修道院の建物に忍び込むと、そこは静まり返っていた。
空はうっすらと暗くなりはじめているから、そろそろ夕食時間だろう。それならみな食堂に集まっているはずだ。フィアはそう考えながら、なるべく物音を立てないように細心の注意を払って台所を目指した。
案の定、そこには食事を作ったあとがあった。
鍋の中に何か入っている。覗いてみれば、野菜がこれでもかと突っ込まれ、煮込まれたスープがそこにあった。そっと触れると、鍋はまだ十分に温かい。フィアはスープを木皿によそうと、それを抱えて台所を出た。
途中、自分の独房の前で足を止める。
木の扉を押し開いて中に入ると、ベッドの上に毛布が畳んで置いてあった。
フィアは宝物を発見したような気分になった。部屋に入り、毛布を丸めるように抱え込む。
そして再び廊下に出ようとしたときだった。
「どこ行くのよ」
いきなり後ろから声がして、フィアはびくっと体をすくめた。
おそるおそる振り返ると、立っていたのはやはりロゼッタだ。
その手にはなぜかカンテラがぶら下がっていた。
「ごめんなさい」
フィアはとっさに謝った。
「でも、見逃して」
「……まあ、いいけどね」
ロゼッタは呆れたように言い、フィアに向かって歩み寄る。
「それ、持って行くの?」
フィアが手にしている木皿と毛布を見て眉をひそめた。
フィアは頷き、ロゼッタを見上げる。
「まだ目を覚ましてないけど、起きたとき、すぐ食べられるようにと思って……」
「怪我人なんでしょ? もう少し栄養のあるものを食べたほうがいいと思うわよ」
「栄養のあるもの? ……でも、スープしかなかった」
「そりゃそうよ。今日の献立はスープだもの。豆だけじゃなくなったけど」
ロゼッタは言って、片手を腰に当てる。
その口から出た言葉は意外なものだった。
「あたしも行くわ。様子を見に」
「来てくれるの?」
フィアは驚いた。
怪我人が男だというのはロゼッタも知っているはずだ。そして院長とは違う理由でロゼッタも男を毛嫌いしている。なぜなら、彼女が修道院に来たのは、実の妹が想い人と駆け落ち同然で出て行ったことが死ぬほどのショックだったからだ。
だから、この修道院にヴィクターを連れて戻ってきたことを、ロゼッタは絶対に歓迎しないだろうとフィアは思っていた。──協力など頼めない。それは彼女の辛い過去を掘り返してしまうことになるから。そう思い、どうすることもできずに身を翻した。『男を連れて戻ってきた』とゲルトルードが言い、院長が貧血になって倒れたときだ。
「あんたの考えてること、分かるわよ」
ロゼッタはそれを見透かすように、目を細めて言った。
「あたしに悪いと思ってるんでしょう」
「……う、ううん。そんなことないけど」
とっさに否定したのは、嘘ではないつもりだったけれど。
「あんたって、いつもそうよね」
ロゼッタはそう呟いて、フィアの肩を押した。
歩き出した彼女につられて、フィアも歩き出す。
「あんたひとりで何が出来るっていうのよ。頼みなさいよ、あたしたちに」
遠慮してる場合でもないでしょうに、とロゼッタは憮然として付け足す。
「お願いはするつもりだったの」
フィアはしゅんとして言った。
「でも、院長が倒れたのにびっくりして……。頭が真っ白になって……」
「そりゃ倒れるわよ。ここはあの人の聖域だっていうのに、あんたが一番嫌いなものを持ち込んじゃったんだから」
ロゼッタの言葉は辛らつだった。それが『男』だということはフィアにも分かっている。
「うん……。でも、気絶するとは思わなかった。そんなに嫌だったなんて」
「あれにはあたしもびっくりしたけどさ。それで、とっさにあんたを引きとめ損ねて」
ロゼッタはそう言ってから、ちらりとフィアを振り返った。
「でも、逃げることはなかったんじゃないの? フィア。あんたはあんたの『大事な人』を看病しなきゃいけないんでしょうが! わめき散らす院長なんて、ほうきで殴って黙らせるくらいでちょうど良かったのよ」
ロゼッタの過激な言葉にフィアは目が点になった。
