馬車は横倒しになったまま、止まった。
ヴィクターは慎重に馬を近づけ、「フィア」と馬上から声をかけた。
馬からおり、手ぶらのままで車体に近づく。
彼の剣は、半分折れた車輪のあいだにはさまり、曲がっていた。曲げようと思って曲げられるものではないはずだが、さすがに、猛スピードで走る馬車の車輪に突っ込んだのは暴挙だったようだ。
──見ると、別の剣が車体の後方に落ちている。
馬車の中をのぞくより先に、それを拾いに行った。
御者の男はうつぶせに倒れ伏し、エドアルドとフィアは車体から出てこない。
車体をのぞきこむと、フィアはエドアルドの下敷きになっていた。ぴくりとも動かない。エドアルドも、なんの反応も見せないところをみると気を失っているようだ。その体を足で蹴って押さえつつ、下から、ぐったりしたフィアを引きずり出す。
「……おい、生きてるか?」
普段なら冗談に聞こえる言葉も、このときばかりは深刻だった。
フィアは目を開けなかった。
だが、呼吸はしている。出血もなく、目立つ外傷もない。
抱きかかえてその場から遠ざかり、離れたところでおろす。
背中を腕で支えて起こし、空いているほうの手で軽く頬を叩いてやった。
「おい、フィア! 大丈夫か?」
フィアがぼんやりと目を開けた。
うつろな目を、何が起こったのかとばかりに、訝しげに周囲に向ける。それは頭上の晴天や壊れた馬車の上を不規則にさまよったあと、ようやく、自分を抱きかかえている男の顔の上にとめられた。
「怪我はないな?」
確認するように問いかけた。
フィアはかろうじて頷いた。それは言葉に反応しただけの仕草だったが、次第に、うつろな瞳に生気が戻ってくる。フィアは自力で身を起こそうとした。ヴィクターはそれを後ろから支えて、助ける。
「ヴィクター……さん……」
フィアはヴィクターを見上げて、かすれた声で呟いた。
「あなたなんですね……? 本当に……?」
フィアはもう、自分で身を起こせるようになっていた。
その場に座り込み、呆然としてヴィクターを見上げる。
「遅れた。すまん。……これでも急いだほうだったんだが」
その前に片膝をつき、フィアの顔を見つめて、ヴィクターは短く謝罪した。
フィアは首を左右に振った。
「来て……くれないと……思って……──」
切れ切れの言葉が、ふいに途切れる。
かわりに涙が、ぽろぽろとこぼれだした。
「……悪かった」
ヴィクターは、フィアの頭を寄せて自分の胸に押しつける。
腕の中でフィアが、泣きながら、疲れたように目を閉じた。
「王都に戻ろう」
ヴィクターはフィアを抱きしめたまま、呟く。
その言葉に、フィアがかすかに身じろぎした。
「……王都、に?」
「先に、近衛騎士団と合流してからだけどな」
「でも、わたし……」
フィアの瞳に、翳りがあらわれる。
「修道院に戻りたければ、戻ればいい」
その心中を察したのか、ヴィクターは静かに言った。
「エドアルドは捕らえた。前におまえを襲った修道士は、たぶんエドアルドの手先だ。もう、修道院が襲われることはないだろう。……だからおまえは、もう自由だ。どこに行こうと、自分の好きにしていいんだぞ」
「………」
フィアはすぐには答えなかった。
ただ、手を差し伸べたヴィクターの手を握り、おぼつかない足取りで立ち上がる。
まだ支えが必要らしいフィアのために手を貸したままで立っていると、そのころになってようやく、後続の騎士たちが駆けつけてきた。彼らは馬から飛びおりると、ヴィクターを取り囲み、次々に膝を折る。
「へ、陛下、ご無事で──!」
「お怪我はございませんか!?」
彼らは、横倒しになった馬車や、折れた車輪の破片を見ながら、顔をひきつらせて訊ねた。
「……いや、別に」
ヴィクターもそれらの光景をぐるりと見回したあと、膝をつく騎士たちを見下ろして、「無事だ」と言った。淡々と。そのとたん、騎士たちがどっと脱力──というより、がっかり──したのが見て取れたが、ほかにどうとも言いようがないので、しかたがなかった。
「えー……、そ、そのようで……」
「そこの男ふたりは、賊だ。縛って、馬に乗せてくれ。騎士団に引き渡す」
言って、ヴィクターも自分の馬のほうへと歩き出す。
「これでは我らの面目が立ちません!」
若い騎士が憤慨したように叫んだ。
「なんの活躍も──あ、いえ、貢献もできず……」
恥じ入るように尻すぼみになる言葉に、周りの騎士たちが苦い笑いを浮かべた。
どことなく和みかけた空気を、だが、年長の騎士が年長らしく引き締めた。
「陛下! 今後はこのようなことがないように、くれぐれもご自重ください! あなたはご自分のお立場というものを軽んじておられる。もしもその身に何かあれば、いまだ明確な王位継承者が決まっておらぬ以上、路頭に迷うのは我々王国の騎士なのですぞ!」
「わかった、わかった」
ヴィクターは苦笑して頷いた。
フィアを馬に乗せ、自分もその後ろに乗りあがる。
「とにかく、近衛騎士団と合流しよう。まだ問題が──」
残ってる、と言おうとした、その顔がわずかに強張る。
馬車のそばに倒れてしていたはずのエドアルドが、のそり──と起き上がったのだ。
彼はその手に、金属の小さな塊を抱いていた。鉛色ににぶく光るそれは、重そうで、どことなく不吉な感じを見る者に抱かせる。彼はそれをゆっくりと水平に掲げると、筒の先を、震える両手で馬上に固定した。
