法皇府の廊下はとてつもなく長く、そして広々としている。
天井も高く、最上部は半円形になっていて、そこには宗教画にも似た複雑な模様が描きこまれている。それを見て昔「まるで出口のない聖堂に迷い込んだようだ」と言ったのは、エティエンヌの次兄リシャールだ。四人いる兄の中で一番繊細な性格をしていた彼は、他の兄弟と違ってひとりだけ法皇騎士にはならなかった。戦いが嫌だと言って修道士となり、以来、一度も家には戻ってきていない。
エティエンヌの父はバルニエ伯爵家の当主にして、枢機卿だ。枢機卿となってからは、実質、当主の権限を長兄のイーヴォンに譲っている。イーヴォンは今年で三十七。法皇騎士団『青の隊』の隊長でもあり、七百人からの法皇騎士たちをまとめている。
法皇騎士団はそうした小隊の集まりでできており、隊によって成り立ちから雰囲気から千差万別。『青の隊』は皇都守備、『緑の隊』は辺境警備、『黒の隊』は最も規模が大きく数千の騎士を擁する戦争部隊、『白の隊』は三百人ていどの小隊で、枢機卿たちの思惑ひとつでどこへでも行く──というような具合だ。
エティエンヌは騎士ではあるが、正確には『法皇騎士』ではない。法皇の親衛隊に所属する隊員のひとりである。だが隊員の多くが法皇騎士団上がりであることを考えると、親衛隊は法皇騎士団の一部、と言っても差し支えないような現状だった。その証拠に、親衛隊は慣例的に『赤の隊』とも呼ばれ、式典などの折には法皇騎士団と轡を並べることも多い。
中でもエティエンヌは、『青の隊』の隊長の妹であり、枢機卿の娘でもある。
先日ウルヴァキアで起こった『聖女失踪』の騒ぎの折に『白の隊』の一員として駆り出されたのも、そういった事情があるせいだ。白の隊にウルヴァキア語に堪能な者がいなかったという理由もあるが、実際は、枢機卿たちの私的な部隊とも言うべき『白の隊』が暴走することを恐れた法皇が、エティエンヌに、ある意味では見張り役として隊に同行するように命じたというのが本当のところだった。
法皇イグナレオナは、無用な戦いを望んでいない──。
そのことが、側で仕えるエティエンヌには誇らしかった。
枢機卿たちは領土拡大を望み、他国に対して戦争も辞さぬという強硬姿勢をとり続けている。先代の法皇イグナシエルがとった領土拡大政策を、御世が代わったというのに、未だに支持し続けているのだ。
──実際、先代の法皇イグナシエルは優秀な為政者だった。
ヴァレンヌ法皇国は、イグナシエルが法皇となったときには豆つぶのような小さな領土しか持たず、単に『法皇領』としか呼ばれていなかった。今は無きフェネディア王国の一部でしかなかったのだ。それを、かの国の内乱に乗じて独立を宣言し、自治領から国家へと、あっというまに成り上がった。内乱で分裂したフェネディア王国は、今では『ハイネベルク公国』と『フランツヴァイク公国』のふたつに分かれて存続している。そしてその二国とも、今やヴァレンヌの支配下にあると言っても過言ではない。
内乱を扇動したのは、実はイグナシエルの手の者たちであったとも言われているが、今となっては定かではない。もはや滅びた国のことなど、誰も気にしはしないのだ。
ただ看過できないのは、そうして行き場を失ったフェネディア王国の家臣たちが棄教者となってヴァレンヌに敵対したという事実だけである。しかしヴァレンヌは彼らを『異端者』と呼ぶことで、討伐の大儀名分を得た。
法皇騎士団『黒の隊』が速やかに彼らを追い詰め、一箇所に集めて火あぶりにした。その惨劇の中心地となったアヴィエン教会では、地下道までもが数百の黒焦げの死体で埋め尽くされたと言われている。地下に繋がる水路にまで油を流したためだ。
その事件は、人々の口にのぼることなく、闇から闇へと葬り去られた。──旧フェネディア王国の最後の残党がそうして死に絶えたのは、今から十年ほど前のことだった。しかし広まった異端騒ぎは収まることを知らず、まるで伝染病のようにヴァレンヌ国内を駆け巡った。
御世が代わり、イグナレオナが法皇となってからは、領土拡大ではなく異端討伐に駆け回らねばならなくなった。若くして法皇となることを運命づけられ、登座したイグナレオナを心身ともに疲れさせていったのは、プレッシャーや責任感ではなく、そうした国内のゴタゴタした騒ぎだった。
一部の枢機卿たちは影で「無能だ」と責め立て、異端騒ぎを収められないのならその座をおりるべきだとまで言った。
一度法皇となれば、その座をおりるということは、死ぬということに等しいことである。かつて恋人と結ばれることを願って法皇であることを辞めた女性は、恋人と引き離され、僻地に幽閉されて孤独のうちに一生を終えた。──彼らはイグナレオナにも「そうしろ」と言っているのだ。
