目を開けているのか、それとも閉じているのか、分からないほどの暗闇だった。
ノイエは幾度となく気を失いかけながら、その闇に目を凝らしては自分の正気を試した。そしてまだ意識がある、大丈夫だと自分に言い聞かせては、目を閉じた。その繰り返しだった。
地下牢の中は湿り気が多く、水気を帯びた冷たい空気が充満していて、肌寒いというより身を切るような寒さだった。光が一切入らないので、今が何どきなのかも分からない。それほど長い時間が経ったわけではないような気もしたし、もう半日以上過ぎたような気もした。
拷問される──などという目に遭ったのはこれがはじめてだったが、なかなかこたえるものだなと思う。
痛みは、傷よりも精神に来る。吊るされて滅多打ちにされるのは、まだ耐えられる痛みだった。まだ治りきっていない腹の傷を殴られたときにはさすがに気を失ったが、水を浴びせられたおかげですぐに意識を取り戻した。それよりも辛いのは、自分の無力さ、情けなさを、こうして現実として目の前に突きつけられるということだ。
暗闇の中に置き去りにされたあと、ノイエが考えていたのはどうすればここから逃げ出せるかということではなく、これからどう生きていけばいいのかという自問自答のような問いだった。
ここまで来て、ようやく分かったのだ。自分はフィアを追いかけてきたのではない。ただ、自分の信じるものを追いかけてきただけだと。
かつてヴィクターが言った。『フィアを守れ』と。だから守ろうとした。けれど追いかけるものはいつも揺らいで、手の中から逃げていってしまう。なぜなのかノイエには分からなかった。けれど今なら答えを言える。揺らいでいたのは自分の心だと。
(結局、わたしは……許せないのか)
ノイエは自嘲的な笑みを浮かべた。
──ヴィクターのことを、好きだった。
彼はいつも自分の道を見失わない。邪魔なものがあれば切り捨ててでも進む。その強さを羨ましいと思い、憧れていた。だが今は、彼の行動を肯定することができない。幼いころから植えつけられてきた『正義』や『倫理』が、それを認めることを絶対的に拒むのだ。
それでも従おうとした。──だが、自分を騙すことはできなかった。だから何も掴めなかった。追いかけていたものは幻だったから。
(わたしは、もう駄目かもしれないな)
暗闇の中で壁に頭を預け、見えない天を仰いでぼんやりと思った。
衝動的に修道院に飛び込んだ、少年のころのことを思い出す。
あのときも何をしていいのか分からなかった。
いつも分からない。
何かに従うべきだ。分かっているのはただそれだけ。なのに、従うことそのものを自分は拒んでいる。矛盾した存在。そうしたものを、神は、この世に生きることを許さないのだ。このまま人知れず、死んでいくのが自分の定めかもしれないとすら思える。
緩慢に瞬きを繰り返すうちに、呼吸が弱くなっていくのが分かる。
けれど、気づいてもどうすることもできなかった。
熱を持った体は、自分で思ったよりも遥かにダメージを受けていたことを示している。もともと体力が落ちていたせいもある。
飲まず食わずで追いかけてきて、法皇府に忍び込んでからは衛兵相手に派手に戦った。なかば自暴自棄になっていたのかもしれない。衛兵はそれほど強くはなかったが、法皇騎士たちが出てきてからは成す術もなかった。あっというまに取り囲まれ、押さえ込まれ、──今、ここにいる。
(なぜ、わたしに話したんだ……ヴィクター?)
意識が、蝋燭の炎のようにはかなく揺れる。
(聞かなければ、何も知らずに、あなたを信じ続けられたのに)
今さら考えてもしかたのないことばかり頭に浮かんでくる。人間、終わりのときはそんなものなのかもしれない。
それでもふと思うのだ。
もしもあのとき、「それでも俺と来い」と言われていたら、どうしただろうかと……。
(忠誠を誓う……相手は、誰でも良かった。ただわたしを、心の底から必要としてくれる人ならば)
ノイエは薄れゆく意識の中で、やっと自分の本心に気づいた。
けれど今さら、遅すぎた。
あまりにも迷いすぎ、あまりにも回り道をしすぎた。もう取り返しがつかない。
懺悔と後悔の中で、ノイエの体はぐらりと横倒しになる。
冷たい汗にまみれた額が、湿った床に触れる。手は後ろで縛られたままだった。
──ほどなくどこからか靴音が響いてきて、あたりを松明のあかりが照らした。
ノイエの憔悴した顔も炎の色に染まる。
気力を振り絞ってうっすらと瞼を開けると、床につきそうな長いローブがふたつ、見て取れた。
「ノイエ=ラディウス」
ふいに、聞き覚えのある声が降ってきた。
その声に、ノイエはカッと目を見開いた。
「──ヴィクターさま……!?」
かすれた声は喉に張りつくようだった。
それを見下ろす人物の顔は、松明の炎が眩しすぎて直視することができない。
なぜ、ここに。そう問いかけようとして懸命に頭を起こすが、体に力が入らなかった。
やがてノイエは力尽き、頬を床に落として気を失った。
──ウルヴァキア王国・王都カルツアネス。
レヴィン=アーミス執務補佐官は受け取った書簡を握りつぶし、執務室の窓から外を眺めた。
「……馬鹿な」
誰もいない執務室に、茫然自失の低い呟きが漏れる。
その書簡の送り主は、諜報員として雇っているミクローシュだった。
