KNIGHT AND SISTER《騎士と乙女》

第二十三章 騎士と乙女 1

夢の中で誰かを探していた。懸命に。
探しても探しても、その姿は見つからない。霧の向こうに人影が見えないかと目を凝らすが、何も見えない。ただどこまでも森が広がるばかりだ。真っ白く霞んだ、果ての見えない不毛の森。
誰かを探していた。けれど名前が思い出せない。
とても大事な人のはずなのに。だから探しているのに。
顔を見れば思い出すはずだ。けれど今は何も見えない。目の前に広がるのは霧だけだ。
足元は柔らかな土。枯葉が何層も重なっている。その上を歩くとふわふわした感触がある。まるでこの世ではないような感じだ。
──わたし、死んだりしていないのに。
疑問に思ったが、さ迷い歩くうちになんとなく思った。
ああ、そうだ。もしかしたら好きな人を追いかけて、この世ではない場所まで来てしまったのかもしれない。その人が手の届かないところへ行ってしまうのが悲しくて、耐えられなくて、それで追いかけてきてしまったのかも。
きっと呆れられるだろう。そしてこっぴどく叱られる。
分かっている。彼のすることはいつも同じだ。
顔を見れば馬鹿だのなんだのと、怒ってばかりいるのだから。
自分だってたいして違わないくせに、とフィアは不満に思う。
だってそうではないか。意地を張って戦って命を落とすなんて。そんなのは馬鹿のすることだ。初めから分かっていたのに。初めから。いつかこんなことになると思っていた。だから王位なんて、城なんて、そんなところに留まって欲しくなかったのに。
──馬鹿。
思い出せない相手に向かって、ふくれっつらで叫んだ。
霧の向こうに人影が浮かび上がる。
今のが聞こえて、怒ってやってきたに違いない。
そう思いながらフィアは顔を輝かせ、走り出す。馬鹿とはなんだと怒られてもいいから、そばにいきたかった。彼を独り占めして、ずっと一緒にいたい。離れることなくずっと一緒に。
ああ、彼の名前をようやく思い出せた。
それを思いきり叫んで、霧の中へとフィアは足を踏み入れていく。
迷う必要はなかった。帰り着く先はそこだと、ずっと分かっていた。
どれだけ離れても、何があっても、最後には心は彼のところへ戻っていく。
昔話に聞いたことがある。神の意地悪で人の魂はふたつに分かたれて、離れ離れになってしまうのだと。ならばその魂の半分は彼が持っているのだろうとフィアは思った。そうでなければ、これほどまでに惹かれるはずがないから。
残る半分は自分が持っているのだろうか。
それならいいと思う。そうであったらいい。
自分にも、彼に分けてあげられるものがあるのなら。
ただ無心に、無償で彼に何かしてあげたい。愛されることなど望まないから、幸せになってほしい。誰よりも幸せに。そうしている姿を見ているだけで自分は嬉しいのだ。だから生きていて欲しい。他には何も望まないから、ただ、生きていて欲しい。
──ただ、生きていて欲しい。
自分の命など半分になっても構わないから。だから──。
だから……。


目を覚ますと、荷馬車に──揺られていた。
フィアはしばらく自分の現状を掴めなかった。なぜ馬車などに乗っているのだろう。乗った覚えなどないのに。訝しく思いながら見回すと、木の板の上で揺られている人間がもうひとりいた。
「……あっ!」
フィアは思わず声を上げた。飛びついて、覗き込む。
あたりはまだ薄暗かったが、それでも分かった。ヴィクターだ。
「ヴィクターさん!」
思わずその手を握り締めると、驚くほどに冷え切っていた。
「ヴィクターさん……大丈夫? ねえ、わたしがわかる!?」
必死で語りかけたが、ヴィクターは目を開けない。けれど息はある。
まだ生きている。
──生きているのだ!
