修道院に戻ってから一ヶ月が過ぎた。
ヴィクターは少し前から物置小屋で寝暮らしている。修道院の建物からは少し離れたところにある、畑のわきに建つほったて小屋だ。すでに自力で歩けるまでに回復していたので移動は簡単だったが、弱りきった体はまだ多くの休息を必要としている。彼自身もそのことを自覚しているようで、無理はせず一日中横になって過ごしていた。
フィアはゲルトルードが『容態は安定した』と言った日以降、自分の独房で寝るようになっていた。直接そうしろと言ったのはロゼッタだったが、ほかの修道女たちの態度が平穏だったところを見ると、院長の許可があったと見える。院長がそれを直接言わないのは、怒りを解く気がないからだろう。
院長の怒りがおさまるまで姿を消して、ほとぼりが冷めたら戻ってこようか──。
久しぶりに自分の狭いベッドに横たわりながら、そんなことも考えた。
院長はもともとが冷たい人間ではない。今はただ修道院の平和と秩序がかき乱されたことに腹を立て、混乱しているだけだ。頭を下げて下げて下げまくれば、いつか折れるのは分かっていることだ。これでも長年一緒に暮らしてきたのだから。
けれど、そのたびにヴィクターの言葉を思い出してしまう。
『おまえひとりくらい食わしてやる』と彼は言った。
それはずっと一緒にいてくれるということなのだろうか……?
約束など人に求めたことはない。この修道院に捨てられ、兄の迎えを待ちながらいつまでもそれが叶わなかったとき、フィアは望むことを諦めたのだ。そしていつしか忘れていった。厳しくも優しい修道女たちに囲まれて、こここそが自分の家で、いるべき場所で、『ここにいていいのだ』と思うことができたから。
なのにまた分からなくなる。修道院を出て行きたい気持ちなどひとつもないのに、──なかったはずなのに、気がつけば彼とふたりで過ごす未来について考えている。それはきっと今まで経験したことがないような苦難に満ちてはいるだろうが、それ以上に楽しく、幸せな未来ではないかと漠然と夢想する。
──一度は自分の幸せなど考えず、彼を幸福だけを心の底から祈ったはずなのに。
人はどんどん欲張りになっていく。
そのことにフィアは悲しくなる。
そして何より悲しいのは、分かっているのに、夢を見ずにいられない自分の心弱さだった。
「ねえ、シスター・フィア。あなた、いったいどうやってあの人と知り合ったの?」
食事の時間、前に座るアデルハイドが興味深そうに、けれど声を潜めて訊ねてきた。
院長が席を外しているわずかな時間を、この質問の好機と見たようだ。
向こうの列に座っている副院長と年上の修道女二名は、幸いにも今年の冬を乗り切る方法≠ノついて真面目に話し合っている。基本的に私語禁止の食事時間だが、真面目な話題なら院長もことさら咎めることはしないので、分かりきった話題でもわざわざ繰り返して話の種にすることが多い。
しかしこちらの列には比較的若い修道女が集まっているので、話題はある方向へ偏りがちになる。
「……し、知り合ったきっかけ?」
フィアはパンをちぎりながら口ごもった。
どう答えようか困っていると、横からロゼッタが助け舟を出す。
「ちょっと、アデルハイド。そんな話はどうでもいいじゃないの」
といっても、それは助け舟というよりも、単に嫌いな男の話題を避けたいだけのことだった。そのためロゼッタの顔はもうしかめっ面になっていた。彼女はヴィクターのことをろくでなし≠ゥろくでなし男≠ニしか呼ばない。
「だいたい修道院で男の話なんて不毛よ! あたしは全然聞きたくない」
「だって、シスター・フィアの話を聞けるのもあと少しかもしれないし……」
「フィアはどこにも行かないわよ!」
アデルハイドの反論に、ロゼッタは声を荒げた。
後ろから咎めるような副院長の視線が向けられる。気づいてロゼッタは声をひそめた。
「……あのろくでなしも、自分で歩けるようになったしね! そろそろ出て行く頃合だわ」
「それはそうだけど」
アデルハイドは悩ましげにため息をつく。
「残念だわ。せっかくお知り合いになれたのに」
「はあ? ならなくていいっつーのよ……」
ロゼッタはふてくされて頬杖をつく。最近彼女の口は悪くなる一方だ。先日もゲルトルードが『ひどい下町訛りね』と苦笑して言ったくらいである。ロゼッタがこの修道院に来たばかりのころを懐かしく思い出すので、フィアはそれほどその喋り方が嫌いではなかったが。
