『王妃さま! そろそろ中へ……』
誰かがそう呼びかける声がする。
王妃と呼ばれた女性は、シグワスを睨み下ろしながらも身を翻し、姿を消した。
反射的に、シグワスは城館の中に駆け込んでいた。
行く手を遮るものは何もなかった。
衛兵もいない。
ここには国王の寝室と王妃の寝室があるが、国王はここで寝起きをすることがなかった。そのために、警備が厳しくなかったのだ。しかしそんなことを知らないシグワスは、千載一遇の機会を得て飛ぶように階段を駆け上がった。
女官は、隣の部屋に入って掃除をしているようだった。
もうひとつの部屋の扉は大きく開け放しになっていた。
その奥に、ベランダの女性が立っていた。
シグワスは部屋に足を踏み入れると、息を切らしながら後ろ手で扉を閉じた。
世界が閉じる音がした。
いつもと違う音に驚き、振り向いた女性が、ひっと息を呑んだ。
その顔からみるみる血の気が引く。
『な、なぜ来るの』
かすれた声で、彼女は言った。
『こ……来ないで。来ないでちょうだい!! ここはわたくしの部屋よ、出ていって!!』
悲鳴のように叫んだものの、息をするのも苦しげなかすれ声だった。
あまりの衝撃に声も出ないのを、無理やりしぼり出したのだろう。
『なぜ、わたしを避けるのですか?』
シグワスは女性を見据えて問いかける。
『な、何を言っているの、ヴィクター。あ、あなた、どうかしたんだわ』
女性ははた目にも憐れなほど震え始めた。
シグワスはゆっくりと女性に近づいていった。
『わたしはヴィクターではありません』
『な、何を、……わ、分からないわ。誰か……誰か来て……』
『ヴィクターではない。わたしはシグワスです』
空ろな表情で助けを呼ぼうとする女性の肩を掴み、シグワスはその前に跪いた。
『わたしはシグワスです。……「母上」。どうか、わたしを嫌わないでください』
すがるような目で見上げた。
後にも先にも、そんな顔をしたのはあのときだけだった気がする。
けれど女性は、けしてシグワスの目を見ようとはしなかった。
息を切らしながらも、涙で頬を濡らし、必死で叫ぼうとする。
『誰かぁっ──!!』
絶望的な悲鳴を上げようとした、その口をシグワスはとっさに手のひらで塞いだ。
叫ばれたらまずい。その思いと、叫び声を聞きたくないという思いが交錯していた。
女性が大きく目をみはる。その目を凝視しながら、シグワスは腕を掴んで壁際に追い詰めた。
女性の目の中に自分の顔が映っている。
『わたしはシグワスだ。ヴィクターではない!』
シグワスはその、自分の顔を見つめて叫んだ。
『わたしは国王の息子。あなたはわたしの母だ! なのになぜ、わたしを避ける!?』
『わたくしに……』
切れ切れの声で女性が言う。
シグワスは少しだけ手のひらの力をゆるめた。
声を聞き取ろうと耳を近づけると、女性が突然、金切り声で叫んだ。
『子供などいないわ!! 汚らわしい手でわたくしに触らないでちょうだい!! わたくしは王妃よ、こんな扱いを受けるいわれはないわ!! ──放しなさい、その汚らわしい息をわたくしに吹きかけないで!!』
自分から逃れようと、死に物狂いで暴れながら、顔を歪めて吐き捨てる。
そのおぞましい顔を見ているうちに、頭のどこかがきんと冷たくなった。
『わたしが……汚らわしい?』
『こんなことをする人間が汚らわしくないとでも思うの!? 子供だと思っていたら、おお、おぞましい!』
女性は身の毛がよだつというように身震いする。
『わたくしが母ですって? あなた、頭がおかしくなったのではなくて? それとも、まだわたくしを馬鹿にしなければ気がすまないの? これだけわたくしを苦しめたというのに! あなたさえいなければ、わたくしは──』
女性はその言葉を最後まで言うことはできなかった。
それから──何をしたのか、覚えていない。
感じたことのない激情に駆られて、理性を忘れた。
胸の中に嵐が吹き荒れた。止めようのない嵐だった。
シグワスが荒々しい足取りで部屋を出て行ったとき、女性は絨毯の上に打ち伏していた。
そのとき女性に息があったのか、なかったのかすら、今となっては覚えてはいない。怒りで我を忘れると、何をしたのか覚えていない。──そんな兆候は、すでに、このころからあったらしい。
数日後、王妃が亡くなったと人の噂に聞いた。
あまり良い死にざまではなかったというのが、もっぱらの噂だった。普通なら盛大な葬儀が開かれるはずなのに、それがないのがその証拠だと、噂好きの人々は口々に言い合った。
『だいたい、王さまは、王妃さまをろくに大事にしなかったって話だから……』
『そのへんの娼館に入り浸っていたんだって?』
『そうそう。その娼婦にずいぶん入れ込んで、妃にしようとしたとか』
『身分のある者が、みっともない。これじゃあ王妃さまも報われないよ』
『お興し入れのときは、そりゃあ盛大にお祝いしたもんなのにねぇ……』
城にはそのあとも何度か行った。
ヴィクターに成りすますのは、危険ではあるが刺激的で、やめられない遊びだった。
本人と直接会話することはなかった。遠目から見て、その相似ぶりに驚きはしたが。
やがてシグワスは、実の父、国王ジグモンドに会う機会を得た。
国王の供で狩りに行くはずなのに、当のヴィクターがどこにも見当たらない、と騎士たちが騒いでいるのを聞いたのだ。ヴィクターがジグモンドを避けているのには気づいていたから、今回もどうせ雲隠れだろうと踏んで、シグワスはついに人前に姿を現すことにした。
