KNIGHT AND SISTER《騎士と乙女》

第二十二章 二人の国王 10

以来、シグワスは時折ヴィクターに成りすまし、ジグモンドを精神的に追い詰めていった。
やがて、ジグモンドは頭がおかしくなったのではないかという噂が城内に流れるようになった。ヴィクターが大勢の人間と共に城を離れていたとき、城にいたジグモンドが『ヴィクターが自分を殺そうとしてきた』と半狂乱になってわめきまわったからだ。
仕向けたのはシグワスだった。
ふたりきりになり、たしかに殺そうとした。
ヴィクターはそのとき身の潔白を証明できたので、誰もジグモンドの言葉を信じなかった。
『陛下はお疲れなのだろう。だからそのような、ありもしない幻覚を見たのだ』
『お年のせいかもしれない。もともと、お気の弱いところがあられるからな』
周囲の人間は口々にそんなことを言い合った。
それがジグモンドの耳に入らないわけがない。ジグモンドは誰も彼も信じられないとばかりに一人で部屋にこもることが多くなった。そして本当に気の許せる側近しか寄せつけず、彼らに泣き言を漏らした。
側近たちは弱りきったジグモンドに耳打ちした。
『そんなにヴィクターさまが信用できないなら、いっそ、亡き者にしてしまえば』──と。
私腹を肥やすことしか考えない彼らにとっては、ヴィクターはどことなく煙たい存在だった。
十六・七の子供とはいえ、ヴィクターには独特の威圧感がある。今でさえ、行き過ぎたことをすると冷ややかに指摘してくるのだ。このまま大人になって発言権も増せば、自分たちを脅かす存在になるのは間違いなかった。
ならば、今のうちに葬り去ってしまおう。
側近たちはそう考え、ジグモンドにヴィクター暗殺をけしかけた。
それでもジグモンドは躊躇っていた。ヴィクターを信じられない気持ちと、信じたい気持ちのあいだで揺れていたのだ。しかし側近が『あの方はあなたさまの兄上のお子。そして兄上は、いつもあなたさまを見下しておられたではありませんか』と吹き込むと、ついに正気を失った。
ジグモンドはヴィクターを殺すことを考えはじめた。狂ったように、それだけを考え続けた。
以後、ジグモンドの精神状態は悪化の一途をたどる。
やがて晩餐の席でヴィクターが倒れるという事件が起こり、叔父と甥の確執は決定的なものとなった。その溝は二度と埋まることはなかった。そしてついに、ヴィクターはジグモンドを手にかけたのだ。
それはシグワスがこの結末を予想して王都を離れてから、実に──十年近く後のことだった。


「ささやかな」復讐の完結には、シグワスが思ったよりも長い時間がかかった。
ヴィクターはよく我慢したというべきか。それとも、ただ弱腰だっただけか。
いずれにしろ、望んだ結末を手にしたのだ。シグワスは満足した。
ジグモンドもヴィクターも両方憎かった。そのふたりを相打ちにできたのだ。その現場を見なくとも、ジグモンドを手にかけたのはヴィクター以外にありえない。一度生まれた憎しみは、はけ口を見つけるまで永遠に増幅し続ける。その日にいたるまでにヴィクターが味わった苦痛を考えると、シグワスは愉快でたまらず、腹の底から笑わずにはいられなかった。
──だが、それは実際、遅すぎた。
十年のあいだに、シグワスの人生も大きく流転していた。