しかし、その言葉には深く頷けるところがあった。『殴って黙らせる』の部分ではなく、『看病しなきゃいけない』の部分だ。
「うん」
フィアは肩を落として頷いた。
「あのときは、なんだかいたたまれない気分になっちゃって……。そんなに駄目って言うんだったら、ひとりでもなんとかするって、変な意地を張っちゃったんだと思う。でも、すぐ後悔した」
「じゃ、さっさと謝りに来なさいよね。あたしたちだって、別に鬼じゃないんだから」
ロゼッタはやれやれと言わんばかりのため息をついた。
「うん……。ごめんなさい」
そのうちに建物を抜け出し、人けのない庭に出る。
「ゲルトルードが薬を調合してるところだから、もうすぐ出来ると思うわよ。アデルハイドはヨランダと一緒に村に下りてったし。……夜までには戻るって言ってたわ。鶏ひっつかまえて」
「え?」
「内蔵すりつぶして何か作るんですってよ」
ロゼッタがこともなげに言う。
フィアは一瞬口ごもってしまった。内臓なんて、そんなものが食べられるとは知らなかったのだ。ロゼッタはその沈黙の意味が分かったようで、「貧血にはかなり効くらしいわ」と説明してくれた。
「ありがとう……」
フィアは声を詰まらせる。
それ以上のことは言葉にならない。
ひとりでなんとかするしかないと思っていた。これ以上迷惑は掛けられないと。けれどみな、何も言わなくても手伝ってくれる。麓の村に下りるなんて、けして楽なことではない。道が険しく、往復で何時間もかかるというのに。
「あんたって、ほんと頼りないわよねえ……」
ロゼッタが深々とため息をついた。
とっさに返す言葉もないままに、荷馬車の前に着いてしまう。
ロゼッタは「さて」と口調を改める。
「あんたの『大事な人』とやらのツラを拝もうじゃないの」
顔をしかめ、何やら物騒な言葉を吐いて荷台に乗り込んだ。
フィアもそのあとに続く。
奥にはヴィクターが横たわっている。寝息も聞こえないから、まるで死んでいるようだ。
ロゼッタはカンテラを荷台の隅に置いた。オレンジ色の明かりが優しくあたりを照らす。
「この男が……」
ロゼッタはヴィクターを見下ろし、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「あんたをたぶらかして手篭めにした挙句、犯罪を犯して、命からがらこんなところまで逃げてきたやつなのね」
「ち、違うったら!」
フィアは慌てた。ロゼッタに変な誤解はされたくない。
「あ、あのね。王都に行ったとき、わたし人違いされちゃって、それでとても困ったことになってたんだけど、この人のおかげでなんとか修道院に戻れたの。もちろん、変なことなんてなんにもされてないわ!」
せいぜい拉致され、殺されかけたくらいだ。
──が、それを言うとややこしくなるのは分かっていたので、フィアは賢明にも黙っていた。
「ほんとに?」
ロゼッタは怪しむようにフィアを見る。フィアは強く頷いた。何度も。
「ふうん、そうなの……」
ロゼッタはまだ納得していないようだ。フィアはここぞとばかりに力説する。
「わたし、この人に何回も助けてもらったんだから!」
「何回も助けてもらうほど危険なことがあったわけ?」
ロゼッタは鋭く追及してくる。フィアは言葉に詰まった。
「う……それは、その」
「それって、この男と一緒にいたから危険な目に遭ったんじゃないの? だって、人違いを助けてくれただけの人が、こんな瀕死の怪我を負わされる状況が分かんない。これってやっぱり、この男が何か危険なことをしてたってことでしょ」
ロゼッタの目は冷ややかだった。
「で、あんたはそれに巻き込まれたってわけね。そうでしょ、フィア?」
「違うわ。巻き込まれたんじゃなくて、わたしが勝手にそばにいただけよ。この人は全然悪くない!」
フィアはとっさに言ってしまった。
「あっそ……」
ロゼッタはげんなりした顔になる。
「あんたってほんと、馬鹿でお人よし。しかも変に頑固になっちゃって。かわいくない」
「さ、最初からかわいくないもの。別に」
