KNIGHT AND SISTER《騎士と乙女》

第十四章 癒す者、癒されぬもの 3

翌朝の早朝、起こされたばかりのフィアは異様な光景を目にした。
「な、何? この行列……」
唖然として呟く。
まだ朝もやに包まれている修道院の建物から、すぐそばの村の中まで、延々と行列が続いている。並んでいるのは村人たちだ。三十人か四十人くらいだろうか。みな寒さに震えながら、切実な顔でこちらの様子をうかがっている。
フィアには分からない言葉が、ひそひそとあちこちから耳を打つ。
まだ夜も明けきらないうちにシスター・セラエに起こされ、連れて来られて、見せられたのがこれだった。どういうことなのかと訊ねようとしたら、セラエの姿はもうなかった。戸惑ったまま立ち尽くしていると、後ろからエドアルドの声がした。
「薬の配布を待ってるんだよ」
振り向くと、粗末なローブとマントに身を包んだエドアルドが、悠然と修道院から出てきた。
「昨日、そう言ったろ。だから待たせてたんだ」
フィアは面食らった。──エドアルドが何やら貧相な格好をしており、珍しく髪を後ろで束ねているのにも面食らったが、それだけではなく。
「待たせて……?」
「着て。それから、ここに座って」
彼はマントをフィアに手渡し、修道院の外壁につけられた木箱を指差す。
フィアはそれが椅子ではないことに怯んだが、頑丈そうには見えたので、言われるがままに腰をおろした。──壊れそうにないので、ほっとした。渡されたマントを羽織りながら、エドアルドを見上げておずおずと訊ねる。
「どうして今まで配らなかったんですか? みんな待ってるのに……」
「きみに配ってもらいたいからだよ。シスター」
エドアルドは素っ気無く答えた。
フィアは目の前の行列を見て、彼らの飢えたような視線にぶつかり、思わずうつむいた。
「まだそんなこと……」
「きみには『そんなこと』でも、僕には大事なんだ。とてもね」
エドアルドは言って、外壁の内側に入っていった。
しばらくすると、彼はセラエを連れて戻ってきた。
「この女が瓶に入った薬を運んでくる。きみはそれを村人に手渡す。流れ作業だ」
彼はフィアに向かって言った。
「分かるよね? よっぽどのバカじゃなければ?」
「……分かりません」
だが、フィアは顔をしかめた。
エドアルドも顔をしかめる。美しい顔が台無しだと思うほど、思いきり。
「分からないって何が?」
「だって、ふたりで配ったほうが早いわ。彼女も修道女なんだし……いいでしょ?」
そう言うフィアを、エドアルドはまじまじと見下ろした。
フィアのほうは目の前の村人たちが気になり、返事を待つあいだもそわそわしていた。──寒いから、こんなところに立っていたらみな病気になってしまう。早く配って、早く終わらせたいと思いながら、エドアルドを見つめ続けた。
「……シスター」
やがて、エドアルドはゆっくりと言った。
「な、何? 駄目なんですか?」
フィアは焦るあまり、セラエが運んできた瓶をひったくるように取った。
「だったらいいわ、ひとりで──」
「この女は修道女なんかじゃない。ただの娼婦だよ。僕が修道女の格好をさせてるだけだ」
エドアルドの言葉に、フィアは思わずセラエを見上げた。
セラエは相変わらず、なんの感情もこもらない瞳でフィアを見つめ返す。
灰色のヴェールに覆われた頭部から、よく梳かれた黒髪がのぞいていた。
「シ──ショウフって……何?」
フィアはぎこちなく訊ねた。──セラエにではない。エドアルドにだ。
「知らないんだ?」
エドアルドは呆れたように言った。「じゃ、本人に聞いてみなよ。──『娼婦って何!?』」
そして、はじけるように笑い出す。
「……シスター・フィア、早く薬を配らないといけないんじゃない?」
人を小ばかにする態度のエドアルドを尻目に、セラエは淡々と言う。
フィアは我に返った。
「あ、そ、そうだ」
慌てるフィアの傍らに、セラエがすっと腰をかがめる。何だろうと、フィアも手を止めた。
「みんな、夜明け前から並ばされていたのよ。──あなたひとりのために、これだけの人が」
耳打ちするように、声をひそめて囁きかける。
「えっ──」
フィアはまじまじとセラエを見つめ返した。
彼女はすぐに立ち上がり、修道院の建物の中に消えて行った。
エドアルドは立ったまま、まだ壁にもたれて笑っていた。
いったい何がおかしいのだろう……。分からない。薬の瓶を持ったままフィアが固まっていると、最前列に並んだ子供が待ちかねたのか、ちょうだい、というように小さな手を突き出した。
「──あ、ご、ごめんね」
フィアは慌てて、薬の瓶を渡した。
「アリガト」
子供が言い、身を翻して村に駆け戻っていく。
すぐに次の村人が、フィアの前に手を出した。
「は、はい。──お、お待たせしてごめんなさい」
フィアは謝りながら次の瓶を差し出した。
セラエに渡してもらった瓶は五本ほどだが、瞬く間に手の中から消えてしまった。
セラエが戻ってきて、また、瓶を渡す。フィアはそれを村人に渡した。村人たちは次々に立ち現れてはそれを受け取り、村に戻っていく。──エドアルドが言うとおりそれは流れ作業だったが、フィアはそれをこなすのに必死だった。