盗賊まがいのことをしたり、傭兵の真似事をしたりしながら、最後にたどり着いたのは辺境領主の座だった。人を斬るのに飽きて、いい加減に身を落ち着ける場所を探そうと思っていたところに、領主の娘と偶然知り合ったのだ。
娘は一目惚れも同然に、熱烈に自分に惚れてくれた。領主である父が反対しようとも、あなたと一緒になれるなら全てを失っても構わない、とまで言った。シグワスは自分が結婚するなどと考えたこともなかったが、そこまで言うなら考えてみてもいいと思うようになった。娘は美しかったし、情が深いように思えたのだ。だからある晴れた日に、二人きりで密やかに式を挙げた。たとえ領地が手に入らなくとも、平穏な家庭が手に入るならそれで十分幸せだと思えた。
それからしばらくして、領主が老衰で亡くなった。
娘は呼び戻され、シグワスは突然、領主の椅子に座らされることになった。
だが、それも運命だ。シグワスは真面目に領地内の問題に取り組んだ。派手な成果はなくとも、人々の暮らしは安定し、着実に向上していた。シグワスは良い領主だった──少なくとも、初めの数年間は。
しかし歯車は少しずつ狂い始めた。
仕事が面白いばかりに、シグワスはそれに専念して妻のことを忘れがちだった。
もともと、人を愛する術など知らない。放置していたわけではないが、ただそばにいれば良いものだと思っていたシグワスにとって、次々に増えていく妻の要求に応えるのは負担だった。
──あまり干渉しないでくれ。
そう言ったのが決定的だった。
妻はその言葉に深く傷つき、シグワスと顔を合わせようとしなくなった。やがて面当てのような浮気を繰り返すようになり、それが過ぎると、シグワスのことを『領地目当てで自分と結婚した打算的な男』と憎むようになっていた。
愛することにも慣れていないが、憎まれることにもシグワスは慣れていなかった。
妻の一挙一動に苛立ち、しまいには顔を見るのも嫌になった。向こうが近づいてこないのを幸いとばかりに、領地内の問題を片付けることに専念した。このまま何事もなく何年も、何十年も過ぎていけばよいと願った。しかしそれは、実現不可能な願いというしかなかったろう。


妻はシグワスの予想を遥かに超えて、執念深かった。
単に浮気を繰り返しているだけのように見えたが、その実、重臣などを次々にたぶらかして自分に背くように仕向けていた。
家臣がまったく言うことを聞かなくなり、会議はいつも空転、行政は滞りはじめた。シグワスはようやく何が起きているかを理解したが、その頃には女は自分の前から姿を消していた。
シグワスは苛立った。しかし、どうすることもできない。
やがて家臣は一同団結し、領主の娘と離縁したなら、領主の座からも去るべきだろうと訴えてきた。離縁したわけではなかったが、事実上そうなったも同然であったので、シグワスは反論することが出来なかった。
仕方なく、家臣の要求を受け入れることにした。
どちらにしろ、まともに仕事ができないのだ。仕方がなかった。
しかし、それだけでは済まなかった。
シグワスはその場で四方八方から槍を突きつけられ、拘束された。領主の娘を騙し、領地目当てで結婚した欲深い男として。
そしてろくな反論も許されぬまま、地下牢に押し込まれた。さすがにカッとして「どういうことだ」と叫んだが、今まで自分の前に姿を見せなかった領主の娘──妻が姿を現し、鉄格子の向こうから散々に罵倒してきてその怒りも冷え切った。
その憎しみに歪んだ高慢な顔を見ていると、ずっと昔、自分を嫌悪し拒絶した王妃の顔が思い出された。
なぜ、誰も彼も自分に逆らうのか──。
妻の後ろには家臣たちが打ち揃い、もっともだとばかりに神妙にしている。
冷えた感情が、再び灼熱の怒りに染め替えられていった。
自分が自分でなくなるような気がした。シグワスは我を忘れ、鉄格子越しに腕を伸ばして妻の首を鷲掴みにした。これをへし折られたくなければ、自分をここから出せと怒鳴った。家臣たちはその剣幕に慌てふためき、シグワスを牢から解放した。──それが彼らの最期だった。
牢はたちまち血で染まった。
シグワスは全員を殺したあと、地上に出て、思い当たるかぎりの人間を屋敷に呼び集めた。そして直接加担した者、加担はしなかったが止めようともしなかった者などを、弁明も許さず一刀両断にした。敵か味方か分からなくとも、目を合わせるなり怯えた者は首を跳ね飛ばした。
屋敷の中は死体の山、血の海だった。
使用人たちは絶叫のような悲鳴を上げて逃げ回り、二度と戻ってはこなかった。
唯一、自分に忠誠を誓っていた男に「死体は街に下ろして晒し者にしろ」と命じた。男は仰天したようだったが、この惨状を見て、今さら逆らうこともできないと思ったのだろう。おとなしく言うとおりにしたようだった。
いったい何人、何十人の人間を殺したのか──。
逆らう人間は容赦しない。その信念の元に、シグワスは死体を片付けることすら禁じた。
街に腐臭を放つ死体があるかぎり、人々が自分の命令に従っていると確信できる。
すでに正気を失っていたのかもしれない。自分が陥れた父のように、いつしか、ゆるやかに、自分は狂っていってしまったのかもしれなかった。


