしい。ならば好都合だ。
『しかし、そのみすぼらしい格好はどうなさいました』
衛兵は呆れたように言い、頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺めてきた。
『しかも、ひどく汚れて。いつまでもそんなでは、また陛下のお咎めを受けてしまいますよ! いい加減に庶民の真似事のようなお忍びはやめて、王族らしくなさってください。他に跡継ぎがおられない以上、将来王位を継がれるのはヴィクターさま、陛下の甥である、あなたさまなのですから!』
その言葉に、シグワスはびくりと肩を震わせる。
陛下の甥──。
ならば、それは自分のいとこではないか。
血が繋がっているとはいえ、間違えられるほどだからよほど似ているのだろう。
しかし、自分はヴィクターなどという名ではない。自分はシグワスだ。そして、父は国王で、自分こそが跡継ぎになるべき人間なのだ──。
誰にも言ったことのない言葉が、このとき、初めて口から出そうになった。
しかし、隣に立っている衛兵の、好意的にクスクスと笑う声で頭が冷えた。
『ヴィクターさま。ウルリク卿は、あなたのことを心配してこう仰っておられるのですよ。早く城に入られて、身ぎれいになさってきてください。陛下のお召しなら、あまりお待たせしてはなりませんぞ』
『カルマイン卿。また、そうやって甘やかして──』
『まあまあ。なんといっても、まだほんの子供ではありませんか』
『十五にもなって何が子供だ! 将来人の上に立つべき人間なら、とっくに──』
『そんなことよりウルリク卿、騎士団長推薦の件、そろそろお受けになっては?』
『……わたしは絶対にそんなものにはならん!』
『しかし、受けるまではずっと門番ですぞ。いい加減に飽きませんか?』
『それはわたしの問題だ。どちらを選ぼうが放っておいてもらおうか?』
そんな会話を交わす衛兵──なのか騎士なのか分からない連中──を横目に、シグワスは黙って門を通り過ぎた。自分から注意を逸らしてくれて助かった。──しかし、それももうひとりの男の機転だ。どうやらヴィクターという名のいとこは、この城の人間に愛されているようだ。
──あんなふうに、好意的な視線を向けられたことはなかった。
今さら城などに来て、何になるというのだ。
無性に腹立たしくなる。
ただ、あの老女に会いたいだけだった。けれどもう、それは叶わぬ願いだ。ならばここには何もない。骨と化した老女が、薄暗い地下室のベッドに今も横たわったままだとしたら──自分は、それを見て懐かしさよりも絶望しか感じないに違いないのに。
(……来るのではなかった)
唇を噛み締めながら、『みすぼらしい』格好で城の中を歩いていく。
通り過ぎる者たちが、やはり自分をそのいとこと間違えているのだろう。親しげに近づいてきては話しかけてこようとする。それをことごとく、煩わしげな視線ではねつけて、シグワスはまっすぐに広い中庭を横切った。
『ヴィクターさま』『ヴィクターさま?』『おーい、ヴィクター!』
周囲に、自分を呼ぶ声がこだまする。
けれどその中に自分の名前はない。
シグワスは逃げるように走り出す。
(わたしは……存在しない者だ。どこにも存在しない……してはいけない……)
走り続ける先に、大きな城館が立ち塞がった。
上の階のベランダに、ひとりの女性が立って、ぼんやりと空を眺めていた。
やつれてはいたが、品のある美しい女性だった。
シグワスはしばらくそれを見上げていた。
やがて女性は自分に気がついたようだ。
ふっとこちらを見下ろし、そして──
嫌悪の表情に、醜く顔を歪めた。
その顔を、シグワスは一生忘れることはない。
あのとき、そんな顔をされなければ。
自分は、彼女を追うことはなかった。
そして──死なせることは、なかったのだ。王妃と呼ばれた、あの幸薄い女性を。