薬を配り終えると、行列は幻だったかのように消えうせた。
静けさを取り戻した修道院の前で、フィアは木箱の上に座ったまま空を見上げた。
(こんなのでいいのかなぁ。わたし……)
空に向かって問いかける。
灰色に曇った空は、いまにも雪を降らせそうに見える。──とても答えなど望めない。
霧は晴れたが、冷え込みは厳しくなる一方だ。マントを着ていても、寒さはその上から染み込んでくる。フィアは赤くなった指先をこすり合わせ、白い息でほうっと暖めながら立ち上がった。
入れ替わりにエドアルドが中から出てきた。
フィアを見て、「行くよ」と声をかける。
「行くって、どこに?」
フィアは驚いた。
「次の村だよ」
エドアルドは当然のように答えた。
「だって、まだここで──」
「することは、もうない」
フィアの言葉を引き取り、エドアルドが断定した。
「病人がいるのはこの村だけじゃないんだ。この近隣の村もみんなやられてる。教会からは毎日火葬の煙が上がっているというんだ」
「も──燃やすの?」
フィアは息を呑んだ。
「燃やすんだ。病に冒された遺体は、土には埋めない」
「………」
その言葉に、フィアは言葉を失くした。
人が死ねば、土に埋められる。それが当たり前だと思っていた。
けれど、流行り病で死んだら、それさえも望めないのだ。その人を偲ばせるものはこの世に何もなくなり、ただ灰だけが残る。墓に行っても、美しい花の下にその人はいない。それは物悲しいことのように思えた。
「さあ、行くよ。ひとりでも死人を減らしたいだろう?」
エドアルドが左手でフィアの手を取る。フィアは我に返った。
「この村には薬が行き渡ったし、修道院もある。心配ないよ」
エドアルドはフィアを元気づけようとでもいうのか、珍しく、優しい口調だった。
「次の村で、また薬を配ろう。そうやって村々を回っていくんだ。きっと、大勢の人が助かる。誰もがきみに感謝をするだろう。──きみだって嬉しいはずだよ、自分の力で大勢の人を救えるんだからね」
だが、フィアは素直に頷けなかった。
澄んだ瞳を憂いで翳らせ、自分の手を取っているエドアルドを見上げた。
「それは、あなたの力だわ。あなたが、薬を用意してくれたから──」
「違う」
エドアルドは強い口調でそれを遮った。
フィアはしばらくそれを見つめていたが、やがてうつむいた。
「違わない……」
小さな声で呟く。
「それに、シスター・セラエも言っていたもの。あなたは、わたしを聖女にしようとしてるだけだって……」
「──だけど、前の聖女のようになってほしいと望んでるわけじゃない。勘違いしないでくれ」
エドアルドはフィアの手を取る左手に、ぐっと力を込めた。
それは痛いほどの力だった。思わず、彼を見上げる。
「エドアルド、さん……」
「前の聖女のことで、少なからず後悔はしたんだ。──聖女を死なせたことだけじゃない。僕たちがどれほどの人を傷つけ、苦しめてきたのか、あの一件で思い知らされた。──だから、償いたいんだ。前にも言ったけど、この気持ちは嘘なんかじゃない」
エドアルドは真剣だった。
フィアは戸惑ったが、何も言わずに彼の言葉に耳を傾ける。
「きみなら、一緒にその償いをしてくれると思った。だからきみに一緒に来て欲しかった。──ひとりじゃ駄目なんだ。出来ないんだよ! 薬なんかいくらでもあるし、金だっていくらでもある。だけど、人のために何かする気になれなかったんだ。どうしても……」
エドアルドはフィアの手を握りしめたまま、わずかに顔を伏せた。
「僕だけの力で、自分は何もしてないなんて、言わないでくれ。シスター・フィア。きみがいなければ、僕は薬ひとつだって、誰かのために買おうなんて思わなかったんだからさ……」
エドアルドはうなだれているようにも見えた。
フィアはそれを見つめていた。
葛藤が、心の中をわずかに巡る。
だが結局、フィアはエドアルドの手を握り返すしかないのだった。
「分かりました……」
エドアルドの言葉に押されるようにして、呟く。
「行きましょう、エドアルドさん。一緒に……」
エドアルドが目を見開き、何か、信じられないというような顔でフィアを見つめる。
「いいの? 本当に」
わずかに息を呑み、怪しむように訊ねてくる。
「僕が憎くないのか? ──本当は憎いんだろう? きみをこんなところに連れて来たから」
疑い深い言葉に、少し笑って首を振る。
「そんなこと思ってません」
それは本当だった。
正直に言って、エドアルドが信じられるのか信じられないのか、フィアには分からない。
信じたらまた、前のように失望を感じることになるかもしれない。兄は無実だと知っていて、自分には助ける力があると言ったのに、『犠牲もなしに得られるものはない』と冷たく突き放されたときのように。
けれど、自分はこの国でたったひとりだ。エドアルドと行くしかない。
それに、きっと──彼もひとりだ。
語られる言葉がたとえ嘘でも、彼の瞳の中の傷ついたような光は、簡単に消せるようなものではない。それが何よりも雄弁に彼の孤独を語っている。フィアにはその寂しさが何となく理解できた。彼の言葉は理解できなくとも、その寂しさだけは、自分にも分かると思えたのだった。