「そんなことないわよ。あたしの言うこときいてたときはかわいかった。なのに結局、男なのね。あーあ、ほんとつまんない。女ってつまんない! 恋したらあっとうまに遠くに行っちゃうんだから。どうせすぐ泣かされるのにさ」
「──フィア」
そのとき外から声がした。
振り向けば、本格的に暗くなりはじめた空を背にゲルトルードが立っている。
「薬の用意できたわよ。起こして飲ませるから、ちょっとどいて」
「あ、ありがとう……! ゲルトルード」
フィアは急いで場所を譲る。
ロゼッタも荷台から下りた。
ゲルトルードはしばらくヴィクターを見下ろし、
「でも、どうやって飲ませようかしら」
と考え込んだ。
「口につっこんじゃえば? それで鼻と口塞いだら飲むんじゃないの」
ロゼッタが腕を組み、おざなりに言う。
フィアはぎょっとしたが、ゲルトルードは「それしかなさそうね」と淡々と言った。
彼女がヴィクターの頭を起こして薬を飲ませるのを、フィアははらはらして見守った。ロゼッタは相変わらず冷ややかな顔で見ている。とはいっても、本格的に怒っているのではなかった。隣にいるフィアもそれは感じている。
──と、ふいにヴィクターが咳き込んだ。
意識が戻ったのかもしれないと思い、フィアは慌てて荷台によじのぼる。
「ヴィクターさん!」
夢中で叫んで、手を握った。
「わたしよ。分かる? フィアよ!」
ヴィクターの頭はゲルトルードの膝の上にある。
ヴィクターはうっすらと目を開いた。その瞳はしばらくぼんやりと霞んでいたが、次第に意志の影を宿し始める。無理やり薬──おそらく死ぬほどまずく、苦いもの──を流し込まれたので、今までになく意識がはっきりしたのかもしれない。
「……フィア?」
ヴィクターはかすれた声で呟いた。
「そうよ、わたしよ。……あ、お、お水飲む!?」
フィアは必死で言った。
意識のあるうちに言わなければ、またいつ眠りに落ちてしまうか分からない。
「ああ……」
その声を聞くやいなや、フィアは荷台から下り、下に置いておいた桶を両手で掴んだ。さきほど汲みに行ったものだ。それをよいしょとばかりに中に持ち込んで、ゲルトルードが使った薬用の小皿を掴む。それで水をすくい、ヴィクターの唇に近づけた。
「飲んで」
半開きのままになっている唇に小皿を傾け、慎重に水を流し込んだ。
少しこぼれはしたが、大半は喉に流し込むことが出来た。
水を飲むと、ヴィクターは小さく息をついて目を閉じた。
そのまま眠ってしまいそうで、フィアは怖くなった。
「あのね、スープもあるの! 冷めちゃったかもしれないけど、飲んだほうがいいと思う。そうしないと怪我が治らないから──」
「──俺は、死に損ねたのか」
ヴィクターは目を閉じたまま、自嘲的な笑みを浮かべてフィアの言葉を遮った。
フィアは目をみはった。
「そんなこと言わないで。死に損ねたんじゃないわ。命が助かったのよ」
言いながら、フィアは分からなくなった。
もしかしたら、ヴィクターはあのまま死にたかったのだろうかと思う。ノイエも、イグナーツも、そして自分も、彼を助けようと胸に誓ったけれど。もしかしたらそれは余計な世話でしかなかったのだろうか。そう思ってしまうような、皮肉げで苦しげな声だった。
ゲルトルードがヴィクターをそっと横たわらせ、その顔をのぞきこむ。
「贅沢な人ね」
呟いて眉をひそめる。
「命拾いして、そのうえこんなに心配してくれる人間までいるのに。あなた、罰が当たるわよ」
けれどそのときにはもう、ヴィクターの意識はなかった。
「……駄目ね。また意識がなくなったみたい」
「ゲルトルード。この人、助かると思う?」
藁にもすがる思いでフィアは訊ねる。
「どうかしら」
ゲルトルードはため息をついた。
「難しいわ。正直言って、かなり危険な状態だと思う」
この修道院で薬草の管理をしているのは彼女だ。薬の知識も豊富で、病気や怪我に対して何をどうすればいいのかはちゃんと心得ている。その彼女が『難しい』というのだから、よほど手のうちようがない状態なのだろうとフィアにも分かった。
「この出血じゃ、動かすのも危険だわ。修道院の中に移そうと思ったけど……」
