KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第三章 公爵令嬢の決断 1

降りやまぬ雨の音に、もう長いこと無言で耳を傾けている。
そばについている侍女のアルマは、最初のうちは何かにつけ口を開こうとしていた様子だが、クリステラがじっと押し黙っている様子に気圧されたのか、今は萎れたようにうつむいているだけだ。
クリステラはベッドの上で身を起こし、背中は山と積んだクッションに預けていた。その美しくも儚げな顔は、人から見れば意外な気丈さで、何かを拒むようにずっと窓の外を見据えていた。侍女のアルマとは年が近いこともあり、普段は気の置けない仲なのだが、今日ばかりは弾む話もなく、そんな気分でもなかった。
毒殺──
という、聞くのも嫌になるような言葉が、事件が。まさか俗世から遠いこんな修道院の中で、しかもその中にあってもっとも人との接触を避けてきた、いわば世間から見れば「死んだも同然」の自分の上に起こるとは、クリステラ=エトヴィシュは昨日まで──いや、今朝の今朝まで想像もしていなかった。
以前ならばあり得ないことではなかった。王都でも権門と数えられる“公爵家令嬢”でありながら、よりによって国王ジグモンドその人からの求婚を何度も断って、結局は王家に恥をかかせるような形で修道院に駆け込んだ以前ならば。忠義の、そしてそれゆえに過激である一部の貴族たちから、エトヴィシュ家の公爵令嬢はとんだわがまま娘よ、陛下の顔に泥を塗った不忠義者よと謗られても仕方なかった。
その自分の立場は分かっている。自分の「わがまま」によって、父である公爵が国王から強い叱責を受け、面子を失い、宮廷での職まで辞さなければならなくなったことも。それによって父だけでなく、エトヴィシュ一族全員が肩身の狭い思いをしていることも。
従姉などは、それによって決まりかけていた結婚が白紙になったという。向こうの家から『王家に逆らうような家とは姻戚関係を結べない』とはっきり言い渡されたらしい。その日を心待ちにしていた従姉はあまりのショックに寝込んでしまい、以来、人目を避けがちな生活になってしまったそうだ。そんな話を侍女のアルマの口から雑談がてら聞かされたときには、クリステラも我がことのようにショックで、しばらく言葉が出なかった。
それはほんの一例で、何も特別な話ではなく、だからこそアルマもついうっかり話題にしてしまったのだろう。しかしクリステラ自身、衝動的に修道院に駆け込んだ日から一日、一日と経つにつれ、自分がしでかしたことの重大さを考えずにはおれなくなっていた。それはアルマのせいではなく、クリステラが冷静さを取り戻したおかげだった。
だからこそ。
だからこそ、こんな暮らしに我慢してきたのではないか。幽閉同然の不自由な暮らしに。
侍女として、昔から気心の知れているアルマとエリージエというふたりの女性をそばに置くことだけは許してもらえたが、クリステラは何もこの修道院で公爵令嬢のような暮らしをしたいわけではなかった。修道院とは思えないような贅沢な部屋も、特別の食事係も、お勤めのない自由な時間も、そんなものは何ひとつ望んでいなかった。むしろ全て逆で、クリステラは質素な食事や、勤労の日々をほかの修道女たちと分かち合いながら、何ひとつ特別でない暮らしをしたかったのだ。
けれどもそんなささやかな望みすら、今は願うことも許されない。自分はこの修道院の公然たる囚人なのだ。エトヴィシュ公爵家という名前が、どこへ行っても、何をしていても、結局はクリステラを縛りつけて離さない。ならば囚人は囚人のまま、忘れ去られて生きていくしかないのだろうと諦めていた。
そんな最中に起きたこの忌まわしい毒殺騒ぎは、クリステラを動揺させずにはおかない。
クリステラ自身、あれは毒だったのか、それとも本当に別の体調不良だったのか分かりかねるのだが、食事の味に違和感を感じたのは事実だし、直後込み上げた激しい嘔吐は今まで経験したことのないものだった。まるで体が、異物を吐き出そうと全身で抵抗しているようで。思い出すのも恐ろしい出来事だった。そのあとしばらく意識が朦朧としていたあいだにこの修道院で起こった数々の出来事も。
シスター・カタリナに対して、身内である公爵家の人間が『犯人だ』と決めつけ、こともあろうに拷問まがいの尋問を行って自白を引き出そうとしたこともとうてい許しがたいが、自分がいないあいだに部屋が荒らされており、『とても戻れるような状態でない』とアルマから聞かされたのも少なからず衝撃的だった。
