KNIGHT AND SISTER《騎士と乙女》

第十四章 癒す者、癒されぬもの 2

初老の修道士が、桶を指差す。
フィアは頷いて、水が入ったままのそれを持ち上げ、礼拝堂から出て行った。
──修道士たちがフィアを奇異な目で見たのは、最初だけだった。どうやら手伝うつもりらしいと分かってくれてからは、言葉が通じずとも、身振り手振りで仕事を作ってくれる。それを見ながら、フィアは礼拝堂に並んで寝ている病人たちに水を飲ませたり、額の布を取り替えたり、今のように汚れた水を新しく替えに行ったりした。
水を張った桶はバランスを取るのが難しく、歩きながらこぼしてしまうことも多かったが、諦めて水の量を減らし、その分、何度も修道院と井戸とを往復することにした。井戸は村の中にあったから、聖アルメリア女子修道院で水汲みに行っていたときよりもずいぶんと楽だった。あそこは、足場の良くない山道をずっと歩いていかなくてはならなかったから。
あの修道院で、知らず知らずのうちにいろいろなことを覚えていたのだ。こんな自分でも。
フィアは少し嬉しくなった。
けれど、それを顔に出すことはできない。この礼拝堂の中には、重病の病人が並んで寝込んでいる。彼らの熱に浮かされた寝顔を見ていると、とても喜ぶ気になれない。あちこちからひっきりなしに聞こえてくる苦しげな咳も、フィアの気持ちを引き締めた。
(しっかりしなきゃ! わたしまで風邪を引くわけにいかないもの)
修道院にいたころは、病気らしい病気などしたことがなかった。
健康だけが取り柄だと、周りのシスターたちからはよく笑われていたけど、今となってはそんな頑丈な体に感謝したい気分だ。
そうしてフィアが修道士たちの手伝いをしていると、礼拝堂にひとりの修道女が入ってきた。
修道士ばかりしかいない中に、髪までヴェールで覆い隠した修道女が入ってくると、とても目立つ。フィアは病人の額あてを替えようと、しびれるような真冬の水に漬けかけた手を止め、その姿に見入った。
(あれ? ここ、男子修道院じゃなかったっけ……)
男の修道士も女の修道士もいる修道院なんて、少なくともフィアは聞いたことがない。
それに、修道士たちは黒いローブだが、その修道女は頭のてっぺんからつま先まで灰色の修道服に身を包んでいる。──どうやら違う修道院から来たようだ。だとしたらいったいどこから来たのだろうと、訝しく、また少し興味深く見つめていると、向こうもフィアの視線に気づいた。片手に荷物を持ち、片手でローブの裾をつまんで、縫うような足取りでフィアに近づいてくる。
病人や、あちこちに散乱している毛布やら桶やらに足がつかえないように注意しているのだろうが、どことなく優雅な仕草に見えた。平民らしからぬ──とでも言うのだろうか。近づいてくるにつれ、顔立ちの美しさ、上品さも際立って見えてきた。
彼女はフィアの前に立つと、黒い瞳でフィアを見おろした。
「──シスター・フィア?」
やがて、彼女の唇から発されたのは──ウルヴァキアの言葉だった。
「え?」
フィアは思わず訊き返した。
「シスター・フィアでしょ?」
修道女はもう一度繰り返した。フィアは驚きで瞬きをした。
「……ウ、ウルヴァキアの人なんですか?」
自分のことを答えるより先に、思わず訊ねてしまう。
エドアルド以外の人間がウルヴァキア語を話すのを初めて聞いたのだ。
修道女は立ったままでは目立つと思ったのだろう。フィアのそばに膝を屈め、修道服の裾をすっと片手で直す。
「わたしが先に質問したのよ。答えて」
静かな声で言った。
「あ、そ、そうです。フィアです、わたし」
フィアは慌てて頷いた。「あなたは?」
「セラエ。……シスター・セラエよ」
修道女はそう名乗り、じっとフィアを見つめる。
その黒い瞳には、だが、なんの感情もこもっていなかった。
感情と言うよりも──光がない。
白磁のような肌の色と、美しい顔立ちがそれに加わると、まるで人形のように見える。
「あの……シスター・セラエ?」
沈黙を守り続ける彼女に向かって、フィアは戸惑いながら声をかけた。
すると、ようやくセラエの瞳にわずかな光が戻ってきた。彼女はすっと瞼を伏せると、足元の包みを開き、「着て」と、自分が着ているのと同じ灰色の修道服を差し出してきた。
「これを?」
フィアは驚いた。「どうして?」
「あなたは修道女だからよ」
セラエは簡潔に答えた。
「だから修道服を着るの。……着てもらわないと、わたしが困るの」
そう言って、立ち上がり、近くの修道士のところへ歩いていった。
「困る? ……えっと……?」
フィアが戸惑っているあいだに、セラエはすぐに戻ってきた。
「向こうで着替えていいと言われたわ」と言い、歩きだす。フィアはその背中をぼんやり眺めていたが、彼女についていかなくてはならないのだと遅まきながら理解し、慌ててそれを追った。


