──フィアは呆然としていた。
半身を起こした広いベッドには、燦々と朝日が降り注いでいる。
こんな状況に、覚えがないわけではない。──これで二度目だ。
だが、瀟洒なガラス窓の向こうに見える景色は、折れそうな枝を広げる枯れ木だった。その向こうに庭園らしきものも見えている。半円形に刈り込まれた緑の植え込みと、冬咲きの白い薔薇が、整然と並んで庭園を彩っていた。
──見覚えのない、風景。
「ここ、……どこ?」
わけもわからずに呟いた声が、誰もいない部屋にこだまする。
薄暗く陰気で、どことなく寒々しかった城の部屋とは違う、すっきりとした美しい部屋だ。
少しこじまんりとしてはいるものの──城の部屋があまりにも広すぎたためだが──清潔感のある白い壁にはピンク色の薔薇が、小さな模様になってツタとともに描かれている。置かれた家具は、いずれも同じ造りの凝った品々。やわらかな絨毯を傷つけないよう、すべて猫足に丸められている。
フィアはベッドを這い出しており、窓際へ寄った。
窓を開けると、冷たい冬風が一気に吹き込んできて部屋を冷やした。
思わず身震いする。
身に着けているのはやわらかな布地のネグリジェ。
──それだけだ。
頭はいつものようにくちゃくちゃで、首筋はじっとり汗ばんでおり、足は裸足。
そのつま先が、みるみるうちに冷たくなる。
いつもなら、「寒い!」と叫んで飛んでベッドに逆戻りするところだ。だがいまのフィアは、冷たい風に体を晒したまま、どうすることもできずに目の前の見知らぬ景色を眺め続けていた。
ここは城の中ではない──。
フィアは愕然として思った。
かといって、育ち慣れた修道院でもない。
いったいどこなのだ。ここは。
──訊ねられる人も、誰もいない。
スティーナの姿はなく、──ヴィクターも、──いない。
(どうして……?)
なぜだか不安な気持ちになり、フィアは部屋を横切り、廊下に彷徨い出た。
誰もいない。
長い廊下がまっすぐに続いているだけだ。
その向こうに白い手すりの階段が見える。
そこへ行き、おりようとした足が、フィアの意思に反していきなり萎えてしまった。
そのままかくんと膝が落ち、へなへなとその場に座り込んでしまう。力が入らない。
(……あ、あれ?)
立ち上がろうとした──それはできた。
けれど、全身を支配しているだるさを、いまになってはじめて自覚した。
手すりによりかかったまま動けないでいるフィアの肩に、何かが触れたのはそのときだった。
「シスター──」
「──きゃあっ!」
心臓が飛び上がるほど驚いて、その拍子に足を滑らせた──
誰かが、後ろからひゅっと腕を伸ばして抱きとめる。
呆然としているフィアの耳に、慌てたような、だが、それでいて落ち着いた声が吹き込んだ。
「危ない。大丈夫ですか? フィアさま?」
「ノ、ノイエ……さん?」
フィアはその声の主に覚えがあった。
言いながら首を動かすと、──たしかに、自分を抱きとめているのはノイエだ。
彼はそのまま身をかがめ、フィアを抱き上げると、安定した足取りで階段をのぼっていく。
「もう少し寝ていてください。……今朝まで、まだ熱が高かったんですよ。心配しました」
「熱? ……誰が? わたしが?」
「お風邪を召されたようですね」
「風邪……」
フィアはおうむ返しに呟いた。
ぐちゃぐちゃとした記憶の中から、何かが蘇ってくる。
それは、ヴィクターとのやりとりだった。
──よく思い出せないが、たしか、風邪のことでひどく喧嘩をしたような気がする。
もしかして、そのことでヴィクターは怒ったのだろうか?
だから自分を、城から追い出すことに決めたのだろうか?