アルマは顔面蒼白で、すっかり動揺してしまっていて、彼女のほうが今にも倒れそうに見えた。だからクリステラは休むようにと申し付けたのだが、『何があるか分からないからおそばを離れません!』と、それだけは頑固に言い張る。仕方がないのでこうしてそばに置いていた。
そのあいだに何度か医者がやって来て、脈を診たり、薬を飲ませたりする。そうして人が出入りするのは慌しくもあったが、アルマもクリステラも経験豊富らしい医者と話しているうちに落ち着きを取り戻し、実際、薬のおかげかずいぶん気分も良くなった。だから今は身を起こして座っていられるのだ。
それからしばらくはアルマと、今日起こった忌まわしい事件を何度も何度も振り返っては、どうしてこんなことになったのか、本当に恐ろしい、と言い合っては気分を慰めあっていた。
──そこまでは良かったのだ。
問題は、そうして事件を反芻するのにもなんだか疲れてしまい、言葉少なになったときのことだった。しばらくの沈黙を何やら真剣な顔つきで噛み締めていたアルマが、ふいにこう切り出した。
『あの、クリステラお嬢さま……。実は……』
そうしてアルマが打ち明けた話は、クリステラにとって寝耳に水のものだった。
アルマの話はこういうものだった。
自分が意識を失っていたあいだに、父であるエトヴィシュ公爵がこの修道院を訪れた。そして『今までは世間の心ない詮索や中傷に煩わされるくらいなら、修道院暮らしも致しかたあるまいと思ってきたが、このような事件が起こった以上、またも世間の噂になることは避けられぬ。ならば諦めて今度こそ王家に嫁ぐほうが、かえって娘のためではないか。そうすればこの度の事件はそういうことだったのかと、誰しも納得しよう』と言ったというのだ。
誰かが、殺したいほど自分を『邪魔者』と思い、あるいはなんらかの理由で憎んでいる──。
いったいどこの誰が。なんのために。
考えるだけで身を引き裂かれるように辛いのに、誰よりも自分のことを考えてくれ、守ってくれていると思っていた父のその言葉は、結局は自分は政略結婚の道具になるしかないのだという現実をクリステラにつきつける。
父は自分を自由にしてくれたのではない。時が来るまで、ここに隔離していただけなのだ。そう思い知らされたことが悔しかった。そのうえに長年心を許してきたアルマまでが、まるでそうするしかないというような口ぶりで『ぜひ、お受けなさいませ』と勧めるのだ。『お嬢さまのしたいようになさるのが一番です』と言い、何があってもそばを離れないと約束してくれた朴訥な侍女は、気がつけば一晩のうちに“侍女”の顔になっていた。お家大事の家人の顔に。
そうさせたのは父の命令というよりも、今回の事件なのだろう……。
それが分かるだけに、クリステラは自分の気持ちをどこにもぶつけられない。
誰から放たれたとも知れない悪意が、あっというまに自分を取り巻く環境を汚染してしまったことにクリステラは慄然とした。──これこそが毒だ。毒といわずしてなんと言おう。体内の毒は薬で消え去っても、ばらまかれた悪意の毒はいつまでもここに残る。その毒は父を怒らせ、アルマを警戒させ、そして自分自身をも疑心暗鬼にさせている。
どうすることもできずにクリステラは窓の外の雨に見入っていた。
アルマはもううつむいてしまい、ため息のような吐息を時々漏らすだけだ。


「シスター・クリステラ? ……入ってもいい?」
雨音の中、白けたような空気が漂っていた部屋の中におずおずとした声が響いた。
クリステラは窓の外に向けていた視線を、はっとしたように入り口に振り向ける。
そこに立っていたのはフィアだった。違う棟からやってきたせいだろう、柔らかそうな髪が濡れている。よく見れば、修道服の肩のあたりも湿っていた。クリステラは驚いて「ええ」と言い、気づけば「どうぞ、お入りになって」と上ずった声を掛けていた。
「ありがとう」
フィアは両手を前で組み、少しばつが悪そうな様子で入ってきた。
「あの、何も持ってきてないんだけど。お菓子とか、お茶とか……」
そう言うフィアは、たしかに何も持ってはいない。
「本当は持ってきたかったんだけど、あの……」
言いにくそうにしたまま、続く言葉が出てこない様子だ。