独房のような小部屋は、庭のような空間を横切った先にあった。
セラエはそこで、フィアに服を脱ぐように言った。
フィアは戸惑ったものの、逆らう理由を見つけられず、しかたなく彼女の前で服を脱ぎ始めた。
「……なんで着替えるんですか?」
「さっきも同じ質問をしたわ。シスター・フィア」
セラエには答える気がないらしい。取りつく島もない。
「エドアルドさんに頼まれたの?」
セラエから受け取った灰色の修道服をすっぽりと頭からかぶりながら、訊ねる。
服に遮られて彼女の顔は見えなかったが、そのあいだに「……そうよ」と聞こえた。
フィアは顔を出し、袖に腕を通しながら裾を見た。──セラエはすらりとしているので、自分が着たら裾が余るだろうと思ったのだ。だが、何とか引きずらずにすむようだった。足首のあたりまで、完璧に覆われてはいたが。
「あの人、わたしが修道女ってことにこだわってるみたいなんです。なんでなんだろ」
フィアは裾をちょっと持ち上げながら、ぶつぶつ呟いた。
これではきっと、歩くのにいちいち裾を持ち上げなくてはならないだろう。城にいたとき、スティーナからドレスの着方は教わったけれど、裾を持ち上げて歩くのは苦手だった。──いつも忘れて、結局は裾を汚してしまうのだ。貴婦人にあるまじく、土や何かで。
「あなたを聖女にしたいからよ」
裾を見ていたフィアに向かって、セラエがぽつりと言った。
「……え?」
フィアは顔を上げて、まじまじとセラエを見つめた。
「聖女──」
その続きの言葉が、出てこない。
たしかにフィアは、そういう意味で言ったのだった。エドアルドは、自分を聖女≠ノすることにこだわっているらしい──と。だが、それを、目の前のセラエに言われると思わなかった。
「分からないの?」
セラエは、フィアの絶句をどう取ったのか、眉をひそめて問いかけた。
「えっと……」
フィアは言葉を濁し、うつむいた。
何と言うべきか考えていた。だが、セラエはなおも言葉を重ねた。
「彼≠ヘ、あなたを聖女≠ノしようとしているのよ。シスター・フィア」
聖女よ、と、セラエは繰り返した。
フィアはセラエを見つめ返した。
「それは分かってるけど、でも……」
「何が分かってるのよ? ──あなた、彼のことを何も知らないんでしょう? そうでなければ、こんなところまでノコノコついてくるはずがないものね。──ウルヴァキア人のくせに!」
セラエの口調は次第に激しさを増し、いつしか、なじるようなものに変わっていた。
何もなかった瞳の中に、今はくっきりと憎悪の色が浮かんでいる。フィアは言葉に詰まった。
「わたしは──」
「何を夢見てるのか知らないけど、聖女だなんて言われて、舞い上がるのも今のうちだけよ」
言いかけたフィアの言葉を遮り、セラエが声を震わせる。
「聖女なんてものじゃない。──魔女よ。あなたは、恐ろしい……魔女になるのよ! あの男と一緒にいたらいつかそうなるわ。あれは悪魔に魂を売った男なんだから。あなたも、いつか同じように……悪魔に魂を売り渡すわ!」
叫ぶようなセラエの声に、フィアは、知らないうちに後ずさっていた。
「わたしは──」
息を呑み、セラエの顔を見つめる。
──そんなふうには──ならない。
そう言いたかったが、セラエの顔を見ていると言えなかった。
セラエは踵を返し、飛び出すように部屋を出て行った。
フィアは小部屋にひとり取り残され、立ち尽くす。
そこに、いつまでもセラエの声が反響していた。


礼拝堂に戻ると、もうセラエの姿はなかった。
フィアはしばらくぼんやりしていたが、ふと我に返り、老修道士のところへ歩いていった。
老修道士はフィアの格好を見て驚いていたが、納得もしたのか、頷いてみせただけだった。
──それにしても、裾の長い修道服は、桶を運んだり歩き回ったりするのに本当に不便だった。
聖アルメリア女子修道院では、身の丈に合った修道服を着ていた。だから裾を持ち上げる必要はなかったのだが、ここで、サイズが合わないから他のをくださいというわけにもいかない。フィアは水を張った桶を両手で持ちながら、(どうかつまづきませんように!)と、必死で祈りながら歩いた。
しばらくすると、フィアのその姿を見て気の毒に思ったのか、もしくは、この調子ではいつかこぼすだろうと案じてくれたのか、老修道士はほかの仕事を与えてくれた。──病人に食事をさせるという仕事だ。
ここにいるのは重病人ばかりのため、食事をするにも介助が必要だった。
老修道士は、フィアをひとりの子供のところに連れて行くと、『世話を頼む』というように重々しく頷いてみせた。フィアもそれに、『任せてください』と言わんばかりの、神妙な顔で頷き返した。
こういうときは、なぜか、言葉がなくても意志が通じる。フィアはなんとかやっていけそうだと思い、しずしずと去っていく老修道士の後ろ姿を、ほっとした気持ちで見送った。


