昏々と眠るフィアの顔には、苦しげな表情が滲んでいた。
侍医の話では、毒の種類がわからず、解毒もできないが、今後も大量に摂取しないかぎりは命の心配はないだろうとのことだった。にわかに熱が上がってきたため、意識が朦朧としているのを起こして薬だけは飲ませたが、すぐに意識を失ってしまった。
以来、ずっと眠ったままだ。
それを、ベッドのかたわらから見下ろす。
けじめ>氛
アラリスの言葉を借りるなら、フィアを、修道院に帰すのが自分のけじめだろうと、たしかに思えた。彼女の言うとおり、自分の近くに置いておけば置いておくほど、実際にはフィアの身は危険に晒される。今回のように煽りをくって服毒してしまうことも、二度とないとは言えない。
ならば修道院へ──
(だが、そうできるならとっくにそうしている!)
ヴィクターは心の中だけに苛立ちをぶちまけた。
(だが──)
──聖女を狙って、城内に賊が侵入し、修道院にまでその手は伸びた。
おそらく、国内に潜む反・救世母教派≠フ仕業だろう。おそらくは異端の流れを汲む者たちで、ヴァレンヌで撲滅された仲間たちの仇を討とうと、顔も知らない聖女を殺そうと企んだのだ。
修道院に戻しても、また襲われないとは断言できない。
だからといって、城内を自由に出歩かせては、隙あらばフィアの口を封じようとしているレヴィンの餌食になる。自分に対しては忠義の腹心である、レヴィンを疑いの目で見たくはないが、ヴィクターのこととなると見境いがなくなるのは事実だ。
「いったい、どこに帰せというんだ」
ヴィクターはベッドの支柱に手をかけ、唇を噛んで呟く。
「わかっている! 俺だってな! だが、どうにもならない。こんな状況を作ったのは自分だから、今さらフィアを放り出すこともできない。だから、自分にできるやりかたで、こいつを守ろうとしたつもりだ。それが、俺なりにつけられるけじめ≠セと──」
支柱にかけた手に、頭を押しつける。
「………」
胸のうちを占める思いはあるが、言葉にならない。
──わかっている。
──アラリスの言い分が正しいということは。
しょせん、今回は死ななかった≠ニいうだけの話だ。これが、陰謀のための毒ではなく暗殺のための毒であったなら、フィアも、ヴィクターも、死からの誘いを振り切って逃れることはできなかったはずだ。
自分が標的になるのならともかく、無関係の人間まで巻き込まれてしまうのなら、守りたい人間をこそ、そばに置くべきではない。──わかっている。だから、そう、心がけてきたつもりだった。
──いままでは。
『大事なものはひとつしか守れない』
大事なものは、ひとつしか──
──えらべない。
『──陛下、ノイエ卿が参られました!』
扉の外から、衛兵の呼ばわる声がする。
ヴィクターは眠り続けるフィアを見つめたあと、絨毯を蹴って踵を返した。
「お召しとうかがい、参上いたしました」
ノイエは拝礼した。
ヴィクターは中に入れとばかりに扉を大きく開いてみせると、無言のまま部屋に戻った。
ノイエはその扉の向こうに、大きなベッドと、その上で昏々と眠る少女の姿を見つけた。
「フィアさま……?」
「おまえに頼みたいことがあるんだ」
ヴィクターはベッドのそばまで歩いていくと、支柱に手をかけ、振り返ってノイエを見た。
「毒を、……盛った者がいる」
ヴィクターは口を開いた。
そこから発された言葉に、ノイエの表情が凍りつく。
「毒──」
「誰なのか、見当はついている。そちらは俺が。──おまえには厨房の安全確認を頼みたい。毒の残りがないかどうかと、食べるものが安全かどうかだ。毒見の者が配されているはずだが、馴染みのない毒だったせいで不審を持たれなかった」
ヴィクターはそこまで言って、フィアを見下ろした。
その視線を目で追って、ノイエもフィアを見る。
「馴染みのない毒、とは……?」
「致死の毒ではなく、錯乱の毒だそうだ」
ヴィクターはかたわらの椅子を引き寄せ、座った。
立ったままのノイエを、ベッドの支柱の向こうに見る。
毒殺騒ぎは、最近ではほとんど聞かれなかったものだ。
前国王はありとあらゆる暗殺の危険をおそれ、厨房には複数の毒見役を置いた。さすがに今はそれほどの厳重体制を敷いてはいないが、毒見をしていることには変わりない。致死の毒が口に入ることは、まず、ないと言っていい。
「『アエラの指』とかいう、ヴァレンヌで使われていた毒らしい。少なくとも国内で手に入るようなものではないだろう。聞いたこともないしな。……誰かが持ち込んだか、それともこの国で精製したのかはわからない。黒幕がいるとは思うが、それが誰なのかは見当もつかない」
「錯乱の毒=c…ですか? ……もしかして、フィアさまはそれで……」
ノイエはためらいがちに訊ねた。
ヴィクターは苦い顔になった。
「見ていたのか? あの騒ぎ」
「……はい」
ノイエは小さく頷いた。「騒ぎが起きていると、報告を受けましたので」
「そうか。……そうだな」
「……執務補佐官殿は?」