「聖母さま、ありがとうございます!」
フィアはヴィクターの手を両手で包み込み、ぎゅっと目を閉じる。
「──シスター・フィア!」
そのフィアの耳に、御者台のほうから声が聞こえた。
フィアが声を上げたので、目覚めたことが分かったのだろう。急いでそちらへ行くと、のぞき窓の向こうに見えたのは手綱を握っているイグナーツの姿だった。──ヴィクターの騎士であり、血の繋がった従兄でもある男だ。
「イグナーツさん!」
「きみの修道院の場所を教えてくれ」
突然言われて、フィアは「えっ!」と仰天した。
「し、修道院? わたしのって、聖アルメリア女子修道院のことですか!?」
「名前は知らないが、きみの修道院だ。ともかくヴィクターをどこかに匿わないと!」
イグナーツは苛立ったように言って振り返る。
「ノイエ卿に呼ばれて行ってみたら、きみとヴィクターが倒れていたから驚いたよ。しかもヴィクターは血まみれだし、心臓が止まるかと思った!」
「………」
フィアは何も言えなかった。
「事情はざっと説明してもらったが、まだ理解できない。だがもうひとりのヴィクター──『シグワス』を遠目に見たら本当にそっくりだった。誰も彼がヴィクターではないと気づいてないんだ。そして今、城は彼の支配下にある」
フィアは唇を噛む。
シグワスは本当にヴィクターに成りすましている。
このまま何年も、何十年もそうし続けるつもりなのだろうか……。
そんなことをしても何ひとつ満たされないのに。余計に寂しくなるだけなのに。
「ノイエ卿が、『このまま城にいるのは危険だからどこかに移さないと』というから、城下に運ぶ食料を積んだ荷馬車にきみたちを突っ込んで城を離れたんだ。彼が侍医を呼んでくれたから傷口は縫ってあるけど、出血が多くて危険な状態には変わりない。安静にして休める場所が必要なんだ。でも王都は壊滅状態で、治療院も燃えてしまっている。暴徒の残党がどこに潜んでいるか分からないのに、ヴィクターを置いておけない」
「それで修道院に?」
「そうだ。城も王都も危険だ。今襲われたらひとたまりもないだろう!? ノイエ卿が、きみの修道院なら山奥にあって、人目につかないというんだ。それにきみも隠れたほうがいいと言っていた。『シグワス』がきみに何をするか分からないからと」
ノイエの言うとおりだった。
シグワスは自分を殺さなかったが、それはただの気まぐれだろう。彼の視界に入れば、彼を苛立たせるのは間違いない。今は気が立っているだろうから余計だ。このまま姿を消したほうがいい。
「だいたいの場所はノイエ卿が知っていたから聞いているけど、山道に入ったら道案内がいる。そろそろ差し掛かるから、起きてくれて助かった。起きなかったら叩き起こそうと思っていたくらいだ……」
その言葉にイグナーツの怒りを感じて、フィアは言葉に詰まる。
怒るのも当然だ。ヴィクターがこんなことになってしまって、怒らずにいられないだろう。そのうえ自分がそばにいたのだから、また何か妙なことに巻き込んだのではないかと疑われても仕方がない。
「ごめんなさい……」
フィアはうなだれて謝った。
それで許してもらえるとは思わないが、言わずにおれなかった。
「悪いが、きみに謝ってもらっても何もならない」
イグナーツは怒りをおさめられないようだった。
「きみに関わるとろくなことにならないのは知っていた。ヴァレンヌの件のときから」
イグナーツがいうのは、エドアルドと関わった一件である。フィアを連れ戻すためヴァレンヌへ渡ったイグナーツとノイエは、聖女絡みで司教に追われる羽目になった。
助けに来てくれたことは感謝しているから何も言えない。
それでも、イグナーツの言葉はフィアの胸に突き刺さる。フィアはうつむいた。
「はい……」
「それでも、ヴィクターはきみと関わり続けた……」
イグナーツは渋い顔になって言った。
「こんな命に関わる傷を負ったときにさえ、なぜきみがそばにいたのか分からないけど。でもきみを遠ざけなかったのがヴィクターの意志だから、仕方がないと思ってる。わたしが口を出すことでもない」
