「──は、公爵家に戻す」
慎重に扉に指をかけ、隙間を広げたときだった。
中から、鋭く、厳しさを持った声が響いてきた。
ひょこりと中を覗き見ると、目に入ったのは壁際で剣を持って控えている男が数人。それから、さきほどまで姿が見えなかった院長と、副院長。クリステラの侍女のアルマに、ここからではよく見えないが、おそらくはまだ意識が戻っていないのであろうクリステラ。そのそばにいかめしい顔をした年寄りの医者が数人ひざまづき、後ろにいる年若い従者に細かい指示を出している。年若い従者はいかにも従順そうに頷き、もう一方の扉から桶を持って外に走り出て行った。
さきほどまでひしめきあっていた、大勢の修道女たちの姿はもうここにはない。追い払われたのだろう。
フィアのいる場所から一番近くにいるのは、背を向けている中年の男だった。
その男の声が、先ほどの厳しい声なのだろう。
ひときわ立派な身なりに身を包んでいる。肩のあたりは華奢なくらいに見え、老衰による体の衰えを少なからず感じさせるというのに、威圧感にも似たものを放っていた。
(誰なのかしら)
「で、ですが、公爵さま!」
クリステラの侍女・アルマが立ち上がり、中年の男に向かって口を開いた。控えめな態度を保ちながらも、なんとしても言わねばならないと覚悟を決めているような、悲壮感あふれる顔つきで。
「クリステラお嬢さまは、本当に、この修道院に骨を埋めるおつもりで……」
「骨を埋めるだと? ──馬鹿なことを!」
公爵と呼ばれた中年の男は、鋭い声で怒鳴った。
公爵といえば、エトヴィシュ公爵にほかならない。クリステラの父だ。
「口うるさい世間の目を避けるために、一時的に身を隠すだけだと申したではないか。おまえがついていながら、クリステラにそのような馬鹿げた考えを抱かせるとはなにごとだ! アルマ!」
怒鳴られ、アルマは鞭打つように身をすくめる。
「修道院に入るなど。そのようなわがままを許したのが間違いであった」
公爵の、押し殺した低い声が響く。
「もともと、人の噂がおさまるまでと考えていた。あれから一年以上が過ぎた。もう良いだろう。世間の関心は、前の国王陛下ではなく、今の国王陛下に移りつつある」
フィアはぴくりと耳を動かした。
話が微妙に、知っている方向へと近づいてきた。
扉の隙間をのぞきこみ、さらに目を凝らして息を詰める。
「前の国王陛下の求婚を蹴ったことは、もはや過去のできごとだ。近いうちに大司教を訪ねて、還俗の手続きを取ってもらう。誰にも文句はいわせぬ。世間であろうと、クリステラ本人であろうとな」
(ま、前の国王陛下?)
フィアは面食らった。
(じゃシスター・クリステラに求婚したのって、ヴィクターさんじゃなくて……叔父さん!?)
唖然となる。
てっきりヴィクターがクリステラに一目惚れしてしまい、口説いて口説いて、口説き落とそうとしたのだと思い込んでいた。さすがに最近のことではなく、クリステラが修道院に入ったという一年ほど前のことなのだろうと思ったから、それで彼を非難する気はなかったのだが。
(でも、関係なかったんだ……)
その事実を知ってしまうと、こんなときだというのに妙に気が抜けた。
気にしていないつもりでも、案外、気になっていたらしい。
(な、なんだぁ。そっか……。求婚してたんじゃなかったのね。怖くて訊けなかったけど)
神妙な顔でほっとしたのも束の間、
「還俗と申しましても、公爵さま!」
アルマが慌てふためいて口を挟む。
「そのような大事なことでしたら、まずは、クリステラお嬢さまのご意志を伺いませんと。お嬢さまはまだ意識がお戻りではありません」
「構わん! 本人の意志などを尊重したから、このようなことになったのだ!」
公爵の声がその場を打った。
静けさが一瞬、深くなった気がした。
しばらくして、公爵は声を低くして、さきほどよりも静かに話し出した。
「公爵家に生まれた以上、クリステラも生まれ持った『責務』というものをそろそろ自覚すべきなのだ。……わたしは悔いているのだよ、アルマ。あのとき、わたしは貴族たるものの責務よりも、娘の幸せのほうを願い、優先してしまった。だが、その結果がこれだ」
「公爵さま……」
アルマが声を震わせる。
公爵は首を振った。もはや心は決まった、というように。
「貴族は、王がいてこその貴族」
覚悟をにじませた、重い言葉が響く。
「ならば王の望むままに、たとえ掌中の珠であろうとも、娘を──クリステラを差し出すべきだった。だからわたしは決めたのだ。このような事件が起こってしまった以上、修道院も安全な場所ではない。どこも安全でないのなら、クリステラは──」
公爵の背筋が、わずかに伸びたように見えた。
「王家に、嫁がせる」
フィアは目を見開いた。
耳にした言葉の意味を理解するまでに、しばらくの時間が──掛かった。
「前の国王陛下の求婚を何度目かにお断りしたとき、『これでクリステラに将来はあるまい』と思ったものだ。国王を差し置いて、いったいどこの貴族がクリステラを娶ることができるというのだ? ──誰もできはせん。それが分かっていたから、修道院に行くことを許したのだ。いずれは家に戻すとしても、しばらくは世間から身を隠すほうが良いと考えてのことだ。だが今の国王陛下は、いまだ『ひとり身』でおられる。わたしはそのことについてまったく考えてこなかった。だが考えてみれば、これほどまでの良縁がほかにあろうか?」