シグワスは無人となった屋敷を捨て、領地を出て行った。
自分の凶行を思い出して、自分で自分が嫌になった。逆らった妻は憎かったが、殺すことはなかったかもしれないと幾度も思いかえした。あれでも、一時は愛していると思った女だった。だが愛が憎しみに変わるのは、なんと簡単なことだろう──。
結局、愛などというものはこの世に存在しないのだ。
人は自分の利益のために簡単に人を騙し、裏切り、殺すのだ。
そうでない者などいるはずがない。しょせんそれは、そうするだけの力がないからしないだけのことだ。この世に善なる者がいるとすれば、それはただ、どうしようもなく無力だから何もせずに生きているだけのことだ。
そんなことを考えながら放浪するうちに、とある街へ流れ着いた。
そこでまたヴィクターに間違えられた。
少し前に、このあたりで揉め事があり、ヴィクターが騎士団を率いてやって来ていたらしい。シグワスは人違いだと言おうとしたが、流浪暮らしにも疲れていたので、歓待の雰囲気に流され、何も言わずに世話になることにした。
世話をしてくれたのはそこの有力貴族だった。
だが遠からず、ヴィクターは王都にいると判明するはずだ。ならばこいつは何者だ、と怪しまれることは間違いない。そうなる前に姿をくらましておかねばならないと思っていたところに、ヴァレンヌ人の司教に引き合わされた。
この司教は王都からやってきたばかりだった。この街を通って、ヴァレンヌへ戻ろうとしていたところらしい。晩餐のあと、シグワスを呼び出し、おまえは国王の甥ではないだろうと鋭く追及してきた。なぜなら司教は、王都で国王の甥、ヴィクターに会ったばかりだったからだ。

『話もしたのに、なぜつい先日のことを覚えていないのだ? そもそもおまえは、ずいぶん前からこの屋敷に世話になっているそうではないか。国王の甥の名をかたる不届き者──と言いたいところだが、しかしその顔、本当に瓜二つだ。おまえはいったい何者だ?』

素性を語るのは面倒だった。
シグワスは『良く似ていると言われるので、一夜の宿ほしさについ名を騙ってしまいました』と弁明した。司教は『たしかにそっくりだ』と頷き、『宿欲しさということなら、わたしとともにヴァレンヌに来ないか? 悪いようにはせぬぞ』と言った。
シグワスはその申し出を受けた。司教に偽者だとばれた以上、この屋敷にはいられないからだ。シグワスと司教は穏当な理由をつけて貴族の屋敷を去った。貴族はもう少し滞在していれば良いのにと残念がっていたが、これ以上ヴィクターに間違えられ続けるのも苦痛だった。
ヴァレンヌへ行ってからは、司教が用意した屋敷に住んだ。人目を避けるような暮らしだったが、司教はしばらくのあいだ我慢して欲しい、と言った。
それから何事もなく数年が過ぎた。
そのあいだに司教は自分の過去を知ったらしい。いつしか自分のことを『ワラキア公』と大仰に呼ぶようになっていた。あの男なりに自分を恐れ、媚びていたつもりなのだろう。最初は偉そうにしていたのに、以後は、手のひらを返したように腫れ物を触るがごとき扱いになった。
それから長らく司教には会わなかった。
次に会ったとき、司教の口からヴィクターの即位を聞いた。同時に、父、ジグモンドの死も。
シグワスは自分の仕掛けた復讐が完結したことを知った。
してやったりと思い、一応の満足はした。笑った──けれど、気持ちのどこかが空しいままだった。あれから十年も経ったのだ。本来ならその座につくのは自分だったなどということも、すぐに思い出すこともできなかったほどだ。何もかもが過去の彼方の出来事だった。もはやヴィクターのこともジグモンドのことも、思い出すことすら煩わしかった。
放っておいて欲しい。
このまま、世界の片隅に埋もれて朽ちていきたかった。
しかし司教のほうは野心を捨ててはいなかった。
ヴィクターに瓜二つのシグワスを、自分の野心のために利用しようと彼はずっと考えていた。そしてついにそれが叶うときがやってきたのだ。遠からず皇都の偉い方に引き合わせる用意があると言って、司教はシグワスを自分の屋敷に呼び寄せた。
その屋敷で、シグワスは──フィアに会った。