「僕から──逃げられると──思うなよ……」
切れ切れの言葉を吐き捨てたのは、切れて、血の滲んだ唇。
端正な顔に憎悪を浮かべ、エドアルドはヴィクターを睨みつけた。
その腕が小刻みに震えている。手にしているものの重みのせいか、それとも、さきほどの衝撃でどこかを怪我したのかはわからない。だが、エドアルドの眼光にはいささかの揺るぎもなかった。その目はまっすぐにヴィクターを射抜いている。
「これは銃≠セ」
エドアルドは視線をヴィクターに固定したまま、周りの騎士に向かって言った。
「剣を振り回すしか知らないおまえたち野蛮な騎士には、不向きの武器さ。だが、僕がこの引き金を引けば、火薬に火がついて弾が飛び出す。一瞬のうちに、僕は、おまえたちの主君の命を奪うことができる──」
騎士たちが色めき立ち、にわかに抜刀してエドアルドを遠巻きに囲む。
「──賊め、打ち滅ぼしてくれる!」
年長の騎士が叫び、剣を振り上げて打ちかかろうとした──だが、その体が、天に轟くような轟音とともに沈む。がくりと膝をつき、彼は剣を取り落とした。喘ぎながら肩を押さえると、肩当ての下からじわじわと鮮血が滲み出してきた。
「ラースロー卿!」
若い騎士が飛びつくように近寄り、ひざまづいて助け起こした。年長の騎士は「大丈夫だ」と切れ切れに言ったが、その手の下からは、いまや、衣を染めるほどの血が流れ出している。
「撃つと言った。──愚か者め」
エドアルドが手にしているものから、火薬のにおいと、煙がたちのぼっていた。
ヴィクターは馬上で軽く息を呑むと、騎士たちに向かって「下がれ」と命じた。
騎士たちは戸惑い、剣を構えたまま硬直する。
「しかし──」
「下がるんだ」
もう一度、ヴィクターは繰り返した。
今度は、騎士たちも一歩、二歩と、その言葉に合わせてじりじりと退いた。
「何が望みだ。エドアルド」
馬上で、ヴィクターは、自分の前に座っているフィアを片手で庇いながら訊ねた。
「言ってみろ。それともこの期に及んでまだ、この娘が必要だとでも言うつもりか?」
「もう、用はない──」
エドアルドはぶるぶると震える手で銃を支えながら、歯を食いしばった。
「僕の望みは──おまえだ! 国王! おまえさえ死ねば、それでいいんだ!」
エドアルドのヒステリックな声が、押し黙るような沈黙を切り裂いた。そして彼は、その言葉どおりに引き金を引いた──ヴィクターはその動作の予兆を感じとったとき、とっさに、フィアの体を内側に隠して庇った。轟音が鳴り響き、それは、国王の命を奪うものとなるはずだった──
だが、あらぬ方向に向けられた筒から、白い煙がたちのぼる。
呆然としているエドアルドの腕に、細いナイフが数本、突き立っていた。
驚いて全員が、ナイフを投げたはずの誰か≠フ姿を探す。それはまばらな木立の中から、すっと現れた。分厚いマントの下からむき出しの腕を伸ばしていたのは、背の高い女だった。指のあいだにあと数本、ナイフを挟んでいる。
「……アラリス?」
ヴィクターは意外な思いで、その人物の名を口にした。
自分を「護衛する」と言った女は、その言葉どおりの行動で、一同の窮地を救った。だが、その美しい顔には怒りと、険しさがあるだけで、急場をしのいだ喜びの色はどこにも見受けられなかった。
「──く、そ──」
エドアルドは歯を食いしばった。
そして再び、片腕だけで銃を構えた。だが、重くて支えきれない。そのまま落としかけた──だが、怪我をした手を、銃の構える手の下に挟んでとっさに支え、エドアルドは迷うことなく引き金を引いた。
「死ね! 死ね! ──死ねえええ!!」
狂気の言葉が、その唇から続けざまに放たれる。
庇われていたフィアが、ヴィクターの腕の下から目を見開いた。
とっさにヴィクターが、フィアを抱き込んで馬の反対側に飛び降りる。それに狙いを定めた銃口が、見事に馬の背にぶちあたった。馬が悲鳴をあげ、もがき、どうと横倒しになる。土煙が舞ったとき、エドアルドは、続けざまに引き金を引いていた。
馬が倒れると、もはや、身を庇うものは何もなかった。ヴィクターはフィアをその背に庇ったが、フィアも、彼を庇おうとして後ろでもがいた。それを押さえつけ、自分に向けられた銃口に向かって彼は目を見開いた。
迫り来るのは、自分の、死の瞬間──
アラリスが走り出し、騎士たちも雄たけびを上げて、エドアルドに向かって打ちかかっていく。だが、とうてい間に合うものではない。火薬に火がつき、あたりを揺るがす轟音が響く。その瞬間、騎士たちは、自分の顔に向かって飛んでくる血しぶきを受けて凍りついた。
──耳をつんざくような絶叫が、あたりに響き渡った。
ヴィクターの背中のうしろで、フィアも、凍りついたようにそれを見守っていた。
その視線の先で、崩れ落ちたのは──エドアルドだった。
彼の右手は無残に砕け散っていた。
血が飛び散り、肉も飛び散って、とても見るに耐えない有様だ。彼は、天地がひっくり返りでもしたような声で絶叫し続けた。右手首を押さえ、のたうち、暴れ、転がりまわった。とめどなく流れる血が地面を濡らしていき、やがて彼は頭を激しく地面にうちつけ、座ったまま──
──動かなくなった。