エティエンヌは父がイグナレオナの教育係であったという経緯から、立場的には父ともども『法皇派』であるので、『反法皇派』の枢機卿たちの言い分を聞くにつけ、「勝手なことを」と腹立たしい思いが募る。
イグナレオナは現在二十三で、エティエンヌより少しばかり年上である。
在位八年。法皇となったのは十五のときだ。そのときはレオナ=ジュレリという名前の、平凡な修道女にすぎなかった。アンセルム=ギイ枢機卿に見出され、皇都に連れて来られたとき、当時法皇であったイグナシエルは病の床に伏していた。不自然な健康状態から毒殺説が囁かれ、次に法皇になろうと意気込んでいた者たちは皆そろってしり込みをしていた。このままでは空位になってしまうという危惧が法皇府に蔓延していたとき、現れた美しく純粋な少女は、まるで穢れなき聖母そのもののように人々の目には映ったのだった。
救世母教では、法皇は女性でなければならないという決まりがある。聖母の化身としてこの世に存在し、人々を導く母のような存在。それが法皇なのだ。
為政者としては優秀であったが、母のような慈愛とは無縁であったイグナシエルに比べ、レオナは田舎育ちの純粋さで誰にでも優しさを分け与え、会う者会う者に感銘を与えた。目をみはるほどの美貌を持ちながら、レオナが最も美しいと評されたのは、その完璧な顔の造作ではなく白く華奢な手だった。ある高名な画家が彼女の手をどうしても描きたいと言って、半年がかりで見事な絵を描きあげたとき、レオナの人気は頂点に達していたと言っても過言ではなかった。熱に浮かされたように人々はレオナを「法皇に」と望み、それを後押しするかのようにイグナシエルが没して、レオナは新たな法皇、『イグナレオナ』となったのだった。
──だが、人の心は移ろいやすい。
異端騒ぎに悩まされるヴァレンヌの人々は、この状況を収拾できないイグナレオナに苛立ちを感じ始めた。イグナレオナはそれを敏感に感じ取り、異端討伐に関しては「すべて滅せよ」と強攻策を取ったが、それがかえって火に油を注ぐ結果となったのは皮肉だった。
それでも法皇府の人間だけは、国内の騒ぎなど知らぬ顔でいたし、イグナレオナに対しても批判的な態度は取らなかった。──法皇府の実権を握るのは男の枢機卿たちである。彼らは法皇になれないが、それがお飾りのものであることを誰よりもよく知っていた。先代の法皇のように知略に長けた女性など、十人にひとりもいるものではない。ならば法皇など、誰がなっても同じであると、ある意味では達観していた。それが御しやすい小娘であればなおのこと良いと。
しかしそれが崩れたのは、イグナレオナに恋人ができ、それを法皇使徒に任じるという公私混同があったためだった。「神聖なる座にありながら、俗な感情に惑わされるとは」と批判され、イグナレオナの人気は急速に落ちていった。恋人であった法皇使徒は罪人の烙印を押されて国外追放の処分となり、以来、ヴァレンヌには戻ってきていない。
法皇の座を巡る光と影を、エティエンヌは、イグナレオナを通じて見てきたのだった。
何も知らない人々の無責任さと無邪気さを、エティエンヌは心の中で憎んでいた。
最初だけは何かを期待して熱狂的に持ち上げ、支配者の座に押し上げておいて、そうなったらなったで今度は「無能だ」「辞めろ」と声高に罵り始める。民衆というものはいったい何がしたいのか、エティエンヌには皆目分からなかった。──それは父の愚痴でもある。「まるで姿の見えない怪物のようだ」と。どこか冷めたところのある長兄は「我々が民衆を支配しているのではない。我々が民衆に『支配されている』のだ」と言うが、イグナレオナの苦悩をよく知るエティエンヌは、それで納得することができなかった。
(猊下がこのところ病がちでいらっしゃるのも、心労が重なりすぎているせいだ)
そう思いながら、法皇府の廊下を沈んだ面持ちでエティエンヌは歩く。
(それなのに、お気に入りの法皇使徒が『死んだ』と報告しなくてはならないなんて……)
気が重い。
それしか、今の感情を言い表す言葉が見つからない。
エドアルド=グアテロという名の法皇使徒のことを、エティエンヌはさほど知っているわけではなかった。
初めて会ったのはウルヴァキアの国境の村で、あのときは指輪をしているから法皇使徒だと分かったくらいのものだった。しかしこちらに戻ってきてから、エドアルドの噂は幾度となく耳にした。──オルカンヌの聖女を見出した者。異端狩りの狩人。イグナレオナはエドアルドについてほとんど話したことはなかった。彼女はいつも、自分の使徒たちのことに関しては口をつぐんでいる。だがエドアルドがイグナレオナのお気に入りであったということは間違いないようだ。