正確に言えば、『ヴィクター』という名を必死で叫んでいる少女に出会ったのだ。
屋敷は何者かに火を放たれ、燃えていた。最初、これは自分をおびき出すか、殺そうとする罠だと思った。ヴィクターのほうも自分の存在を知ったなら、生かしておけないと思うはずだ。そうでなければ、こんなところでその名を聞くはずがない。のこのこ出て行けば矢の的になるのではないか──そう思ったが、しかし、『助けて』と悲鳴を上げている少女の声は命がけだった。
ヴィクターがこんなところにいるはずもない。
即位したばかりでは、王都に釘付けだろう。
なのに、少女は頑なにその名を呼び続けている。
呼べば、助けに来てくれると信じているに違いなかった。でなければ、こんなふうにその名を叫んだりはしない。どのような仲なのかは知らないが、仮にも国王に即位した男を呼び捨てにしているくらいだから、よほど親しいのだろう。
そのような少女が、誰にも知られず、こんなところで焼け死のうとしている──。
いい気味だ。薄く笑ってシグワスは思った。
貴様も、大事な人間を失ってみればいい。人は何かを得れば何かを失うのだ。何もかもその手にしようなどと、虫の良すぎる話だ──そう思いながらも、なぜかその声に惹きつけられていく。
何度もヴィクターに成りすましてきた。今度も疑われることはないだろう。ましてこんな状況だ。命が助かるかどうかの瀬戸際で、本人かどうかなどと悠長に確かめている余裕はないはずだ。
助けるつもりではないが、自分が姿を現せば、娘がどんな反応を見せるのか知りたくなった。
興味本位と酔狂心で、シグワスは燃えさかる部屋に足を踏み入れ、娘を助けた。
抱き上げると、思ったよりもずっと若い娘が自分を見て小さく笑った。
何を言ったのかはよく聞き取れなかった。ただ、安堵して気を失った。
恋仲かと思ったが、少し年が離れすぎているのではないかと思った。そうはいっても十やそこらの年の差ならば、妻に迎えるとしてもそれほどおかしいわけではないが。ヴィクターが、ひとまわりも年下の娘に熱を上げている──などと思うと、苦笑のような笑いがこみあげた。何しろ自分と同じ顔をしている男だ。自分がこの娘と恋愛関係だというくらい、それは滑稽なことではないか。そう思ったのだった。


助けたものの、この娘を生かしておいてもヴィクターを喜ばせるだけだと分かっている。
ならば首の骨をへし折ってしまおうか。
そうすればヴィクターは悲嘆にくれるかもしれない。
腕の中の娘を見下ろしてそう考える。
しかし、それを実行する気にはなれなかった。気を失っている娘はあまりにも無防備で、無力に見えた。さすがにこんな娘を手にかけても寝覚めが悪いだけだ。すでに自分の復讐は終わったのだし、これ以上ヴィクターを苦しめても、なんの面白みもない。今の望みはただ、世の中から忘れ去られることだけだ。ヴィクターや王位のことなど、考えれば考えるほど、その時間が空しいだけだ。
シグワスは娘を置き去りにし、その場から立ち去った。
二度と会うこともないだろうと思っていたが、しかし、再会のときはすぐに訪れた。
司教はなぜかその娘に執着しているらしい。新しい屋敷へ連れ込んで、なにやら狼藉を働いているところに出くわしてしまった。同じ屋敷にいるからとはいっても、司教には世話になった恩もある。一方、娘は自分とは無関係だ。
二度も助ける義理はない──。
そう思ったが、司教は娘を殺そうとしているようだ。
なぜそんなことになったのか分からないが、予想がつかないわけではない。人聞きの悪いことになってしまったので、口を封じようという魂胆だろう。聖職者を名乗るわりには浅ましい男だと蔑みつつも、やはりなかなか助ける気にはなれない。扉の外から様子だけうかがっていると、司教の激昂した声が聞こえた。