「でも、傷は縫ってあるって」
「縫ったばかりでしょう? 下手に動かせばまた出血するわ。それよりは、ここでしばらく様子を見たほうがいい。夜は冷え込むけど、毛布を重ねて、焚き火をすればなんとかしのげると思うわ」
どうせ独房だって寒いんだから、同じことよとゲルトルードは言う。
「薪を持ってくる。火をおこすわ」
ロゼッタが言い、踵を返した。
「わたしも行く」
フィアもとっさにロゼッタを追おうとしたが、ゲルトルードに呼び止められる。
「待ちなさい、フィア。あなたはここにいるのよ」
フィアは振り返った。
ゲルトルードが代わりに荷台から下りる。
「でも」
口ごもるフィアに、ゲルトルードは真摯な視線を向ける。
「この人のそばについてたほうがいい。そのほうが意識が戻る可能性があるから」
「……分かった」
フィアは小さく頷く。
「祈ってなさい。それしかないっていうときもあるけど、今がきっとそうだわ」
ゲルトルードはそう言い置いて、その場から立ち去った。
フィアはその背中を無言で見送った。
ヴィクターは昏々と眠り続けている。
フィアはそのそばに座って彼を見つめ続けた。
ひとりでいると、時間が流れるのがやけに遅く感じられる。
実際、ロゼッタもゲルトルードもなかなか戻ってこなかった。
「ヴィクターさん」
小声で呼びかけてみても、反応がない。
相変わらず冷たい手を握り、ただひたすら回復を祈り続けることしかできない。
「あなたは死んだりしないって、信じてるから」
フィアは呟いた。
「だから、早く元気になって。あなたがいないと、寂しいもの」
きっと元気になるだろう。そしてまた前のように笑ったり、怒ったりしてくれるはずだ。
そう信じることができる。だからまだ正気でいられる。大丈夫だ。
ヴィクターは『死に損ねた』と言ったけれど、本当は生きたいと望んでいるはずだ。握り締める手は冷たいけれど、その体にはまだ生命力がある。そう感じるのだ。
「こんなことで死んだりしたら、お墓に『弱虫』って書くからね」
フィアはヴィクターの顔を見つめて、真剣に言った。
──しばらくして戻ってきたゲルトルードは、どこから調達してきたのか、毛布を何枚も持っていた。それを渡してくれたので、フィアはヴィクターの体に重ねてかけた。
ロゼッタは馬車の近くで焚き火をはじめた。それが音を立てて燃え始めると、彼女は荷馬車の天井部分に布のようなものを挟み込み、それを焚き火の上に屋根のように張り出した。それを数本の棒で固定して、暖気を荷馬車の中に入れるつもりらしい。
「あなたって変なことが得意なのね」
ゲルトルードがそれを見て感心すると、ロゼッタは肩をすくめた。
「だって、こうでもしないと暖まらないと思って」
その言葉どおり、しばらくすると荷馬車の中はくつろげるほど暖かくなった。
「あー、あったかい。あたしも馬車の中で寝たいわ……」
ロゼッタが焚き火のそばに座り込んでため息をつく。
修道院内の独房には暖炉がない。ベッドを置くだけでも狭いような部屋なのだ。暖炉があるのは食堂だけで、それも手がかじかむような季節にならなければ火は入れられない。それを思えば、今はここが一番暖かい場所になっているといえた。
そのうちにアデルハイドとヨランダが戻ってきた。
すでにあたりは真っ暗になっている。焚き火の炎だけが、夜空に赤く映えていた。
「夜道は怖かったわ……。もう絶対に夜は村に下りない!」
アデルハイドは泣きそうな顔で宣言した。
「おかえり。道に迷わなくて良かったわね」
ゲルトルードが苦笑して迎える。
ヨランダも丸い体を寒さに震わせていた。
「あたしももう御免だわ! 行きがけは重たかったし、帰りは暗いし……」
言いながら焚き火に身を寄せ、ほっとしたように息をついた。その手には三頭も鶏がぶらさげられている。小麦を詰めた袋を抱えて村に下りた甲斐があったようだ。ロゼッタも「すごいじゃない」と目をみはっている。
やがて馬車の外には賑やかな話し声が満ちた。
そのあいだ、フィアはずっとヴィクターのそばから離れなかった。