「……どうして、わたし、ここに」
フィアはノイエの上着の襟にしがみつきながら訊ねる。「ここは、どこなんですか?」
「わたしの所有している別宅です」
言いながら、さきほどまでフィアが寝ていた部屋の扉を肩で押し開く。
フィアが開け放したままだった扉だ。
「フィアさまが城にいらっしゃると、いろいろと不都合なことがあると陛下が仰って……」
ノイエが、フィアをベッドに寝かせながら言う。
美しい顔と、美しい手、──美しい動作だった。
さらさらした髪が、はらりと額にかかって落ちる。
(『不都合なこと』……)
フィアは顔を曇らせる。
「それで、わたしの別宅にお連れすることになりました。風邪の容態が落ち着いているようだったので、昨晩のうちに馬車にお乗せしたのですが、長距離の移動だったので疲れられたのでしょう。また熱が上がって。……ですから、寝ていていただかなくては困るのです。ここには侍女がおりませんから」
「スティーナさんは……」
ノイエの顔を見上げ、フィアが不安げに訊ねた。
「ええ。こちらに来ていただくようにはお願いしています」
ノイエがさらりと言った。
「そのほうがあなたのためにもよいだろうと、イグナーツ卿──彼女の兄君も仰っておいででした。ですから、数日のうちにはこちらに来ていただけるのではないかと思っています。──それまでは、この屋敷の執事と使用人が、あなたの身の回りのお世話をすることになります。何かと不便はあると思いますが、少しのあいだだけ我慢なさってください」
優しい響きの言葉だった。
だが、どことなく事務的な感じもする。
ノイエはすでに、踵を返しかけていた。
「──ノイエさん!」
扉の取っ手に手を掛けた彼に、フィアは思わず声をかけた。
「──はい?」
ノイエが振り向く。
フィアは言いかけた言葉を、だが、舌の上で無様に転がした。
淡々としたノイエの顔を見ていると、なぜだか、訊く気になれない。
「……いえ。……なんでも、ありません」
フィアは顔をそむけるようにして、呟いた。
ノイエはどうしたんですか、というように微笑んでみせたが、そのまま扉を押し開く。
「──おやすみなさい、シスター」
何ごともなかったように穏やかな声を響かせ、その姿は、すぐに扉の向こうに消えた。
フィアはふわふわした羽毛の枕に顔をうずめ、体の向きを変える。
ひとりになると、突然、じわりと涙が滲んできた。
──ノイエは相変わらず礼儀正しく、優しかった。
けれど、どこか、よそよそしい感じもしていた。
それはなぜなのか。自分のせいなのか。
──フィアには分からなかった。分からないことばかりだった。
そもそもなぜ、ノイエの屋敷に連れてこられたのだろう?
昨日まで、ヴィクターとは普通に接していたような気がする。──たぶん。とりたてて、変なことはなかった。思い返してみれば、たしかに、風邪のことか何かで喧嘩をしたような気もするが──とても些細なことだったように思う。──よく、思い出せないけれど。
『フィアさまが城にいらっしゃると、いろいろと不都合なことがあると陛下が──』
ノイエの言葉が、いまさらになって心に重い。
不都合なこと。
──邪魔になった?
要するに、そういうことではないのか。
ひとことも説明せず、自分が風邪で寝込んでいるうちにどこかへやってしまうなんて、それは自分のことが邪魔になったということではないのか。──邪魔で、目障りで、うっとうしいと、そう思ったということではないのか。
(ヴィクターさん──)
本当は、彼は心の中で、ずっとそんなふうに思っていたのではないだろうか。
『すぐ戻るから』と言いながら、自分を孤児院に捨てた叔母と同じように。
──不安だ。
不安で、苦しい。
苦しくてもどかしい。
それでもなんとか心を落ち着けようと、フィアは枕に頬を押し当てる。
けれど、やわらかすぎるそれは、ただ深く、沈んでゆくばかりだった。
ひとりになって、ずっと、考えていた。
いったい、自分にとって、王都に来てからの時間は何だったのだろうと。
──聖アルメリア女子修道院。
フィアの、生まれてはいないけれど、育った場所。六歳のころからの十年間をそこで過ごした。それ以外の場所をフィアは知らない。知らなかった──ほんの、ふた月ほど前までは。
シスター・ロゼッタには「世間知らず」とばかにされ、シスター・アデルハイドには「危ない」と心配され、シスター・ゲルトルードには「あなたに何ができるの?」と冷ややかに問いかけられた。
たしかに、こんな役立たずの自分に何ができるだろうと思う。
王都へ来たのは、ヴィクターに危険を知らせたかったからだ。
──と、いままでは思っていた。
だが結局、レヴィンに殺されかけ、ヴィクターに守られることとなった。
そのことにフィアはそれほど疑問を抱かなかった。いつも、守られるのが当たり前だったから。何か困ったら、ロゼッタが助けてくれる。アデルハイドが同情して手伝ってくれる。ゲルトルードは院長と口論し、そのお説教を黙らせてくれる。
──結局、同じだ。
修道院にいても、王都にいても。
ヴィクターを改心させようと思った。それが、修道女であり、あの惨劇を偶然に目撃してしまった自分の使命なのではないか。神と聖母が、そう思し召しなのではないか──とも、考えてみたりした。
けれど、実際には何ひとつできなかった。しなかった。
そうしていま、フィアの胸に湧き上がる感情は──
──寂しい。
──会いたい。
──もう一度会いたい。
……それだけだ。
そう願うことが悪いことなのかどうかすら、いまのフィアには分からない。
そんな感情を抱いたことがなかったから。
会いたいと願ってきたのは、ただ、肉親の兄だけ。
それ以外の人間のことを、恋しく思ったことはない。
(恋しい……ヴィクターさんのことが?)