「……はい」
「だからヴィクターの世話はきみに任せるよ。シスター・フィア」
「えっ」
フィアは顔を上げた。イグナーツは振り返り、フィアを見た。
「しっかり看病してやってくれ。彼に命を落とされたら、わたしたちは路頭に迷ってしまう。顔がそっくりとはいっても、どこの誰なのか分からないやつに城を渡しておくわけにいかないんだ」
早く良くなって、戻ってきてもらわないと。そうイグナーツは言い、前を向く。
「………」
フィアは黙ったままその場に座り込む。
のぞき窓が見えなくなり、目の前にはヴィクターの姿しかない。
再び彼の手を取ると、相変わらず凍った雪のように冷たかった。
それを握り締め、フィアは顔を曇らせる。
「……こんなにぼろぼろなのに。まだ戦わなくちゃいけないの?」
ぽつりと呟く声に、答える者はいない。
「シグワスさんだって、王族でしょう。もういいじゃない。もう、戻らなくたって……」
勝負が見えていたのに、それでもヴィクターは剣を引かなかった。
死にたがったわけではないと思う。ただ、彼は決着をつけたかっただけなのだ。それが自分の死という結末でも、仕方がないと諦めていたのではないだろうか。そんな気がする。
──これでヴィクターは満足しただろうか。
それともまた、戦いに行ってしまうのだろうか。
フィアはヴィクターの手をぎゅっと握る。
「もう、どこにも行かないで。お願い……」
祈るように胸に押しつけたヴィクターの手は、彼自身の流した血で赤く染まっていた。握り返す力もないままに。


修道院が見えてきた。
どれくらいぶりなのかフィアには分からなかった。
一年は経った気がする。
懐かしい景色はどこも変わっていなかった。こずえをゆらす森も、そろそろ葉の色を変えはじめた木々も、そのあいだに開けた細い道も。
やがて修道院の建物が見えてきた。時刻はもう昼にさしかかろうとしている。
そこでイグナーツは馬車を止め、御者台からおりた。そして荷台へ回り込む。
「なんの知らせもせずに急に来てしまったけど、きみの修道院だし、大丈夫だね?」
真摯な瞳がフィアを見つめた。
フィアはしばらく答えられなかった。
「………」
たしかにここは自分が育った修道院だが、『あの』院長を説得するのは骨だろうと思われた。何しろ、何も言わずに戻ってきてしまったのだ……。
院長は自分を見るなり激怒するだろうと思った。
その上ヴィクターを連れてでは、男嫌いの院長は卒倒してしまう可能性がある。だが、他にどうしようもないのだから、何をしてでも許してもらい、ベッドを貸してもらうしかない。いくら院長でも、重症の怪我人を追い出したりはしないはずだ。そう思ってフィアは頷いた。
「大丈夫です。きっとみんな、看病を手伝ってくれると思います」
「ああ。修道院だから、そのあたりは安心して任せられるよ」
イグナーツは硬い表情ながら、少しだけ微笑んだ。
王都の治療院も、病人の看病にあたっているのはみな修道女である。それゆえの安心感だ。
「挨拶をしておきたいが、わたしが足を踏み入れたのでは余計な混乱を招くだろう。このまま王都に引き返すよ。それに少し気になることもあるから、確かめないと」
「気になること……ですか?」
「ああ。戦いにも加わらなかったというのに、突然姿を現したノイエ卿があまりにも事情に通じていたことだ。もしかしたら『シグワス』や敵の騎士団を城に招き入れたのは彼ではないかと思って……。もしそうなら彼は裏切り者だ。信じたくないことだが……」
「ノイエさんは──」
フィアは何か言いかけたが、うまく言葉が見つからない。
イグナーツは息を呑んでフィアの肩を掴んだ。
「何か知っているのか? そうなら、教えてほしい」
「……ノイエさんは裏切り者じゃありません」
フィアはしばらく考えてから、きゅっと唇を噛んで言った。
「彼はヴィクターさんのことを考えてくれていました。ちゃんと」
「本当に?」
「本当です」
フィアは頷いた。
それだけは迷わずに言える。そうでなければ、こんなふうに助け出してはくれなかった。