騎士たちはほっとしたようだった。
そしてまんまとヴィクターになりすます。
簡単だった。誰も疑いはしなかった。
ジグモンドは機嫌が良かった。
いつも逃げてばかりの甥が、珍しく進んで狩りに同行したからだ。
いずれはその甥のヴィクターが王位を継ぐことになる。ふたりが不仲だと噂されるのは体面が悪いと、ジグモンドは考えているようだった。──普通なら子供に継がせたいと願うものだろうが、あいにく、この男にはそうした観念はないらしい。誰が後釜になるかなど、そもそもまったく興味がないのかもしれなかった。
『こうして一緒に行くのは何年ぶりかな? また例のごとく逃げられるものと思っていたが、そろそろおまえにも狩りの楽しさが分かってきたか。ヴィクター』
ジグモンドは無邪気に言った。
シグワスは曖昧に微笑んでみせる。
ヴィクターが、普段ジグモンドとどんなに会話をしているかなど知りようもない。いくら顔が似ていても、下手に口を開けば疑われる可能性がある。最初から素性をばらすような真似はしたくなかった。──いつかは、それを知らしめることになるとしても。
『おまえとは、実の父と子のように親しく付き合いたいと思っていた。なかなかそう言う機会がなかったが、おまえも分別のつく年頃になってきたし、良い機会だ。余には息子がおらぬゆえ、おまえが将来、余の片腕となってくれればこれほど心強いことはない』
ジグモンドは馬上から、信頼しきったようにこちらを見つめてきた。
『おまえも、これからは余の誘いを断らずにつきあえよ。さすれば、苦手の弓も少しは上達しようが?』
シグワスは黙って頭を下げる。
──片腕。
──実の父と、子のように。
『ん? なにやら今日は無口だな。どうしたのだ』
怪訝そうに言われ、シグワスは唇を引き結んだ。
このまま黙っているのも妙だろう。開き直るしかない。
『……ありがたいお言葉をいただき、恐縮いたしまして』
『おお。おまえも、大人のような口をきくようになったな』
ジグモンドは嬉しそうに笑った。
『まあ、もう大人といってよい年か。これからは子ども扱いはよすとしよう。おまえはすぐにむっとするからな。ははは……』
親しげに話しかけられて、シグワスの胸は疼いた。
母も、父も、自分にはいなかった。
だから必要ない。そう思っていたはずなのに……。
いつのまに、自分の存在を知ってもらいたいなどと思うようになっていたのか。シグワスは自分の浅ましさを恥じた。そして、自分の愚かしさを笑った。
今さら名乗りを上げるなど──。
馬鹿げた幻想だ。
母であると思った人は自分を拒絶し、父であるはずの人は自分の存在を知りもしない。そして甥のことを、息子のように目をかけてかわいがっている。今さらどこに、自分の存在する余地があるというのだ。
最初から、何もかもに拒絶されてきた。
老女と自分、ふたりだけの世界。
あの薄暗い地下の部屋が、自分に許された唯一の王国だった──。
狩りの途中で、ジグモンドとふたりきりになった。
『ヴィクター、あれを見よ! 見事な鹿だぞ!』
ジグモンドは叫び、鹿を追ってどんどん馬を走らせる。
森がそばに寄り添っている、見渡す限りの平原だった。
背の高い草が足元に生い茂っている。
『森に逃げ込まれるぞ。その前に仕留めるのだ!』
ジグモンドは興奮していた。
シグワスは黙ったまま、馬上で弓をつがえた。
矢じりの先に、無防備なジグモンドの背中がある。
弓をひきしぼりながら、今、この手を離したらどうなるだろうと考える。
──どうもならない。
何も変わらない。こんな男の生き死になど、自分にはなんの関係もない。
初めから父などいなかった。
父など──いらなかったのだ。
『──ぐあっ!?』
ジグモンドが悲鳴を上げ、頬を押さえた。
少しかすっただけなのに、大怪我をしたかのような悲鳴だった。
シグワスはその女のような情けない姿を見て、思わず笑っていた。
『どっ、どこを狙っている!!』
ジグモンドが憤然と振り返った。
『余の顔をかすったぞ!! ヴィクター、おまえの下手な弓が余の──』
『下手ゆえに、的をはずしてしまいました』
シグワスは落ち着き払って言った。
『どうぞお許しを……。国王陛下』
ジグモンドがぎょっとしたようにこちらを見る。
何かまずい言い方をしたのだろうか。そう思ったが、どうとも思わなかった。
今さら何を気にすることがある。
失うものなどひとつもない。
『怪我をされたようですし、今日のところは引き返しましょう。狩りはまた、いつでも……』
薄笑いを浮かべてそう言うと、ジグモンドは息を呑み、怯えたようにさっと目を逸らした。
その顔に疑心暗鬼の表情が浮かんだのを、シグワスは鷹のような目で見逃さなかった。
──ふん。
つけいる隙がないわけでは、なかったのか……。
理想的な親子関係。
そう見えたジグモンドとヴィクターの関係だったが、突き崩すのは案外、簡単なことかもしれない。なんのことはない。ジグモンドは、将来自分の後釜に座ることになる人間を、言うことをきく今のうちに手なずけようとしていただけのことらしい。
だが、その心の奥底には、自分が追い落とされることへの恐怖がある。
ならばその恐怖を拡大してやろう。
(しばらく退屈しのぎができそうだ)
シグワスはそう考えて、先に馬首をめぐらせた。
(先に参るのはヴィクターか、この男か……。見ものだな)
ひとり笑うシグワスの背中を、呆然と、ジグモンドは見送っていた。