『おまえのように取るにたらぬ娘ひとり、死んだところで誰も──』

その言葉を聞いたとき、シグワスは吸い寄せられたように扉に近づき、それを開いていた。
何が自分を突き動かしたのか分からない。
──憤り。怒り。
簡単に言えば、そういうことなのだろう。
ただ今までと違うのは、自分のためではなく、他人のためにそれを感じたということだ。ひるがえってみれば結局、その言葉に自らの人生を重ね合わせて腹立たしくなっただけのことだったが、それでも他人のためにわざわざ指を動かす気になったのは珍しいことだった。
どうせ、死んでも構わないようなくだらない男だ。偉い人間に引き合わせるからと呼び寄せられたが、くだらない野心のための道具にされるのは目に見えている。もはや何ひとつ望むもののない自分が、今さら他人の糸で踊ってどうしようというのだ。ならばこちらから厄介払いしてやろう。そう思って、司教を──

殺した。

娘は喜ぶだろう。
喜んで涙を流すだろう。
何しろ、生きるか死ぬかの瀬戸際で、信じていた男が二度も助けに来るのだ。
そう思って娘を見ると、娘はたしかに泣いていた。
だが、喜んではいなかった。
『どうして殺したの』。
泣きながら娘が問いかけてきた。
意外な問いだった。
何を言っているのか。殺さなければ死んでいただろうと思ったが、娘はこうも言った。
『あなたにそんなこと、してほしくなかった』。
ならばおまえは死んでもよかったというのか。
そうききたかったが、きけなかった。
こんなときに、こんなことを言う娘をシグワスは知らなかった。
ただ愚かなだけなのか。自分は死なないとでも信じているのか。それとも、自分は死んでもいいから、それでもあなたには手を汚して欲しくなかったと、そう言っているのか。
──本気で?
そんな娘がいるのだろうか。
おまえは何を考えているのかと訊ねたかった。
けれど自分はヴィクターではない。何も言えない。ただ目の前で苦しげに咳き込む娘の姿が憐れで、ほうっておけず、気がつけばシグワスは娘を抱きしめていた。
娘はなおも泣いていたが、抗いはしなかった。
目の前で人を殺した男を、そんなことをして欲しくなかったとなじりながらも、拒絶しない。泣きつかれたのか、ぐったりと胸に頭を預けてくる無防備な娘を腕に抱いているうちに、シグワスは初めて人を──いとおしいと感じた。


こんな娘を、ヴィクターはずっと手元に置いていたのだ。
そう思ったとき、初めてシグワスはヴィクターに対して嫉妬した。今まで嫉妬など感じたことがなかった。ヴィクターが恵まれているとは思っていなかったからだ。まして国王になった以上、彼が背負うのは重荷だけ。だからこそ復讐は果たした。そう思ったのに。
久しぶりに感じる人の温もりが、胸を濡らす娘の冷たい涙が、シグワスに自分はずっと孤独だったのだと分からせた。これを手放したくないと思い、そうする必要などないと本気で思った。
しかし、今はこの娘を手に入れることができないということも分かっていた。なぜなら、娘は自分をヴィクターだと思い込んでいるからだ。それにつけこんで騙し続けたとしても、結果的には空しさしか残らない。それはよく分かっている。
この場で別人だと打ち明けるのは簡単だ。
だが、それでは娘の心が離れてしまうだろう。
ならば本当の名を名乗れる日まで、諦めるしかない。
そう思って、シグワスは再び娘を置いて立ち去った。
『行かないで』。
そう娘が叫んだ。その言葉に引き止められそうになるが、それが自分にかけられた言葉でないことも分かっている。それはヴィクターに対する言葉だ。彼を呼ぶ声だ。ならば自分は、自分の名を取り戻し、あるべき生活を取り戻し、そして──すべてのものを取り戻そう。
シグワスはそう誓って、娘の悲痛な声に背を向けたのだった。