「フィア。あんたも、用がないのにあの男に近づかないのよ。分かってるわね?」
「え? ……あ、う、うん」
フィアはロゼッタの言葉に慌てて頷いたが、それは身に染みついた反射的なものだ。
「あっそ。分かってるならいいわ。近いうちに、あたしから院長に頼んであげるからね」
「え? 何を?」
「決まってるじゃない。『除籍』撤回よ」
ロゼッタの言葉にフィアは目をしばたいた。
口に入れたパンが急に味をなくしたような気がした。
けれどフィアはロゼッタに向かって笑ってみせた。何も言わなかったが。
「ちょっと。あなたたち、うるさいわよ」
向こうからヨランダが振り返って、不機嫌そうに咎める。本当は自分も話題に加わりたくて仕方がないのだが、年長組のテーブルについてしまったのでそうできず、内心腹立たしい思いをしていたのだ。
ロゼッタは「はいはい」と肩をすくめた。
フィアはパンを飲み下し、水を飲んだ。そしてがちゃがちゃと皿を重ねて片付ける。
「わたし、洗い物する」
「あら、そう? 毎日悪いわね、フィア」
アデルハイドが不思議そうにフィアを見て言う。
フィアは「大丈夫、割らないから」と謎の言葉を言い、ぱたぱたとその場から走り去った。
「なんか最近、よく働くわねー」
ロゼッタがその後ろ姿を見て首を傾げる。
「まさか本気で『除籍』とか思って、気にしてんのかしら。院長のいつものヒステリーなのに」
「そういうことじゃないんじゃない?」
ゲルトルードがさりげなく口を挟む。
「あの子、変わったわよ。自分では自覚ないかもしれないけど」
「変わった? フィアが?」
ロゼッタは顔をしかめた。
それからしばらく黙っていたが、やがて低い声で「ごちそうさま」と言い、立ち上がる。そのまま足早に出て行くロゼッタを、アデルハイドとゲルトルードは無言のまま見送った。そしてどちらからともなく顔を合わせ、ふう、と細いため息をついた。
「ちょっと! ヴィクター!」
ロゼッタが声を荒げると、井戸のそばに佇んでいた男はもの問いたげに顔を向けた。
その前髪からはひっきりなしに水が滴っていた。どうやら、今しがた頭から水をかぶったばかりらしい。上着を脱いだその上半身には、目を背けたくなるような生傷が走っている。ロゼッタはひるんで目を逸らしかけたが、きっと眉を吊り上げて男を睨んだ。
「な……何してんのよ! そんなもんかぶったら風邪引くじゃないの!」
「心配してくれてるのか?」
ヴィクターは訝しむような顔で言った。
ロゼッタは歯軋りしそうになるのをこらえる。
「はあ? するわけないでしょ!」
このひと月でだいぶ見慣れた顔ではあるが、体調を心配するほど友好的な関係ではない。
──というより、どちらかといえば敵対的な関係である。一方的にだが。
「だけど、あんたが風邪ひいたらフィアにうつるじゃないの!」
ロゼッタは感情的にまくし立てた。
「とにかく、あの子に近づかないでよね。あんたから変な影響受けるから」
「変な影響ってなんだよ?」
ヴィクターは眉をひそめた。ロゼッタはその憎々しい顔を睨みつける。
「とぼけないで。分かってんのよ、あんたがフィアに変なこと吹き込んでんのは」
「だから、俺が何を」
おざなりに言いながら、ヴィクターは木の枝にひっかけていた上着を取り、袖を通す。
「どうせ『一緒にこの修道院を出よう』とか、そんなこと夢みたいなこと言ってあの子を悩ましてんでしょ? ……冗談じゃないわよ! 女を働かせて金稼ごうなんて考える、あんたみたいな無職の甲斐性なしと一緒に行かせるもんですか」
「金を稼ぐ? あいつが?」
「焚きつけてんのはあんたでしょ」
「何言ってんだ。壊した皿の代金で店を破産させるくらいが関の山だろ」
ヴィクターは声を上げて笑った。
だいぶ年上のはずなのに、まったく大人げない男を見てロゼッタは腹立たしくなる。──たしかに目の前の男の言うとおり、フィアが働けば災難しか巻き起こさないことは分かっているが、それを赤の他人≠フ口から言われることほど面白くないことはない。
「フィアはちゃんとできるわよ。皿洗いだって毎日してるわ」
「ちゃんとできるというなら、好きにさせてやったらいいじゃないか」
「何都合よく話を進めてんのよ。あんたの思い通りにはさせないと言ってるのよ、あたしは!」
