「どこへ行くの」
そのときになって、やっとアラリスが小さな声を掛けてきた。
フィアは振り返った。ほっとしたついでに笑ってみせる。
「デュリさんが遅いから。何か探すのに手間取ってるのかもしれないし、見てこようと思ったの」
「さっきの男?」
何気ない一言に、心臓が縮み上がるほどびくりとする。
フィアはおずおずとアラリスを見た。
「……え? お、男って……?」
「『僕』と言ってたよ。自分で」
「えーと、あれは、彼女の口癖で……」
もごもご言いながら、またアラリスの向かいに腰を下ろす。
そうすると、ようやく彼女の顔をまともに見たような気になった。
窓からの月光に照らし出されたその顔は、相変わらず綺麗だったが。
「少し痩せた?」
心配して訊ねると、アラリスはなぜか笑った。自嘲するように。
「そう見える?」
「ほんの少しだけだけど」
「そう見えるんなら、そうかもね。自分じゃよく分からないな」
「ねえ、アラリスさん。どうしてこの修道院に来たの?」
「ん? ああ……雇い主の命令だよ。おまえを守れって」
アラリスは疲れたように目を閉じる。
「『雇い主』?」
「わがままな王様」
「ヴィクターさんのこと? それって」
「そう」
「えっ。アラリスさんって、ヴィクターさんに雇われていたの?」
知らなかった、と目を見開くフィアを、薄目を開けてアラリスが見る。そしてため息をつく。
「給金もないし、休暇もないけどね。……ま、休暇は勝手に取らせてもらってるから、文句を言う筋合いでもないかな」
アラリスは軽く苦笑する。
けれど、その顔はどことなく精彩がない。
「やっぱりどこか痛いんじゃない?」
「……そうだね。足の傷が痛むんだよ。さっきから。賊に蹴り飛ばされたときに、ひびでも入ったんじゃないかな」
「やっぱり、薬を取りに行ってくるわ。デュリさん、遅いんだもの」
「いや、ここにいてくれたほうがいい」
アラリスは手を伸ばし、フィアの手を握り締める。
「ここにいて。じゃないと、心配だから」
「心配?」
「フィア、よく聞くんだ」
アラリスが真剣な顔でフィアを見つめる。その手に、ぐっと力が入る。
フィアは怯みながら「う、うん」と頷いた。握られた手が痛いくらいだ。
「最初に、あの修道女が狙われた。エトヴィシュ公爵家の令嬢。──なぜだか分かる?」
「う、ううん」
「国王の妃候補だからだよ」
「えっ……」
「公爵家にそれらしい打診があったのは、ほんの数日前のことらしい。だが、その直後に毒殺事件が起こった。打診があったことを知ることができた人間は、わずかしかいない。城の人間か、公爵家の人間。──敵が誰か分からないが、それは内側にいる」
アラリスはじっとフィアを見つめる。
フィアはごくりと息を呑む。
「内側に……?」
「そう。おまえも知っている人間かもしれない。油断しないほうがいい」
その言葉に、フィアは愕然とする。
油断するなと言われても、いったい誰を疑えというのだ。
この修道院には何十人もの修道女がいる。ときどき、外部から業者が入り込んでくることもある。修繕や、今回のように医師などが。そんなのまでいちいち気をつけていたら身が持たない。そもそもフィアは人を疑うことに慣れていないのだ。──苦手といってもいい。
「幸いにも令嬢は命は取りとめたようだが、──おまえも見ただろう? 彼女の部屋に、今度はナイフを持った人間が入り込んでいた。もしあの部屋で休んでいたら、本当に命はなかった。たまたまわたしが賊を見つけて、追い払ったからいいけど。捕らえられなかったのは不覚だった。今度はあれと同じことが、おまえの身に起こるかもしれない。おまえが王妃になる娘だから」
そう言われて、フィアはさっきの光景を思い出した。
エトヴィシュ公爵の言葉。クリステラを王家に嫁がせるとはっきり言った。
そうであるなら、ますます自分の出番などないだろう。フィアは首を振った。
「そ、それはないわ! だって、妃になるのは……シスター・クリステラだもの」
アラリスはそのあたりの事情を知らないから、そんなことを言うのだ、と思ったが。
「そのシスター・クリステラとやらは、国王の求婚を受けないだろう。毒を盛られ、自分が殺されるかもしれないという恐怖を目の当たりにして、それでも受けるという者はよほど勇敢な者だ。その貴族令嬢にそれほどの勇気があるか?」
思いのほか鋭く問われて、フィアは黙り込んだ。
「この先一生、いつ誰に毒を盛られるとも分からない、死と隣り合わせの毎日を選ぶ勇気が?」
──分からない。
クリステラがどうするのか、フィアには想像もつかない。
彼女は前の国王の求婚を頑なに拒んだらしいが、その理由は知らない。
でも、今の国王──ヴィクターの求婚も、同じように拒むのだろうか。──そうは思えない。公爵は本気だった。本気でクリステラを王妃にするつもりだ。その父親の強い意向を受けて、姉妹同然の侍女のアルマにも説得されて、クリステラはそれでも首を横に振れるだろうか。
修道院に入りはしたものの、かごの鳥のような暮らしはけしてクリステラが望んでいるものではない。彼女はもっと大勢の人と関わりたがっていた。ほかの修道女たちと同じように、祈り、働き、奉仕と救済のために街へ出たがっていた。