どうしたのかとクリステラは心配になりつつも、何か飲み食いしたかったわけではない。どちらかといえば、変なものを食べたせいだろう、まだ強い胸焼けが残っているし、胃のあたりも鉛を飲んだように重いから、手ぶらのほうが助かるというものだ。
「まあ、そんなことは気になさらないで」
だからクリステラは慌てて首を振った。
「それより、どうしてここへ? シスター・フィア」
「え? あっ、その、特に理由はないんだけど……」
言いかけたフィアに、窓際にいたアルマがさっと立ち上がって言った。
「シスター・フィア。申し訳ありませんけれど、犯人が分かるまでこの部屋には誰も──」
「アルマ。お黙り」
アルマが何を言おうとしているのか分かったので、クリステラはいつになく厳しい調子でそれを制した。アルマは驚いたようにクリステラを見たが、クリステラは謝らなかった。
「おまえは少し外していて。横から口を出されるのでは、お喋りも楽しくないわ」
そんなわがままな言い方をしたことはなかったが、このときクリステラは少しばかり焦っていた。意識が回復したあと、クリステラが真っ先に思ったのは「フィアに会いたい」ということだったからだ。
この修道院の中で、まともに言葉を交わした修道女はフィアだけだった。ほかの修道女とも口をきいたことがないわけではないのだが、誰もが自分を公爵令嬢としか扱わず、院長の命令、あるいは公爵家当主であるクリステラの父の命令どおり、クリステラとは距離を置こうとした。
だからフィアと話したかった。
アルマは忠実な侍女ではあるが、友達ではない。友達にはなれないのだ。彼女は自分を「お嬢さま」としか呼ばない。だからといってその誠実さを疑ったことは一度もないが、今は昔なじみの家人よりも、赤の他人であるフィアとこそ、突然自分に降りかかった悩みや辛さを共有したかった。
「分かりました……。では、しばらく隣のお部屋に控えています。何かあったら」
「分かっているわ。すぐに呼ぶから心配しないで。少し気晴らしをしたいだけよ」
クリステラが微笑んで言うと、アルマは少し沈んだ様子ながらも、なんとか微笑み返してみせた。そしてフィアに会釈をしつつ、しずしずと部屋から退出する。
その背中を少し気にしながら、フィアがクリステラに勧められるまま、アルマの座っていた椅子に腰を下ろす。ほとんど音を立てずに外から扉が閉ざされると、先ほどまでは忘れていた雨音が再び存在を主張しはじめ、部屋にはまたもとの湿っぽさが戻ってきたようにクリステラには感じられた。
「………」
話したいことはあれこれとあるのに、何から切り出せばいいのだろう。
クリステラは人払いをしたことを早くも後悔しはじめていた。けれど。
「実は、わたしと話したいってあなたが言ってるって、ちらっと小耳に挟んだの。それで来たんです」
フィアがにこにこして口を開いた瞬間、そんな気まずさは跡形もなく消えてしまった。
「ええ?」
クリステラはフィアの言葉に目を丸くする。
すると、フィアのほうも目をまん丸くした。
「あれ? 違った? もしかして聞き間違いだったのかしら……」
「い、いえ。そうではないの」
クリステラは急いで首を振った。
「たしかに、あなたと話したいとは言ったのよ。でも本当に来てくださるなんて思っていなくて」
「邪魔じゃなかった?」
「ええ。もちろんよ!」
「良かった」
フィアはほっとしたようだった。それを見てクリステラも微笑む。
ようやく気分もほぐれて、言いたいことが素直に口から出てきた。
「わたしね、本当にあなたともう一度お会いして、お話ししたかったのよ。シスター・フィア。でもこんな事件のあとだから、しばらくは誰とも会えないだろうと思って諦めていたの。だから嬉しいわ。ありがとう」
「へへ。喜んでもらえて良かった」
フィアは照れたように笑ったあと、少しばかり真剣な顔つきになる。
「でも、気分は大丈夫? ずっと起きてて平気なんですか?」
「横になると、かえって気持ちが悪いの。だからこうしているほうがいいのよ」
「そっか。でも、気分が悪くなったらすぐに言ってくださいね。お医者さまを呼ぶから」
「ありがとう」
クリステラは礼を言い、それからじっとフィアを見つめた。
フィアが来てくれたことで、先ほどまで強く感じていた孤独が薄れた気がした。まるでそんな気持ちを察知したかのように、フィアのほうもこうして足を運んでくれた。何もいいことのなかった一日の、これは聖母からのささやかな慰めなのかもしれない。そう思うとクリステラは敬虔な気持ちになった。