「過保護だな」
ヴィクターは苦笑した。
といっても、それは頭から馬鹿にするような嫌な笑いかたではなかった。どちらかといえば、滲んでいたのは共感めいたものだ。けれどロゼッタは気に入らなかった。まともな分別というものがあるなら、誰が身を引くべきなのか分かるはずだ。
そしてここは修道院だ。いるべきではない人間は、ひとりしかいない。
「本当にフィアのことを考えているなら、あの子をどこにも連れて行かないで。ここにいるのが一番幸せなんだから」
ロゼッタはヴィクターを見据えて言った。
「それに、あんたはあの子を幸せにするような男じゃない。自分の都合で振り回すだけよ」
「そうかもしれない」
ヴィクターは反論せずに認めた。
その素直さに驚きはしたが、顔には出さなかった。
ロゼッタは「分かってるなら、これ以上あの子に手を出さないで」と言い、踵を返す。
けれど途中で足を止めた。しばらく考えてから、ゆっくりと振り向く。
「……そう約束するんなら、もう少しここにいてもいいけど」
考えながら付け足した言葉は、なけなしの良心であり、なけなしの同情だった。
「薪割りくらいはしなさいよね。力仕事のできない男なんて、単なるごく潰しなんだから」
「無理じゃないかな」
だというのに、ヴィクターは控えめな口調で却下した。
ロゼッタはそれを聞いてむかっとし、拳を握る。
「そりゃあ、その傷見りゃ分かるけど……できるようになるまでここにいてもいい、っつってんのよ! ほんと鈍い……無神経な男ね! 思ってなくても、せめて口先くらい『世話になる』と言ったらどうなのよ!?」
「そうじゃない」
ヴィクターは淡々と言った。
「世話になったとは思ってる。ただ、約束はできないと言ったんだ」
「……は? あんたさっき、『そうかもしれない』って言ったじゃないの……」
『そうかもしれない』という言葉は、つまり、幸せにできないかもしれないし、振り回すだけかもしれないと自らが認めたということだ。──そうではないのか。なのに、何が約束できないというのだ。
「フィアを幸せにできないのに──」
「それでも連れて行く」
ヴィクターはロゼッタを見つめて言った。
ロゼッタはとっさに言うべき言葉を見失った。
あまりにもはっきり言われすぎたせいで、頭に入ってこなかった。
第一、普通、こんなときには『絶対に幸せにする』と断言し、『だから交際を認めてほしい』と頭を下げるべきところではないのか。幸せにできない可能性を認めながら、『それでも連れて行く』と言うなど、そんな話は聞いたことがない。
「あんた、頭どうかしてるんじゃないの?」
唖然として、そう言うのが精一杯だった。
「嫌なら、力づくで引き止めればいい。そっちはそっちで」
ヴィクターはあっさりと言った。それから薄く笑う。
「まあ、あの院長の『除籍』も撤回できないようじゃ、無理だと思うが……」
「あ、あっ、あたしに喧嘩売ったわね──!」
ロゼッタは今や怒りのあまり青ざめていた。
これほどどうしようもない男だとは思わなかった。男など八割──いや、九割がたどうしようもない生き物だと分かってはいたが、その中でもこの男は特別だ。特別の屑だ!
それでもフィアが好きになった相手だから、何がしか良いところもあるのだろうと言い聞かせてはきたものの、ついにその美点を何ひとつ見つけることができなかった。もはや交渉決裂──というより、最初からその余地などなかったのだ。話が通じると考えたのが大きな失敗だった。
「上等じゃないの!! 縛りつけてでも行かせないわ!! あんたと一緒になんか──」
「──あっ、ロゼッタ。こんなところにいたの?」
そのとき、フィアの無邪気な声がした。
ぎょっとして振り向けば、両手に桶を下げてやってくるところだ。水汲みをするのだろう。
「ふたりで何を話してたの? 珍しいね」
フィアはにこにこと笑っている。自分で言うように、珍しい光景を見たのが嬉しいのだろう。
「べ、別に。なんでもないわ。ただの雑談……そうよね!?」
ロゼッタはそう言ってヴィクターを睨みつけた。
ヴィクターは井戸のふちに座りながら、わずかに肩をすくめるだけだ。
「ふうん」
フィアは不思議そうに言う。
ロゼッタはくるりと踵を返し、「先に戻るわ」と言って歩き出す。
フィアは「うん」と頷きつつも、困惑した顔でその後ろ姿を見送った。