彼のしたことは結果的にヴィクターを追い詰めたのかもしれない。シグワスを擁立しようとする枢機卿に加担したからだ。だが、ヴィクターに味方がいるように、シグワスにも味方がいていいはずだ。どちらを選ぶのかはノイエが決めることだ。
ヴィクターの陣営に属するイグナーツから見れば、それは裏切りなのかもしれない。
けれどフィアは自分の口から、そう言いたくはなかった。
「だからヴィクターさんも、ノイエさんのことをそんなふうには言わないと思います……」
「そうか」
イグナーツはほっと吐息をついた。
「きみがそう言うのなら、そうなのだろう。わたしもそれを信じたい。彼は高潔な人だ。それに、きみとヴィクターを城から連れ出すのを手伝ってくれた」
イグナーツは一度言葉を切り、続ける。
「なぜ彼がそこにいたのかは、追求しないことにするよ。もし本当に『敵』に加担したのだとしたら、今ごろヴィクターの命はなかったろうからね」
「イグナーツさん。あの……」
フィアは意を決して顔を上げる。
「うん?」
イグナーツはかすかに眉をひそめつつも、穏やかな眼差しをフィアに向けた。
「今、お城にいるのはシグワスさんです。だけど、そのことはしばらく伏せていてもらえませんか?」
「……なぜ?」
「ヴィクターさんは、このことがみんなに知られて、それでまた争いの種になることを心配していたんだと思います。だから人に言わずに自分で片付けようとしたんです。だから……あの……」
うまく言葉がまとまらない。でも気持ちは伝わったはずだ。
「うん。分かっているよ」
イグナーツは頷いた。
「ノイエ卿も同じことを言っていた。だから言わない」
その言葉にフィアはほっとしたが、次の言葉で水を浴びせられた気がした。
「でも、それはヴィクターが復帰するまでのことだ」
「………」
そう言うと思っていたが、実際に聞くと胸が苦しい。
「分かっていると思うけど、彼は王家の人間だ。次の王位継承者が定まっていない以上、彼に戻ってもらうしかない。傷が癒えて、王都に戻れるようになったら迎えに来るつもりだ」
──迎えに来る。
「それまでは『シグワス』をヴィクターだと思うことにするよ……。今度の暴動で城の衛兵たちは全員命を落とした。それを思うと無念だし、抑えきれない怒りもある。でも耐えるしかない。頼みの主君が生死の瀬戸際にいるんじゃあ、どうしようもないからね……」
イグナーツはふいにフィアの手を取り、握り締めた。
驚くフィアに、イグナーツはこれ以上ないほど真剣に言った。
「頼むよ、シスター・フィア。どうかヴィクターを死なせないでほしい。……お願いだ」
その目は潤んでいるように見えた。
フィアは息を呑みながらも頷く。
ヴィクターを死なせたくない気持ちは同じだ。
「絶対に死なせません。約束します」
「心強い言葉だ。……ありがとう。それを聞いて安心した」
イグナーツはフィアの手を強く握った。そして踵を返す。
一度荷台の中を見ながら無言で立ち尽くしたあと、未練を断ち切るように強い足取りでその場から離れる。馬に近づき、つないでいた木の枝から解き放つと、それにまたがって一直線に山道を駆け下っていった。
それを見送って、フィアは修道院を振り返った。
木立のあいだに見え隠れするその建物は無人のように静まり返っていた。
きっと今ごろは、聖堂で食事を取っているか、後片付けをすませて束の間の自由時間を楽しんでいるかだ。この季節には手仕事が多いから、集まって何かしているのかもしれない。
「戻ってきたんだ。わたし」
フィアは呟いた。
とうとう戻ってきた。
感慨が胸に広がる。
思えばあまりにも色々なことがあった。ここに戻るのを怖れていた気もする。懐かしい家のはずが、前とは少し変わってしまった自分を見たら、みなに拒絶されてしまいそうで。
でも立ち尽くしている時間はない。早くヴィクターをベッドに寝かせてやりたかった。
今は自分だけが彼を守れるのだ。イグナーツに約束したとおり、何があっても死なせるわけにいかない。そう決意して、フィアは歩き出した。