「本当に、あなたが来てくれてよかった」
クリステラは呟いた。
「なんだか、この修道院にいるシスターたち皆に、自分はもしかしたら疎まれて、嫌われていたのではないかって、そんなことを考えたりしていたの。根拠もなく人を疑うなんて良くないけれど、でも……考えずにはおれなかったの。こんなことがあったせいで」
「そうだったの……」
フィアはひどく胸をつかれたような顔で言ったが、すぐに首を振って口を開いた。
「でも、そんなことは絶対にありませんから! 誰もあなたのことを嫌ったりなんかしてない。そんな話、見たことも聞いたこともないもの。嘘じゃないわ。でも、その……もしかしたら、別の理由でこんなことになっちゃったのかもしれない」
「別の理由?」
「たとえば、えっと……料理の材料に、間違って毒きのこが入っていたとか!」
「まさか」
クリステラはフィアの冗談に小さく笑った。
きっと自分を慰めるために、大げさなことを言ってくれているのだろうとは思ったが。
けれどフィアはいたって真剣な顔で、「でも、ありえないことじゃないもの」と言う。
「わたし、前にいた修道院がすごく山奥にあって」
「え、ええ」
唐突な身の上話に、クリステラはいささか怯みながらも頷いた。
「それがどうかなさったの?」
「近くに村もないから、食事の材料はいつも自分たちで調達してたの。山で」
「まあ……。そうだったの」
クリステラは思いもよらない過酷な修行生活に、少しばかり胸をつかれた。「とても大変だったでしょうね」
フィアがいたのは女子修道院だろうから、だとすれば、薪割りだの水汲みだの、そうした“使用人がやるような”辛い重労働も、自分たちで分担してしなければならなかったに違いない。
山といえば、冬は寒いだろう。近くに村もないなら、きっと人けがなく寂しい暮らしだったろう。
そう思うと、何もかも満ち足りた生活を送らせてもらっているのに、なんだかんだと不満ばかりを言っている今の自分が恥ずかしくも思える。クリステラはもしかするとフィアは自分を諭したいのかもしれないと感じ、なんとなくいたたまれなくなって目を伏せた。
けれどもその向こうで、フィアはフィアで、なぜかしょんぼりとしながら続けた。
「でね、わたしがとってきたキノコの何個かが、毒キノコだったらしいの……」
「本当なの?」
クリステラは驚いて目を見開いた。
フィアは悲しそうな顔で頷く。
「でも、うちの修道院のシスターたちは、みんな体が丈夫だったから、平気だった!」
「うちの?」
「あ、えっと。その、前の修道院。聖アルメリア女子修道院っていうんです」
フィアは慌てて訂正する。
クリステラはしばらく黙っていたが、ふと心が和む心地になり、クスリと笑った。
「でも、なんともなかったということは、毒きのこではなかったのではないかしら?」
「それはないと思う!」
「どうして? だって、見分けがつかないから間違えてしまうのでしょう?」
「そのときね。食べながら、シスター・ゲルトルード……あ、そこのシスターの名前なんだけど、彼女が『これ毒きのこよ』って言っていたもの。彼女は物知りだから、きっと間違いないの」
「ま、まあ……」
クリステラはまたも言葉を失った。
本当に毒きのこだったことが残念だったのもあるが、分かっていながら食べる人がいる、という事実に驚愕した。毒薬ではなく毒きのこならば、食べても即死する可能性は低いとしても、得体の知れないものを口に入れなければならないほど空腹で、生活に困窮していたということか……。
「あなたも、大変な暮らしをしていたのね」
思わず、しみじみとクリステラは呟いた。
「だからね」
フィアはなんとか話を戻そうと、懸命に何かを思い出すような顔で続けた。
「えっと……あ、そうそう! もしかしたら、今回も、たまたま何かの手違いで材料に毒きのこが混じってしまったとか、そういうことかもしれないって思って。だから……あの、誰かがシスター・クリステラのことを恨んだりしているとか、そんなことはないと思う」
クリステラは黙ってその言葉に微笑んだ。
薬に関して経験豊富そうな医師が、『これは非常に作用の強い毒だ。この王都でも簡単に手に入れられるものではない。手に入れた者はこの都の裏の裏を知り尽くしているのだろう。恐ろしいことだ』と付き人と話していたのをこの耳で聞いたから、これがフィアのいうような『偶然の』事件ではないことは分かっている。
けれど、そう言って慰めてくれる気持ちが嬉しかった。