わずかに振り向いて、フィアから横顔が見えるようになった公爵は、政治家の顔をしていた。
陰謀渦巻く宮廷の中を泳ぎ渡ってきた、政治家の顔。
「ただひとり、この国であの方だけが、クリステラに求婚をすることができる方なのだ。ほかの誰もそれをすることはできぬ。そして考えたのだ。この縁談を、クリステラはまた拒絶するだろうかと。だが……」
公爵の声が静かに響く。
「前の国王陛下は『三番目の妃』としてクリステラを望まれたが、今の国王陛下はまだひとりも妃をお持ちでない。クリステラが嫁ぐとなれば、当然、『正妃』となるだろう。それならばクリステラの面目も立つし、我が公爵家としても何の不満もない。世間に対しても、汚名を返上する良い機会となる。──向こうも、公爵家という『後ろ盾』を得られることを歓迎しないはずがない。今の陛下は、少々お足元が心もとなくていらっしゃるからな……」
言葉が、津波のようにフィアの足元に押し寄せてくる。
その波に押されて、フィアの右足のかかとが後ろに下がる。
(ああ──)
心の中だけに響く、震える声。
(こんな日が、来ると思ってた)
心の声は思ったよりも冷静だった。
フィアは目を伏せて、扉から離れようとする。
「明日中には荷造りをすませておけ」
公爵はてきぱきと指図をしている。
「重いものなどは置いたままで構わない。家具は屋敷のほうで、新しいものをひとそろい揃えさせよう。ゆくゆくはこのウルヴァキアの王妃になろうという者が、使い古しのみすぼらしいものをいつまでも使わなくて良い」
「はい……。仰せの通りにいたします」
アルマは涙ぐんでいた。
この修道院での暮らしを懐かしんでのことなのか、意識がないまま還俗させられるかもしれないというクリステラが不憫でなのかは、はたで見ているだけでは分からなかった。だが何かしら落ち込んでいるように見えるアルマに対し、公爵はいくぶん、優しい声になって言った。
「クリステラが王妃となれば、おまえは王妃付きの侍女となるな」
「わ、わたしが、でございますか?」
アルマの声がひっくり返る。
「そうだ。小さなころから仕えている娘が晴れがましい身分になるのを、おまえに一緒に喜んで欲しいのだよ、アルマ。クリステラはさぞかし嫌がってみせるだろうが、おいおい、おまえがうまく慰めて、気持ちを切り替えさせてやってほしい。……なに、そう難しいことではあるまいよ。わたしは陛下を遠目に見させてもらったが、なかなかにさっぱりした気性の、聡明な方だ。クリステラとは気が合うだろう。近いうちに話をする席を設けよう。そのためにもまずは、しっかりと養生させねば」
「は、はい! 分かりました、公爵さま。すぐに荷造りをいたします」
アルマの声が弾む。
それとは反対に、フィアの目の前は暗くなっていった。気が遠くなるほどに。
「このようなことになってかえって良かったと思うほどなのだ」
公爵の声が、後ずさるごとに遠くなっていく。
「ヴィクター陛下は、国王に即位なさる方だとは思ってはいなかった。なにしろ、王の甥という微妙な立場でいらしたのだからな。だが、それでもゆくゆくはこの方に……という目論見が、わたしの中になかったわけではない。だがその打診をしようとしていた矢先、どうした風の吹き回しか、それまでなんのお声掛かりもなかったジグモンド陛下から……。あのときの無念さときたら、ほかに例えようも……──」
公爵の声が遠くなってゆく。
フィアは聖堂を兼ねた食堂に背を向け、とぼとぼと夜空の下を歩いていく。
今はほかに、考えるべきことがあるはずだ。
自分のことばかり考えている場合ではない。そう言い聞かせ、前を向く。
医師はまだクリステラにかかりきりだ。しばらくは手が空きそうもない。
アラリスとデュリは無事だろうか。あの、ナイフを手にした賊をとらえることができただろうか。それとも、取り逃がしただろうか。──何もかも分からないことばかりだ。その場におらず、近づくことも許されないのでは。
(そろそろ、様子を見に行っても大丈夫かな……)
フィアはクリステラの部屋のほうへと足を向けた。
不思議と、心の中は平静だった。波ひとつ立たない水面のように。
『恋や愛がなんなのかが分からない』と言ったとき、ヴィクターは笑っていた。それでも構わないというように寛大に、あるいは、おまえだから仕方がない、と許すように。その顔を、とても──好きだと思ったのに。
今のフィアの心の中には、何もなかった。
恋も愛も、この冷たい夜風に吹き飛ばされでもしたのだろうか、影も形も見当たらない。残っていれば、少しは泣けただろうに。なぜもっと早く、ちゃんと彼に向き合おうとしなかったのかと、自分の臆病さをなじって、悔しく思えただろうに。
(わたし、もしかして……ほっとしてるのかな。こうなって)
自分に向けた問いがあまりにも情けなくて、そのことが、フィアの目に鈍い涙を滲ませた。