「レヴィンは執務室にこもっている。まだ何も知らせてない」
「城内で服毒騒ぎがあったとなると、執務補佐官殿にご報告しないわけには……」
ノイエは言いにくそうに言った。
ヴィクターはしばらく考え、訊いた。
「報告は後日でも構わないか? できれば、しばらく伏せておきたい」
「もちろん、陛下がそう仰るのであれば、そういたします」
ノイエは頷いた。
「頼む」と、ヴィクターも頷きを返す。
それから、またフィアに視線を転じた。
ノイエも、じっとフィアを見下ろした。
──しばらく沈黙が満ちた。
ふたりは別の理由から、口を開かなかった。それは思いのほか、長い沈黙となった。
──数年前、ヴィクターとノイエは共に前線で戦った仲だった。
ノイエがまだ父親の庇護下におり、ヴィクターは国王の甥ではあったものの、王位継承からはほど遠いと思われていたころのことだ。ある日突然、国境へ敵軍の鎮圧に行けと命じられ、少ない戦力で苦しい戦いを強いられることになった。それは敵も味方も区別がつかなくなるような、凄惨な戦いとなった。
その戦いを、ヴィクターは将として、ノイエは副官として、互いを頼りに戦い抜いた。
腕の立つ者ならいくらでもいる。だが、背中を預けられる者は限られている。
ノイエは背中を預けられる相手だった。
少なくとも戦場では、ヴィクターは、ノイエよりも頼りになる副官を知らない。
そうして、ふたりは無二の友となった。
あのころ、ヴィクターは何も気負うものがなかった。ノイエも遠慮をしなかった。互いに軽口を叩きあい、誰それがどこの令嬢とつきあっているだとか、ふられただとか、他愛もない世間の噂話に花を咲かせた。それは王族≠ニ領主の息子≠ニいう立場の違いを忘れさせる、気取らないつきあいだった。
だが、ヴィクターが即位してから、その関係は一変した。
ノイエは口調を改め、態度を改めて、明確な一線を引いた。その後ろに退きながら彼は言った、『今日からあなたは国王陛下、わたしはその臣下です。もはや昔と同じようには振舞えませんが、昔と変わらずおそばにおります。それが、わたしなりのけじめです』。
その日、ヴィクターは友をひとり失い、家臣をひとり手に入れた。
それを残念に思いもしたし、反対に、これでよかったと思ったりもした。
誠実な友を身近に置いておくには、あまりにも、自分は汚くなりすぎたとヴィクターは思う。ノイエが家臣に徹するというのなら、自分は主君に徹せられる。そのほうがかえって後くされ≠ネい気がして、最初こそ違和感はあったものの、慣れるのにそう時間はかからなかった。
「……陛下」
──沈黙を、先に破ったのはノイエだった。
立ったまま、彼は、椅子に座って物思いに沈んでいるヴィクターに話しかけた。
「フィアさま……──この女性は、もしかすると修道女のかたではありませんか?」
「そうだ」
ヴィクターは簡潔に返事をした。
彼はあること≠考えていて、ずっと沈黙していたのだ。
その結論は、自分の心の中では出た。
そのための覚悟も──している。今。
「こんなことを口にするのは憚られますが、……しかし、あえて言います、」
前置きして、ノイエは一呼吸置いた。
「なぜ、このシスターをここに匿っておいでなのです? ……何か理由が?」
「………」
その問いかけに、ヴィクターはすぐには答えなかった。
代わりに、立ち上がり、ノイエを誘うようにして向こうの椅子に移動する。
暖炉の前の、長椅子がある空間へ。
ノイエは動こうとしなかったが、ヴィクターの動きは目で追っていた。
ヴィクターは椅子に腰を下ろすと、もたれ、慣れた仕草で足を組んだ。
「……長い話になる」
彼は眉間を押さえながら、呟くように言った。「座ってくれ」
ノイエはベッドのかたわらからその様子を眺め、わずかに眉をひそめた。
「……はい」
彼は言い、ヴィクターのほうへと歩いていく。
座ろうと、腰に差していた剣を抜き、長椅子の横に立てかけようとする。
それを、ヴィクターがおもむろに手を伸ばし、「その剣を」と要求した。
「……は、……剣ですか?」
ノイエは怪訝な顔をしつつ、言われるままに剣を渡した。
ヴィクターはそれを受け取り、自分の、ひとり掛けの椅子の肘掛けに渡して乗せた。彼はそれをじっと眺めおろしながら、「今、これ《剣》を取り上げられた自覚はあるのか?」とノイエに訊ねた。
「取り上げられた、とは……?」
「……まあいい。本題に入ろう」
眉をひそめるノイエに、ヴィクターは首を振ってみせる。
──『あの甘いお坊ちゃんに、俺の首が獲れるとは思わないね』──
──『板ばさみになって悩むのはあいつだ。根が真面目だから思いつめる』──
ガーラントの言葉が脳裏をよぎった。
(……だが、こうするのが最善の道だ)
声に出さずに呟き、ヴィクターは顔を上げる。
自分を見つめてくる、ノイエの瞳にはわずかに翳りがある。──不安の色だ。
それを見ながら、ヴィクターは口を開いた。最初の出だしはこうだった──
「騒がず、静かに聞いてくれ。……ノイエ、俺は、叔父を殺したんだ」
──と。