ここにいる限り特別扱いされ、ひと目に触れてはいけないもののように隠され続ける。国王の求婚を蹴った、貴族にあるまじき娘として。クリステラはどこかで、そんな毎日に厭いていたのでは? だからあの夜、自分に声を掛けた──。
彼女は、覚悟さえ決めればいつでもここから出て行くだろう。
それほど親しいわけではないが、なんとなくそんな気がする。
「シスター・クリステラは、毒なんかで怯んだりしないわ」
フィアはぽつりと呟いた。
だって、彼女には誇るものがあるのだ。
ほかと比べるべくもない高い家柄。誰もがため息をつく美しい容姿。天真爛漫な明るい性格に、屈託なく笑うときの笑顔のかわいらしさ。侍女のアルマのように、身分が低い者に対しても姉妹のように接することのできるおおらかさ。心の広さ。
「なるほど」
アラリスはさほど興味なさそうに相槌を打つ。そして、続けた。
「だとしても、国王が『選びたがっている』のはそのシスター・クリステラじゃない」
「………」
「ここは危険だ。一刻も早く出たほうがいい。特におまえは」
「でも……」
「何を迷っている?」
アラリスの眼光が険しくなる。
フィアはその視線を避けるように顔をそらした。
「……迷ってるわけじゃないけど。仕事もあるし」
「仕事? なんの仕事だ」
「それは、いろいろと……あるわ。洗濯とか……」
「他の者ではできないことか?」
「そうじゃないけど」
「では、おまえでなくても構わないわけだ。そうだろう?」
「………」
「ヴィクターだって心配しているよ。ここで毒が使われたと聞いて、さすがに気が気じゃない様子だった。『できれば連れ出してきてくれ』と言われた。だからわたしがここへ来たんだ。ほかの者ではここに入れないからね」
「どうして、わたしだけ」
「……何の話?」
「どうして、わたしだけなの」
フィアは顔を上げ、繰り返した。アラリスを見つめて。
「ヴィクターさんが心配するのは、どうしていつも、わたしだけなの? ……分からない。あの人は国王よ。ほかにも、心配したり、守ったりしなきゃいけない人がたくさんいるはずだわ」
「何を言ってるの。フィア」
アラリスが眉をひそめ、身を起こす。
フィアの顔を正面から見て、彼女は訝しむというより、少し怒っているような顔になった。
「だってそうでしょ?」
怯みながらもフィアは言った。
「この修道院にいる人たちだって、みんなウルヴァキアの国民だわ。なのにヴィクターさんは、いつもいつも、わたしのことばっかり心配するんだもの。……ありがたい、とは思うけど……」
「『ありがたい』?」
アラリスが唖然として繰り返す。
フィアは一瞬、口ごもった。
本当は『嬉しい』と言うべきだったのだろうが、その言葉が素直に口から出てこず、言わなかった。それを鋭く指摘されてしまうと、さすがに少しばつが悪い。わざとひねくれた言い方を選んだようで。──実際、少しひねくれた気分でいるのかもしれないが。
「本当は少し負担なの。わたしのことだけ、心配してほしくない。わたし、そんなにか弱い人間じゃないわ。少し目を離しただけで壊れるような、ぐらぐらの花瓶なんかじゃないんだもの。だから……わたしはここに残るわ」
アラリスの眼光がきつさを増す。
それに気圧されたが、フィアは言いかけた言葉を途中で止めることができなかった。
「自分だけ、特別扱いされたくない」
そう言った。
──直後。
アラリスが風を切って片腕を上げる。
その勢いに驚いてびくりとしたが、避ける暇はなかった。大きな手が、まっすぐにフィアの頬めがけて走る。目を閉じることすらできないまま、フィアは、怒りを押し殺したような音を耳のすぐ近くで聞いた。自分の頬が打たれた音だった。
「ど──」
どうして、とは声にならなかった。
しばらく茫然自失となる。
やがて、頬がじんじんと痛みだした。
その痛みがフィアを現実に引き戻す。
なぜこんなことをされなければならないのか。ひどく理不尽に思い、フィアは頬を押さえてアラリスに抗議しようとした。だが、睨みつけようとした視線の先で、アラリスは──泣いていた。息も乱さず、声も立てずに。まるで自分は泣いていないというような顔で、頬の上に透明な雫を伝わせていた。
「……ごめん」
アラリスは小さな声で言い、瞼を強く閉じた。そこからまた、涙が押し出されてこぼれる。
「気が昂ぶった。……怪我のせいかな。そんな言い訳をしても、しょうがないけど」
フィアのほうがびっくり仰天していた。打たれたことより、アラリスが泣いているほうが衝撃的だった。
「き、傷がいたいの!?」
フィアは自分の頬を押さえたまま、アラリスのほうへと身を乗り出す。
「大丈夫?」
「……うん」
アラリスは頷いた。
「大丈夫だよ。フィア。ごめんね。今日のわたしはどうかしてるんだ」
アラリスは笑いながら言って涙を拭った。
「泥棒と戦って、足を怪我したから、そのせいだと思うわ」
その言葉に、「うん」とアラリスが頷いた。そして彼女は吐息をついた。