(さぞかし落胆なされるだろうな。また寝込まれなければ良いのだが……)
このところのイグナレオナの体調不良を、「毒ではないか」と囁く者もこの法皇府にはいる。いつのころからか、ここには毒を操る魔物が住み着いてしまった。姿がなく、誰の手のものかも定かではない。かつて先代の法皇イグナシエルが重用したという修道女、アエラは、自由自在に毒を調合して「魔女」とも呼ばれた。本当はそのような修道女は存在せず、あれはイグナシエルの裏の姿だったと言う者すらいる。自分で毒を調合するうちに、毒で体を冒されたのだと……。
まるで魑魅魍魎の巣窟だ。
エティエンヌは苦々しい思いを抱いた。
──法皇府の廊下は静まり返っていた。
巨大な空間に人の姿がないというのは、異様なほどの不気味さだ。いつもなら司祭や枢機卿、秘書官や衛兵たちが闊歩しているというのに、どうしたことだろう。肌寒さすら感じながら途中の角を曲がったとき、さきほどよりも細くなった廊下の先で、部屋から出てくる人影を認めた。
「エティエンヌ」
振り返った人影が、驚いたような声を上げた。
「テオ兄上」
エティエンヌは思わず大きな声で言い、ほっとした。
その人影は、三兄のテオドールだった。辺境警備を主な任務とする『緑の隊』に所属する法皇騎士で、年齢はちょうど三十。しかし顔つきは若々しく、まだ二十代半ばくらいにしか見えなかった。体格は大柄で無骨な雰囲気なのに、どこかしら少年のように見えるのはそのせいだ。
「父上の部屋に用があるのか?」
テオドールは、今しがた出てきたばかりの扉をさしてエティエンヌに訊ねた。
そこは枢機卿である父の部屋である。エティエンヌは「ええ」と頷いた。
「聖女が無事に到着したので、ご報告をと思って。皇都にいるあいだは、当家で世話をすることになりそうなので」
「そうなのか?」
テオドールは意外そうな顔をした。
「聖女というと……『癒しの聖女』かい? 辺境で噂になっていた……」
「そうですよ。本当はジュリアンが出迎えるはずだったんですが、わたしが代わりに」
ジュリアンというのは末兄の名だ。年が近いので、昔から呼び捨てにする癖がついている。
「役目をさぼったのか? あいつ」
テオドールが眉をひそめるので、エティエンヌは気乗りしないまま首を振った。
「いえ。代わってもらったんです。聖女がどんな人物か見てみたかったから。でも、見て後悔しました。会うんじゃなかったって」
「変な話だな。何を後悔したんだ?」
「だって、本当に、なんのとりえもなさそうな田舎者だったから」
エティエンヌはフィアのことを思い出し、腹立たしさを覚えた。
「田舎者か……」
テオドールは気難しげに考え込むような顔をした。
「何か?」
エティエンヌは怪訝に眉をひそめて訊ねた。何か問題がありそうな口調だったからだ。しかし、
「いや、田舎者というから、頬が真っ赤で、大きなそばかすがたくさんあって、髪をぼさぼさの三つあみにしている感じが思い浮かんだんだ」
テオドールがのんきに言うので、エティエンヌはまた苛立った。
この三兄のことは嫌いではないのだが、いかんせん、話しているとイライラすることが多い。打てば響くような末兄のジュリアンが、三兄と何かと折り合いが悪いのも分かるような気がするのだった。
「……それが?」
「いや、それがな」
テオドールは苛立つエティエンヌに向き直り、真面目な顔で切り出す。
「さっき詰め所で耳にしたんだが、さきほど怪しい者が法皇府に忍び込んで捕らえられたらしいんだ」
「……怪しい者?」
エティエンヌはきつく眉をひそめた。テオドールは頷く。
「ああ。それで、拷問で素性を吐かせようとしたが、吐かないらしい。ただ意識が朦朧とする中で『聖女』と言ったというんだ」
「……兄上、そういう大事なことは、もっと早く仰っていただけませんか!」
エティエンヌは説教するような口調で言った。
テオドールは思わず「すまん」と謝ったが、なぜ謝らなければならないのかという顔をしている。
「どこにいるんです。その者は」
「そりゃあ、牢じゃないのか?」
肩を竦めて答えたテオドールは、しかし、即座に踵を返した妹に慌てた。
「おいエティエンヌ、どこへ行くんだ。父上に用があったのではないのか」
「用件は兄上から父上に伝えておいてください」
「へ? 用件ってなんだ?」
「──ですから、聖女はしばらく当家に滞在すると!」
エティエンヌは振り返り、怒鳴りたいような気分で言ったあと、広い廊下へと出た。
書類の束を抱えた秘書官たちがせわしない足取りで行き交い、修道女や司祭たちはささやかな目礼を交わしあいながら行きすぎる。いつもと変わらぬ光景がそこにあった。エティエンヌはそれを眺めたあと、足早に歩いてその流れに合流した。