ミクローシュがヴァレンヌから二度目の帰還を果たしたとき、本来ならば、彼はフィアを連れているはずだった。ヴィクターはレヴィンに何も言わなかったが、どうやら、ミクローシュにそのような依頼をしてヴァレンヌへ行かせたようなのだ。
自分の配下を金でたらしこんだと言って、レヴィンがヴィクターを責めたのはそう前のできごとではない。
ところがミクローシュは、フィアを連れずにひとりで戻ってきた。そしてその報告を、依頼主のヴィクターではなく、この件とは無関係のはずのレヴィンへともたらしたのだ。しかしその判断は正しかった。レヴィンはそれを聞くなり青ざめ、すぐに詳細な調査を命じてミクローシュを放った。そしてようやくもたらされた報告が、今、レヴィンの手の中で握りつぶされている書簡だった。
この書簡の内容が事実に相違なければ、この部屋の主になるべき人間は──。
レヴィンはしばらく沈黙し、考え込んでいた。
すでにあたりは日が落ち、暗くなっていた。ランプの灯りだけが煌々と燃え続けている。その覆いを取り払い、レヴィンは赤々と燃える火に書簡を近づけた。それはあっというまに燃え上がり、手の中でみるみる黒く染まってゆく。
それがなかば以上燃えたところで、暖炉の灰の中に落とし込んだ。もうすでに形がなくなっているというのに、火かき棒を取り上げ、灰の中深くに埋める。
「……参った」
しばらくして、聞きなれた声が執務室の扉を押し開いた。
「大司教に掴まって、久しぶりに長々と『ありがたい』説教を拝聴する羽目になったよ。うかつに教会になど近づくものではないな。やはりあそこは不吉な場所だ」
俺にとっては、と冗談まじりに言う顔を、レヴィンはまじまじと眺めた。
火かき棒をさりげなく暖炉に立てかけ、「それは災難でしたね」と無難な相槌を打つ。
だがヴィクターはそれを目ざとく見つけて、「もう暖炉の季節じゃないぞ」と言った。
「それよりヴィクターさま」
レヴィンは露骨に話題を逸らした。
もう証拠となるものは一片残さず灰になってしまったのだから、気にする必要はなかった。
「なんだ?」
ヴィクターは自分の執務机に座りながら言った。
「ヴァレンヌから召喚状が来たと聞きましたが、本当ですか? わたしは目にしておりませんが」
レヴィンのほうは自分の執務机に浅く腰掛けるような形で、立ったまま訊ねた。
目を伏せがちにし、いつもの癖で、肩に流した長い金髪をいじりながら。
「ああ、来た」
ヴィクターは書類を手元に引き寄せながら短く答える。
レヴィンは髪をいじるのをやめて視線を上げた。
「そのような重要なものが来たのなら、なぜわたしに」
「激怒して破り捨てそうな内容だったから、見せなかった」
ヴィクターは書類を読みながら淡々と言った。
「ヴァレンヌがらみのこととなると、おまえはすぐ頭に血が上るからな」
「そのようなことを言っている場合ではありません」
レヴィンは冷ややかに言った。
「すぐに断りの文書を作成いたします。見せてください」
「紛失した」
「……なんですって?」
「紛失した。……聞こえなかったか?」
ヴィクターは顔を上げずに言った。
レヴィンは信じられない思いで、机から腰を浮かせる。
「紛失した、ですって。ヴァレンヌからの、法皇からの召喚状をですか!?」
「そうだ」
「ヴィクターさま。ふざけないでください。今日は戯れに付き合える気分ではないのです」
レヴィンは声に怒りを滲ませて言った。
ヴィクターはようやく顔を上げた。
「俺もだ」
その顔を見て、レヴィンは黙り込んだ。
ヴィクターは再び書類に目を落とした。
「……なんと書いてあったんです」
レヴィンは再び訊ねた。今度はさっきよりも静かな、押し殺した声で。
「召喚の理由はなんなんです?」
「……言う必要が?」
「あります」
「そうは思えないな」
「皇都に潜らせている者から報告が入っております。シスター・フィアが、──『聖女』が、数日後には皇都入りする予定だと。今ごろは着いているころでしょう。それと同じ時期にあなたがヴァレンヌに召喚される。今までなんの音沙汰もなかったのにですよ、ヴィクターさま」
「たまたまだろ」
「わたし相手に、適当なことを言って誤魔化そうとしても無駄です」
レヴィンは、なおも執務の手を止めない主君を見ながら厳しく言った。
「ヴァレンヌから召喚状が来る。それは、我々が予想していたことだったはずです。シスター・フィアが法皇使徒に連れ去られて以来、いずれはこのような日が来ると思っていました。あなただってそうでしょう」
「判例集を取ってくれ。青い背表紙のほう」
「──そのときにどうすべきかは、散々話し合ってきたはずですよね? 理由をつけて引き伸ばし、無視する。それしかない。それが分かっているというのに、なぜ召喚状を紛失したなどと仰るのですか?」
レヴィンは言われるままに青い背表紙の本を取り、ヴィクターに渡した。ヴィクターはそのとき一瞬だけ顔を上げ、礼も言わずに受け取って本を開く。
「まあ、このさい、そのことは不問にしてもいい。問題はあなたが召喚に『応ずるかどうか』です」
「悪いがもう一冊のほうを取ってくれ。こっちじゃなかった」
青い背表紙の本を押し返すヴィクターに向かって、レヴィンは執務机に手をつき、わずかに身を乗り出した。
「まさか応ずるおつもりではないでしょうね。──国王陛下」
ヴィクターはレヴィンの顔を見つめ返し、しばらく黙っていたが、やがて諦めたようにため息をついた。