ベッドのうえで、ふと、考え込む。
──恋しいという気持ちは、恋≠フ仲間なのだろうか?
恋については、これでも、いろいろと知っているほうだ。
ロゼッタは『恋とは、自分の身を破滅させる怪物よ』と話してくれた。ロゼッタの妹は恋≠して、そして、ロゼッタから離れていってしまった。だからロゼッタは、恋が嫌いだと言う。恋を憎いと言う。
『恋をすると、人は醜くなる。自分のことしか考えなくなる』。
ロゼッタは真剣な顔で言う。
『それまで大事に思っていたものも、恋をしたら、大事なものじゃなくなる。どうだってよくなって、捨ててしまうのよ。それって、すごく恐ろしいことだと思うわ。──だからあたしは、恋なんて絶対にしない。そのためにここへ来たの。ここなら一生、恋なんてせずにすむもの!』。
アデルハイドは、恋のことを話すとき、やけに切なそうな顔になっていた。
『恋というのはね、けして、開けてはいけない宝石箱のようなものだと思うわ』。
アデルハイドは、あまり恋のことを話さない。話すと、憂鬱になるのだそうだ。
『きらきら光る箱を眺めているうちは、とっても楽しいのよ。でも、いざそれを開けてみたら、中身はからっぽ。だから、がっかりして蓋を閉じるでしょ。そうするとまた、素敵なものに思えてくるの。……わたし、その繰り返しに疲れてしまったの』。
そしてゲルトルードはというと──
『恋ね……。難しいわね。わたしが思うに、恋って、薔薇の花のようなものだと思うわ。自然のままで寄り添っている姿は美しいけど、それを切り取って、自分のものにしようと花瓶に入れた瞬間、それは干からびて枯れてしまうのよ』、
──と、なんだか難しい話をして、フィアには理解することができなかったけれど。
みんなの話を考え合わせると、恋とは、薔薇の花≠フように美しくもあり、宝石箱≠フように素敵なものでもあるが、結局はなんなのかよくわからない、怪物≠カみた、とてもとてもおそろしいものである──ということらしい。
それが、フィアが知っている恋≠フすべてだ。
(やっぱり、あんまり知らないかも……)
フィアは少し自分にがっかりした。
くたりと寝返りを打つが、眠くはない。
窓の外に広がるのは冷たく、暗い夜だ。隙間から吹き込む風が身に染みるほど冷たい。
それでも修道院と違うのは、暖かいベッドと毛布があることだ。
そういった環境に、知らず知らずのうちに自分は慣れてしまっているような気がする。
そのことが少し怖い。
もしかしたら恋≠ニいうものも、最初は楽しいが、いつしか慣れ、当たり前のように思ってしまうものなのかもしれない。最初はほっぺたがとけろそうだと思った食事が、そのうちに、「またこれか」と思うようになるように──まだ、そうなるほどごちそうを食べ続けたことがないから、分からないけれど。
(でも……わたしが恋しいと思ったって、ヴィクターさんがそう思うかどうかは分からないわ)
フィアはヴィクターのことを考え続ける。
(だって、もし離れているのがさみしいと思ってくれるんだったら、こんなふうにいきなりお別れしたりはしないはずだもの。……やっぱり、わたしのことが邪魔になったのかな。……ううん、そんなことない! きっと何かの考えがあって、こうしたんだと思うわ。……でも、やっぱり──)
考えがまとまらない。
そのうちに、また胸が苦しくなってくる。
恋しいというより、苦しい。──不安だ。
(もういや。考えるの、やめたい……)
フィアはぼすっと枕に顔をうずめなおした。
しばらく目を閉じていたが、──無理だった。
(だめ。やっぱり、全然寝られない)
起き出し、きちんと畳まれているショールを片手に、部屋を抜け出す。
大きめのそれをはさりと肩に羽織り、誰もいない廊下を裸足で走った。
外に出たいと、もどかしいほどに強く思った。
あの月を、眺めたい。──どこかで、彼が見ているかもしれない、同じ月を。
フィアは玄関の重い扉を押し開き、月下の庭園にさまよい出た。