その子供は、フィアが見た、父親らしき村人に抱きかかえられてきた子供だった。
男の子で、年は、十にも満たないかもしれない。熱が高く、ずいぶんと苦しそうだったが、意識ははっきりしていた。汗ばむ額を拭い、冷たい水に浸した額あてを替えてやると、フィアには分からない言葉で何か言い、にこっと小さく笑った。
その屈託のない笑顔に、フィアも笑顔を返さずにいられなかった。
「……がんばってね。すぐ、よくなるから」
フィアも、男の子に向かって話しかける。
「明日、街から薬が届くんだって。……だから、もうちょっとの辛抱よ」
男の子はきょとんとした顔でフィアを見上げた。
まさか、異国の言葉で話されるとは思わなかったのだろう。
──と、後ろから修道士のひとりが近づいてきて、新しい水差しを手渡してくれた。
フィアがそれを受け取り、男の子に差し出すと、男の子は戸惑いながらも「……」と言った。
今日は、その言葉を何度も聞いた。老婆や、老人から、感謝の気持ちを示されるときに。もしかすると、それがヴァレンヌ語で『ありがとう』というのかもしれないと、フィアは思った。
「アリガ、ト」
フィアも、その言葉を、ありがとうと言うつもりで言ってみた。
「……アリ、ガト」
男の子も、鸚鵡返しのように繰り返す。
その顔に、また、さっきと同じ明るい笑みが戻った。
「……ありがと」
男の子が笑顔でもう一度繰り返した。
フィアも微笑んで、うん、と頷いた。


夜になるとセラエが戻ってきて、修道院の空き部屋に案内してくれた。
懐かしささえ感じる、狭い独房がそこにあった。
フィアは少し感動しながらその独房を見まわし、そしてセラエを振り向いて礼を言った。
「ありがとう。案内してくれて」
「やめて。わたしは言われた通りにしてるだけだから」
だが、セラエは素っ気無かった。
「エドアルドさんが……」
フィアは少なからず意外に思い、目を丸くした。
修道院の手伝いなどするなと言っていたのに、修道院に泊まれるように手配してくれるとは思わなかったのだ。(やっぱりあの人も、本当は村の人たちのこと気にしてたんだ)──と思いかけたとき、
「彼は街の宿に戻ってるわ。あなたの分の部屋までとっていないそうよ」
セラエが言った。
「そ、そうですか……」
「それと、あまりこの修道院の中をうろうろしないでね。……男子修道院なんだから」
セラエは独房から出て行こうとしながら、振り向き、釘をさす。
「わ、分かってます」
フィアは急いで頷いた。
セラエはそれを見届け、何も言わずに姿を消した。


狭いベッドに横になると、ずいぶん使われていない部屋だったのだろうか、どこからかかび臭いにおいがツンと鼻をついた。
窓もなく、灯りもなく、まっくらな部屋で、フィアは薄っぺらな枕に頬を押し当てる。
(みんな、どうしてるかな……)
ふと、聖アルメリア女子修道院のことを思い出した。
ここが修道院だからか、礼拝堂や修道士の姿を見るたびに思い出す。
──院長は相変わらずお説教ばかりしているのだろうか。
シスター・ゲルトルードは、今も薔薇の世話で忙しいのだろうか。シスター・アデルハイドは寒がりだから、あまり外には出ないだろう。副院長のシスター・ベセルはもう高齢だし、前に会ったときにも風邪を引いていたから、今年の悪い風邪にかかっていなければいいのだが……。
(ロゼッタは……もう、わたしが戻らないって思ってるのかな)
王都に行くと言ったとき、どれだけ強く彼女が反対したかを思い出す。
その反対に、一度は、修道院に残ろうと思った。
けれど結局、フィアはそれを振り切り、出て行くことになった。
──『あたしには止められないわ。あんたの人生は』。
最後には、そう言って許してくれたロゼッタ。
だが、フィアには分からない。自分の人生を、自分でどう歩いていけばいいのか。
兄が道に迷ってしまったように、自分も道に迷わないと言い切る自信が──ない。
(……星が見たいな)
暗闇の中で、フィアはぼんやりと思った。
(星を見たら、道が分かるって……言ってた)
そう言った人物の顔を、瞼の裏に思い描く。
星を見たら、自分も、彼のように道に迷わずにすむだろうか。
こんな異国の空にも、ウルヴァキアと同じ星が瞬いているのだろうか……。
そう思いながら、フィアは、一日の疲労とともに眠りの縁へと沈んでいった。